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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第六章 七人の少女とたった一つじゃないその結末
180/192

6-15 戦勝の夜(2)

 ここが寒空の下であることを忘れさせるような、賑やかな祝いの席。

 上等なワインと暖かい食事。

 沢山の傷を負い、大切な人を奪われながらも、無理にでも笑ってこの勝利を祝う無礼講は、夜更けまで続いた。

 いつもは生真面目で礼節を重んじる近衛達も、今宵ばかりは上機嫌に盃を傾けて、かわるがわるアレクシスやエイネシアの周りに集まっては、盃を捧げた。

 いつの間にか学院から駆けつけたシシリアやセシリー。星雲寮の皆。それにカレンナやグエンも一緒で、沢山の小さな傷に包帯を巻いたエイネシアには、思わずシシリアが目に涙を浮かべるのを見てしまった。

「まぁ。泣いているの? シシー」

「な、泣いてませんわ!」

 そう目を真っ赤に粗放を向くシシリアに、クスクスと笑ってセシリーが肩に手を添える。

「お怪我、大丈夫ですか? エイネシア様」

 そうおどおどと声をかけてくれるカレンナは、まだ少し自信がなさそうだけれど、でも以前よりずっと自然に声をかけてくれるようになっただろうか。

「全部掠り傷だから、心配しないで、カレン」

 ちょっと薬草の匂いがきついのは、薬室から引きずり出されてきたハインツリッヒがここぞとばかりに怪我人を使って新薬実験の被験体にしたせいで、大げさななくらいに包帯が分厚いのは、無駄なくらいにいろんな種類の薬草を塗りたくられているせいだ。

 実際のところは、懇親的な治療にあたってくれた聖魔法士のアニサのおかげで、もうほとんど痛みもしない。

「貴女達も、何も無かった? 学院は大丈夫?」

「ええ、変わり有りません。随分と人は減りましたけれど……メアリス様も、お元気です」

 今宵は来ていないその人に、そういえば、と、エイネシアも首を傾げる。

 すると言いたいことを悟ったように、「遠慮しているんです」と、カレンナが言葉を続ける。

「私も本当は辞退しようと思ったんですが……」

「そんな必要はないわ。来てくれて嬉しいわ、カレン」

「はい。そう仰るだろうからって、背を押してくれたのはメアリス様なんです」

「そう……」

「ただメアリス様は、その……シグノーラ卿が自主謹慎なさっているから」

 そうぽっ、と俄かに頬を赤くしたカレンナに、あらっ、と、思わずエイネシアも目を瞬かせた。

 もしかして、シグノーラ卿……マクレス・シグノーラが謹慎しているからと、それを心配してメアリスも傍についているという事なのだろうか。

 これは驚いた。エイネシアが学院を不在にしている間に、いつの間にやらそんな関係になっていたのだ。

「ふふっ。では、呼びつけたりして野暮をしてはいけないわね」

「そんなことを言ったら、顔を真っ赤にして叱られますよ?」

 そう言いながらも、カレンナもクスクスと肩を揺らして笑っている。

 ただ、ちょっとだけ不安そうな顔もして。

「シグノーラ卿は……どうなるんでしょうか?」

 その問いには、エイネシアも少しばかり言葉を躊躇った。

「まだ……わからないわ」

 かつてシグノーラ大将軍がエイネシアの行く道を阻み、偽りの国王御璽のことを知りながらフレデリカに従っていたことは、明確な事実だ。

 その一件については表沙汰にしないようにとエイネシアも父に取り成したが、その後もシグノーラの率いる国軍が王に味方をしていたのは確かで、王宮での攻防でも、シグノーラは最後まで国軍を指揮して近衛と対峙し続けた。

 それがただひとえに国王への忠誠心からであることは皆が知っているし、国王が表向き穏便に譲位をすることで決着をつける……即ち、国王自身に罪が課されない結末になったことを考えれば、シグノーラに対しても大きな罪が課されることはないだろう。

 だがそれでも、彼が統率すべき国王軍が上王と新たな王に弓を引いた事実は事実。

 多かれ少なかれ罪が課され、その職を剥奪されることは間違いない。

 そしてこれが国家反逆にもかかる事件への加担であったことを考えれば、広く親族にまで累が及ぶ可能性も無くはない。

「きっとお父様も、そんなに重い罪にはなさらないとは思うわ。私もそのように、お願いはしているけれど……」

「まだ、シグノーラ家がどうなるのかはわからないのですね?」

 そしてそれはシグノーラだけじゃない。クレイウッドをはじめとする、かつては共に学院で学んだ者達もまた、同じ。

 だからと言って、特別扱いもできないのだ。

「思い悩む必要なんてありませんわ」

 けれどそんな暗い顔の二人に明るい声をかけたのは、シシリアだった。

「やり直せばいい。命があるなら、何度だって、新しい生き方をはじめられる。そう教えて下さったのは、貴女ではありませんか。エイネシア姫」

 えっ? と一度目を瞬かせたエイネシアに、「それもそうですわね」と微笑んだカレンナの言葉が続く。

 あぁ、そういえばそうだった。

 自分もまた。そうやって、新しい一歩を踏み出したのだから。

 無為に悲しんだり嘆いたりするより、背中を押してあげる方が大切だ。

 自分にできることは、きっとまだ沢山ある。

 きっと……“彼”も。

「ええ。そうね。その通りだわ」

 それを思い出させてくれた彼らにふと口元を緩めると、感謝の気持ちを持って、彼女達の手を握りしめた。

 この二人も、いつの間にやらとんでもなく頼もしくなってしまったものだ。

「有難う、二人とも。元気が出たわ」

「私でも、お役にたてたなら嬉しいです」

 ニコリと微笑むカレンナの面差しが、とても心強い。

「さぁ。あまり私達みたいな部外者が姫様を独占しているわけには参りませんわ。私達は勝手に楽しみますから。姫様はどうぞ、ご自分のお勤めをなさって」

 そう送り出すシシリアの言葉に、チラリとあたりを見回したエイネシアは、「仕方ないわね」と肩をすくめた。

 正直ここで学友たちと語らっているのは気が楽だったのだが、そういうわけにもいかない。

 周りにはそわそわとエイネシアを見ている文官、武官達がいる。宴の最中であっても後処理に負われている宰相府の役人達も走り回っていて、取分け役人達がエイネシアに何か話したそうに、書類を手にそわそわとしている様子は、無視できたものではなかった。

 現に父は乾杯だけ済ませると早々散乱した書類の確認に引き籠ってしまったし、宴好きのアーウィンも、そんな父に首根っこを掴まれて引きずられていってしまった。

 自分も、宴だからと浮かれてはいられない。

「じゃあ私はこれで……」

 だからそう下がろうとしたけれど、そんなエイネシアの手を一瞬、シシリアが引き止めて。

「学院。また、ちゃんといらっしゃいますわよね?」

 そう真剣な声色で言うものだから、一瞬きょとんとしてしまった。

 季節はもう、一月の終わり。本当ならもう授業も終わる頃。

 でもそれでも、卒業するまでは学院の生徒。まだエイネシアは、あの学院の生徒だ。

 これから玉座を担おうという人物にかけるにはあまりにも素っ頓狂な言葉であり、でもその“平穏”が、思わずエイネシアの顔をほころばせた。

「ええ。ちゃんと試験を受けて、最後も首席を取らないといけませんもの」

「言っておきますけれど、この半年ほとんど授業に出ていなかった貴女が首席なんて、認めませんからね」

 そう目くじらを立てたシシリアには、ふふっ、と思わず笑い声が零れた。

「“星雲寮”で待っていて、シシー。ちゃんと、帰るわ」

「なら宜しいわ」

 手を離したシシリアに、今一度ニコリと微笑んで。

 さよならではなく、「ではまたね」と声をかけて、踵を返す。

 そうすればたちまち小難しい話を持ってきた文官達に取り囲まれてしまったけれど、彼らの言葉に一つ一つ答えながらも、不思議と心は落ち着いていられた。

 国を担う自分も自分で。

 他愛なくアンナマリアとお菓子でも作りながら過ごしたあの場所にいた自分も、間違いなく自分である。

 その両方を認めてもらえることが嬉しくて。

 嬉しいけれど。

 何か一つ。

 ぽっかりと空いた心の隙間に、ふと、いつもと変わらぬ真ん丸なお月様を、見上げてしまった。


 ◇◇◇



 次から次へと集まる人々の垣根から、「少し失礼を」と笑顔で離れたのは、宴も酣となった頃だった。

 いつの間にやらエドワードは深酒したリードスにとっ捕まっていじられていて、それを横目にさりげなく中庭を離れたところで、すぐにも密かにリカルドが護衛としてついて来ていたのは分かっていたけれど、あえて気にはせず、人気のない裏庭へと赴いた。

 この辺りは幸いにして大きな被害を受けず、けれど上王陛下が大切にお世話していた花壇がいくつも壊れてしまっていた。

 それでも庭の一角でさわさわと水面を揺らす小さな湖は昔からちっとも変わらなくて、昔懐かしい、子供達の為にとかけられたブランコも、変わることなく揺れていた。

 表の喧騒から遠く、灯りの一つも入っていない庭だけれど、今宵は月が明るいから、それだけでも充分なくらいだ。

 随分と勧められたお酒ですっかりと体もほてってしまっていて、水辺にいても寒くない。

 少しだけここで休憩して行ってもいいだろうか、と、ブランコに腰を下ろしたところで、息をひそめていたリカルドが姿を見せて、「こちらを」と、毛皮の上着を渡してくれた。

それを肩に纏いながら、ホゥ、と吐息を溢してみれば、白い靄が空気に溶け込む。

 真冬であっても、北部よりは寒くないだろうか。

 おかしなものだ。ほんの一年前まで、自分は小さな場所で小さくなって、目前に迫った断罪イベントに怯えていたというのに、今や国獲りをやってるだなんて。

 でもこれも、ゲームとは随分と様相を変えながらも、ゲームで描かれていたヒロインのヴィンセント攻略バッドエンドルートと同じ結末なのだと思うと、あのふざけた神様にため息が零れた。

 でもゲームでさらっと語られたバッドエンドなんかとはまるで違う。

 沢山の人が断罪され、沢山の血と涙が流れた戦いだ。

 今なお処断されずに残った反権門派貴族達。国内に溜まった不安や不満。見えない未来への展望にくすぶる反乱因子。フレデリカ派によって再びすり減らされた、国庫の負債。

 これらを立て直してゆくのはとんでもなく大変なことで。

 そして今、この同じ星空の下で……あの人が。ヴィンセントがたった一人で牢の中にいるのだと思うと、やはり胸が締め付けられて仕方が無かった。

 もっと、上手なやり方は無かったのだろうか。

 彼との関係を、もっと上手に築くことはできなかったのだろうか。

 婚約破棄はなるべくしてなったものであったけれど、ちょうど去年の今頃、エイネシアが思い描いていた未来は、少なくとも今の現実とは随分と違っていたはずだ。

 ヴィンセントと刃を交えたかったわけではない。

 彼から、玉座を奪いたかったわけでもない。

 もっと別のやり方で。

 そう……できたら彼とは、普通の“友達”になりたかった。

 幼い頃、エドワードと、アルフォンスと、アンナマリアと。五人で他愛のない話をして、エイネシアの焼いたケーキを囲んで笑っていたあの頃みたいな。

 過ちを叱責しあい、互いに互いを助け合っていけたなら。

 そうできなかったことが、悔しくてたまらない。

 彼は今、何を思っているのだろう。

 幼い頃、彼がエイネシアに厳しい物言いを繰り返したのは、彼がそれだけ、王子として、王位継承者として相応しく有らねばならないという脅迫概念にとらわれていたからだった。

 そのための努力を惜しまず、己の不安定な立場に振り回されながら、もがいていたことを知っている。

 そのすべてを失って。

 処断を待つ立場になって。

 それで今彼は、何を考えているのだろう。

 今こうやって勝利を喜ぶ宴の中で、なのに欠けてしまったその人のことが、悲しく胸につっかえる。

 どうして……その人が、ここにいないのだろう。




「シア――」

 さりっ、と、土を踏みしめた足音と、穏やかな声色が耳をくすぐる。

 ゆるりゆるりと歩み寄ってきたその人は、エイネシアの面差しを見ただけですぐにも切なく微笑むと、慰めるかのようにその髪を撫でた。

 暖かくて、とても大きくて。

 その掌に頭を預けながら、縋るように目を閉じる。

「ヴィーのことが、辛いのかい?」

 あぁ。何故この人は何も言わなくても、分かってしまうのだろうか。

 薄らと開いた視線の先で、月の光にきらきらと輝く淡い色のブロンドが、切なくてたまらない。

 後悔なんてしてはならない。そう思っているはずなのに、その人を見ていると、偽り隠す気丈さも失われてしまって、思わず頷いてしまっていた。

 でもその事実に、彼は腹を立てたり落ち込んだりなんてしやしない。

 ただいつも以上に優しい掌が、静かにエイネシアを慰めてくれる。

 彼が優しいのは、きっと彼も同じだからだ。

 胸のどこかにぽっかりと空いた虚しさ。

 どうしようもなかったのだろうかと悩む、失った人への罪悪感。

 でも多分一番大きいのは……。

「ヴィンセントが、最後の最後になってあんなことをするから」

 そう呟いたアレクシスに、エイネシアはもう一度、その手の中で頷いて見せた。

 打ち付けられた胸が、今もわずかにずきずきと痛い。

 エドワードとアルフォンスの向けた刃に、駄目だと思った瞬間の、うまく言葉にできない感情と、きっと今までで一番近くこの腕の中に抱きしめたその人の感触が、今もこの手から離れない。

 この腕の中にあったのは、ただただ死を受け入れる覚悟をした、一人ぼっちになってしまった彼の姿だった。

 後悔なんてしてはならない。

 そうわかっていても、溢れてやまない後悔ばかりが脳裏をよぎる。

 ダグリアの私兵にとらわれて、数多の恨み言と呪いの言葉を吐き続けながら連行されたフレデリカと違って、連れて行かれる間も、彼は何も言わなかった。

 辛そうに言葉を失うエイネシアにも。どうしたらいいのかと戸惑うしかない友人たちにも。

 ただ何も言わず、静かにありのままを受け入れながら、振り返ることもなく去って行った。

 ただ、それだけ――。

 その姿に、どうしようもなく後悔をしているというのに。

 だがエイネシアの胸に思い浮かんだのは、ちっとも正義の味方らしさもない、“自分に対する後悔”だけだった。

 優しい言葉の一つも。慰めの言葉の一つだって、浮かびやしない。

 死んでほしいなんて微塵も思っていないけれど、同じくらいに、許しを与える気にさえなれなかった。


「幼い頃の、幼馴染としての記憶が、目を閉じるたびに思い起こされます」

 あの頃のヴィンセントを想い出しては、戻らない過去ばかりを悔やむ。

「刃を収めた彼の苦悩の面差しが、悔しくて悔しくてたまりません」

 どうしてこんなことになってしまったのかという、虚しさと悲しさと。

 何で今になってそんな顔をするのかという、激しい痛みと。

「なのに……少しだって、許したいという気持ちも思い浮かびません。そうすることが、恐ろしくて。彼が悪ではないと認めることが、たまらなく怖くて」

 どうしてヴィンセントは、自分を傷つけてくれなかったのだろう。

 このまま恨んで。恨み切って。彼が本当に最後の最後まで酷い人であってくれたなら、何も憂うことなく恨み続けることができたのに。

 なのにあの人の甘さのせいで、私は、本当にただあの人を裏切っただけの、ひどい簒奪者になってしまった。

 ヴィンセントから何もかもを奪った……ただの、簒奪者に。

「分かっています……ただの被害妄想です。たとえヴィンセント様に私を殺すことができなかったとしても、彼が犯した罪は罪。国を、民を苦しめた事実は事実。そのために私達は罪を背負うことを決めたのだから、悔やむ必要なんてないのだと。でも……」

「あぁ、そうだね……」

 何ということのない、とてもシンプルなその一言が、エイネシアに唇を噛ませた。

 きっと彼も同じものを感じているのだろう。

 追い詰めたウィルフレッド王は、少しの抵抗を見せることもなく言うがままに王位を放棄し、王宮を無血開城した。

 たとえ少しでも刃向かい、フレデリカのようにわめいてくれたのであれば、違ったのだろう。

 ただ大人しくあるがままを受けいれられたせいで、くしくも私たちは同じ虚しさを抱えることになってしまった。

 あぁ、まったく。

 恨ませるのであれば、本気で。心からそうさせてくれた方がよほど楽だったのに。

 でもウィルフレッドがアレクシスを自分の手で傷つけられなかったのも。ヴィンセントがエイネシアを傷つけられたなかったのも。

 きっと、みんな同じなんだ。

 恨みたくて。恨まなければいけなくて。

 でも本気では恨めなくて。

 どうしようもなくすれ違ったままに、私達は交差した。


「ごめんなさい。皆をねぎらうための宴をしているのに、中座なんてして。感傷なんかに浸って己を責めるなんて、今やるべき事ではないですよね。たとえ偽りであっても、この国のために胸を張り、勝利を祝い、彼らが安堵するような良き姫でなければ……それは、分かっているんですが」

 けれど、いい加減笑っていることにも疲れた。

 何ならもうすべて投げ出してしまいたいくらいに、今はもう、ただただ何もかもが虚しい。

 エイネシアのそんな生真面目な言葉に、「あぁ、まったく」と笑ったアレクシスは、ただ静かにエイネシアの手を取った。

 ふいにつつまれた温もりに、ぼんやりとエイネシアの目が持ち上がる。

「君は少し、頑張りすぎなんだ」

 おっとりと冷たい空気に溶け込むその声色が、とてもとても心地よい。

「何しろ私は簡単にリードスになじられてしまうくらい、頼りない王様だから、君にかけた苦労といったら、計り知れない。きっと、ヴィンセントの比じゃないはずだ。でもそのせいで君はどんどんと頑張り屋さんになってしまって……私は少し、焦ってしまうよ」

 どんな時でも、そういって笑ってみせる強さが、とんでもなく安心で。

 いつもいつも、どうしようもなくこの心を解きほぐしてくれた。

 それのどこが、一体頼りないものか。

「有難う、エイネシア。頼りない私の分まで、頑張ってくれて」

「アレク様……」

「だけど、そんなに頑張らなくていいから。昔みたいに、王子の許嫁らしく、だなんて無理も、ちっともしなくていい。一人で夜の森に逃げ出して、一人で泣いたりもしなくていい。逃げ出すことができない代わりに心を殺すことなんて、もっとしなくていい」

「ッ……」

「どんなに頼りなくても、君が泣いている時は必ずこうして私が隠してあげるから。身勝手に誰かを(なじ)ったり、恨んだりして、悪者になりきれなかった悪者に、理不尽な文句を言えばいい。私はそんな君を見たって、ちっとも嫌いになんてなりやしないし、むしろ安心すると思うから」

「……私、はっ……」

「ねえ、シア。涙も忘れるほどに、何を虚しく思っているんだい? またヴィーに何かされたかい? それともエドかな。アルかもしれない。あぁ、前科のある私かもしれない」

 いつだったかどこかの夜の森の手前で投げかけられた言葉を彷彿とさせる言葉が、みるみるエイネシアの虚無な胸の内に、ぐるぐるとした沢山の感情を生み出してゆく。

「いいんだよ。思うが儘に、全部口にしても。誰も君を、責めやしない。私が、責めたりさせないから。聞かせて、シア。君は何に、脅えているんだい?」

 すっぽりと包まれた頭に、あぁ、そうか、と、何か妙に腑に落ちた。

 恨み言を言いたかった。

 泣きも喚きも怒りもしないヴィンセントに、腹が立った。

 身勝手に刃を収めて、身勝手に優しいことをするその人に、悔しさが募った。

 同時に、彼を悪者にしたかった自分の本心に気が付いて。

 そうできないことに、気が付いて。

 そうできない“理由”に、気が付いてしまって。

 ……逃げ出したく、なってしまったのだ。


「……分かって、いるんです。どんなにか昔の微かな幸せの思い出に縋っても、ヴィンセント様にとっての私は、ただの幼馴染にすら戻れない存在であることも。なのに何度でも、その人を見るたびに、もしかしたらと期待をして。でもそれも、ようやく……ようやく、諦められると思ったのに」

 いっそ、恨ませてくれたなら。

 本当の本当に、憎ませてくれたなら。

 そしたらもう、期待なんてせずに済んだのに。

 期待しなければ、失望せずに済んだのに。

「うん」

「ちゃんとできると、思っていたんです。向けられた憎しみに、立ち向かうだけならって」

「うん」

「なのにっ……なのに!」

「……うん」

 ぐっと抱き寄せられるままに胸に額をぶつけて、八つ当たりのように、固く握った手で肩を叩く。

 それを咎めることもなく、感情のままにすることを許すアレクシスの腕に、ぼろぼろと、怒りに任せた涙があふれかえった。

「なんでそんなに中途半端なんですかッ!」

「うん」

「ヴィンセントさまなんて、大っ嫌いです!」

「うん」

「あんなひどい人、大っ嫌い!」

「うん」

「散々振り回して、散々迷惑かけて、散々好き勝手してッ」

「うん」

「ヴィンセントさまのせいで、私、すっかり悪者じゃないですか! ひどいです!」

「うん……」

「それなのにッ」

 それなのに。

 それなのに。

 ねぇ、どうして?

 この手を取ることも、この言葉を聞くことも、この胸の内を察してくれるでもなく。

 なのになんでそんなにも身勝手に、私の情ばかりを捕えて離さなくて。

 そんな身勝手な正義で、躊躇ったりなんかして。

 私はもう、収めることのできない刃を抜いてしまった後なのに――。

「馬鹿です。馬鹿者ですっ」

「うん」

「最低最悪の、大馬鹿者ですッ」

「うん、そうだね。馬鹿で、甘っちょろくて、変な所で頑固で生真面目で、中途半端に善良で。君が沢山の涙を呑み込んで決意をしたのに、それを善意という名の剣にして君を追い詰める、とても悪辣で……君の大切な、大馬鹿者だ」

 ほろほろ、ほろほろと涙がしみこむごとに、少しずつ、怒りがほどけて行くようだった。

 大きな手のひらが宥めるように髪を梳く。

 その指先と一緒に、言葉に追い立てられた虚しさを払いのけて行く。

「っ……なんで、ただの大馬鹿者でいてくれなかったんでしょう」

「うん」

「おかげで私はっ……」

 この胸を打ち付けた掌と、何もかも諦めて、断罪を待つその人の顔が、瞼の裏から離れない。

 どうしても、どうしても、離れなくて。

 いつまでたっても、苦しくて。

「こんなに許せないのにっ……」

 なのに。

「憎めなく、なったじゃないですかッ!」

「うん……」

 沢山死んだ。

 沢山の罪を負った。

 許せないのに。絶対に、許してはならないのに。

 それが、エイネシアの立場なのに――。

「よく我慢したね、シア……。憎みたくない人を憎まないといけなくて。戦勝を祝いたくないのに祝わないといけなくて。ちっとも嬉しくもないのに、涙も見せられないで。かといって恨み言さえ許されなくて。目を逸らしたくなるほどの後悔を、必死に、必死に、押し殺して」

 そしてその押し殺した感情の、最も奥深くでうごめいた、もっと許されない感情が、ジワリジワリと揺さぶられて。


「良かったね、シア。君の言う昔の微かな幸せは、確かに君達を繋ぎ止めていた。君がヴィンセントへ期待を消し去れなかったように、ヴィンセントもまた君がいた頃の安寧を、忘れられなかったんだ」


 あぁ。どうして?

 どうしてこの人には全部、分かってしまうんだろう。

 絶対に知られたらいけないはずのこと。沢山の命に弁明もできない裏切り。何もかもに疲れ果ててしまうほどの、大きなつっかえが、たちまちに溶けて解けて、零れ落ちて行く。

「ヴィンセント様は敵ですよ? 沢山の死者を出した戦いの、敗者ですよ? たった一人、私の命を絶てなかったからって……そんな身勝手なことって、怒ったり、詰ったりするべきじゃないんですか?」

「うーん……まぁ、正直すごく嫉妬していて、無性に腹は立っている。できれば今すぐその記憶に乱入したい」

「アレク様ったら……」

 全然そんな顔に見えないのだけれど、ハァとため息を吐く弛緩っぷりとは裏腹に、抱きすくめる腕がぎゅうぎゅうと苦しくなった気がする。

「ほら、私は正直、君さえ手に入れば他になんてあまり興味はないから。もし君が今ここで、『逃げましょう』だなんていっても、多分全力でその願いを叶えようとすると思う。あぁ、勿論、ヴィンセントの所以外ならだけど」

「も、もぅ……」

「でもそうやって逃げた先で、君が笑って、『冗談は終わり』と引き返すことを、知っている」

「……ええ」

 その通り。

 多分自分ならきっと、そうする。

「シア。私も私なりに、義兄から奪ったものがある以上、無責任に王位を放り出したりしないよう努力するよ。でも愚痴は沢山言うと思う。だから君も、好きなだけ愚痴って、好きなだけ逃げてくれていい。本当に逃げたくなったら、その時はきっと私が連れ出してあげる。シアにお願いされたら、多分私は何でもできると思う。あぁ、安心して。近衛を()()のは得意なんだ」

「ふふっ……そうでした」

「でもその代わり、もう二度と、私からは解放してあげないから。覚えておいて」

 なんだかとっても酷い言葉で、でも不思議と心が和らいだ。

 自分がどんなに逃げ出したって、彼は信じ続けてくれるのだろう。エイネシアは決して本気でそれを投げ出してしまうような無責任をしないことを。

 なんなら、弱音を吐くエイネシアを抱きかかえて、うっかり全部放り出して逃げ出してしまいそうなアレクシスを繋ぎ止めてくれるのだと。

 その信頼が、辛くも嬉しい。

「それとも君は、そんな私からは逃げ出してしまいたいかな?」

 何故かちょっぴり自信がなさそうなその声色に、クスクスと笑い声を溢しながら、エイネシアはゆっくりとその胸から顔を上げた。

 不思議なものだ。

 つい先程まではあんなにも不安だったのに、今はもうちっとも不安じゃない。

 逃げ出すだなんて、ちっとも考えつかない。

「私。アレク様が傍にいてくれないと、駄目なんです」

「ふふっ。光栄だね。シアにそんなことを言ってもらえる日が来るだなんて、思ってもみなかったよ」

 私も少しは逞しくなったってことかな? なんて言ってみせる相変わらずのその人に、また少しばかり笑みをこぼして、ゆったりと顔をあげた。

「では“国王陛下”。さっそく一つ私のお願いを、聞いていただけますか?」

「何なりと、我が姫」

 握りしめた手が温かいのは、またいつもの魔法だろうか。

 こんなにも心が落ち着くのも、もしかしたら彼の魔法なのだろうか。

「ヴィンセント様が、悔しがるような治世を築いてください」

「あぁ。約束しよう」

「だから嫌だったんだと恨み言を言わせるくらい、最高の治世を」

「いいね。それはやりがいがある」

「そして私にその手伝いを、させてください」

「あぁ……それは駄目だよ、シア」

 途端にアレクシスに否定されるから、てっきり賛同してくれるとばかり思っていたエイネシアは、キョトリと首を傾げた。

 駄目ということは……もしかして、ちょっとでも逃げ出そうだなんて思った自分は失格なのだろうか。

 やっぱり……こんな私じゃあ、並び立てはしないだろうか。

 そんな不安にドキリとしたけれど、でもエイネシアの手を包み込む手のぬくもりも、その力強さも、ちっとも緩む気配だなんてなくて。

「駄目だよ。それは君じゃなくて、私が君にお願いをするべきことなんだから」

「え?」

 クスリと笑うアレクシスは、エイネシアの手を引っ張ると、そのまま明るい湖畔へと導く。

 小さな頃から何度も訪れた、夏の離宮。

 そういえば……エイネシアはちっとも覚えていないけれど、アレクシスと最初に出会ったのは、この離宮なんだったか。

 大人に放っておかれた揺り籠の中のエイネシアを、彼は一生懸命あやしてくれていたとか。そんなことを言っていただろうか。

 それからも夏のたびにここで過ごしていたエイネシアを……彼はもしかして、何度も何度も見たことがあるのだろうか。

 この湖畔が一番のお気に入りで。

 湖に写し取られた満天の星が大好きで。

 夜にこっそりと部屋を抜け出して、星を見に来たこともあった。

 そんな日のことを、もしかして彼は知っているのだろうか。

 だけどあの頃よりもずっとずっと大きくなった背丈と、ずっとずっと近くなった距離と。

 なのにおもむろにそんな土の上にアレクシスが膝をつくものだから、ギョッと驚いて身を屈めてしまった。

 何をしているのか。

 そんなことしないで、立って、と手を伸ばすけれど、彼はピクリともしなくて。

 その代わりに、いつもと変わらない優しい面差しが、ニコリとエイネシアを見上げた。

「義務じゃない。契約でもない。重責の為でもない。共に罪を背負ってもらうためでもない。もう知っていると思うけれど、私はエイネシア・フィオレ・アーデルハイドである君だけではなくて、ただのエイネシアも好きなんだ」

「ア、アレクさまっ?」

 一体今更何事なのだと、思わず頬が染まってしまう。

 いつもと違う、上から見つめるという行為もなんだか落ち着かなくって、ハラハラとしてしまう。

「私の妃として共に玉座を担ってほしいだなんてお願いは、以前にもしたけれど。でもずっと、もう一度、君に伝えたかった」

「……っ」

「君が支えてくれるというのであれば、私も玉座を支えよう。君が逃げたいというのであれば、この手を取って共に逃げよう。君が笑っている時は一緒に笑って、泣いていたら、慰めてあげよう。だからエイネシア――」

 他の何者でもない。

 何も持たない、ただの私の女の子。


「私と結婚してくれますか?」


 なんだかとっても今更で。

 なんだかとっても当たり前で。

 なのに何故だかビックリして、意味も分からずボロボロと涙が落ちた。

 そんな契約をしたのはもう随分と前の話で、それを疑ったことなんて微塵も無いのに。

 でも思えば、この数ヶ月、玉座の為にと動き回っている内に、段々とその関係が政略じみたものになってきていた。

 本人たちの想いとは裏腹に、周りはそれを政治的に判断し、是か非かを決めた。

 その関係が、まるで玉座を支えるためだけの利害による関係であるかのように、虚しさを募らせていた。

 でもそうじゃない。

 元より彼は、何も持たないエイネシアでいいと言ってくれた人だった。

 一緒に並んで、一緒に麦畑の中に座り込んで、一緒に他愛のない村の踊りを踊って。

 その麦畑がいつの間にか玉座になって、その花冠がいつの間にか金の冠になってしまったけれど、でもそれでも、ちっとも変わっていなかった言葉が、空虚だったエイネシアの不安を埋め尽くしてゆく。

 この手を取って膝をついたその人は、何だかまるで物語の中の王子様みたいで。

 とっても似合いすぎて、可笑しくて。

「まるで……王子様みたいですよ?」

「知らなかったの? これでも一応、王子様なんだ」

 いつもと変わらないそのトーンが、くすりとエイネシアを微笑ませた。

 でも自分が欲しいのは、そんなかっこいい王子様なんかじゃないから。

 その場にストンッ、と同じように膝をついたエイネシアに、アレクシスがキョトリと目を瞬かせる。

 でもこれでいい。

 儀礼も形式も古い伝統に則った正式なプロポーズなんて、必要ない。

 そんなものすべてかなぐり捨ててでも、ただその人と視線を揃えて、掴まれている手を自分から繋ぎ直す。

「跪く必要なんてありません。私はただの、何も持たないアレクシスでも。国を背負った国王陛下でも。貴方のいるその場所、その同じ目線で、貴方と共にいたいんですから」

 だから、お願いなんてする必要ない。


「貴方を、私に下さい。アレクシス」


 くれた言葉と同じ分だけ、言葉をあげたい。

 求めてくれた分だけ、求めたい。

 ちょっと我儘に、自分から望んだプロポーズ。

 ちっとも伝統的じゃないその言葉が、きっと自分達には一番似合いの関係で。

「ッ、困ったなぁ。すでにシアに溺れているのに、これ以上どこに沈ませるつもりなの?」

「きっと、もっと深くて、でも近い所です」

「あ、それなら心当たりがある。任せて」

 冗談みたいに笑いながら交わしたキスが、きっと自分達には一番ちょうどいいキス。

 ただただ戯れるように、呑気で、気ままで、優しくて。

 それでいて、義務なんかよりもずっとずっと近くって。

 それを受け入れてくれるその人を、心から愛している。

 私を泣かせて、笑わせて、こんなことをさせてしまう貴方を、愛している。

 きっと自分は今この瞬間、世界で最も幸せな女の子で。

 そんな資格なんてないと脅える気持ちさえも包み込んでしまう愛おしさが、ただただすべてを忘れさせてくれる。

 それはもうこれ以上も無いほどに幸せな時間で。




 でもだからこそ。この幸せを永遠の物にするためにも、やっておかねばならないことが、もう一つある――。




 エイネシアの戦いは終わった。

 だが、“小宮雫”として。

 付けねばならない決着が、もう一つある。


 そのための布石となる、ポケットに隠した一通の手紙を……。

 ぐっと思いを込めて、握りしめる。







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