5-7 晩餐会(2)
開いた扉から入ってきた人物の姿に、途端にざわざわとざわめいた貴族達が、主催者を出迎えるためというよりは“驚き”に従って、ガタンッ、と椅子を立った。
しとりしとりと踏みだされた足と、そのプラチナの髪と。
更にはその後ろからついて入ってきた“近衛の騎士”に、次第に客人たちの顔に、『そんな、まさか』という確信が広がってゆく。
近衛が付き従うプラチナの髪の姫だなんて、それこそ一人しかいない。
会ったことが無くても、噂くらいは知っている。
あるいは皆どこかしらで……例えば王国誕生祭や。あるいは国王陛下の戴冠の式典で、その少女を見ている。
当時はまだヴィンセントの許嫁という立場の幼い少女だったけれど、それでも誰も見間違えたりはしなかった。
「アーデルハイド……公爵令嬢……」
どこかで誰かがポツリと呟いたのを機に、中途半端に腰を浮かせていた貴族達が、慌てて椅子を離れて脇にそれ、恭しく礼を尽くして行った。
その様子に、別のテーブルに付いていた商人達もまた、状況を察したようにそれに倣って行く。
商人は勿論だが、ここに集まる穀倉地帯の貴族のおよそ六割強は子爵家や男爵家であり、残りの三割弱が伯爵家。侯爵は、ただ三人だけだ。
正式な晩餐会では、招きを受けた時点で貴賓の差無く同じ席に着くことが許されるが、だがそれでも王公だけは別格であり、天地がひっくり返ろうとも、下級貴族が“同じテーブル”に着くことはない。
王族の催す晩餐会であっても、王族と彼らはテーブルは別であるのが普通なのだ。
なのでバーズレック伯が、最も上座の主客の座にエイネシアをエスコートしてくると、途端に、本当にそんなことがあっていいのかとの戸惑いを見せた。
「皆様どうぞ、お顔をお上げになって」
まずはそう促したエイネシアに、皆が戸惑いを顕わに顔を上げてゆく。
エイネシアの目の前の席に当たる侯爵方は、流石にエイネシアとも面識があったものだから、いち早く気を取り直して顔を上げた。この状況の意味を察したのであろう。
エイネシアもその様子に顔をほころばせながら、いまだおどおどと戸惑っている、おそらく東部穀倉地帯系であろう貴族達を見回した。
知っている顔は、三割にも満たない。
やはり皆大半が、中央にはほとんど出てこず、この北部に引き籠っている貴族達なのだ。
「正式な晩餐会であるならば、ここでご挨拶申し上げるのは主催者であるバーズレック伯であるべきところでしょうが、恐れながら皆様をお招きしたのは伯ではなく、私……“エイネシア・フィオレ・アーデルハイド”です。ゆえに、私の方からご挨拶をさせていただきたいと思います」
そう切り出したエイネシアに、皆が戸惑うように顔を見合わせる。
これは一体、どういうことなのか。
「まずは皆様。この情勢下、遠方よりよくお集まりいただきました。先ほどは随分と有意義にこの穀倉地帯の未来に関する議論が取り交わされたご様子。皆様が領地と領民を思いやり、考えることに前向きで有る様子がよく見て取れるものでした。そうした誠意あるご領主の皆様に敬意を。またそうした土地を繋ぎ、繁栄させて下さっている商家の皆様に感謝を申し上げまして、まずは私から、この穀倉地帯の繁栄の益々となりますことを祈って、盃を贈らせていただきます」
エイネシアの言葉に呼応するかのように、すぐにもバーズレック家の使用人達が、この日の為にとマルユランタ商会が持ってきてくれた北部の伝統的な食前酒を、皆のグラスに注いで回る。
この状況下で盃を取らずに逃げ出せるような強者がいるはずも無く、あるいはエイネシアが“どちら”なのかが分からず、王国派も、反王国派も、殆ど無意識のうちにグラスを取った。
いいのだろうか。本当にこれで有っているのだろうか。
俄かに手を震わせながらグラスを掴む者達も見受け得られるが、だが彼らに思考する時間など微塵も与えない素早い給仕の動きに、エイネシアもニッと口を緩めながら、自らのグラスを掲げた。
「北部穀倉地帯の繁栄を願って」
その言葉に、ハスロー子爵以下事情を知る者や、いち早くこの状況を理解したらしい貴族達が率先して盃を掲げ、「繁栄を願って」と呼応すると、他もつられるようにして慌てて盃を掲げる。
これにより、晩餐会はほとんど強引に“開始”されたことになる。
盃を掲げた以上、例え何があっても、エイネシアが退席するまでは、この部屋の誰もが退席することができなくなったのだ。
たとえエイネシアがどんな立場であったとしても、彼女が公爵令嬢である以上、その目の前で席を立つのは無礼なことであり、中途退席は礼を失する行為となる。
根の真面目な者が多い北部の貴族に、そんなことができる大胆な者も不作法な者もいるはずがなく、ましてやエイネシアは、王国派にとってはエーデルワイスの血縁。反王国派にとってはシルヴェストの血縁。その主の血縁を、蔑ろにするような行為を働けるはずもない。
エイネシアは、自分が持てる物をすべて使って、まず先手を打ってきたのである。
「まさか王都では行方不明だと騒がれていらっしゃる姫様に、こんなところでお目にかかることになるとは思ってもおりませんでした」
エイネシアに促されて皆が席に着き直すなり、最初にそう声をかけてきたのは、目の前の席に座ったルンダール侯爵だった。
エイネシアとも何度か面識があるだけでなく、確か若い頃は中央に出仕していたこともあると聞いている。今も息子が中央に勤めている、王国派の人物だ。
北部貴族とは協調的な立場であるが、所領も王都よりで、穀倉地帯の中でも最も西。いわゆる、北部とはやや一線を隔すような領地を所有している御仁である。
「一体いつから、この北部にいらしていたのか……」
一方その隣で聊か苦々しい声色を発したのは、ノルデン侯爵。
こちらはルンダール侯爵とは違って、東部穀倉地帯の中央に所領を有する御仁だ。
東部の中でも最も広い領地を治めるが、イースニック領と面していることもあり、最もイースニックからの難民被害と、関所の閉鎖による弊害を受けている所領の持ち主でもある。
ノルデン侯爵家自体は新王国時代になった後にその地に冊封されてきた新興貴族だが、もうその所領の主になってから随分と長く、殆ど北部の色に染まっていると言って過言ではない、反王国派の人間だ。
バーズレックも、その二人を隣に並べるとは、憎いことをしてくれる。
「行方不明だなんて噂があることは聞き存じておりますが……まったく。困ったものですわ。学業を本分とする私が人目につかないのは当然で、その学院もほとんど単位を満了してしまっていますから、授業にも顔を出すことは少なくなっていて」
「行方不明などという事実はないと?」
おや、と首を傾げたルンダールに、エイネシアは少し肩をすくめて見せる。
「いえ。確かに“麦”の件でこちらに伺おうとしていた道中に、少々厄介なことに巻き込まれたのは事実です」
「確か関所の前の村で、暴徒に襲われたとか」
「金品を狙った物取りでした。しかしすでに近衛が犯人も捕縛し、私もこのようにピンピンしておりますよ。そうでございますよね? ハスロー子爵」
そう宰相府に勤める子爵に話題を振ったところで、バーズレック伯の妻の養父であるため比較的上座にいた子爵が、とても落ち着いた面差しで、「そうでなければ、私はこんなところで呑気に座ってはおられません」と笑ってみせた。
確かに。本当にエイネシアが行方不明だったのであれば、宰相府の役人として、大慌てで宰相閣下に知らせに飛び帰っている場面だろう。
「なるほど。行方不明などという噂は、少々古い噂だったようですね」
それで納得してくれたらしいルンダールの様子に、うむ、王都に戻っても同じ理由にしよう、などと密かに思う。
「それで、麦の件と仰いましたが。姫君がこちらにお出でなのは、噂の、“新品種”とやらのためなのでしょうか?」
そう切り出したのはまた別の伯爵で、エイネシアとは面識はなかったが、先んじてバーズレック伯から受け取っていた席次表で、名前と、その立場はおおむね把握できている。
彼はバーズレック領のすぐ北に所領を持つ、旧王国時代からの北部貴族であったはずだが、バーズレック領同様、産業復興に力を入れ、あまり北部独立にも傾倒していない人物だと聞いている。
そのためか、さっそく麦の話に食いついたようだった。
「先ほども申しました通り、皆様を集めていただいたのは、本来は私がそうバーズレック伯にお願いをしたからなのです。お集まりいただいたのは、この北部の穀倉地帯を要する皆様。そして特に麦の売買を行なっておられる商家の皆々様。その事から分かっていただけるように、当然、麦の話をしたく、お集まりいただいたということで相違ありません」
「生憎と、東部穀倉地帯には、今は殆ど情報が入ってきません。その新品種とやら……果たして、どれ程の物なのでしょうか」
そう下座で厳しい声色を発したのは、東部穀倉地帯の中でも北よりの所領を要する子爵だ。
「そうですわね。細かい話はまた後ほど、資料にしてご用意しておりますので、お配りさせていただきますが、それがこの北部の気候……とりわけ、冬に、麦にとって甚大な被害をもたらしうる大雪や、秋には長雨に見舞われることもあるという東部穀倉地帯の皆様にとっては、とても有意義なものであることを申し上げておきます」
そう言ったエイネシアの言葉を受け継ぐようにして、別のテーブルから聊か身を乗り出した商人達が、いかにそれが素晴らしいのかを熱く力説してくれた。
か細い土地でも、この春蒔き小麦であれば、冬の豪雪に怯えなくていい。さらに春から夏という短期間で育つため、秋から冬にかけては別の作物を植える裏作もできる。
秋蒔きに比べて多少麦の収穫量は落ちるが、ただでさえ昨今南方の小麦の産出量が上がっている現状、裏作ができることの方がはるかに魅力も税収も上がり、豊かさも増す。
そう説かれては、貴族達も皆、ふむ、と興味深そうに思案の顔をしてくれた。
「それだけではありませんよ。今宵は皆様に、特別な物をご用意しております」
エイネシアの言葉を受けるよりも早く、皆のお皿に拳ほどもない小さなパンを置いて回っていた使用人の手際は、打ち合わせ以上の物だった。
「それが、このパンです」
ちょうど自分のお皿に置かれたパンに、エイネシアがそうパンを指し示したところで、その小さくて貧相な丸パンに不満そうな顔をしていた者達が、ぎょっ、と目を見開いて視線を寄越した。
彼らにも前もって、この時勢柄、晩餐会とはいえ質素なものを、との通知はしてあったようだが、流石に穀倉地帯の貴族達らしく、その小さなパンには不満があったようだ。
だというのにそれが特別だなんて言われれば驚くのも当然で、そしてエイネシアの言葉は、決して嘘でも偽りでもなければ、誤魔化しでもない。
これは本当に、特別なものなのだ。
「このパンの小麦は、その新品種の小麦。今仮に、エイレックと呼ばれているその麦を使ってあります」
「なんとっ。しかしそれはまだ、これからようやく増産実験がなされるという……」
「はい。ですからこの麦はこの夏、王都の薬室の協力のもと収穫された試作品。まだこれから益々と品質が高まるであろうことは勿論、今はまだ皆さまにこのサイズでしかご提供できないほどに、量の少ない物です」
「この小麦の一粒一粒が、金の粒にも匹敵する価値を持っております。そしてこの小さなパン一つが、おそらくは王公の催す晩餐会のメインにも匹敵する値です」
そう大仰な謳い文句で付け足したバーズレック伯の言葉は殊更有効的で、乱雑にパンを持っていた者達が、ぎょっ、と慌ててパンをお皿に戻すほどだった。
だがそれも決して、嘘ではない。
事実、金の塊の如き価値を持っているパンなのだ。
この夏温室で実際に実験的に小麦粉として挽いたものは、麦袋のひと袋にも満たない量だった。
その一部は国王陛下に献上され、また一部はパンにして、薬室の皆で試食実験した。
その余りで作られたのが、このパンだ。
エイネシアが大切に保管していたが、これもこの度、ハスロー子爵に王都から持ってきてもらった。
これをはたくだけの価値が、今この瞬間、この場所に有ると確信したからこそ、持ち出したものだ。
「遠慮はいりません。この麦を売り込むための商談だと思って、皆様、熱い内に食して下さい」
そう促したエイネシアの言葉に、「それでは遠慮なく」と、先んじてルンダール侯爵が手を付けたのをはじめとし、皆もおずおずと手を付ける。
小さなパンをちぎると、すぐにもそのほかほかとまだ温かい湯気を立ち上らせるパンの白さと、その弾力が、早速皆をほぅと感嘆させた。
素材本来の味を味わってもらうために、バターをはじめとして、一切何も交ぜずに焼いてもらった。
それでも立ち上る香味は格段のもので、一口口に含めば、小麦の味にうるさい貴族達も、おやっ、と、忽ちに目を瞬かせる。
「弾力があって。でも柔らかい。もちっとした歯ごたえが、絶妙だ」
「それに何だ。このまるで麦そのものを食べているような風味」
「信じられないっ。これがまさか、同じ小麦からできている食べ物なのか?」
「あぁ、美味い。これはもはや、我々の知っているパンではない」
思わず王国派、反王国派問わず次々と感想を口にした彼らは、あっという間にパンを平らげると、物足りなさそうに空いた皿を眺めた。
そうだろう。そうだろうとも、と、エイネシアも思わず顔をほころばせてしまう。
生憎と麦の知識は殆ど素人の状態からはじめたエイネシアだったけれど、前世の知識として、修学旅行で北海道にいった際に、北海道産の春蒔き小麦はパンに最適、みたいな話を聞いたことがあった。
パンを主な主食とするこの国では流行るのではと思って、アーデルハイド領で提案して、専門家たちの努力のもとに生み出されたのがこの麦であり、実際に出来上がった物を見て、エイネシアはすぐに理解した。
これは、パンにすべき麦だ、と。
この国の小麦の大半は、“薄力粉”ないし“中力粉”だ。水を含ませたときの伸びが良く、いわゆる焼き菓子なんかには最適な、柔らかい麦。だが春蒔き小麦は、それらに比べて圧倒的にタンパク質が豊富な“強力粉”だった。
実際に水と混ぜ合わせてみれば、その弾力はけた違いで、昔義母と共にパン作りにはまったことのあったエイネシアには、それが“パン向き”であることを、すぐに察することができたのだ。
いささか病気に弱く収穫量が少ないのが問題だが、その風味の良さと口に含んだ時の食感は、これまで彼らが味わって来たものとは一味も二味も違っているはず。
希少性というブランドを加味した上で、充分に従来の小麦と渡り合っていけるものだとの確信もある。
「私の出身のアーデルハイド領は、西方の最果て。土地としてはあまり豊かな方ではなく、しかし幾つもの特産品などで潤沢に潤っている領地です」
突如西の話を始めたエイネシアに、空虚なお皿を見つめていた皆の視線が集まる。
「織物の産出量は、北部の半分以下。ですが収益という意味では、北部の織物と同等の収益を上げているのをご存知でしょうか」
これには首を傾げた貴族もいたが、商人達が率先して、「それは西方の織物の品質に対するブランド価値がありますから」「西方の織物は、この北部でも高値で取引されます」と解説を加えてくれた。
「その通り。“希少価値”は、大きな富を生みます」
「この麦が、そうだと?」
「今や麦は、南方での栽培版図の拡大によって、供給が需要を追い抜いています。それなのに、南方と同じ品種を栽培していたのでは、未来などありません」
「南方とは別の品種を作るべき、ということでしょうか」
「ええ。この春蒔き小麦は、幸いにしてこれまでの麦にはない、パンに用いるのに最適な品質を持っています。但し病気に弱く、収穫量も従来の物より少ない」
それはちっともいいことではないのでは、と懸念する貴族に、ええ、その通り、とエイネシアも苦笑して見せる。
「そして秋蒔きより十日ほど収穫時期が遅いため、夏に長雨や豪雨に見舞われることの多い南方では、絶対に適さない品種です」
だが夏の雨量が少なく、雪解け水だけで夏を乗り切るような北部の気候には、これがとても最適になる。
いや。むしろ、寒冷で乾燥した北部でしか作ることのできない麦なのだ。
「今皆様が実感したように、この麦が高級志向の者に対し莫大な需要を生むことは間違いなく、産出量の少なさも、希少性という意味でブランドになります。そしてこの新品種は、西方の織物と同じ。量ではなくその品質によって、皆さんにこれまでと同等の。いえ。これまで以上の富みをもたらすことを、確約しています」
ふむ、と考え込んだ貴族と違い、やはりすぐにもその価値を理解できたらしい商人達が、まくしたてるようにして貴族達に、その素晴らしさを語ってくれた。
北部は道も険しく、貿易しようとすると運送費もかさむ。
安価な麦を大量に運ぶより、高価な少量の麦を高値で売買するほうが、商人たちにとっても魅力的なのだ。
この様子には、エイネシアの傍らでバーズレック伯が、「なるほど、商人達を同じ場に招いたのはご慧眼でしたな」と囁いた。
おかげさまで、貴族達にも、新品種=すごい=富をもたらすとの図式を構築することに成功したと見える。
生産性の低迷に、今の状況をどうにかする一手を望んでいた東部穀倉地帯の貴族達が、思いの外強く関心を持ってくれたのも、嬉しい誤算だった。
「それで、姫様。姫様は、その新品種の売り込みの為に、まさかこの情勢下、この北部までいらしたのですか?」
そう半信半疑で問うたルンダール候に、「それも一つの目的です」と答えたエイネシアは、早速、次の本題に入る。
いいや。むしろエイネシア的には、ここからが本題だ――。
「今この麦の権益は、すべて私が保持しています。先だって研究助成をいただくことを確約したバーズレック領に対し、その原産地としての権益を譲渡致しましたが、そのバーズレック領で増産されることになる種は、種苗法に基づき、以後三十年間はバーズレック領外での生産は認められず、またバーズレック領で挽かれた麦は、私への利権料を課した価格で売買されることになります」
これは即ち、植物の新たな品種を創作をした者に対する報奨的な制度であり、この国では最大三十年間、開発者が新品種を占有する権利が与えられる。
そのため開発者であるエイネシアが、新品種の増産をバーズレック領に委託した時点で、以後三十年間、この新品種はバーズレック領でしか栽培することができないことが法的に定められていることになる。
そしてその新品種を実際に売買するにあたって、委託を受けているバーズレック領は、エイネシアへの開発料を加味した価格で売買することが義務付けられており、利権者であるエイネシアに対して莫大な利権料が入る仕組みになっている。
その利権は最長五十年と法で定められており、これによりエイネシアには、この春から数えて五十年間、自動的に、その新品種麦の利権にかかる特許料みたいなものが入ってくることになる。
こうして二重にも三重にも、開発者に対する利権が大きいのがこの国の法であり、それは同時に、この国がそれほどに学者や研究者を重んじ、新たな良い品種への開発に期待を示していることの表れであるともいえる。
だがこの制度はどうしても、折角開発した新たな品種の値を吊り上げ、周りに浸透しにくい環境を作ってしまう。
値も高くなるから、商人も手が出しづらくなる。ようやく他の領地でその品種の栽培が認められるようになっても、いまだ利権者への開発料が大きな負担となり、農民たちにも浸透せず、むしろ嫌煙されてしまうことも少なくない。
それでは意味がないと、心ある開発者であれば、種の生産が安定してきた時点で早々と利権を手放すのが、大体のセオリーだ。
ただそれも、種苗法の期限が切れてより後。三十年後か、あるいはもう少し先か。
それでは遅すぎる、というのが、エイネシアの見解だった。
だから、エイネシアも国家事業の一貫としてこの麦の開発を行なったが、その国の許可さえもらえれば、種苗法に規定された栽培地の限定に関する期限も含め、自分への開発利権についても、出来るだけ早く手放すつもりではいた。
だがもはやそれは、“いつか”ではない……。
「しかしながら私、エイネシアは、次の春を限りに、一定条件下のもと、その新品種の麦に対する生産地制限、ならびに利権の一切を完全に放棄することを、お約束します」
その言葉に、一斉に皆がざわついた。
思わずガタンと椅子を鳴らして腰を浮かせた者。フォークを取り落としてしまった者。あるはポカンと呆気にとられて、真の抜けた顔を晒してしまった者。
誰もがその言葉に驚嘆し、ただただ前のめりに硬直した。
そんな馬鹿な話、あるはずがない、と。
だがそれも冗談やでまかせなんかではない。
すかさずエイネシアが壁際に一つ目配せをすると、視線を受けたオーブが恭しく一枚の書類を手に歩み寄ってきて、それを皆に広げて見せた。
そこには確かに、この春を期にすべての利権を放棄する旨と、エイネシアの署名。そして百合を象る、アーデルハイド家の印章が押されていた。それに加えて、種苗法に基づいて三十年間得るはずの生産地制限の特権放棄を確約するバーズレック伯の署名と、それらを認める宰相府の許可印が押されたもの。
間違いなく、法的な価値を有する正式な書類だ。
「ッ。いや、待て待てッ」
「どういう事ですかッ?!」
その事実に、いち早く我に返った者達が、ついにガタンと腰を浮かせて書類を凝視する。
何度見返したって、変わらない。正式な書類の形式と、正式な印章である。
こんな、食事の席で軽々しく話題にされていいようなものではない。数多の富みをもたらすであろう利権のすべてを放棄する確約書だ。
信じられるはずがない。
ましてやそれはエイネシアばかりではなく、いち早く先見の目を以てエイネシアに研究助成を申し出て、その栽培地として選ばれたバーズレック領に対しても、莫大な権益を削り取ることを要求するものとなる。なのに伯がそれをおめおめと了承するはずがない、と、いくつかの不審な目もバーズレック伯を見やったけれど、バーズレックは反論の一つも、遺憾と言った顔の一つもすることさえなく、まるで他人事のようにワインを嗜む。
バーズレックはもはや、それを全面的に認めているのだ。
だから、署名を綴った。
「無論、種が増産に堪えうる量と品質になるまで、今しばらく……最大で五年は、ほとんどバーズレック領での独占栽培になるかと思います。しかし権益の放棄により、条件にさえ適えば、他の領地での新規研究助成への介入を認めることができ、また精製された麦を売買するのにも、利権者への権益税は一切かかりません。この麦は最初から、“通常価格”で、売買することができるということです」
「おそれながら、姫様は商売を“舐めて”いらっしゃるのか」
思わずそう不躾なことを言ったのは、商家の席の真ん中にいた、マルユランタ商会長だった。
その呆気にとられたような顔を見る限り、どうやら彼も、ここまでは聞かされていなかったらしい。
だがそんな焦燥にも近い面差しには、エイネシアもつい顔をほころばせた。
商売を知らない小娘をだまして、手放しに喜べばいいものを。律儀にそんな忠告をしてくれるだなんて、実に良い人柄だ。
だがお生憎様。
「マルユランタ商会長。恐れながら私は、“商人”ではないんですよ」
そう言った瞬間、あっ、と、数多の商人達が口を噤んで押し黙った。
つまるところ、自分たちの尺度で、エイネシアの思考を計ってはならないのだ。
「そもそもこの麦は、北部農地再編の国家事業として、国王陛下のご下命により、私が開発したものです。もとより困窮する農地農民を救済する手立てとなることを目的としていて作ったものなのですから、その利益を少しでも早く民に還元することは当然であり、これは陛下のご方針にも適っているはずです。そしてこの麦をどう扱うのかについて、私はその差配の権限一切を、陛下より与えられております」
もしその権限が無かったならば、こうはいかなかっただろう。
だがエイネシアに農地再編への助成を求め、それを国王陛下に取り次いだアレクシスが、その時点で、実に周到に、すべての方策がエイネシアの一存で差配できるようにとの先手を打ってくれていた。
したがってエイネシアは、国王の許可を得ずとも、自身の判断でこの麦の利権を手放すことができるのだ。
それでも正直に言うならば、その利権は、喉から手が出るほどに手放したくないものだった。
エイネシア個人の利益のためにではない。エイネシアを信頼し、その差配のすべてを託してくれた、この国のためにである。
今なお先の戦争で国庫がギリギリの状態である情勢下、北部とのパイプという意味でも、利権という意味でも、王国と北部がこの麦の利潤によって繋がる図式は魅力的だ。
そんなことは、嫌というほど分かっている。
だがそれを手放したとしても、彼らの信頼には代えがたい。
エイネシアは、そう判断したのだ。
ただし、ただで手放すわけではない。
「それで。姫様は一体その利権の放棄に、どんな“条件”を課すと、仰るのでしょうか?」
いち早く、目先の利益よりもエイエンシアの言葉の一つ一つをキチンと吟味したらしい発言をしたのは、ノルデン侯爵だった。
思いのほか冷静な様子で、そしておそらくはエイネシアが“王国派”と取れるような発言をしたことで、慎重になったのであろう。
そしてそのノルデン侯爵の反応は、正しい。
エイネシアはそんな彼にニコリと微笑みを象って見せると、しかしながら甘い視線の一つも寄越すことなく、「お話が早くて助かります」と、言葉を返した。
そう。
大切なのは、その条件の方だ。




