6-17 少女たちの結末(2)
それに気が付いたのは、アイラとの一件があった直後の事だった。
学院なら薬室が近い、と、アレクシスに抱えられて第三薬室に連れて行かれたエイネシアは、『また厄介事がやって来たな』と眉をしかめるお師匠様のため息に晒されながら、ひとまず怪我をした肩の治療をしてもらった。
他にも、以前の細々とした傷などが残っており、最近は食が細くなって体調が悪い、なんて言われていたエイネシアの事だから、『ついでにほかの怪我とかも見てあげてよ』というアレクシスに、ヤレヤレと言われながらも色々と見てもらった。
するとどうした事か。
随分と顔色を濁しながら、『最近体調に変化はなかったか?』『倦怠感は?』『食事が進まないことは?』などなど問い詰められたものだから、何かよほど悪い病気にでもなったのではと真っ青になってしまった。
だがそう、あたふたと……とりわけアレクシスが、真っ青になっていたら。
『妊娠ひと月からふた月ってところだ――』
と……。
キョトンと実感の湧かないエイネシアに対し、アレクシスは随分と慌てふためいて、『怪我なんてしてる場合じゃないよ!』と、そのまま王宮に連れて帰って、部屋から一歩も出してくれないほどに甲斐甲斐しくしてくれた。
おかげさまでエイネシアも毎日のようにやって来てはエイネシアをいたわってくれるその人に、段々と実感を覚えるようになっていった。
が、大変なのはその後だった。
最初に鬼の形相でやって来たのは、シスコンに定評のある弟……ではなく、母、エリザベートだったのだ。
それはもう、怒り心頭していたはずのエドワードが思わず憐みの目を向けて同情してしまうほどの権幕で、王太子殿下をエイネシアの部屋から追い出し廊下に正座させたかと思うと、『そういうのは結婚してからだって言ったでしょう!』と、数時間に及ぶお説教を行なった。
それはもう、道行く人々が公爵夫人を止めるどころか、顔を青ざめて逃げ出すほどの形相で、話を聞いて駆け付けた鬼の宰相ジルフォードが、三秒で踵を返して見なかったことにしたほどだったという。
そしてそれから今日に至るまで断固としてアレクシスをエイネシアには会わせてくれず、『うちのシアちゃんに乱暴なことをした婿なんて認めませんからね!』と、実にひと月もの間、我が子の結婚を認めなかったのだ。
エイネシアも流石に深く反省したが(というか、この世界にそもそも避妊という概念が存在しないことを、この時初めて知った)、今では中々実感の湧かなかったお腹の子のことも、少しずつ実感を持つようになっていた。
後に再診したハインツリッヒに、ふた月、と正確な診断もしてもらった。
まだちっとも外見に変化なんてないからピンとは来ないけれど、きっとこれからもっとお腹が大きくなって、自覚も出てくるのだろう。
流石に十九やそこらで母になるとは思ってはいなかったのだが……。
しかし、失うものが有れば、増えるものもあるということだ。今はそのことが、嬉しくてたまらない。
母だって、本気で反対したわけではないのだ。
ただ娘を結婚前に傷物にした年の離れた従弟に鉄槌を下したかっただけであって、毎日やってくるアレクシスを追い払いながらも、エイネシアにはとても優しく、かつてエイネシアやエドワードを産んだ時の話や、父の珍しいうろたえっぷりの話なんかを聞かせてくれた。
そんな母にもお願いをして、試験期間前にこうやって学院に戻ってきたわけだが、それに際してアレクシスが今まで以上に過度な近衛の護衛をエイネシアに付けたのも、すでにエイネシアがただ一人の身ではないから。
即ち、そのお腹に王位継承権の第一位を持つ子が存在していたからに他ならない。
まぁ彼自身は、ただただ過度にエイネシアを心配してくれているだけだと思うけれど。
それから一週間。王宮でなおも母とアレクシスがどんな攻防をしていたのかはしらないが、王妃の印章の指輪を届けてくれたということは、母もようやくそれを許してくれたという事なのだろう。
「ど、どうして早く言ってくれなかったのよ! この一週間、私、ものすごくシア様のこと引っ張り回しちゃったじゃない!」
「ま、まだ二ヶ月ちょっとだから。私もあまり実感が無くて」
「一番気を付けないといけない時期でしょう! エドも、早く言いなさいよ!」
「母上が認めていませんでしたから……」
ハァ、とため息を吐くエドワードも、なんだかんだ言って母から、『何をしていたのよ、貴方!』とたっぷりと叱られたのだ。
そんなエリザベートの怒りを被るのが怖くて、皆一様に口を噤んでしまった。
王宮の中枢に出入りできる貴族達にはすでに知れ渡っている話なのに、その子女子息が誰一人としてそれを知らなかったのも、皆がエリザベートの鉄槌を恐れて堅く口を噤んだせいだ。
無論、エイネシアも。
「でも、お母様……お許し下さったんですね」
「もう二度と……リジーには逆らわないと誓ったよ」
そうふふっ、と笑って遠い目をするアレクシスには、同情しかない。
一応エイネシアだって同罪なのだけれど、その責をすべてかぶせてしまったようで申し訳なくもある。
「ごめんなさい。一緒にお母様に叱られましょう、って、言ったのに」
「お腹の子にリジーのお説教なんて聞かせられないよ」
う、うん。それはまぁ……そうだ。
「というわけで、シア」
フワリと手を取られてエイネシアをエドワードから奪い返したアレクシスが、今度はちゃんと身重の体をいたわるようにして、印章のおさまった指を絡める。
「式は、王国誕生祭の四日目。譲位式と並行して行われることになったけれど、大丈夫かな?」
「そんなに急にですか?!」
いや、子供がいる以上早いことに越したことはないのだが、あまりにも唐突な言葉だったものだから、流石にびっくりしてそう口からついて出てしまった。
「え、早すぎるかい?」
ちょっと否定的な物言いになってしまっただろうかという心配もよそに、ちゃんとエイネシアが驚いただけと見てとってくれたアレクシスは、顔色を濁すことも無く首を傾ける。
「でもシアがシルヴェスト公と約束した期日は、シルヴェスト領で最初の春の花が芽吹くまでに、という条件だったはずだから……王国誕生祭では遅すぎるんじゃあと、むしろハラハラしてるのだけれど……」
「あ……」
忘れてた。あぁ、完全に忘れてた……。
「そ、その件は、内乱が鎮圧されただけで満たされてませんか?」
「そうなの? でも先日シルヴェスト公からは、催促の分厚い手紙があったけれど……」
「大叔父様……ッ」
なんて容赦のない人なんだろう。
そりゃあ確かにシルヴェスト公には、『今度こそシルヴェストの血を王家と結び付けて見せます!』的な感じに条件を提示した。
だが精々、正式にアレクシスとの婚約が成立すれば、それでセーフだとばかり思っていた。
いや、案外大叔父も分かっていて、面白がっているだけなのではないか。
それともまだ、若者達の気が変わる、なんて懸念をされているのだろうか。
どのみち、シルヴェスト公の中では、成婚が条件なわけだ。
「シア。嫌になったかい? やっぱり、王妃なんかより薬室の黴になりたくなった?」
クスクスと笑いながらそんなことを言うアレクシスには、エイネシアも困ったように、「もう……」と苦笑を溢した。
「そんな言い方、ズルいじゃないですか」
「そこまで驚かれるとは思ってもみなかったから。これでも多少は不安になってね」
「そりゃあ驚きますよ。これでも一応、貴族のお嬢様育ちなんですから。結婚までひと月しかないだなんて」
「まぁ普通なら、一年がかりで仕度するものだからね」
でも生憎と、私はそんなに待つつもりはない、というアレクシスに、まぁそれは自分も同じか、と、そっと今はまだまったいらなお腹に手を添えた。
「いえ。でも……」
なんだかとっても驚いてしまったけれど。
でも、そう。
答えなんて、最初から決まってる。
「お断りなんてするはずがありませんわ、アレク様。喜んで、嫁がせていただきます」
そうほんのりと頬を染めつつ、ニコリと微笑んで見せたなら、途端に「おめでとう!」と、アンナマリアが抱き着いてきた。
いつもよりはずっと控えめに、いたわるように。負担にならないよう、でもぎゅっ、と腕に抱き着いてきたアンナマリアの目に、きらりと涙が一つ浮かび上がる。
「これで、私のシアお義姉様に大恋愛をしてもらうという予定は達成されたわね!」
そんなアンナマリアのお陰だろうか。
きっと本来なら恭しい平伏と共に、第一王位継承者の誕生を祝う堅苦しい挨拶が交わされるはずだったところを、直立のままぎゅうぎゅうとエイネシアを抱きしめる友人達の、喜びに満ちた“おめでとう”が続いた。
それがとっても嬉しくて。
なんだかとっても、暖かい。
王立エデルニア学院、舞踏会場――。
この場所は、色々な思い出のあった場所だ。
嘘くさい笑顔のヴィンセントにエスコートされながら、義務的なダンスを踊った場所でもあり、息も絶え絶えにぼうっと古薔薇の部屋のベッドの天蓋を眺めている間に、ヴィンセントがアイラと初めて踊った場所でもある。
そして去年の今頃には、幾つもの苦い思いを噛み締めながら、自ら許嫁としての立場を返上し……断罪、されるべきであった場所。
もしかしたら、エイネシアが命を落としていたかもしれない場所だ。
あの時と同じ。全く同じ場所に立っていながら、でもあの時とは全く違って、今目の前には、この手を取って、愛を求めてくれる人がいる。
まだたった一年なのに。
最も辛いことがあった場所なのに。
それでもその一年で、この場所はきっと、生涯で二度と忘れられない場所になった。
この世でもっと恐れていた場所が。
最も忘れられない、特別な場所に。
そして、生涯で最も、幸せな瞬間が、ここから始まる。
それは少し皮肉がきいていて。
でもとても自分らしい、決着だったのではないだろうか。
これにて、エイネシア・フィオレ・アーデルハイドの物語 第一幕は閉幕だ。
流れに身を任せず、どうしようもなく降りかかる運命に抗って。
自分の意思で、誰かを追い落としてでも自ら掴んだ幸せ。
少し我儘で、贅沢で。
でもだからこそ、自分の手で掴んだことが実感できる、幸せな結末。
きっとこれからも、幸せではないことは沢山あって。
でもそれも全部、乗り越えて行ける。
もしかしたら、命潰えていたかもしれないこの場所で。
沢山の“おめでとう”に包まれて。
きっとまたここから。
私の、最高の物語が、始まるのだろう――。
第六章 HAPPY ENDING




