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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第一章 定められた配役
16/192

1-10 叱責(2)

 明らかに変わった場の空気に、その発言をしたエドワードがはっとして口元に手を添え、エイネシアを見やった。

 不味かったですか、というその視線に、正直なところエイネシアは、グッジョブ、良く言った、という気分だったのだが、当然その言葉は飲み込んでおく。

「まぁ、エド。候が水の事をお考えでないはずがないではありませんか。失礼なことを言ってはなりませんよ」

 そう姉が弟を窘めるがごとく言って見せたところで、エドワードもまたしおらしく、「申し訳ありません」と答える。その上キーフリーに向かっても、「失言をお許しください、侯爵」と丁寧に詫びるものだから、キーフリーも言葉を失った。

 その面差しがどこか変な形に歪んでいるのは、まさか八歳児エドワード坊ちゃんの言った“水では?”の意味が分からないのだろうか。

 それを見て取ったアルフォンスが、ふっ、とわずかに片口を吊り上げる様子には、こら、こら! と、あわてて視線でそれを制した。

 いや、気持ちはわかる。すごくわかるけど。


「……なるほど。公の令息はどうやら父親に似て、随分と生意気なようだな」

 声を潜めはしていたが、明らかに聞こえるように言ったキーフリーの一言に、ピシリ、と、貼り付けていた令嬢の仮面が凍りつく。

「大人を立てるということを知らんのだな」

 はっと顔色を変えたエドワードが、口を引き結んで拳を握る。

 その様子にエイネシアも心配そうに弟を見やるが、すぐにも顔をあげたエドワードの面差しは、いつもの優しい面差しとは違う、まるで父のようにキリリとした大人びた顔をしていた。

「失礼しました、候。私の軽率な発言が、貴殿の心象を損なわせてしまったようですね。何分まだ王宮での立ち居振る舞いになれず、未熟な言動をしてしまったかもしれません。これからは先達のご指導を肝に命じ、慎むよう心掛けましょう」

 これが本当に八歳の少年だろうかと思うほどのしっかりとした物言い。それでいて公爵家の跡取りらしい凛として気高い声色が、思わずエイネシアを、ホゥ、と嘆息させた。まったく、なんてよく出来た子なのか。

 だがそれさえも気に入らなかったらしいキーフリーは、益々眉根を寄せるとあからさまにいきいだってみせた。

「なんだね、それは! まるで私が君のような子供に腹を立てていたかのような言いぶりではないかね」

 折角エドワードが己を曲げて謝罪することでこの場を収めようとしてくれたというのに、それをさらに掘り返すようなことを言い出す侯爵に、思わずアルフォンスがその左手を腰の帯剣にかけた。

 気持ちは嬉しいが、余計にこじれるので、くれぐれも抜刀なんてしないでもらいたい。

「ふん。父君の威光に思いあがっているようだな、子供が。あぁ、私を存じていないのだな! いいか、教えてやろう。私はフレデリカ王太子妃殿下の外戚、シンドリー侯爵だ。貴殿の父が宰相であろうと、姉が王子の許嫁であろうと、私は殿下の後ろ盾。未来の貴殿の“伯父”なのだよ。わかるかね!」

 はい? と、思わずエイネシアもエドワードも目を瞬かせた。

 伯父? いや……確かに。エイネシアがヴィンセントに嫁げば、ヴィンセントの母フレデリカは義理の母。フレデリカの義兄は、エイネシアの義理の伯父。ならエイネシアの弟であるエドワードにとっても、義理の伯父といえなくもな……ない。が、そんなこじつけもいいところの縁もゆかりもない関係。ましてや公爵家より格下のいち侯爵が、何を言っているのだろうか。そもそも彼は、“王家の血を引く”エドワードに対しての失言の数々を、一体どう思っているのだろうか。そのエドワードの“上”を誇示することの意味を、候は理解しているのであろうか。

「まったく、これだから権門だなんだとおごっている子弟はろくな育ち方をせんのだよ!」

 なにやら余りの馬鹿馬鹿しさに、ふつふつと怒りがわいてきた。

「年上は敬うことも知らんのだから。貴殿は私の妹の義理の子でしかないのだぞ。年序の孝というのを知っているかね? その心なくして未来の宰相になろうなどとおこがましい。一つ、私が指導して……」

「お言葉ですが、“候爵”」

 ニッコーーーッ、と。これでもかというほどの満面の笑みを浮かべたエイネシアのその声色に、びくんっっ、と、エドワードとアルフォンスが揃って肩を跳ね上げる。

「エドワードがフレデリカ様の義理の子()()()()()などというお言葉は、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎましょう。今すぐ、取り下げていただきたく存じます」

「は?」

 エイネシアが反論するなど微塵も思っていなかったらしいキーフリーの顔がポカンと間抜け面になるのと同じくして、「あ、姉上っ」と、エドワードが困惑気な声をかける。

 彼がこんなに眉を吊り上げた笑顔という名の怒気をあからさまにさせた姉を見たのは初めてなのだろう。その声色とトーンはまさに使えない部下に苛立ちマックスな時の父の声色のそれと同じで、すごく嫌な予感を察したようだ。

 だがそんな弟に遠慮してあげるお姉様ではない。

「エドワード・フィオレ・アーデルハイドは、幼くとも四公家の一角、西方公アーデルハイド公爵家の世継ぎです。貴殿がどれほどお偉いのかは存じませんが、それは我が公爵家、ひいてはその血筋を形成するすべての身内よりお偉いのでしょうか? 候の論で言えば、私もエドワードも、ウィルフレッド王太子殿下の妹御でいらっしゃるアデリーン王女殿下の義理の姉の子、王太子殿下の甥姪となるのですよ? なのにお偉い侯爵様であれば、王家の血縁に非礼を働いても許されるのですか? そんなルール、私は存じていないのですが。どなたがお決めになられたのですか? フレデリカ様でしょうか?」

「っ、なッ!」

 ニコニコ。ニコニコと、無垢に紡がれる悪魔の言葉。

「ついでに申しますなら、フレデリカ様を“王太子妃”とお呼びになったこともお取下げください」

「ッなんだとっ?!」

「私はヴィンセント王子の許嫁。フレデリカ様を義母として敬い、侮る気持ちなどございません。しかし今現在王太子妃との称号をお持ちであるのは、私達の大叔母である“エルヴィア様”です。その序列を損なうことは、年序の孝を損なうことと、どちらが重たいのでございましょうか」

 ふっと顔色をなくして黙り込んだキーフリーに、一度堰を切ったエイネシアの怒りは怒涛のようにこぼれ出してしまう。

「それに年序の孝と申しますが、年序の上の者を下の者が敬うのは、上の者の知識と経験を敬ってのこと。しかし候に敬うべき知がございましたでしょうか。弟の発言が生意気に聞こえたのでしたら、それは貴殿が弟よりも情勢と歴史に無知であったため。むしろ八歳の“子供”でさえ存じているヒルデワイス議論とイースニック領の現状という周知の事実に、候がそれを存じていないなど露とも思っていなかった弟が侯を過剰評価してしまっていたまでのこと。幼子に気を遣わせたというのに、羞恥もせず年序を笠に着られるだなんて、恥ずかしくないのでしょうか」

「……ッ貴様! 何をッ……」

 カッとなったのか。思わずキーフリーが振り上げた手に、エイネシアはぎゅっと目を瞑る。

 叩きたいなら叩けばいい。痛いのなんて一瞬だ。その結果侯爵が得ることになる処罰に比べれば、こんなの安いくらいだ。

 私は何一つ、間違ったことは言っていない。本望だ。


 そう覚悟したが、その手が降ってくることはなかった。

 すかさず前に出たアルフォンスが、帯剣を鞘ごとベルトから引き抜いてエイネシアの前を庇ったからであり、またそればかりでなく、アルフォンスの動きとほぼ同時に、「これは何事だ」という低い唸るような子供の声が、この場をはっと引き締めたからだった。

 みるみると顔を青ざめさせてゆく取り巻きの貴族が、そのあからさまに眉をしかめて冷たい目をしたヴィンセント王子の姿に、いち早く胸に手を当てて深い礼を尽くす。

 それに続くように、ゆっくりとそちらを見やったエイネシアとエドワードが。チラリと視線を寄越したままピクリともしないアルフォンスには、「アルフォンス」と名を呼んだヴィンセントの声に応して、ようやく剣をおろし、そのまま礼を尽くして一歩引き下がった。

 残る人物はキーフリーだが、彼はこの状況にまるで知己を得たかのように鷹揚に手を広げ、「おぉ、これはヴィンセント王子! 良いところに」と歓迎した。

 一体この状況で、何故そうも楽観的でいられるのか。

「シンドリー候。これはどういうことか」

「殿下! 妻の(しつけ)は夫の責務ですぞ! 将来のためにも、生意気な許嫁の手綱は今からきちんと握っておいていただかねば」

「……手綱?」

 チラ、とエイネシアを見やったヴィンセントの視線に、エイネシアは微塵も顔色を移ろわせることはなく、ただヴィンセントの判断を待つかのように静かに瞼を伏せる。

 叱責ならば謹んで承ろう。何しろ今はとにかく猛烈に、腹が立っているのだ。

「シンドリー候。アルフォンスとエドワードは私の近侍。二人の事は私が誰よりも知っているつもりだ」

「はぁ、そうでしたな。では臣下の躾も……」

「アルフォンスは理由も無く、私の名において許された帯剣を振りかざすような真似はしない」

 キーフリーの言葉を遮るように口にされた言葉に、思わずキーフリーが口を噤む。

「アルフォンス。答えよ。お前が剣を掲げたのは何故だ」

 その問いに一つ頭を伏したアルフォンスは、「職務をまっとうしたまでのことです」と答える。

「シンドリー候の振り上げた手が、恐れ多くも女王陛下のご近縁であらせられるアーデルハイド公爵家の姫君を傷つける可能性がありましたので、御前を遮らせていただきました」

「なっ。妄言だ! 私を貶めるつもりか!」

 否。ヴィンセントはすでに、候の振り上げた手を見ている。それどころかキーフリーはヴィンセントが現れてすぐ、それが見られていると分かっていながらも慌てて腕を下ろすそぶりさえ見せなかったのだ。ヴィンセントにそれを問い詰められるとは思っていなかったのだろう。

「エイネシア。候は何を咎めて、その王家の近縁に危害を加えようとしたのか」

「恐れながら殿下に申し上げます。候が我が弟エドワードを侮辱したことについては、私事でございますので殿下のお耳をお汚しするまでもございません。しかし侯が我らに父の威光を笠に着てはならぬとのご諫言を下さった同じ口で、恐れ多くも殿下のお尊母様のお名前に威光を着て、我が一族の歴史と血脈を蔑ろになさったことについては正すべきであると、苦言を述べさせていただきました」

「なっ……」

 言っていることに間違いはないが、少しも納得のいかないキーフリーがギッとエイネシアを睨みつけた。

 だがエイネシアだって引く気はない。目の前で自分の家と大切な弟と、父が姉のように思っているというエルヴィア妃をないがしろにされたのだ。どうして引かねばならないのか。


「エイネシア」


 だがそのきつく口を引き結んでツンとしたエイネシアにかけられた、ため息を交えたようなヴィンセントの声色が、ドキリとエイネシアの肩を揺らす。

 ただ一言。静やかに名前を呼ばれただけなのに、心臓に叱責の爪をかけられたような嫌な感覚だった。思わず顔を跳ねあげたエイネシアの目に映ったのは、“失望した”とでもいうようなヴィンセントの面差しだ。

 でもおかしい。なぜだ。

 何も間違ったことなんて言っていないはず。自分は当然のことを言っただけなはず。

 なのに、何故自分が咎められているのだろう。

 エイネシアは何か“間違った”だろうか?

 分からない。分からないが、だが少なくとも、ヴィンセントの心証を損なっているのだ。

 何か、踏んではならないものを踏んでしまったのだ。

 エイネシアを、バッドエンドルートへと近づける“何か”を。

 そう気が付いた瞬間、これまでの強気は何処にいったのかというほどに緊張と不安が押し寄せ、エイネシアから呼吸を奪った。


「申し訳ありません、殿下っ。私の浅慮が、過ぎたのでしょうか?」


 情けなくドレスの下で足が震える。

 殿下がひどくお怒りになったらどうしよう。

 気が付かぬうちに、とんでもないことをしでかしてしまっていたらどうしよう。

 そう脅えて頭を下げている時間は、おそらくそんなに長い時間ではなかったはずなのに、随分と長く感じられた。

 いつまでたっても、顔をあげろ、と言ってくれない静やかなヴィンセントの態度が不安を助長し、やがて呟かれた「もう良い」の言葉が、安堵よりも焦りを誘引する。

「この件は水に流すことにする。シンドリー候もそれで良いな?」

「ッしかしっ」

「候」

 そうそっと目で訴えかけたヴィンセントに、ビクリ、と、一度肩をすくめたキーフリーは、やがてきょろきょろと気まずそうに左右に視線を彷徨わせてから、未だヴィンセントに低く礼を尽くしているエイネシアの姿を見ると、ふんっ、と鼻を鳴らして引き下がった。

「まぁ、私も大人げなく熱くなってしまいました。姫の過ぎた言葉はひとえに弟想いなだけであると受け止め、失言は忘れましょう」

 それでいてなお自分の否を認めず、むしろヴィンセントに対し、自分は悪くないのだということを重ねて主張するような物言いは、下手をすればまたもこの言い争いを蒸し返しかねないというのに、なぜそれが理解できないのか。

 最早憐れでさえある大人げない大人に、エイネシアは心の中でのみため息を溢すと、「候のお優しいお言葉に救われます」としおらしく笑って、軽く頭を下げて見せた。

 その謙虚な物言いと“謝罪”に気を良くしたらしいキーフリーは、「そうか。そうだろうとも」と、上機嫌で踵を返し、まるで悪びれもしない緩慢な足取りでサロンを出て行った。

 わははははは、と、やって来たときと同じような高らかな笑い声。

 去り際、彼に取り巻いていた二人の貴族がこれでもかというほどに頭を下げて無礼を詫びたが、それもこれもあの高笑いで台無しだった。

 かくしてようやく静かになったその場だったが、しかしまだ問題は終わっていない。



「エイネシア。宮中でこんな騒ぎを起こすとは何事だ。君らしくもない」

 ピリリと厳しい声色に、「殿下ッ」とアルフォンスが正確な事情を説明しようと口を開いたけれど、それはすぐにエイネシアが首を振って留めた。

 彼は十分に、シンドリー侯を諌めてくれた。どちらに非があったのかなど一目瞭然で、ヴィンセントだってそんなことは分かっている。その上でなお声色を厳しくしているのは、シンドリーだけじゃない。エイネシアの態度に関してもまた、少なからず彼の不興を買うものがあったからだ。

「申し訳……ありません、ヴィンセント様。このような騒ぎを起こし、ご迷惑をおかけいたしました」

「あの男への腹立ちが分からないわけではない。だがシンドリーはあれでも私の後見なのだぞ。こんなくだらないことでキーフリーが咎めなど受けようものなら、その後私がどんな不利益を被ることになるかくらいは理解できるだろう」

「……仰る、通りです」

 そうだ……わかっている。わかっていたはずだった。

 シンドリー侯爵家は、メイフィールド家の近縁。伯爵家とはいえ権門とは言い難いメイフィールド家の代わりに、側妃フレデリカとヴィンセントを後見しているのがシンドリー侯爵家だ。なのにそのシンドリーをエイネシアが言い負したあげく、手をあげさせようだなんて()()……。

「あのっ……」

 この様子にエドワードが慌てたようにエイネシアを庇おうとしたけれど、それもまたエイネシアが視線だけで留めた。

 エイネシアが白熱したのは自分のせいだ、とエドワードは思ったのかもしれないが、だがそうではない。それでブチ切れたのは、間違いなくエイネシアだ。

 本当はちっとも後悔なんてしていない。

 何ならもっと言ってやりたかったくらいだ。

 せいぜいきついお叱りを被ればいいと思っている。

 だがそれをすべてひた隠して反省の色を見せるエイネシアに、ヴィンセントは一つ、重たいため息をついた。

「お前は正しいことを言っただけのつもりなのだろう。だがそれは、お前の“傲慢”だ」

「ッ……」

 傲慢? その言葉が、ビクリとエイネシアの肩を揺さぶる。

 ゲームのようなエイネシアにはならぬように。下手に己を驕ってバッドエンドなんて迎えないように。そう気を付けて、自制に自制を重ねてきたつもりだった。

 なのにまさか、私は驕っているというのか?

 この身分。この血に?

「そんなっ……いえ。改めます。もし私にそのような所があるのであれば、必ず悔い改めますからっ」

「お前はいつもそうやって迷いもなく謝罪をする」

「……っ」

「だがその当たり前の謝罪と同じだけの当たり前で、シンドリーを言い負かすのだろう? 君の謝罪は一見あたかも真剣なように聞こえるが……本当は何を考えているのか。ちっとも分からない」

 分からない? いや。何も裏表なんてない。

 もしも本当に驕りがあるというのであれば、是が非でも悔い改める。そうせねばならない。


 ただ……少し、分からない。

 これは傲慢なのだろうか?

 それとも、矜持だったのだろうか?


「正論も時には控えろ。でしゃばった真似もするな。王家の妃としての資質を疑わたくなければ」

 けれどその一言が、エイネシアのすべての反論を抑え込んでしまった。

 硬く口を引き結び、息をひそめる。

 王家の妃としての資質――。

 今一番エイネシアに求められるものであって、エイネシアが生きて行くために一番必要な物。


 この人に……嫌われたくない。

 いらないと、そう言われたくない。

 だって……この人に、いらないと言われてしまったら、私は――。


「私が、浅慮でした」

 らしくも無く少し震えた声色に、これでは駄目だ、と、言葉を飲み込む。

 王家の妃ならば、もっと朗らかに。花の綻ぶように穏やかに。何も恐れず、けれど謙虚に。その人の一歩後ろを歩くぐらいの態度で。

「今後は……このようなこと、無いよう、にっ……」

 だがどんなに虚勢を張っても、所詮は未だ十歳の子供。

 悶える感情が冷静さを欠かせて行く。

 怖くて。逃げ出したくて。

 嫌われたくなくて。

 本当の自分を、見せたくなくて。

「もういい。今日はもう帰れ。母上には私がとりなしておく」

 そう言われたら、帰ることさえ恐ろしくて。

 ただ。


「何の憂えもない高貴な生まれのお前は、さぞかし私が卑しく見えることだろうな――」


 ポツリと踵を返しながら囁いたヴィンセントの言葉に、ついに頭の中は真っ白になった。

 “所詮お前には、分からないだろう――”

 まるでそういわれたような衝撃に、息がか細くなる。



 あぁ、そうか。そういうことか……。

 シンドリー侯爵家は権門の一角。成り上がりの新興貴族であるメイフィールド伯爵家の外戚にして後ろ盾だ。母の身分のあまり高くないヴィンセントにとっても後見に位置付けられる重要な家であり、母の出自を理由にヴィンセントを白い目で見る権門貴族達に対し、彼を守るための大切な壁でもある。

 なのにエイネシアという公爵家の姫がシンドリー侯爵との序列を明確にしてしまうことは、ひいては公爵家がヴィンセント王子の血筋をも(さげす)んでいると言えなくもない。

 彼は、エイネシアが当然のように生まれ持って享受してきた“何憂うことのない血筋”を持たない。

 エイネシアが身分を理由にシンドリーを追い詰めることは、ヴィンセントを貶めることと同義となってしまったのだ。


 所詮エイネシアは、誰にも配慮する必要がない、生まれながらのお姫様。どんなに煩わしくとも、シンドリーに己を守ってもらわねばならないヴィンセントとは違う。

 無論、エイネシアは血縁を理由に威張り散らしたつもりはなく、むしろ血縁を誇示するシンドリー侯に腹が立って同じ理由で言い返しただけだが、それでももっと慎重であらねばならなかった。

 王子の立場を本当に慮っていたならば、何があっても口を噤んで耐えるべきだった。

 ヴィンセントがそうやって、ずっと堪えてきたように。本当にヴィンセントのことを思うのであれば、共に耐えるべきであった。そのくらいの配慮を、すべき相手だった。

 だからこその……“傲慢”なのだ。


 でもそれでも。それでも黙っていることなんてできなくて……。

 それがエイネシアの、過ち。


 間違っていただなんて思わない。

 非があったなんて思っていない。

 でもそれでも……エイネシアは、“誤った”のだ。




「お待ちください、殿下っ」

 エイネシアに背を向けるヴィンセントを止めようと声をかけてくれたアルフォンスに、「いいのよ、アル」と、何とか言葉を絞り出して彼を止めた。

「ですがっ……先ほどの件は明らかに侯に非が……」

「ええ……でもこの件は、私が間違ったの」

 どれほどに腹が立っても。どれほどに悔しくても。それでも耐えねばならなった。

 常日頃から、ヴィンセントがそうやって周囲の蔑みの目に耐え続けているように。同じように、一緒になって耐えることが、ヴィンセントの許嫁に求められるべき態度だった。

 私は、幼いヴィンセント様の心に寄り添ってあげられなかった――。

「ヴィンセント様だって分かっていらっしゃるわ。その上で、私が間違えた。お怒りは当然よ。それに、あの状況に殿下がいらしていれば、私が馬鹿な真似をするまでも無く、殿下が収めて下さったわ。それを待てず、私は殿下を頼りもせず、勝手に身分を振りかざして殿下のご後見に罪を負わせようとしたの。これは紛れもない私の過ちです」

「しかし……」

 それはそうかもしれないが、とまだ納得がいかない様子のアルフォンスに、ふとエイネシアは机の上にポツンと置かれた包みを見る。

 あぁ、そうだ。折角の誕生日だったのに。

 折角の……楽しい日だった、はずなのに。


「ごめんなさい、アル。貴方の折角の誕生日を台無しにしてしまったわ。私はお言いつけどおり先に失礼するけれど。宜しければこれは持って行って。友達へのお祝いの気持ちを沢山込めたの」

 そう微笑んでみせるエイネシアには、アルフォンスも口を噤んだ。

 もう何を言っても無駄であることは分かっているだろうし、それにこうやってアルフォンスがヴィンセントと気まずくならないようにとのフォローのつもりもあるのだ。

 それが分からないアルフォンスではない。

「……わかりました。後ほど、殿下と共にいただきます」

「有難う、アル」

 その心遣いがとても嬉しい。それだけで充分だ。

「私は、失礼するわね。今日……皆とイリア離宮へ行くのを、本当に楽しみにしていたの。是非また、連れていってね……」

 いいや。もしかしたらもう二度と、そんな日は来ないかもしれない。

 そんな不安が、アルの口から『それは無理です』と言われるのではないかという恐怖を呼び寄せ、何も聞きたくないとばかりに返事も待たずに踵を返すと、シンドリー侯の去った廊下ではなく庭の方へと降りて駆けだした。


 いつもなら必ずそこで可愛がっている弟に、エドはどうする? と一言かけるであろうに、それさえも忘れて駆け去ってゆく。

 そのことにエドワードがぎゅうっと拳を握りしめて身を乗り出した。

 追いたい。だが追えない。エドワードには王子の近侍という役目があり、今日はその役目の日だ。

 だがあんな姉を見て見ぬふりなんてできない。

 そう落ち着かない様子のエドワードに、ポン、と、アルフォンスの手がエドワードの背中を叩く。

「殿下には言っておく。姫を追ってくれ」

 その言葉に押し出されるようにして、コクリと頷いたエドワードもまた庭の方へと駆け出した。


 ◇◇◇



 外廷の方向へ。

 見当たらなかったから少し奥の方へ。

 それでも見当たらずうろうろと彷徨い、もしかしてと女王の庭に駆け込むと、更に奥の、小さな野薔薇の蔦が絡んだ小道を進む。


 高い垣根に囲まれた静かな空間。

 さわさわと水音を立てる小さな噴水。

 薔薇のアーチを潜り抜けて。


 ぱっと飛び出した先の噴水のたもとで、小さく丸まっている姉を見つけた。

 まるで、頼りない、小さな小さな子供のように、黙って突っ伏す後ろ姿。

 それに、駆け寄ろうとしたところで、その傍らに、静かに座る人物がいるのを見て息を呑み立ちすくんだ。



 小風に揺れる淡い金の髪の後ろ姿。

 大きな背中と柔らかな雰囲気。

 静かに、何も言わずに腰かけて。

 膝の上に本を開いて。

 ただその片方の手が、ゆっくりと。ゆっくりと、姉の頭を撫でながら。

 エドワードに気が付いて振り返ったその優し気な目元をにわかに細め、そっと指先を口元に添えて、エドワードに静寂を促す。


 その傍に突っ伏して、泣き声の一つもあげず、身じろぐことの一つも無く。

 なされるがままに、ただじっと肩を震わせるエイネシアが、こちらに気が付く様子はない。

 ただ顔も上げず。取り繕いもせず。

 甘やかな慰めを享受する姿が、まるで幼子のようだった。


 その人は、気高くいつも朗らかなばかりの姉を、ただの震える子供のように慰めていて。

 決して姉が自分には見せない姿を、いともたやすく見せられ、傍に居ることを許されているのだ。


 姉をそうさせてしまうその人が。

 憎くて。

 堪らなく、悔しくて。




 けれどエドワードは一言として声をかけることもできず。

 ただただ佇むことしかできなかった。


 やがて何も言わずに本を閉じ、すっと席を立ったその人……“アレクシス殿下”が、姉の側を離れて近づいてきて、エドワードの肩に一つ手を添えて去ってゆくその瞬間まで。

 少しも動く事さえできなかった。




 エドワードが恐る恐ると姉に声をかけた時。

 彼女はもう、いつものようにその綺麗な顔を綻ばせていて、先ほどの様子が嘘のように穏やかに、「エドまで来てしまったの?」だなんて虚勢を張った。


 エドワードはこの日、姉が、いつもどれ程に己を偽り、完璧でいようと無理をしているのかを知り、そしてそれを見て見ぬふりするしかない自分の非力さを悔いた。

 この小さな手では。

 この大きな姉を、支える事さえ許されないのだ。





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