5-12 北方大教会
無事にシルヴェスト領に入ることに成功したエイネシア達は、そのまま領境の町の小さな教会に一泊すると、翌日は早朝から出発した。
高低差のあるシルヴェスト領では、領境から領都まで、普通の馬車で二日はかかるが、早駆けの魔法を用いることで、留まることなく一気に領都まで到達した。
そんな領都の光景には、初めてシルヴェスト領を訪れたジェシカが、思わず窓に張り付いて感嘆の声をこぼした。
寒々しいほどの石畳に夕日が照り返し、同じ色に染まった白やグレーの石造りと塗り壁で統一されたアールヌーヴォー風の街並みがうっとりとするほどに美しい。
街中に引き込まれた大河は、まだ秋だというのに表面に氷が張っていて、せりあがって来るような寒気に、道行く人々は薄暗い色の毛皮のコートを着込んで、下を向いて歩く。
それでいながら薄暗い雰囲気を与えることはなく、大都市としての繁栄をうかがわせるのは、道にずらりと並んだ橙色の灯りの暖かさと、どこの貴族のお屋敷かと見まごうばかりの大商館の存在感のせいだろう。アーデルハイド領と違って縦にも大きな建物が多いから、その威圧感もあるかもしれない。
空気はキンキンに澄んでいて、空が高い。
正面の奥にそびえる雪の降り積もった真っ白な岩山がまた圧巻で、それを背景にそびえる蒼氷の居城……シルヴェスト公爵家の本城クリスヴェネト城の壮麗さと言ったらない。
この町は、もはや町そのものが芸術品。それこそアレクシスが言うところの、長い伝統と歴史があるからこそ生まれる町並みというやつを体現した場所である。
「想像していたよりもずっと繁栄した都市で、驚きました」
「現存する四公家の中でも、最も長い歴史を持つ都よ。旧王国時代からほとんど町並みも変わっていないという話で、アーデルハイド領も、この美しい町並みを取り入れて今の姿になったと言われているわ」
「そうなんですか?」
ただアーデルハイド領の領都が、どこかおっとりと優しげな雰囲気をしているのに対し、こちらは寒々と厳めしい雰囲気がある。
アーデルハイド領よりさらに雪深い領であるから、窓も小さく、美しい街並みもどうしても閉鎖的な雰囲気が漂う。降り積もる雪を凌ぐための、高い基礎や、狭い階段から建物に入って行くような小さな間口も、その一因だろう。
だがこのモノトーンな町並みも、一歩建物の中に入ると、派手派手しいほどに色鮮やかな織物や絨毯が敷きつめられた室内になるというギャップを孕んでおり、道行く人達の重苦しい色のコートも、ひとたび脱げば鮮やかな色のドレスやスカーフが覗く。
内の情熱を重々しい色で閉じ込めた場所。それが、このシルヴェストという土地、そして人なのだ。
そんな町並みを堪能しながら、やがて馬車は開けた広場に入ってゆき、正面の大きな教会の脇へと停まった。
おそらく千年以上もの歴史を積み重ねているのであろう、時間と共に黒ずんだ細かい目の石積みの壁と、雪国らしい、急勾配のとがった三角屋根。背の高い柱と、大きなバラ窓、ずらりと並んだ高窓と、数多に突き出したピナクル。
ゴシック調の瀟洒で繊細な装飾の数々は、彩がなくとも圧倒されるほどに荘厳で、質素を旨とする教会にしては、かなり目立つ建築だった。
それもこれも、この北方大教会が、古くはシルヴェスト家の『下の居城』といわれる離宮だったからだと聞いている。
エイネシアも小さな頃、初めてこのシルヴェスト領を訪れた時に、礼拝に訪れたことがある。
とはいえ……この北部最大の教会本拠地に、不法入領した自分が滞在するのはどうなんだろうか。
「あの……ヴィヴィ司祭? まさか、大教会に滞在するつもりですか?」
そう懸念したエイネシアに、「ここが一番目くらましに最適ですから」などと言ったヴィヴィは、平然と馬車を降りて、その脇の門を指差した。
「シルヴェスト公のご血縁の姫君をお招きするには相応しくない、通用門からにはなりますが」
「恐れ多いの間違いではありませんか?」
そう肩を竦めつつ、仕方なく馬車を降りたエイネシアも、きょろきょろするジェシカを促しながら、その通用門を潜った。
一歩中に踏み込めば、またジェシカが目を瞬かせて、そのアーチを描く高い天井を見上げて息を吐く。
外の雰囲気とは裏腹に、内側も寒々しい石造りながらも沢山の分厚い織物が掛けられており、天井のドームにも鮮やかな金の装飾や青を基調とした絵が描かれている。
通用口から入った先は教会側の人間が用いる私的な空間なので、大聖堂よりははるかに質素な装飾になっているはずだが、それでも思わず目を瞬かせてしまうのも無理はなかった。
そんな、まるでギャラリーのような通路を一つ突っ切った先で、待ち構えていた一人の修道女が、恭しく頭を下げて彼らを出迎える。
「お待ちしておりました、ヴィヴィ司祭。教区長がお待ちです」
「やぁ、イルダ。出迎えを有難う。すぐにご挨拶に伺います。それから」
チラ、と後ろを振り返るヴィヴィに、彼女はもう一度恭しく頭を下げると、「お話は伺っております」と言った。
「姫様。彼女はイルダ。我々に協力してくれているシスターの一人です」
「協力……まさか、北方大教会の中にまで……」
そう眉尻を下げたエイネシアには、くすり、と、僅かにそのイルダが口元を緩めて笑ってみせた。
「ご協力しているつもりはありません。私はただ修道女として、ご身分を隠して参拝にいらっしゃった、何故か修道服をお纏いの姫君が、心置きなく滞在するためのお手伝いをさせていただいているだけでございます」
「なるほど。良く分かりました。そのご配慮に感謝いたします、シスターイルダ」
そう頷いてみせたエイネシアに、「姫様方は私がご案内を」という彼女の言葉に、ヴィヴィも一度頷いて、「それではまた後ほど」と、一度別れた。
聖堂の方に向かうヴィヴィとは裏腹に、イルダに連れられたエイネシア達は、普段は使われることがないという奥の一角に案内された。
北方を統括する大教会とあって、遠方からの参拝も多いこの教会では、数日がかりの祈願をする参拝者のための宿泊施設も併設しており、その一画に連れて行かれたかと思うと、脇の塔屋の狭い扉を開いたイルダは、その螺旋階段を上ってゆく。
「ここから先は、普段は用いられることはない部屋となります。この塔屋は、古くこの教会がまだシルヴェスト“王家”の下の離宮であった頃、この上の部屋に通じる“隠し通路”として用いられていました」
古い城の、城主一家の部屋にはこうした隠し通路、もとい、有事の際の逃げ道が用意されているのが一般的で、歴史の長いアーデルハイドの本城、フロイス・フィオーレハイド城にも、この手の隠し通路や隠し扉は数多に存在している。
このような狭い螺旋階段なんかも見慣れたもので、延々と上りながらも、少し懐かしい感じがした。
教会とはいえ、やはり元はお城だったのだという感じが、ありありと残っている。
「本来の正式なルートは後の増改築で階段が無くなってしまっていまして。この狭い階段からしか上がれないのがいささか不自由をおかけしますが、しかし今回のご滞在には“危険”が伴うかもしれないとのこと。忍んで滞在なさるにはちょうど良いのではと、教区長様が……」
「え?」
すいすいと上ってゆくイルダの後姿に、思わずエイネシアは声を溢す。
その声に、思わず口を引き結んで振り返ったイルダと目があった。その静やかな視線に、エイネシアは困った顔で苦笑を溢す。
「……まさか。教区長様も、“グル”なのですか?」
そう言うと、イルダも僅かに目じりを垂らし、「これは失言をしてしまいました」と、再び前を向き直って、歩を進め始めた。
うっかりと、言ってはならないことを口走ってしまったようだ。
だがまさか、この北方教区を預かる大教会の主まで協力してくださっているとは、恐れ入った。道理で、呆気なくエイネシア達が迎え入れられたわけだ。
やがて上り詰めた先の木の扉をギシリと開いたイルダに続いて、北方風の柔らかな絨毯が敷き詰められた部屋に足を踏み入れる。
おそらくはこの裏道を通って主の部屋に出入りをした使用人の控えの間になっていたのであろう。シンプルな作りをした部屋で、装飾なども最小限に抑えられていた。簡易なベッドや多少の水周りの仕度ができる様子など、控えの間としての機能も残っている。
イルダはさらにその奥の扉の前に立つと、「ここは少しコツがいるんです」と、壁に埋め込まれた複雑な木片のパズルみたいなものを動かしてから、取っ手を掴み、奥ではなく上に引き上げた。そうすると、その大きくない扉は呆気なく、ガコン、と下の桟から浮き上がり、そのまま押し出すと扉が開く。
そうして中へと促されて立ち入った部屋は、なるほど、“城主”の部屋だった。いや、装い的には、夫人の部屋になるのだろうか。
今のシルヴェスト家の居城と良く似た、華美な装飾の施された柱と一面の絵画に埋め尽くされた天井。分厚いベルベッドのかかった大きな寝台に、背の低いテーブルと背の低いふっかふかのソファー。
床には幾つもの織物の絨毯が敷き詰められて、壁にかかったタペストリーも、ごてごてとした燭台も、どれも北方の伝統的なものだった。
「こんな部屋が、教会の上にあっただなんて」
「新王国時代になってからも、参籠されるシルヴェスト家のご夫人や姫様方が用いていた記録が多く残っております。今の王妃陛下が、まだこちらのご領地で姫様とお呼ばれてしていた頃にご滞在していたこともおありです。それから長いこと使われていませんでしたので、少々手の行き届いていないところなどもありますが」
「いいえ、充分です。お気遣い、感謝いたします」
それにニコリと口元を緩めて答えたイルダは、「お供の皆様には、この向かいにもいくつかお部屋がありますので」と、正面の扉の外へと誘った。
本来、最も煌びやかな廊下であったはずの場所は、正面の壁が質素な色に塗り固められ、おそらく廊下の幅も小さく改装されていたが、確かに、正面に幾つかの扉が並んでいた。
その内の一つを開いてみると、他の参籠客のためのものと同様の、しかし少し大きめの部屋があった。
ベッドと、聖典関係の本の納まる本棚に、小さな祭壇。それから部屋の中で多少の水回りの準備ができる空間も備えた、充分なものだ。
「こちらの部屋に上がる階段は先ほども申しました通り、塔屋の部分のみで、塔屋の出入り口のある廊下も、日頃はほとんど人通りのない廊下です。建物自体も参拝客の宿泊棟になっていますから、気にせず出入りしていただけます」
要するに、修道女の装いを解いても問題ない、ということだ。
「この棟の食堂も一般に開放されていますから、ご利用いただけますが……」
とはいえ、公爵家の姫を庶民と同じテーブルで食事させるわけにはいかないし、ましてや、エイネシアは一般にまぎれるには少々目立ちすぎる。あまり人目につかずに滞在してもらいたいというのが本音でもある。
そんな様子を見て取って、「それはご心配には及びません」と、ジェシカが進み出た。
「これだけの水回りが整っていれば、充分に自前で用意できます」
そう答えたところで、イルダもほっとした顔をした。
その他幾つかの設備の説明などを受けながら、元の部屋に戻ったところで、コンコンと、“絵画”にカモフラージュされた扉からノック音があり、イルダがその絵の縁に手をかけて、「こちらから開くときは、このように」と、隠しノブを横に倒して扉を開いた。
扉の先にはヴィヴィがいて、「これはすごい仕掛けですね」と、早速そんなことを言った。
「アーデルハイド領にあった西方大教会にも色々な仕掛けや歴史が残っていましたが、ここまで大がかりな物はありませんでしたよ。こちらが元離宮だったというのは本当なのですね」
エイネシアに室内に招かれたヴィヴィは、そう、教会内とは思えない設えの部屋を思わず見渡した。
すぐにも、「それでは私はこれで。ご用の際は、いつでもお呼び出し下さい」というイルダが再び塔屋の方へ去るのを、お礼の言葉とともに見送ってから、改めて、エイネシアに宛がわれた部屋の奥の続き間に設えられた、応接間のようになった部屋へと踏み入れた。
出入りする際に姫君の寝室を経由しなければならないことがいささか不自由ではあったが、集まって秘密の会談をするにはおあつらえ向きの場所だ。
「まずはヴィヴィ司祭。貴方ときたら……この北方の教区長様までまきこんでいらしたんですって?」
早速そう切り出したエイネシアには、ヴィヴィも肩をすくめて見せた。
「実はこの北方の教区長は、私が教会に入った時に指導官をして下さった方でして。思い切ってご相談したところ、ご理解いただけました。あくまで、黙認という形でのご協力ですが」
「それでも十分なほどのご配慮です。ここなら、滞在がばれる気も致しません」
「とはいえ、姫様のその瞳の色はこの領では大変に目立ちます。くれぐれもお気を付けください」
「それは承知しています」
そうしかと頷いたエイネシアは、それで、と、早速、馬車の中でずっと立案していた紙面を机に広げた。
「まずはマルユランタ商会との繋ぎを取るところからね。昨日届いた手紙では、今日の内にも必ず商談を成立させて見せるとの頼もしい報告を頂いたわ。催しが決まった後、各方面に送っていただくことになる招待状のリストをお願いしているから……そうね。ジェシカ。この後すぐに、物を見に来た町娘の風を装って、商会までお使いをお願い」
「畏まりました」
しかと頷いて見せるジェシカの存在は頼もしい。
幸いにして、彼女ならこの北部でも顔を知っている人はいないし、北部と良好な関係の西部系の面差しをしているので、さほど怪しまれずに身動きできるだろう。
「とはいえ……少なくとも一度は商会長と綿密な打ち合わせをする必要があるわね」
そうエイネシアが呟いたところで、「それなら」と口を開いたのはヴィヴィだった。
「マルユランタの商会長は、教会への多額の喜捨を行なっていらっしゃる人物としても有名です。教会へ参拝なさるのに不自然はありませんし、内部にさえ入っていただければ、あとは私がこちらに誘導できます。度々となれば不審でしょうが、一度くらいならば怪しまれずに出入りできるはずです」
そう言うヴィヴィに頷くと、「では、準備が整い次第、こちらで」、との伝言を任せた。
「今宵招待状が出されたとして、各地の領主のもとに届いた明日以降。催しが開かれるまでの間は、リカルド。警戒をお願いするわ。でも、警戒しすぎないくらいに」
そう付け足したエイネシアには、「気を付けます」と、リカルドも肩をすくめておいた。
気負いすぎて教会にいるのがばれては、元も子もない。
だがいつどこで知られるとも限らないから、相応の警戒もしといてもらわなければならない。
少なくとも、教会を巻き込むような事態だけは避けたい。
「あとは……そうね。お父様からは、一度で何とかしろとのご命令だから。私はこちらで、大人しく策を練ることにするわね」
そうため息を吐いて見せたエイネシアには、その伝言を伝えたヴィヴィも頬をかいて見せた。
アーデルハイド公に引き合わせられたのは、この姫様が北方に旅立った後すぐの事だったが、正直、想像していたよりはるかに手厳しい人だった。
色合いはこちらの姫様にそっくりだが、面差しはちっとも違う。それでいながら、なんとなく似た雰囲気を感じたのは……間違いではなかったはずだ。
十代の乙女にこんな大役を担わせるだなんて、どうかしている、なんて思ったのも一瞬のことで、『うちの娘は、ただの小娘ではない』と言った公の言葉にも、もはや疑いの余地なんてない。
目の前で書類を睨みながら鋭い眼差しをなさっているその様子は、とても十代の少女の面差しとは言えなかった。
「必ず……成功させて見せましょう」
どこともなしに、思わずそう呟いたヴィヴィに、ふと皆の視線が集まって、誰からともなく、揃って口を引き結び、深く頷いた。
今ここに集まった僅かな人。そして未だ年若い一人の少女。
その差配一つによって、この北部は戦乱か、はたまた和平かと、大きくその未来を左右することになる。
そんな少女に。
教会も、大博奕をすることにしたのだから。




