6-2 次の戦場(2)
「あぁ……あの恨めしそうなハディの無表情が頭から離れないッ」
唸り声を上げて頭を抱えたエイネシアに、憐みの目で、「あれは過去最大の難敵でしたね」と同情の声を漏らしたジェシカが、ポンポン、と背を撫でて宥めてくれた。
思わずガタンと馬車が跳ねたけれど、相も変わらず目の前で呑気にお茶を注いでいるシロン青年の手元には少しの狂いも起きず、「心が安らぎますよ」と、それを差し出してくれた。
とても香りのよい、主に西方で取れるハーブを主軸としたお茶だ。
上王陛下お手製の薔薇の砂糖漬けがソーサーに添えてあって、まるでここが馬車の中であることを忘れてしまいそうなほどの気遣いっぷりは、流石は宮廷侍従様だった。
「まるで小さな頃のエドワード様を見ているようでした」
とろとろと身を起こしてお茶を受け取るエイネシアの傍らで、そううっとりと昔を懐かしむジェシカの物言いには、エイネシアも肩をすくめてしまった。
「でもエドはもっと、物静かな物腰だった気がするわ。説明をするから聞いてと求めれば、きちんと耳を傾けてくれて……いえ、あの。まぁ、より策略的であったとも言えないでもないのだけれど」
だがシルヴェスト家のお坊ちゃまときたら、エイネシアが、いかに重要な役目を担っており、いかに大切なことなのかを丁寧に説明したところで、その一切を『ですからそんなの、うちの父にでもやらせたらいいじゃないですか』という直接的な言葉でばっさり切り捨てると、無垢というものを忘れた笑顔でエイネシアを引き止めようとしてきた。
なにやらアーデルハイド家とシルヴェスト家の、真っ黒な部分だけを引き受けて生まれてしまったような少年で、よもやこれほど骨を折ることになるだなんて、微塵も想像だにしていなかった。
結局のところ、ハドリックを説得できたのも、エイネシアの懇願を受けたリディアが、『ではこの母から一本とれたら、シアに着いていくのを許してあげますわ』と剣を持ち出してくれたおかげなのであって、正直、五歳児相手に容赦なく魔法をぶっ放すリディアには、どん引いた。
なんかもう……自分が生まれたのがシルヴェスト家ではなくアーデルハイド家であったことを、これほど感謝したことはない、というくらいの衝撃だった。
「エドワード様には、将来ハドリック様は難敵になりますよと、お知らせせねばなりませんね」
「あの子達が反目なんてしたら困るけれど、かといって仲良くなられても困るわ……ちっとも太刀打ちできる気がしないもの」
そうため息を吐くエイネシアには、ジェシカも遠慮なく、「確かに」と言って笑った。
とはいえ、そんな小さな弾丸たちのおかげで、少し気がまぎれたのは事実である。
ささやかな時間ではあったが、慰めにもなった。
「さぁ。でもそろそろ、気を取り直さないといけないわね」
コクリ、と、シロンの淹れてくれたお茶で喉を潤おしてから、エイネシアは改めて、窓の外を窺った。
シルヴェスト家が用意してくれた、黒塗りに銀の家紋の入った馬車は、相変わらず御者に扮したリカルドの風魔法によって、瞬く間に街道を突っ切ってゆく。
速さとしてはせいぜい自動車程度なので驚くほどのものではないのだが、明らかに今までより速度が上がっていた。これはエイネシアがハドリック少年に手間取っていた間、シルヴェスト家滞在のダグリア兵らと有意義な実践訓練を積んでいたせいであろう。
何やら少し恨めしい。
そんな馬車は、イースニック領の北側の関をくぐると、さらに速度を増して、領都を目指してばく進していた。
今エイネシアが為すべき事は、ここで少しでも父達の役にたてる情報をかき集めることである。そのためには、王都から遠いシルヴェスト領では都合が悪く、すぐにでも情報の巡りやすい穀倉地帯に拠点を移したいと思っていたのだ。
初めは、なじみの深いバーズレック領に再びお世話になろうかと考えていたのだが、ハドリックに足止めを喰らっている内にも、ついに王都ではイースニック伯の処断が決定し、領地没収と爵位没収、刑罰塔への収監といった採決が行われ、イースニック領が暫定的に王国直轄地に指定されたことを受け、エイネシアも、滞在先をイースニック領へと変更した。
処罰が決定してすぐ、イースニック領では、領地を占拠していた近衛と、何処からともなく湧いて出た“領民反乱軍”とが激突して、その支配権をめぐる争いが起きたというが、それはザラトリア騎士長が自ら討って出て鎮圧し、今やイースニック領は宰相府の管理下にあるという。
誰が領民を利用してイースニックからの宰相府と近衛の追い出しを画策したのかは言わずとも知れたことであるが、この主導権争いを宰相府側が制した事には、大きな意義があったと見て良い。
同時に、そこまでしてフレデリカ派がイースニックから国の干渉を遠ざけようとしたのには、重大な意味があったはずだ。
ゆえにエイネシアは、折よく宰相府から、イースニック領に入っても問題が無い程度に治安は回復した、との報告を受けたこともあり、こちらを拠点とすることにしたのだ。
今になって思えば、シルヴェスト家の面々によりエイネシアが引き止められ続けていたのも、なにやらイースニックの安定を待っていたのだと言われてもおかしくない気がする。
本当に、喰えない連中である。
「思ったより、荒廃している、という雰囲気ではありませんね」
ジッと物思いにふけりながら窓の外を見るエイネシアに、そう声をかけたのはジェシカであった。
それにチラリと視線を寄越したエイネシアも、改めて町の風景を目に留めながら、「この辺はね」と答える。
「荒廃が酷いのは、イースニック領でも南の方だと聞いているわ。北側は、農地の復興もある程度進んでいるとか……」
いや。そう聞いていたはずだが、ここ最近この目で見た北部の他の穀倉地帯に比べれば、まったく復興しているとは言い難い状況であった。
少なくともバーズレック領では、すでに麦の若芽が連なっていたはずだが、イースニック領のそれは、麦の若芽ではなく、ただの荒廃した農地に繁殖した雑草が大半で、あの整然と並んだ畝のラインなんかは到底見受けられなかった。
ただ所々、ポツポツと建った粗末な民家の周りに、か細い耕作地が有るばかり。
街道も、イースニック領に入ってからというものの、小石が多いのか、弾んだり揺れたりと落ち着かない。
日頃から人や馬車が通っていれば、踏み均されて、ある程度整地されるものであるが、そうではないということは、領内の交通は絶えて久しいのだろう。
果たしてこんな状況で、人々はどうやって生活をしているのだろうか。
それを知りたくても、道という道に、まともな人影を見ることさえなかった。
やがて馬車は、領内北側でも一番大きな町であるはずの集落に入ってゆく。
ここまでくれば流石に人はいたが、しかしごちゃごちゃと物が散らばり、道という道に痩せ細って座り込んだ飢えた人々がいるのを見ると、とてもじゃないが、町などと呼べる状況ではなかった。
何処からともなく湧いて出る腐臭。生きているのか死んでいるのかもわからない、虚ろな瞳の住人達。
他の土地では、まずシルヴェスト家の家紋を見れば、皆何かしらの反応を見せたが、この土地では誰一人としてそれに反応を見せることさえしなかった。
ただ物珍しい小綺麗な馬車に視線が寄せられることはあったが、その視線もすぐに逸らされて、何の期待もなく、通り過ぎてゆく。
むしろ避けているかのように大通りから人が消えてゆくのを見ると、住民達の、馬車……つまりは貴族に対する、恐怖のようなものが垣間見えるかのようであった。
一体、この長らく閉ざされ続けた八年間の間に、この領内では何が起こっていたのだろうか。
「町に入ったのは、失敗だったでしょうか」
思わずそう呟いたシロンの物言いも当然のことで、エイネシアもそれに頷きそうになったけれど、すぐに気を取り直して、「いいえ」と首を横に振った。
住民達を刺激するのでは、という意味での失敗と、エイネシアへの安全面としての失敗。そういう意味でシロンは口を開いたのだろうけれど、どちらにしても、エイネシアはこの状況を目にしたことに後悔をしてはならないと思った。
イースニックは、もはや解放されたのだ。
領主は受牢され、宰相府の直轄支配下に置かれた。
それなのに、避けて目を閉ざしていいはずがない。
「とにかく町の政庁に。すぐに領都に入る予定だったけれど……これは、そうもいかないわ。取りあえずここで、ある程度の領民の生活回復に助力しましょう」
イースニック伯の更迭により、伯爵家が抱えていた領政官も大半が解雇され、三割近い人員は、皆、不正に関与したとして近衛の取り調べを受けている。そんな状況ではまず、町の復興なんてできたものではないだろう。
領都には宰相府から自治回復のための官なども派遣されているが、何分宰相府も忙しい時期であるし、イースニックという重要な制圧地点を任せられるだけの信頼に足る人員となると、到底数が足りているとは思えない。
ここを拠点にすると決めた以上、エイネシアにとってもそれは他人事ではない。
まずは父に、ここで、イースニックの復興に口を挟むことのお許しをいただいて。
バーズレック領で既知を得た商家にも助言を貰って、物資を巡らせるための整備もせねばなるまい。
だがまずは、先立つものもないこの領の民達に、何か、生きる活力を与えねばなるまい。
仕事を与えることは大前提だが、それだけでは駄目だ。
もっと根本的に。精神的に、彼らを生き返らせるものが必要だ。
そう。何か……支配から解放されたのだという実感を、分からせる何か。
「マックス・サン・ジュロー伯爵からの解放を、民達はどうやって祝ったのだったかしら……」
思わずポツリと口を突いて出た言葉に、え? と、シロンとジェシカの視線が集まった。
「何の話ですか? お嬢様」
「ジュロー伯……というのは。お聞きしない名前ですが……」
いえ。でもどこかで聞いたような、と首を傾げたシロンに、エイネシアもすぐに自分の思考が口を吐いて出たことに気が付くと、ふと顔を上げた。
それから、ジュロー伯というのは……と説明をしようとして。
はっ、と、目を瞬かせる。
昔懐かしい……微睡むように温かな、大図書館での日々。
かつて初めて大図書館に赴いた日、最初にハインツリッヒから講義されたのが、そのジュロー伯爵の話だった。
いや。ただアレクシスの突拍子もない疑問に、余談として解説して下さっただけなのだったか。
マックスは死んだ。サカネイアで死んだ――。そう触れて回った住民の歓喜の声により、その伝達路となった街道は、マッサカナ街道という名で呼ばれるようになった、と。そんな話をしたのだと記憶している。
あの時は、国の介入を待たず、住民達が自ら立ち上がり、自ら領主の首を取った。
だから民達は、すぐにも希望を抱き、立ち直ることができたのだ。
だがここは違う。
飢えた領民達には立ち上がる気力も体力も無く、開放されたところで、未来に展望があるわけでもない。
そんな彼らを喚起させるものとは何なのか。
「そう……そうだわ」
かつてエイネシアも、似たような感情に晒されたことがある。
ヴィンセントとの擦れ違い。無様な失恋。自ら切り出した婚約の破棄。
そうやって何もかも失って打ちひしがれていたら、彼に……アレクシスに、言われたのだ。
『では明日からは別のシアの物語が始まるんだね』と。
だから今日は、沢山泣いて良い。物語の始まりは、笑顔でないといけないからと、一晩中、宥めてくれた。
そんな、何か。
一歩を踏み出すための切っ掛けが、必要なのだ。
過去を払拭する。過去を打ち壊す、何かが。
それは多分……今まさに目の前に見えてきた、その灰色の建物。
彼らを支配していたもの。
いわゆる、“政庁”なのではなかろうか。
「ヴィヴィ司祭に、便りを出しましょう」
「お嬢様?」
「鎮魂と。解放を祝う祭事と」
物資はないけれど、ようは気持ちの問題だ。
長らく廃墟となった教会は、最早彼らにとって救いの場所ではなくなってしまっていたけれど、そこに再び救いの手が現れたならば、少なくとも彼らにとってのよりどころとなるはずだ。
だからまずは、教会の復興を。
それから。
「祭りのメインイベントに……盛大に、あの政庁を、“ぶっ壊す”ことに致しましょう」
そうニコリと微笑んだエイネシアに。
え? は? えっ?! と。
何やら間の抜けた二人の声が飛び交って。
「え?」
声が聞こえていたのか。御者台であがったリカルドの驚きの声と共に、馬車はガタンッと大きく弾んで、そのぶっ壊す宣言がなされた建物の前へと、車輪を止めたのである。




