5-7 晩餐会(1)
それから一晩時間を貰ったエイネシアは、以前滞在した時と同じ部屋へと案内され、そこで今後の作戦を詰めた。
自分が持ちうる武器は何か。穀倉地帯の貴族達を説得するのに、何が最も有効的であるのか。どうやって、説得するのか。
そのために必要なものを書き出して、またそれを実行するのに、どんな催し物の形式であるのが最も有効的であるのか。
そうやってすべての計画を練り上げたところで、真っ暗だった窓の外には日が昇り始め、しっとりと湿気を孕んだ冷たい朝の空気が流れ込んできた。
目の前に広がる、春の麦蒔きを待つまっさらな茶色い農地の表面に、ほのかに霜がかかっている。
この様子だと、今年は雪が早そうだ。他の土地で今まさに芽吹いている秋蒔きの小麦たちは、厳しい冬越えをすることになるだろう。
やはり……“麦”なのだ。
「お嬢様……まさか、徹夜なされたのですか?」
コンコンと扉を叩いて入ってきたジェシカの第一声に、ふとエイネシアも窓の外から目を離して振り返る。
「おはよう、ジェシカ。もうそんな時間?」
「窓を開ける物音がしましたので。まだお早いですから、少しお休みになりませんか?」
「頭を使いすぎて、眠気がしないの。良い朝だし、少し遠駆けにでも行こうかしら」
そう言った瞬間、「駄目に決まってます!」と、厳しい声が飛んできた。
うむ……まぁ、一応“お忍び中”なわけだから、当然か。
残念だ。折角ここまで来たのだから、麦畑の様子や、新しく建ったというオイリン研究室も見に行きたかったのに。
「姫様は、うちの放蕩主とは違うと信じております。ええ。信じておりますよ」
更にはジェシカが開けたままにしていた扉の外からそんなリカルドの声までしたものだから、おっとっ、と肩を跳ね上げた。
姿は見えないが、おそらく壁の向こうに背を向けて立っているのであろう。
一応、夜着に身を包んだレディへの配慮をしているようだが、はて、しかし一体いつから立っていたのだろうか。
護衛として随行してくれているとはいえ、もっとゆっくり休んでほしいものだが……。
やはり、信用がないのだろうか。
「わかっているわ、リック。大人しく部屋にいるから、貴方もそんなに張りつめないで、ゆっくり休んでちょうだい」
取りあえずそう言いながら、机の上に一晩のうちに用意した諸々の書類の内の一つを手に取ると、それをジェシカに渡して、「これをリックに」と仲介を頼んだ。
「ひとまずそれを風手紙で、宰相府にお願い。バーズレック領での催しに間に合うように、お父様にお願いしたい物があるの」
「畏まりました。すぐに飛ばします……が。私が席を外しても、くれぐれも遠駆けになどお行きになりませんように」
「大丈夫です、リカルド卿。私がしっかりとお嬢様を見張っておきます!」
何故かエイネシアではなくジェシカがそう胸を張って答えたものだから、エイネシアも益々肩をすくめた。
何やら知らぬ間に、ジェシカとリカルドの間に謎の協力関係が生まれている気がするのだが、気のせいだろうか。
侮れない。
「ジェシカも……こちらの書類をバーズレック伯に届けて欲しいのだけれど?」
「オーブさんを呼んでまいりますので、そちらに頼んでください」
「……はい」
ですよね、と思いつつ、持ち上げかけていた書類を置いた。
ひとまず、ジェシカが淹れてくれたお茶を頂きながら、ゆったりとソファーに腰を沈める。
心地よい香りと、たっぷりのミルクに、たっぷりの蜂蜜。
きっとエイネシアを眠りに誘おうと用意されたお茶なのだろう。その香味にうとうととしたけれど、一方で頭の中は妙に冴え続けた。
他に、打てる手はないのか。出来ることはないのか。
そんなことばかりを考え続けた。
バーズレック伯には、この日の内に、該当する穀倉地帯の貴族達へと招待状を送ってもらった。
内容はエイネシアが指示を出し、『イースニックへの懸念が膨れ上がっている昨今、困窮しつつある北部穀倉地帯の未来について、取り急いで報告したい議と、話し合いたい議がある』と切り出してもらうことにし、更に、『我が領にてこの春より繁殖実験を行う新品種小麦“エイレック”に関しての重要な議題である』と、盛り込んでもらった。
この新品種小麦についての北部穀倉地帯での関心の高さは、すでにバーズレックからとくと語り聞かせてもらった。
この麦のことをバーズレック伯から切り出したならば、穀倉地帯の貴族達はまず間違いなく、その“権益”に関わることだ、と察するだろう。そうなれば、もはやこの催しに欠席するなんてことはありえない。少しでも遅れれば、その新たな富から置き去りにされることになってしまうのだ。
実際、招待状を送って三日と待たず、次々と出席の返答がもたらされた。
正直、イースニック領を隔てた東部穀倉地帯の貴族達は厳しいだろうか、なんて懸念もしていたのだが、多少の無理を押してでも駆けつける、と言ってくれた貴族が大半で、彼らは総じて一度東に出て、そこから東方の護衛を付けて交易を行なっている商人達の協力を得て、バーズレック領に入る行路を取った。
商人達を一緒に招いたのも功を奏したようで、中には商人達が、『これに行かねば大きな損失を蒙ります』と、貴族を説得してくれた者もいたようだった。
そして催しの前日。
早馬で王都から駆けつけてきた父からの使いやってきたことで、エイネシアのすべきすべての準備は整った。
催し、第一日目――。
場所はバーズレック伯爵領、領都の伯爵家居城大広間。
そして貴族と商家とを招いたその貴賤混合の催しは、“晩餐会”という正式な形で。
だが商家が混じった、とても奇妙な形で、始まったのである。
◇◇◇
その日ジェシカが用意してくれたのは、北部風の、きっちりと袖を覆った厚手の生地のドレスだった。
夜会ではなく晩餐会ということで、スレンダーなデザインの、少し大人びた物を。
大きく開いた肩には前垂れしないチョーカーをあしらって、長い髪はアップスタイルに。
それに大判のストールを纏ったところで、いつもの略装とは違ってきちんとした近衛の正装に身を包んだリカルドが、部屋を訪ねてきた。
相変わらずリカルドは今宵の晩餐会でも席にはつかずに護衛に徹するつもりらしいが、一応会場内に控えるため、正装を纏っている。
いつもとは違って、貴人の専属護衛であることを示す深い紺の綬をかけた騎士服はことさらに立派で、いつも撫でつけてあるだけの髪もキチンと整えているものだから、すっかりと別人だ。こうしてみると、なんだかアルフォンスに似ている気がしないでもなくて、おかげで肩の力が程よく抜けてくれた。
そんなリカルドが、「そろそろお時間です」と声をかけてくれたことで、オーブと、それからこの領の侍女のお仕着せに身を包むカモフラージュをしたジェシカを連れて部屋を出た。
昼から始まったこの日の催しは、先んじて、一応招待の主旨であった“北部穀倉地帯の懸念”に関する話し合いが行なわれており、その内容はエイネシアも、密かに同席していたオーブから報告を受けていた。
まず第一に、なんとか麦の生産性が回復しつつあるものの、昨今の王都への関税により、もはや北部の穀倉地帯は大きな危機に瀕しているということの確認。
第二に、今北部内に王国離反の風潮が高まっていることは言わずと知れた事実であり、その気持ちも理解できるが、だが実際に離反したとして、“国内”の物資を賄えるだけの余地が北部の穀倉地帯には存在しないことへの懸念。
この時点で、やはり東部穀倉地帯の貴族達が声を荒げて苦言を呈したが、そんな貴族達にも全く物怖じしない幾つかの豪商達が、実際に交易を担う立場から、実に的確で、事実を見通した見解で彼らを宥めてくれたという。
商人達はやはり、北部の王国離反が現実問題、“難しい”ことを、理解しているのだ。
そして第三に、今、そんな北部の現状が、フレデリカ妃とその一派によってもたらされていること。自分たちの権益が、王国の一部の者達によって不当に奪われていること。
さぁ。我々は一体、これから何をどうすればいいのか――と。
この日の会談はそこまでで、催しは明日の午前にもう一度開かれる予定になっている。
麦の詳しい話はまた明日、と切り出すことで、集めた者達を今夜総じてこの場所に留めるつもりなのだ。
だが本当のこの催しの本題は今夜。遠方から集まった彼らをもてなすための晩餐会にある。
会議を終えた客人たちが、そのまま本城にある晩餐会場へと招かれて移動する様子を横目に、二階の渡り廊下から本城へと入る。
この道筋なら、他の客と遭遇することはない。
「私やオーブ、それにジェシカ殿は皆、部屋の隅に控えさせていただきます。姫様のご指示通り、口を挟むような真似は慎ませていただきますが、何かありましたら、すぐに合図を送って下さい。ご指示のままに行動しますので」
「分かっているわ。でもそんなに警戒しなくて大丈夫よ、リック。ここは一応、味方の居城だもの」
そう言って、後ろを着いてきている歴戦の猛将みたいな風格のオーブと、『お嬢様にご無礼を働く者は誰であろうと容赦しません』みたいな顔で眉を吊り上げているジェシカにも、「くれぐれも大人しくね」と念を押しておく。
何やらすごく不安なのだが、大丈夫だろうか。
「それよりも、晩餐会の途中で理由をつけて退席したり逃げ出したりする貴族がいないかの方が大切よ。商人達もそう。全員と確かに契約を結び終えるまで、彼らを外には出さないで頂戴」
そう指示したエイネシアには、「お嬢様のほうがよほど過激なことを仰っているように聞こえます」と、ジェシカが苦笑を溢した。
まぁ確かに。
結構、過激なことを口にした気がする。
だが二度の催しを成功させるには、どうしてもそれが必要なのだ。
言葉で説得するのが一番だが、万に一つも賛同できないという者がいたならば、情報が漏洩しないよう、少なくとも二度目の催しが終わるまでは、勾留せねばならない。
そのくらいのことをする覚悟がなければならない。
これから始まるのは、そういう催しなのだ。
「大丈夫。説得して見せるわ。それだけの物を用意できたと、自負しているわ」
だから全員。安心して私に任せなさい、と。
そうしかと彼らを見据えた先で、正面で待ち構えていたバーズレック伯爵が、その顔をほころばせた。
「ご準備は、宜しいようですね。姫様」
「ええ、見ての通り。お客様方のご様子は?」
どうぞこちらに、と促すバーズレック伯の言葉に、リカルドと共にそちらに歩み寄る。
大抵の貴族の居城がそうであるように、二階には一階の吹き抜けの玄関ホールをうかがい見る目隠しの回廊が有るようで、細かな格子状にあしらわれた装飾の隙間からは、下の様子がよく見えた。
すでに客は大半が集まっているようで、ホールには、正装に身を包んだ数多の貴族と、いくらかの商人達が入り混じって雑談を交わしていた。
貴族の装いをした紳士だけでも、三十か、三十五か。もう少しいるだろうか。エイネシアの見知った顔も、何人かいる。
中にはハスロー子爵の姿もあった。
この子爵に関しては、先んじて宰相府から父の書状を持った近衛と同伴でやって来て色々と打ち合わせを済ませた、“味方”である。
「ハスロー子爵と話している少々ずんぐりとした男がいますが、わかりますか?」
「ええ。商家。それも裕福な類の商家の装いね。もしや……」
「はい。彼が、オーリス・マルユランタ。マルユランタ商会の商会長です」
少しばかり薄くなった頭髪と、北部の民族衣装に包まれたふくよかな恰幅。だが肥えているという感じではなく、むしろひと目で大商家の主人であることを感じさせるような、立派な風格を携えている。
商家の者達はその大半がホールの隅に集まるか、顔見知りの貴族にペコペコとしている者が多く見受けられたが、そんな中でもひときわ堂々と貴族達に入り混じり、むしろ貴族達に取り囲まれるようにして、楽しげに会話を交わしている様子は、実に様になっていた。
おそらくは、貴族の相手にとても“慣れて”いるのだ。
「この時勢柄、晩餐のメニューは質素に。コースではなく、大皿式にしています。姫様をお招きして催すにはご無礼に当たるほどのものですが、ご容赦ください」
「構いません。むしろ短い時間で、よくご用意していただけました。感謝します」
ただでさえ物資が不足しているのだ。貴族や商人を含め六十人近い人数をもてなすのは、それだけでも大変であろう。
幸いにして、先だって王都から領地に戻ってきたハスロー子爵が、『宰相閣下からです』といって沢山の新鮮な食糧も届けてくれたから、それが助けになったはずである(同封されていたメモには、ハインツリッヒの弖で、『実験畑の最新収穫物だ』とあったから、実質的にはエイネシからの野菜だ)。
「それから打ち合わせの通り。特別な、“パン”を用意してあります」
さらにそう言ったバーズレックに、エイネシアも頷いて見せる。
そうして諸々の確認を終えたところで丁度、バーズレック家の執事が、「お客様が皆お席に着かれました」と声をかけてくれた。
「それでは姫様。まことに僭越ながら、今宵はこの卑しき城主に、エスコートを務める誉れを頂きたく存じます」
そう相変わらず舞台がかった仕草で恭しく礼を尽くして手を差し出したバーズレック伯に、ついエイネシアも口をほころばせながら、「宜しくってよ」と、舞台のお姫様みたいな口調で受け答え、グローブに包まれた手を添える。
今宵、エイネシアは伯爵の“主賓”として、この晩餐会に招かれているのだ。
ゆえにその手に招かれて階段を下り、お客様が出入りした方とは逆の扉の前に立つ。
そして、ギギギと古めかしい音を立てて大きく開かれた扉に。
一つゆっくりと息を吐いてから、じわじわと視線を上げ。
その足を、踏み出した。
 




