5-14 クリスヴェネト城の密談(2)
「でも大叔父様。そんなの、いらないお世話です」
「……何だと?」
「大叔父様には、エルヴィア様がどんなお気持ちで、宮中でお過ごしになって来たのか。そのショールを私に被かせながら、『私のようになっては駄目よ』と諭してくださったあのお方が、何を思ってそんなことを仰ったのか。そのショールに託された刺繍の意味を、理解することが出来ますか?」
とても、寂しい面差しをしておられた。
生きる目的も希望も無く、けれど死ぬことも無く、無為でありながらもただただ生きながらえ、ひと針、ひと針と、懐かしい故郷の糸を編みながら、一体どんな日々を送っていらしたのか。
「嫌々ながら政略の為に嫁いで。受け入れようとしようとしたけれどできなくて。夫が他の誰かと恋をし、子供が生まれても、無感情、無関心でしかいられなかった。そんなエルヴィア様を追い込んだのは、公爵家です」
ぐっとさらに公の眉間が深くなる。
「自分の想いとは裏腹に、公爵家は王家を問い詰め、エルヴィア様を叱責した。その叱責は、エルヴィア様と陛下の溝をさらに深めてしまった。そうして行き場を無くしたエルヴィア様は、すべてを諦め、ひっそりと一人生きることを選び、それでも最低限の責務を己に課し、自ら命を絶つことも無く、王宮を出ることも無くそこにいて、逃げ出しもしなかった。それが、かつて責務を投げ出した自分の代わりに犠牲となった、私への償いであるかのように。自分の代わりに、公爵家の矢面に立たされてしまった私への、罪滅ぼしであるかのように。だからエルヴィア様は、宮中を出ようとはなさらないのです」
「ッ」
「そして今も、シルヴェスト家が王国から離反せんという状況にあって、それでもエルヴィア様はたった一人、王宮で無言の訴えをしていらっしゃいます。『自分はここにいる』『王宮にいる』『役目を果たしている』と。それでもまだお兄君がご自分をお許しにならないのであれば……王国の下す処断を甘んじて受けることが、自分の受けるべき罪への償い方であると。それを受け入れる覚悟でいらっしゃいます」
一度深い深い後悔の色を瞳によぎらせたエルジットは、それでも手にしたショールをさらにきつく握りしめると、それを退けるかのようにエイネシアに突き出した。
「それでも、先に我々に喧嘩を売って来たのは王家だ」
そう。確かにその通りだ。
一度瞼を下ろしたエイネシアも、ゆっくりとそれに頷いて見せる。
エルヴィアのこともそう。エイネシアのことも。そして今、従順にならない北部を敵視し、戦仕度を整えているのは王家の方だ。
でもだからといって、反発してほしいんじゃない。憤ってほしいんじゃない。
エルヴィアも。そしてエイネシアも、そんなことは微塵も望んでいない。
「だからもし、姫がなお今の王国に加担し続けるというのであれば……」
「……公の目は、曇っておいでなのですか?」
じっと瞼をあげた視線に見つめられて、エルジットは一度、ドキリと口を噤む。
物静かで、揺蕩うような声色をしていながら、どこか妙に気迫を孕んでいるようで。
その奥深い紫の瞳が、何もかも見透かしているかのように視線を捕えて放さない。
そう。そうなのだ。
分かっている。
自分はただ、何か理由を探しているだけ。
王家を断罪する理由を。王家から離反する理由を探している。
エルヴィアを理由に。エイネシアを理由に。
他者を理由に、妹の人生を奪った王家に対し、復讐心を抱いているだけだ。
だが、この姫はそれを悉く打ち砕くほどに、強い意思を持ってここにいる。
きっと、この時のために色々な下準備と根回しをしてきたのだろう。
だがその一切が手元にないこの場所で、それでも少しもそれを疑わせることのない強い眼差しで、真っ直ぐと自分を見据えてくる。
その覚悟は、かつてバーズレック領でまみえた、未熟で覚束ない少女とは似て非なるものだった。
一体何が理由か知らないが、彼女は確かに、ヴィンセントとの未来は築けないと言いながらも、なぜか頑なにヴィンセントの立場を守ろうとしていた。
『“ヴィンセント”には、無理だ――』
容赦なく突きつけた言葉に、絶望の面差しをしていたはず。
『“もう一つの噂”も……あながち、ただの噂ではないか』
暗にほのめかした、もう一つの可能性……少なからず北部を気にかけた一人の王族を推戴する意思に、身をえぐられるような面立ちで、『あの人を巻き込まないでください』と訴えていた。
それが今やどうだ。
あのころの迷いはどこにもなく、北部のクーデターを阻止すべく暗躍するような王国派としての動きを見せていながら、だが王国に加担しているわけでもないという。
王国を裏切ることは許さず、でも王国にくみするわけでもない――つまり彼女は、第三の選択をすることにしたのだ。
それはつまり、彼女が愛するはずの、“今の王”と、“今の王太子”ではない。
彼女が今にも泣きそうな顔で、“巻き込まないで”と言ったはずの、三番目の選択を。
「驚いたな……あれほどまでに、頑なであったお前が……」
「我々は王国の臣であるべきであり、王家の意に反してはならない……その意思に、変わりはありません。だからこれは“罪”です。臣下としてあるまじき大罪であり、裏切りです」
「……」
けれどその王家が道を誤った時、一度でもそれにおもねったならば、王国はたちまちに腐敗するだろう。軽々しく反旗を翻したのであれば、それはまた臣としての有り方を問われるだろう。
エイネシアにも、その線引きがどこであるのかは、良く分からない。
あるいは今アーデルハイド家が中心となって起こそうとしているこの“王位争い”が、正しいのかどうかは分からない。
けれどそれでも、その堰を切ることを、エイネシア達は決めたのだ。
これ以上の混乱は許されないと。そう立ち上がってくれた心優しい、王位なんてちっとも望んでいなかったはずの王子様に、重荷を背負わせて。
王家を正すという傲慢な行いを、実行に移させた。
「大叔父様。私は確かに以前、国王陛下のご意思に逆らってはならないと頑なでいました。ヴィンセント様が王太子であり続けることに、こだわっていました。それが当然だと思っていました。でも私が頑なだったのは、大層な理由なんかじゃない。ただの、私の“個人的感情”のためです」
そしてそれは、ヴィンセントに対する感情ではない。
「私がヴィンセント様に加担する? ご冗談を。もしもそうであったなら、こんなにも苦しい思いを抱かずに済みました。優しいあの方に、彼が捨てたがっていた名前を名乗ることを求めたりだなんて、しませんでした」
「……姫」
「イースニック伯の弾劾は、一人の孤独な王子が、兄と慕い続けた御方を裏切ることを覚悟した、辛い決断なんです。私の為に。そして、北部の為に。王国の為に。すべての民の為に。最も愛おしい人を裏切り、自ら反逆の汚名を着ることを、選んで下さった。彼はきっと、本当は失敗して、罰されることを望んでいるんです」
聞いたことはないけれど、何となく分かる気がした。
もしも失敗して、『何故こんなことをしたんだ』と嘆く兄に処断されたとして。多分アレクシスは、ちっとも悔いることなく、甘んじてその罰を受け入れるのだと思う。
反逆の意思は固く。だがその一方で、誰かにその罪を罰してもらいたがっている。
その気持ちは、痛いほどに分かる。
そしてそんな彼の葛藤が分からない程、エルジット公も愚かではないはずだ。
どうしてかつて、エイネシアがそれを頑なに厭うたのかも。
「けれどそれでも汚名を背負うことを、私に約束してくださいました。今ここにはありませんが……その盟約に。エーデルワイスの印章の押されたその名前が刻まれた書類を、私に託してくださいました」
ブラットワイス大公という地位にある彼が、それでもなお、“アレクシス・ルチル・エーデルワイス”というかつて捨てた名前を記した書類。その名において、必ずやこの北部を富ませてみせることを約束した覚悟の証。それが今この場所に無いことがとてももどかしく、けれどエイネシアの言葉に嘘偽りがないことは、充分にエルジットにも伝わった。
すでに王都では、新たな情勢が築かれつつあるのだ。
「私は、覚悟を持って、以前大叔父様が仰られた問いに答えるべく、ここに来たんです」
じっと押し黙って話を聞いているエルジットが、何の反応もしないのが怖い。
以前とは打って変わった主張をする自分の言葉を、きちんと受け止めてくれているのかが不安でならない。
でもそれでも、これが今のエイネシアの本心であり、真実だ。
かつてエイネシアに、血縁的紐帯のみを求めたエルジットが果たして本気であったのかどうかなんてわからない。
だが、『君が何を選ぶのかを待とう』と時間的猶予をくれたエルジットに、今まさに、その“選んだもの”を伝えにやって来たのだ。
エイネシアの選んだ……アーデルハイドの選んだ、一つの未来への選択と。
それから、エルジットを納得させるための条件を取りそろえて。
「“今の”王国に留まれとは、もう言いません」
「……ではお前の言う、“今ではない”王国とはなんだ」
「この北部を、王国の一部として心から愛し、助けたいと願い。そして北部が望む“血縁的紐帯”を可能にする、“新たな王”の元に統治された王国です。そんな来たるべき王国に、留まってほしいんです」
ピク、とわずかに反応を見せたエルジットは、それからしばらくジッとエイネシアを見やると、僅かに訝しむように声を唸らせる。
「政略結婚に、未来はないのではなかったのか?」
「ええ。今もそう思っておりますよ」
やがて口を開いたエルジットに、エイネシアもつい口元を緩めて切な気な声色を溢した。
自分と彼のことを、そんな心無いものと一緒にしないでほしかった。
北部を納得させるための嘘偽りの関係だなんて思われたくない。四公爵家の後ろ盾のせいで、彼が王位につくのだと思われるのも心外だった。
でも今はもう、それを悲観したり、それに悩んだりなんてしない。その関係が、誰にどう思われようとも、関係ない。歴史書になんと書かれようが、気にしたりしない。
気持ちが通じていることは、自分達だけが知っていればいいだけの話だ。
「少なくとも、殿下は私を大切にして下さいますよ。王家を、そして王国を想い、公爵家の支柱としての意味も、よく理解して下さっていますよ。それに、何の不満がおありですか?」
ウィルフレッド王は、シルヴェスト家を蔑ろにした。それに端を発して王家と仲違いするシルヴェスト家にとって、決してそうではない王を厭う理由が、どこにあるのだろうか。
いいや。そんなのはただの詭弁で、もはやただただエルジットは、王家というものに嫌気がさし、その存在から遠ざかってしまいたいだけなのだ。
だが一度はエイネシアに対し、『必要なのは血縁的紐帯だ』と断言した以上、実際にそれを引っ提げてこられては、反論の一つもできやしない。
「馬鹿馬鹿しい。それが再び反故にされる可能性とて、ないわけではあるまい」
かろうじてそう反論したエルジットだったけれど、それについては、エイネシアもちっとも動じることなく、「それはありません」と断言した。
「何を根拠に」
「これが、政略結婚ではないからです」
多分、一国の運命をも左右する対談の最中に口にするには、不釣り合いにして甘っちょろい申し分だったと思う。
現にエイネシアの物言いには、エルジットが実に遺憾といった様子で眉を顰めたけれど、しかしエイネシアにはそれにさえ、苦笑で答えるしかなかった。
他に根拠なんてない。それはただ、エイネシアと。それからアレクシスというその人との、個人と個人の感情によってのみ、確約されているのだ。
国王陛下が認めるはずがないから、本来ならば紋章省に届けられねばならないはずの、正式な婚約さえも交わしていない。許嫁でさえない。
でもそれでも、そんな書類上の関係なんかよりも、はるかにしっかりと繋ぎ止められた感情が有る。
絶対に反故にされることなどない。それを、自信を持って口にすることができる。
「馬鹿なことを……」
「ええ。ですがその馬鹿馬鹿しい、“感情”なんていう不安定なものが、フレデリカ妃の傲慢を許し、私にヴィンセント様を見限らせ、王弟殿下に王位を奪う覚悟をさせたんです。それは本当に、馬鹿馬鹿しいものでしょうか?」
「……」
あぁ。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいとも、と繰り返しながらも、エルジットの手は、その青いショールをきつく握りしめた。
その昔……妹が、一人の少年に恋をしていたことを、知っていた。
涙ながらに、嫁ぐのが嫌だと声を張り上げる妹を叱責し、王家の籍へと入れたのは自分だ。
それが正しいと、信じて疑わなかった。
そして妹は、惨めで憐れな名ばかりの王妃となり、その人生を無駄にした。
なのにこの子は自分の意思で、王太子との婚約を破棄して。
それで今度は、自分の意思で、愛しいと思う人を選ぶというのだろうか。
そんな彼女に、一体あの子は……エルヴィアは、どんなつもりで、こんなショールを託したのだろうか。
「公。私はここに、エルヴィア様に託された、慰めと希望を、貴方に届けるために、これを持ってきました」
「……何だと?」
「エルヴィア様は、今も公を想い、信じていらっしゃいます。シルヴェスト家がご自分を見捨てないことを信じて。それを思い出してほしいと願っていらっしゃいます。どうか自暴自棄な決断をせず、思いとどまってほしいと。その信じる心が、公への“慰め”」
助けを求めなかったのは、兄を恨んでいたからではない。
兄の望んだ責務を果たせず、それでも少しでも良くやった、と言ってもらうために、辛い時間を一人耐え忍んできた。
そして今もなお、恨んでなんていない。
必ず兄が自分を助けてくれると信じているという、その信頼こそが、エルジットにとっての慰めでもあった。
「そして、北部を想い、私を想って下さる王弟殿下と、その殿下を思う私の心が、エルヴィア様が私に賭けた“希望”です。エルヴィア様は、私にそれを、届けさせようとしたのです」
「……馬鹿馬鹿しい。そんな、馬鹿馬鹿しい……」
「ええ。ですが世の中というのは、何も高尚な駆け引きや法的に確約された物ばかりによって成り立つものでは、ないものですよ」
実際にその両方の名のもとに結ばれたはずのエイネシアとヴィンセントの婚約は、呆気なく白紙となり、世の中に混乱をもたらした。
大切なのは、体裁と書面による確約ではない。その心に深く刻まれた、意思の強さの方だ。
それはエルジットにとって、かつての過ちを大いに知らしめるものであり、だが暗に小娘にそれを窘められてなお、憤りのようなものは微塵も沸いて出なかった。
憤りたいのに。反論したいのに。なぜか荒ぶる言葉が思いつかない。
ただじっと自分を見つめる静やかな紫の瞳が、まるでもう長いこと手紙すらかわしていない妹のその姿のようで。
なのに彼女があまりにも穏やかで、微睡むように心を凪がせているせいだ。
あぁ。そうか。
妹は。エルヴィアは、王国への復讐だなんて微塵も望んでいないのだ。
苦汁を飲んでなお、それでも王国を愛して。そしてこのエイネシアの“意思”に、王国の未来が明るいことを見て、託したのだ。
そのあまりにも甘っちょろくて。
馬鹿馬鹿しいような。
でもとても温かみのある、エイネシアと。
そのエイネシアを想う、一人の男に。
彼女たちが作り出だすであろう、優しい未来に。
“慰め”と。“希望”を思って――。
それは……自分にもまた、“慰め”をもたらしてくれるのであろうか?
長年、この心にくすぶり続けた怒りを、宥めてくれるのであろうか?
「……エイネシア。それで。君が私に求めるものとは、何だ」
ゆっくりと、低く囁かれたその言葉に、エイネシアは心臓を弾ませた。
今すぐにでも、緊張に強張っていた涙腺が緩みそうになってしまう。
でもそれを必死に奥歯を噛み締めて堪えると、ぎゅっと自分の手を握りしめる。
「王国は今、二つに割れ、大きな政局の混乱を迎えています。かつては権門貴族の独政に異を唱え、実力主義で才ある者を政治に登用することを訴えた理性ある集団であった反権門派は、自らが権門に成り代わるべく欲に取りつかれ、より高い位。高い身分を求め、政治を乱し続けている。そして今や彼らは、“武力”によって、新たな土地と爵位を奪おうとしている。彼らには、その準備もあります」
「フレデリカ派は、すでに軍を蓄えていると?」
「シンドリー領の信頼のおける筋からもたらされた告発によるものです。間違いはないでしょう。ですから正直、少し前まで、今北部が離反したところで、このフレデリカ派の出してくるであろう軍に、北部は太刀打ちする術など微塵もないであろうと、説得するつもりでいました」
「今は?」
「ダグリア公がどう動くかという再検討を加える必要性を感じていますね」
そう肩をすくめたところで、「リディアが何かほのめかしたな」と、エルジットがにわかに笑い声を溢した。
「けれどもしダグリア公がシルヴェスト家に加担したとして、追い詰められるのはダグリア公も同じ。果たしてダグリアがどれほどまでシルヴェストを擁護してくれるかといえば」
「分かっている。大した助力は得られぬだろう」
現実問題として、そうなのだ。
四公爵家が一度に離反するとなれば別だが、シルヴェスト家が離反すれば、まず間違いなく、王都にいるジルフォードは窮地に追い込まれる。下手をすれば、アーデルハイドはそのまま断絶しかねない。
それを、四公爵家の結束を誰よりも重んじるラングフォードが許すはずがないし、そんなバラバラな公爵家の足並みに、ダグリアが容易くその原因となったシルヴェスト家を擁護するとは思わない。
彼らは誰よりも冷静で合理的な思考の持ち主なのだ。
「ゆえに私は北部のすべての貴族に、“堪えよ、留まれ”と願いに来ました。北部に反乱を起こされ、フレデリカ派の出兵を許し、ましてや武勲など挙げられてしまっては、取り返しがつかなくなります。そうなれば最早“我々”に、勝ち目はない」
「構わず挙兵してフレデリカ派と事を構えるのか。それとも、お前の言う“我々”とやらを信じて留まるか。その選択を迫りに来たというわけか。そしてその“我々”とやらを選べば、私は妹を失わずに済み、そして再び王家とシルヴェストとの間に、今度こそ間違いのない血縁的紐帯を築くことができる……と」
「仰る通りです」
そしてそれがうまくいったなら、今の王と王太子は間違いなく廃される。
それは北部の貴族達が求めている、最たるものでもある。
「だがもはや議会はフレデリカ派が抑えているぞ。そんな中で、武力を用いずにどうやって奴らを排斥するつもりだ」
エルジットの懸念はもっともで、エイネシアもそれに一つ頷いた。
正直、エイネシアも父がどんな手を打つつもりでいるのかまでは分からない。だが少なからず、フレデリカ派への対抗手段となり得るものが、今なお王宮内に存在していることを知っている。
「イースニック伯の弾劾による資金源の根絶。そしてフレデリカ妃自体を抑え込むこともまた、法的には難しくはないと、父は見越しているようです」
「ほぅ? 今まで散々、好き勝手してきた女だぞ?」
「しかしそれでも、フレデリカ妃は側妃でしかない。エルヴィア王妃が今なおその地位を保ってくださっているゆえに、もしもエルヴィア様がその権力を用いて下さったなら、王の代理を称して議会を取り仕切っているフレデリカ妃を議会から追い出すことは、法的に“可能”なんです」
「……あぁ……」
正妃ではないフレデリカは、どんなにまわりを取り繕い、国王代理だなんて地位を称そうとも、その言葉に後ろ盾を持たない。くしくも、エルヴィアが王妃の地位を捨てないからこそ、フレデリカはその力を行使することができず、今も非公認でしか権力を得ることができないのだ。
確かに評議会は、フレデリカの手中に落ちた。だが今なお中央ですべての政治がフレデリカの手に落ちていないのは、フレデリカが本来政治を担いうる立場ではないからであり、そして宰相ジルフォードから、その地位を奪うだけの大義名分を、つかめずにいるからだ。
戦ではない。政治的な駆け引きであれば、父が彼らに負けるはずがない。
そしてジルフォードのためであれば……表舞台を厭うてきたエルヴィアが、王妃としてその役目を引き受けるであろうことを、エルジットは知っている――。
「だが我ら北部が何もせずとも、不当な理由をつけて攻め込まれる可能性だってあるぞ」
いいや。むしろその可能性の方が高いのではないか? というエルジットには、エイネシアもぎゅっと口を引き結んだ。
その通りだ。最も懸念されるのがその事であり、実際にフレデリカ派が軍を蓄えている以上、いかに王都で彼らを追い詰めたところで、それに逆上していわれのない実力行使に出る可能性は十分にある。
それを果たして本当に防ぎうるのか。その確約は、誰にもできない。
「それでも、弓を引いたら負けなんです。だから、このすべての北部の貴族からの確約を下さい! フレデリカ派に付け込む隙を与えぬよう、各々の領地内の反乱の目を抑える確約を。沈黙の確約が欲しいんです。永遠になんて言いません。もし我々に勝ち目が無いと悟ったならば、いつでも切り捨てて下さって構いません。ただ今しばらく。もう少しだけ、私達に時間をいただきたいのです!」
ずっとだなんて厚かましいことは言わない。
現実問題として、王国が北部に不当な関税をかけ、離反を加速させるような扱いをしていることに間違いはなく、それが続けば、たちまち北部は困窮し破滅することになるだろう。
だがもう少しだけ、時間と、チャンスが欲しい。
北部が王国の一部であり続け、それでなお、今のこの不満を宥めるチャンスを。
かつて北部で、熱心に彼らを説得しまわっていた一人の王子様の名のもとに、今少しだけ、彼を信じて。
時間が、欲しい。
「お願いします。もしそれでも不当にこの北部が踏み荒らされたならばその時は、今ここで、必ず北部を救うと確約する私を、裏切り者として罰して下さい! そのために、私は自らここまで足を運んだんです。私の名のもとに。必ず、この北部に平穏と豊かさをもたらすことを約束いたします。だからそれまでっ……」
「いつまでもは待てないぞ」
鋭いエルジットの声色に、はっとしてエイネシアも口を噤む。
とても静かな、紫の眼差し。
だがそこには、初めに見たような鋭い敵意はない。
ただその代わり、エイネシアを試すかのような、一人の王の如き権幕があった。
そのどこまでも冷ややかな“政治家”としての顔が、エイネシアに思わず息をのませる。
今自分は、試されているのだ。
その返答次第に寄って、彼の信頼と協力を得られもすれば、失いもする。
これがきっと……最後の、チャンス。
「長くは……待っては、貰えませんよね」
「エイネシア。私は我が姪孫の願いを聞き、すでにふた月待った。そのふた月の間に、確かに君は、以前とは全く違った道を選び、私を説得できるだけの材料を揃えてきた。私にも、価値ある未来を提示してくれた。だが一体我々は、あとどれだけ待てばいい。この王国の不当な扱いを、あとどれだけ、堪えればいい」
本当ならば、フレデリカ派を追い詰めるのには、周到な準備と根回しと、強固な地盤の形成と。着実に時間をかけた対処をしてゆくべきなのだ。
だがきっと、五年や三年。あるいは一年と口にしたって、この人が納得してくれるとは思えなかった。
そうだ。あと一体、どれだけ。どれだけこの困窮した状態に耐え、凌げばいいのか。
本当に豊かさが訪れるとして、それは一体、何年先の話なのか。
それは、北部のすべての貴族達が耐え、民達を諌められるだけの猶予であるのか。
それは長ければ長いほど、不安定なものとなる。
そんなのは……やはり、無理なのではないかという疑心暗鬼。待っている間にも、彼らが失敗をしたら、自分達はどうなるのかという不安。
いつフレデリカ派が襲ってくるともしれない恐怖と、あるいはエイネシアの説得に応じたことで、反フレデリカ派と見なされるのではないかという恐怖。
そうしたものに、一体いつまでおびえ続けねばならないのか。
恐怖による衝動は、そう長く耐えられたものではない。
それが分かっているから、エイネシアはギッ、と固く拳を握り締めて、必死に頭を巡らせる。
一年……は、待ってはもらえない。
半年。いや、次の夏が無事に迎えられる保証なんて、今のエイネシアには確約できない。
春には王国誕生祭がある。そこでよもやフレデリカが国王代理などと言って出席する可能性だって、ある。
そんなことになれば、もう北部はエイネシアを信用してはくれないだろう。
だったら、それより前。
「次の王国誕生祭では、必ずやご満足なお顔をさせて差し上げます」
自分で口にしながら、その言葉がにわかに震えた。
そんなことができる確約なんて何もない。
でも多分……それが、限界。
「この決着は。必ず、“春までに”」
そう改めてしかと口にしたエイネシアに、ゆっくりと顔をほころばせたシルヴェスト公は、手元のショールを広げると、ゆったりと、それをエイネシアへと差し出した。
手渡されたのは多分……“希望”の方。
「春か。ふっ。なるほど……」
それは覚悟の表れ。
こういわれてしまっては付け入る隙はないという、完全に予想を裏切った、完璧な“待ちうる時間”。
「いいだろう。春まで、待とう。そうだな……この雪深い国に、最初の春告げの花が咲くその日まで。その時まで、私は私の持ちうるすべてを、君に賭けよう」
「……ッ」
「それまで精々、あがいて見せるといい。それができないなら、その時はアーデルハイドも我々と共に道を同じくせよ、と、ジルに伝えておけ」
それはっ、と肩を跳ね上げたけれど、少しも口を挟ませてくれることも無くあっという間に席を立ったエルジットに、エイネシアも反射的にパッと席を立った。
見送りのための立座であるから、立ってしまったのに、これ以上反論するわけにもいかない。
そんなことお父様に伝えられるわけないのに。
「大叔父様……」
「北部の貴族達は、私が説得しよう。折よく、今宵はどこかの痴れ者が、この北部中の貴族を我が城に集めてくれたようだからな」
お前も仕度を整えてから来なさい、などと言って呆気なくマントを翻しながら扉を出て行ったエルジットに、「待っっ」と空気を食んだ言葉ならない声をあげながら、伸ばしかけた手が宙を泳いでしまった。
まったく。なんて爆弾を残して去っていくのか。
身勝手で横暴で。
何でこんなところまで、父にそっくりなんだ。
信じられない。
そうエイネシアがポカンとしていることなど知る由も無く。
やがて石造りの塔屋の、とりわけ通りの良い響きのその場所から、ハハハハハと高らかに笑うその人の声が耳に入るのを聞いて、ハァァ、と深いため息を吐いたエイネシアは、そのままソファーに座り込んだ。
手に嫌な汗をかいてしまった。グローブをはぎ取ってしまいたい。
一体この対談で、本当に大叔父が納得してくれたのか。何やら自信がない。
しかも……春までって。
何だそれ。
無理だ。
今すぐにでも、『そんなの無理に決まってるでしょ!』と叫び出したい。
いや。そう口にしたのは自分だけれど……。
でもこれはもう……成功じゃなくて、失敗なんじゃないのか。
そんな不安が、もやもやと胸の内をかき乱す。
だけど何となく。
訳も分からずに、ポツリ。ポツリ、と目から零れ落ちた熱い雫が、その青いショールを濡らして。
その様子に、深く顔を覆って項垂れた。
何とかなった――。
何とか、なったのだ。
与えられた時間は短い。
でも多分これで。
今この瞬間に。
王国と北部との戦争は、回避されたのだ――。




