6-10 王都への帰還(1)
「アル!」
王都を目前にしたところで、繋ぎを付けてきたリカルドが連れて戻ってきた懐かしい顔に、エイネシアは思わず自ら馬車を飛び出して、久方ぶりに見たその仏頂面の幼馴染に飛びついた。
こいつめ。少し見ない間にまた大きくなったんじゃないだろうか。
とはいえ余りの嬉しさに思わず抱き着いたのが不味かったのか、困った顔で硬直してしまったアルフォンスの傍らで、すぐさまそんなエイネシアをベリッ! と引きはがした手があった。
そのあまりにも乱暴な所作に驚いて顔を跳ね上げたところで、その見慣れない“黒髪”に深いフードをかぶった近衛の装いの青年に、キョトンと目を瞬かせる。
はて……一体……、と思っていたら。
「エド……今のは不可抗力だ」
そうアルフォンスが言うものだから、ギョッ、として、慌ててそのフードの青年を覗き込んだ。
そのムスッとした、無駄に整った美貌。見間違えるはずもない、自分とお揃いの紫の瞳と、うっとりするような泣き黒子。
「エド?!」
「私を差し置いて、アルに抱き着くなんて。節操がないにもほどがあります、姉上」
「分からないわよ! え、どうして? その恰好は何?」
あわあわと慌てふためきながら、細腕を包む近衛の騎士服をペタペタと触っていると、少しエドワードの面差しが和らいだ。
機嫌は治ってくれただろうか。
「姉上が留守の間にも、王都はすっかりと過ごしにくい場所になってしまいましたから、偽装を。姉上も、王都に入る前にこちらを」
そう言って差し出された小さな包みに、薬室の判が押されているのを見て、何かしら? と首を傾げる。
袋を開いてみると、ほのかにツンとした香りがあって、でもすぐに、それが薬室の温室で栽培されている染料だと気が付いた。
葉は薬草になるが、根は煎じると染料になる。着色率は高くなくて、洗い流すとすぐに取れてしまう程度のものだが、なるほど、エドワードの髪はこれで色を変えてあるらしい。
「わかったわ。少し待っていて」
そうすぐに踵を返してジェシカを呼びに行こうとしたところで、ぐっ、と腕を掴み止められて足を止める。
まだ何かあったあしら、と振り返ろうとして。
途端に後ろから大きな腕に抱きしめられて、ビックリして固まってしまった。
「っ、エド?!」
「ちょっと黙っていてください。姉上」
「……えっと」
えーっと。これは何だろうか。
流石に音沙汰なさすぎて、怒らせてしまったのであろうか。
そう困った顔をしていたら、「しばらく大人しくしている方が身のためですよ」と、視線の外からアルフォンスが忠告を口にした。
「な、何、それ。ちょっと怖いのだけれど……」
「日々目を疑うような報告ばかりが届く中で、駆けつけたいのを何度も我慢してして耐えてきたのですから。少しはそんな弟君の意を汲んで差し上げて下さい、という意味です」
そう言われると、それは確かに、という気がしないでもない。
むしろ何度も、こんなことが知られたらエドワードが怖い顔をしそうだ、なんて考えたものだ。
怒られなかったのは幸いだけれど。
でも心配をかけたのだというのは、なんだかとてもよく伝わってきた。
だからちょっと過激なスキンシップに戸惑いつつも、その腕の中でもぞもぞと向きを変えると、そっと、その背に手を添えてみた。
この子も……ちょっと見ない間に、また大きくなった気がする。
背丈だけじゃなくて、もっと、色々と。
「心配をかけてごめんなさい、エド。あんまりお手紙も出せなくて」
「いいえ……ご公務であったことは、分かっています」
そしてそうと分かっていながら、エドワードは自ら、エイネシアを送り出してくれたのだ。だから、苦情なんて言わない。
ただこうやって、本当に無事であったことを確認しないと、不安でたまらないだけだ。
「ヴィンセント王子が……王都を離れたという、報告がありました」
「……えぇ」
あぁそうか。もうエドワードも。そして多分アルフォンスも、知っているのだ。
その王都を離れた王子様が、どこへ向かったのか。何をしに、行ったのか。
それで心配して、こんなところまで迎えに来てくれたのだろうか。
確かに……背中に投げかけられた恨みの言葉も、この二人の出迎えのおかげで随分と吹き飛んでしまった。
大丈夫……私には、それを共に背負ってくれる人たちがいる。
「まだ王都には入っていないけれど……ただいま、エド」
本当はちゃんと家に帰ってから言いたかったのだけれど、そんなに待ってはいられない。
うんと手を伸ばして、ぽんぽんと背を叩いてやると、流石にちょっと恥ずかしそうにエドワードの手が緩んだ。
「……まったく。子供扱いしないで下さい、姉上」
「だって、子供みたいなことするんですもの」
ふふっ、と笑って見せたところで、心外だ、と顔をしかめたエドワードの手がようやく解けた。
もはや子供扱いできるほどに頼りない男の子でないことは分かっているけれど、それでもやっぱり、弟は弟。可愛いものだ。
「さぁ、もういいですから。早くお仕度を」
「すぐに染めてくるわ。ちょっと待っていてね」
そう手を振りながら、少し離れた場所で頬に手を当てて恥ずかしそうに姉弟の様子を見ていたジェシカが、慌てて若様に一礼して、エイネシアを連れて行った。
そんな無邪気な様子に、エドワードは一つ、重たいため息を溢す。
まったく……本当に分かっているのだろうか。
情勢のきな臭い北部にやっただけでも心配だったのに、誘拐されただとか、シルヴェスト領に入ってから連絡が途絶えただの、はてはイースニック領では両の手で足りないほどの暗殺の報告なんてものまであって、ついにはヴィンセントまで……。
「あの人は、なんでこんなに鈍いんだ……」
これが一体どれほどに恐ろしいことなのか、ちゃんと分かっているのだろうか。
そうため息をつくエドワードに、ポンポン、と、慰めるようにアルフォンスがその背を叩いた。
エイネシアの王都への帰還の手筈を整えるのに、わざわざエドワードが危険を押してでも出てきたのは当然だが、最近はアンナマリアの傍につきっきりのアルフォンスが使わされてきたのも、アンナマリアに『お義姉様を絶対に無事に連れて帰って!』と懇願されたからだ。
それほどまでに心配をかけていたことも、きっと彼女は理解していない。
じゃなければ、あんなに呑気に、出会いがしらのアルフォンスに抱き着いたりしない。
えぇ、えぇ。するはずがない……、と、思わずアルフォンスを睨んだエドワードに、「俺は悪くない」と、思わずアルフォンスは肩をすくめた。
そうして待つこと数分。
「見て見て、エド。黒い髪というのも素敵よね」
そう輪をかけて呑気な様子で、久しぶりの王都風のドレスを纏い、長い黒髪を舞わせてはしゃぎながらやってきたその人は、なんというか。
「あぁ……そうか。鈍いのではなく、“図太い”のか」
思わずそう呟いたアルフォンスは、その表現が気に入らなかったらしいエドワードに足を踏まれてしまった。
違う。不可抗力だ。思わず口からこぼれてしまった、ただの適切な表現だ……。
でも当然、そんなふわふわしただけのお姫様じゃないことは、百も承知で。
「さぁ。準備も整ったことですし」
途端にピリッと鋭くなった視線と。
「はじめましょうか」
髪の色のせいか、いっそう艶やかにも見えるエイネシアのそんな何気ない一言に、なにやら言いようのない切なさとともに、ゾクリと奮い立つ心地がするのを感じていた。
姉は……エイネシアは。一体かつての友と、何を語らったのだろうか。
◇◇◇
「まずは王都の様子を簡単に教えて頂戴」
装いを改めたエイネシアがエドワードを伴って馬車に戻ったところで、すぐに気を利かせたシロンが馬車を降りて、代わりにエドワードの乗ってきた馬に騎乗した。
同乗者であるレムは突然現れた騎士服の男性に驚いた様子で、身をすくめてしまったけれど、エイネシアが並んで座って『弟なの』と笑ってみせると、そのそっくりな容貌に、たちまちほっと安堵の吐息を溢して、同乗を認めてくれた。
ただの同乗者であるレムが認めるというのもおかしな話だが、ついひと月ほど前までは男共から酷い虐待を受けていた女性だ。それを心配するのは当然のことで、エドワードにも前もって、そういう女性が馬車には一緒にいるから、と忠告しておいた。
だからエドワードも極力表情を柔らかくして、『私は姉上の大切な方には一切手出しいたしませんよ』と、最初にそう言ってくれた。
シロンもそうだが、エドワードもどちらかというと綺麗な面差しをした中性的な雰囲気だから、それがレムの恐怖心を和らげてくれたのだろう。
そうして馬車がゆっくりと動きだし、近衛が抑えているという王都への門へ歩み始めたところで、早速エイネシアが問うた話題が、王都の様子であった。
よもや公爵家の人間が、このように変装をしなければならないというのは、ただならぬ話だ。
「詳しい話はまた後ほど、父上なども交えてお話いたします。ただ先に幾つか申し上げておきますと……」
話しはじめてすぐにも頬を掻いたエドワードの様子に、「何?」と、エイネシアは首を傾げる。
そんなに気まずくなるような何かがあるのだろうか。
「まず、我々の行先は、学院です」
「ん?」
何故だ。せめてアーデルハイド家。むしろ証拠の品などを携えているわけだから、近衛とか、はたまた真っ直ぐ王宮内の宰相府などに向かうべきではないのか。
「王宮内は殆どフレデリカ派の手に落ちています。あそこに重要なものなど、置いてはおけませんよ」
「……そう」
「宰相府は暫定的に、郊外のブラットワイス大公家に拠点を置いています」
「そ、そう……」
うん。すでにかなり思っていたのと違う感じになってきた。
なんでブラットワイス大公家。
いや、大公料領は治外法権地帯だから安全であるし、大公家自体も古城ばりのすごいやつがあるとかアンナマリアも言っていたから、都合がいいのは分かるが。
「それで、この変装は何?」
「軍が動くような事態にはなっていませんが、金で雇われた不穏な連中が、かなりの数王都に入って来ています。学院内の警衛は固いので安心ですが、外を歩く際には一応念のために」
「あら。もしかして私達、懸賞金とかかけられてるのかしら?」
なんてまさか漫画みたいなこと、と軽い気持ち半分で言ったのだが、なんとも言い難い困った顔でエドワードが苦笑するのを見た瞬間、エイネシアも目を瞬かせて口を噤んでしまった。
いやまさか……まさかのまさかなのだろうか。
「信じられない……。まったく、手あたり次第ね」
「市中でも近衛が見回りを強化して、王都の関もどこも警戒を厳にはしていますが、関といっても領界上すべてに塀があるわけではありませんから」
「密入領の方法はいくらでもあるということね。そのすべてを阻むことなんてできない」
そしてこの情勢下。近衛ももはや方々の取り調べや調査で手いっぱいで、ゴロツキに構っている暇なんてないはずだ。
本来こうした市中の警備は国軍省管轄下の自警庁が担っているのだが、国軍があまり信用ならない存在となった今、それを頼りにもできない。
「国民達への影響は出ていないかしら?」
「治安の悪化は否めません。昨今の権門排斥の動きに呼応して、既存の権力を攻撃してもよい、みたいな風潮が生まれていることも確かで、すでにいくつもの大商家や裕福な家などが暴徒に襲われる事件が起きています。貴族街の方も同様です」
「そんな……」
「流石に国王陛下の近縁である公爵家に直接乗り込んでくるような暴徒はまだ発生していませんが、身近な所だと、ビアンナの実家なども襲われましたよ」
「スカーレット侯爵家?! ビアンナは? 皆は平気なの?」
「幸い、無人の馬車が門を突き破った程度の被害です。ビアンナもラングフォード領に滞在しているようで、怪我一つありません」
それには安堵するが、しかしスカーレット家といえば建国功臣にもかぞえられる権門中の権門。ましてや公爵令息の許嫁を輩出したばかりの家柄だ。
それを脇目も振らず狙うというのは、なるほど、アーデルハイド家を避ける理由も分かる。
「それと姉上が留守の間に、王都の税収は七割にまで膨れ上がりました」
「まさか!」
これには思わず身を乗り出してしまった。
大きな声に驚いたのか、レムがびくっ、としたのが目に入って、慌てて引き下がって謝罪したけれど、でも流石にこの事態には焦りを覚えずにはいられなかった。
税務庁は財務省の管轄下。メイフィールド家に抑えられているのは分かっているが、だがそれでもいくらなんでも無謀すぎる。
王都の税収は元々二割。一部の特定な条件下での免除制度や減額制度もあるが、基本は成人年齢である十八歳から六十歳まで、その収入に応じた額の納税が義務付けられている。
これら税収は公共事業や福利厚生に還元され、あるいは大きな災害や特別な出費がある場合には、これに加算して一時的な徴税金が科されるが、それでも精々三割だ。
ただでさえ王都は物価が高いから、三割も課されれば、下級の庶民はたちまち生活が苦しくなる。
無論、そういうのを考慮して、職種や階級別に特別な税を掛けたりして負担を調整したり工夫はなされるわけだが、しかし七割となると、大商家であったって大泣きすることになるだろう。
むしろそこまでくると、稼げば稼ぐだけ無駄になる。
「そんな無茶なこと、本気でやっているの? フレデリカ妃だって、馬鹿じゃないでしょうに」
そんなことで国民を疲弊させたって、玉座は取れない。
そのくらい分かっているはずなのに、どういうことなのか。
「姉上……それは、姉上が“真っ当”だからですよ」
だがそう眉尻を下げたエドワードの言葉には、エイネシアも言葉を噤んでしまった。
そうだ。真っ当ならば、そんな馬鹿なことはしない。
でも、真っ当ではなかったのであれば……。
「イースニック伯の弾劾は、フレデリカ派への大きな打撃になりました。実質これに連座して、その資金源にかかる大半の貴族が処罰、ないし今も勾留されて、取り調べを受けている状態にあります。かろうじて残された資金源は、シンドリー侯爵領くらいでしょう」
そして当然、そんないち所領で、これまでやって来たような数多の不正が賄えるはずもない。
兵力の維持費だけでなく、武器の密造、輸送、奴隷売買や人身売買。それらはすべてフレデリカ派の政治資金となり、その湧いて出てくる金銭により買収された役人や商人、貴族も数多いたはずだ。
それを維持していくのには、同じだけの金銭を湧き続けさせねばならない。
そのしわ寄せが、フレデリカ派が手に入れた財務省により、王都の民から搾取される形で補填されているわけだ。
下手をすれば、この国王のおひざ元で、イースニック領と同じことが行なわれることになる。
そんなことだけは、二度とあってはならない。
「時間はないわね……」
「ええ。ですから姉上と姉上が持ち帰った物はすべて、必ずご無事に父上の元まで届けて見せます」
そしてこれさえあれば。
「シンドリーは、失脚する」
そう。エイネシアが危険を押してでも王都への帰還を急いだのは、それを掴んだからでもあった。
武器の輸送先としてもだが、人間を売買するなどという悪行の首班が、その人物であったことには絶句した。
そしてそれはくしくも八年前……シンドリー侯爵が慰問のために北部穀倉地帯を訪れた際、“難民救助”とうたって寄進したいくつもの孤児院などが、その下地になっていたことには、さらに絶望した。
これらはすべて、目の前にいるレムから得られた情報でもあって、シンドリーの名前が出るとすぐに、レムは口を引き結んで、固く拳を握りしめた。
彼女もまた、そのシンドリーが寄進した孤児院で育ち、あの地下の地獄へと“納品”された生立ちなのだ。
「けれど裁こうにも、裁くための土台が生き残っているかどうかは重要よ。なのに宰相府がすでに王宮内に無いというのも……」
「ええ。罪を暴くための材料を取りそろえたところで、それが正しく用いられなければ意味がないことは分かっています。ですが姉上」
クス、と笑うエドワードが、心配そうなエイネシアを見やって、どことなく頼もしい顔をする。
「この二ヶ月、姉上ばかりが努力していたわけではないことを、お忘れなく」
「エド?」
「私は貴女の弟なんですよ? お忘れではありませんか?」
一体エドワードが何を言いたいのかわからなくて、ましてや斜め向かいで、ジェシカがクスクスと肩をすくめて笑っているのを見て、キョトキョトと首を傾けた。
一体、なんだというのか。
「お嬢様、ご存じありませんでしたか? 若様はこう見えて、とっても負けず嫌いでいらっしゃるんですよ」
「え?」
だから、何だというのだろうか、と、益々首を傾げたら。
「姉上はこの二年間、私が学院内で安穏と学生生活を過ごしていたとお思いですか?」
「え、え?」
何それ。なんか言い方がものすごく怖いのだけれど……。
「現在学院に所属している全学生、ならびに学院に属しておらずとも、それ相応の社交に顔を出している子女子息。それらの弱みという弱み、その証拠は、私の手の内です」
「ちょっ……」
「これをネタに、おそらく大半の官庁の諸貴族、諸役人。無論司法省も、すべて私の手に落ちますよ」
「……」
「どうです、姉上。褒めていただけますか?」
そう、まるで小さな頃のように屈託なくニコリと微笑んで見せたエドワードに、エイネシアは褒めることも忘れて顔を青ざめさせたまま、しばらく硬直してしまった。
あぁ、うん。うん、そうね。お姉ちゃん、忘れてたよ。
ゲームでのエドワード・フィオレ・アーデルハイドは、確かに人の弱みを握るのがべらぼうに上手かった。
ヒロインに手ひどい仕打ちをした貴族の令嬢達に対し、一体どこで調べて来たんだという黒い噂で脅して、『この貴族の面汚し目が』と冷ややかな目で社会的に抹殺する……この子はそんな性格だったはず。
ゲームとは大分性格は変わったようだけれど……そういうところは、やっぱり同じなのだと。今更ながらに実感し。
でもそれをニコニコと。褒めてくれますか、だなんていうこの子はやっぱり。
うん。かなり、怖かった。




