5-5 バーズレック伯(1)
そうして少し遠回りをしながら五日かけてバーズレック伯領に入ったエイネシア達は、まず領内での動きを考えるべく、最初の町の宿に入った。
エイネシアが思っていた通り、バーズレック伯爵領は他領に比べればやはりまだ賑わいを残していて、治安の安定が見て取れた。
だがそれでも前回来た時よりはやはり不穏な雰囲気は漂っているようで、バーズレック伯に会い協力を促すにしても、まずは民の様子を見ておきたい、というのがエイネシアの見解だった。
バーズレック伯とて、この土地の“領主”だ。
民が望まないことはできないし、領民達が新興の貴族である領主より、圧倒的にシルヴェストに傾倒している可能性だってなくはない以上、バーズレックもそんな民達に答える形で、領主の座を守ろうと考えるかもしれない。
そんな懸念から、慎重であろうとしたのだが、しかし生憎と、宿に入って幾らもしない内に、早々と迎えの馬車が寄越された時には流石に驚いた。
一応領地に入る時にはブラウンのウィッグを付けていたが、どうやら道中、エイネシアの顔を見知った者に遭遇してしまったようだ。
そこから伯爵の元に情報が行ったのだろう。
実際に伯爵家に仕える執事が自ら出向いて、エイネシアが本人であるのを確認すると、「主が姫君のご来訪を歓迎しております」と馬車に誘った。
こうとなっては、誤魔化すわけにもいかない。
ジェシカが持ってきてくれていた荷物を開けて、母が選んでくれたらしい、寒波にも耐えられそうな暖かなドレスを着付けてもらった。
同行は、リカルドにお願いをした。
これはオーブの提案で、元々諜報活動に慣れたオーブは、宿に留まって町の様子などを探りたい、との事だった。その代わり、護衛としてリカルドを連れて行ってほしい、と。
ジェシカは、「私もお嬢様の傍に!」と言いはったが、万に一つも交渉が決裂した際、城内には一人でも足手まといが少ない方がいいと説得され、なくなく宿に残った。
そうして、リカルドを連れて迎えの馬車に乗り込んだところで。
さて……、と、エイネシアは分厚い馬車のカーテンを指先で掻きわけながら、外を見やる。
本音を言えば、もう少し町の様子を見ておきたかったのだが。
「姫様。本当に、のこのこと招きに応じて良かったのですか? このくらいの護衛なら、私一人でも……」
そう不穏なことを言ったリカルドには、「それは止めて頂戴ね」と苦笑しておいた。
こんなところで近衛に暴れられては、バーズレック伯を敵に回してしまいかねない。
「しかし手形も偽装していたというのに、こうも簡単に……」
「以前この領を訪れた時に、伯が領政を担っている庁舎を案内して下さったの。その時は深く考えていなかったけれど、多分、領官に私の顔を覚えさせるのが目的だったのだと思うわ。“次は私が黙って所領に入るかもしれない”、だなんて懸念を、されていたのかしら」
そしてそのことは今、現実となっている。
こんな未来を見越しての事だとすれば、やはりあの伯は侮れない。
「あぁ、いえ……その懸念は、もしかしたら……その」
「ん?」
「……すみません。うちの“放蕩主”のせいかもしれません……」
そう肩を落としたリカルドに、エイネシアははてと首を傾げた。
何故そこで、アレクシスのせいになるのだろうか。
「それよりも姫様。バーズレック伯に会ってから、それでどうするつもりなのかを今のうちにお聞きしておきたいのですが」
エイネシアとしてはアレクシスの話がちょっと気になったのだが、しかし領都の城までそう間もないことを考えれば、今はそちらの方が優先だろう。
「正直、計画なんていうものはないわ」
「……姫様」
あっけらかんと言うエイネシアに、流石にリカルドが困惑の顔を見せたけれど、そんな彼には、「大丈夫よ」と笑ってみせた。
不安にさせるつもりだったわけではない。
無計画と、無謀は別だ。
「バーズレック伯は、なんというのか……会ってもらったらすぐに分かると思うのだけれど、中々貴族らしからぬ性格というのか。そうね。なんだか、“商人”みたいな人柄をなさっているの」
「商人、ですか? 北部では新興の貴族とはいえ、バーズレック家自体は四百年続く家柄だと聞いていますが」
そう首を傾げるリカルドに、エイネシアもコクリと頷いて見せる。
北部に移封になったのは二代前でも、伯爵家自体は歴史のある家柄だ。それを商人みたいだなどと評せば、訝しがられるのも当然だろう。
だがエイネシアとしては、それが最もピッタリな単語だと思っている。
「無論、貴族と言えば貴族なのだけれど、けれど私達が知っているような貴族達とは一風変わった御仁よ」
「そのことが、無計画であることと関係が?」
「無計画という言い方をすると何だけれど。要するに、前もってあれこれ考えて望むよりも、伯とは真正面から本音で話をしてみるべきだと思っているの。伯はこちらが本音で語れば、取り繕ったりせずに本音でお話をして下さる方よ」
勿論会話の中には探り合いや駆け引きが存在するが、北部を王国から離反させぬようにしたい、と切り出したところで、その表情と返ってくる言葉から、少しずつ方針を固めて行った方が得策だろう。
エイネシアが所領に権益を齎してくれる存在である以上、ひとまず話は聞いてくれるはずだ。
「それで、もし交渉が決裂して、伯が私を不当に城内に留めるような行為を取った時は、リカルド卿の出番ね。その時は、お願いするわ」
私、自分の身を守るすべは殆ど持ってないの、と笑ってみせたエイネシアには、リカルドも頭を抱えてため息を吐いた。
その可能性を理解していながら、無計画とは……。
何と評していいのか。
「えぇ、えぇ……何処からでも連れ出して差し上げますよ。幸い私は困った主のおかげで、ありとあらゆる城や牢獄から人一人を連れ出す術に関してはベテランなので……」
「アレク様……」
一体彼は部下に何をさせているのだろうか……。
何だかとても気になって。
でもリカルドの語るエピソードが、なんだかその人が傍にいてくれるような安心感を与えてくれた。
そうして馬車は、かつてエイネシアが滞在した事のある街へ。
その古風な城へと、入って行ったのである。
「ようこそ我が領地へ、“殿下”!」
大仰に手を広げて、相変わらず舞台劇みたいな大げさな一礼をして出迎えたバーズレック伯には、その風変わりなベルベットの古風な衣装に、早速、ぎょっ、とリカルドが目を瞬かせた。
うんうん。その気持ちはよく分かる。
「ごきげんよう、バーズレック伯。まずは偽の手形で所領を潜ったことをお詫びしなければいけませんね」
そう悪びれも無く告げたところで、「この時勢柄、お察しいたします」と、エイネシアの手の甲に挨拶のキスを贈ってから、伯は身を起こした。
そうもあっさりと許されると、それはそれで気味が悪いのだが。
「さぁ、まずは長旅、お疲れでしょう。ゆっくりとくつろいでいただいて。お許しいただけましたなら、晩餐にご招待してもよろしいでしょうか、“殿下”」
再び大仰に礼を尽くしながらそう求めたバーズレックに、エイネシアは俄かに困った顔をしながら、頬を引きつらせる。
いや……晩餐については、ちっとも問題ないのだけれど。
「光栄ではありますが……あの、伯? どうして先程から私を、“殿下”と?」
王家三世の血筋、西方公の嫡女として“姫”と呼ばれることはある立場だが、間違っても“殿下”と呼ばれる身分ではない。
この場合その殿下という王家の血縁に対する敬称を、どうとらえるべきなのか。
よもや、“シルヴェスト王の姉孫”という意味であったなら、いちから伯への対処の有り方を考え直さねばならないかもしれない。
そう警戒したのが分かっているのかいないのか、以前と変わらぬ様子の伯は、「何か問題でも?」と、あっけらかんと告げて、笑ってみせた。
「以前、我が領をお発ちになる際に私が姫に言った言葉を覚えておいでではありませんか?」
「それは……その」
忘れてなんていない。『貴女を王家の妃に抱けぬことが残念でならない』と、そう言われた時の気まずさと言ったらなかった。
伯の言葉に裏なんてないことは分かっていたが、何しろ身の振り方に戸惑っていた時に言われたものだから、どういう意味なのかと悶々考えさせられることになってしまった言葉だ。
だがそれを引き合いに出すということは、今バーズレック伯が口にしているところの“殿下”とは、やはり、シルヴェスト家の血縁のエイネシアに対する敬称ではないのだ。
王家の……エーデルワイスの王家に連なる者に対する敬称。
やはりそうだ。
バーズレック伯に、王国からの離反の意思はない。
「エーデルワイスに連なる者として光栄とは存じますが、この時勢柄、良くない誤解を与えてしまいますわ」
「何、ただの“あだ名”だと思っていただけましたら……といっても、確かに。“殿下”では誤解をお与えになってしまいますな。では“妃殿下”とでもお呼びしましょうか?」
「伯。お戯れもほどほどに」
一体何を考えているのか。
その“妃”を、一体どんな意味で使っているのか。
相変わらず飄々としているようでつかみどころのない伯の言葉は、やはり貴族というよりも商人と話している気になってしまう。
少しの言葉の間違いも上げ足を取られてしまいそうで緊張する。
「それでは残念ですが……今はまだ、“姫様”とお呼びいたしましょう。確かに、うら若き未婚の姫君に、“妃”は失礼でしたかね」
そう言って見せながら、さぁさぁ中へ、と促すバーズレックに、俄かにほっと息を吐いた。
一体この言葉の応酬で、伯は何を確かめたかったのか。
きっと探りを入れていたのはエイネシアの方だけではない。バーズレックの方もそうなのだろう。
一体エイネシアが何をしに来たのか。
この所領に、偽造手形まで用いて、ひっそりと何をしに来たのか。
実に冷静かつ合理的に、それに探りを入れて来たのだ。
このやり取りだけで概ね、エイネシアが言っていたところのバーズレック伯という人の“風変り”を見て取ったらしいリカルドも、「なるほど」と思わず呟いてしまった。
それから案内されたサロンでしばし腰を下ろしたエイネシアは、先日ぶりのバーズレック伯爵夫人のもてなしを受け、日暮前に、夫人の案内で晩餐の席に案内された。
仮にもディーブレイ伯爵という爵位を持つリカルドの席も用意されたが、リカルドはそれを「姫様の護衛としている立場です」と固辞し、席に着くエイネシアの傍らに棒立ちした。
相変わらず、近衛の連中というのはどうしてこうも徹底しているのか。
エイネシアとしてはいっそ席についてくれた方がありがたかったのだけれど、こうなった近衛を席に着かせるのがとても大変であることは、アルフォンスで学習済みなので、早々に諦めた。
晩餐の席は、公爵家の出身とはいえその令嬢でしかないエイネシアを最も上座に招き、城主である伯爵が主客の座に座るという奇妙な形で、けれどその席順に緊張感を与えないように、伯の奥方や二人の小さな子供達も同席した。
といっても、何故か夫人の席の方が子供達よりも下座になるという奇妙な席次で、同席するのにわざわざエイネシアにお伺いを立てるというほどの徹底ぶりには、妙な違和感があった。
そうして始まった晩餐会に、最初の話題はやはり、麦の話だった。
前回視察した時には無かったオイリン博士の研究室も完成した話。今年の麦の生育具合。ハーリア研究室から上がっている最新の報告。
その以前と変わらない態度をあからさまに見せるバーズレックに、エイネシアもその権益を揺るがす気がないことを俄かに言葉の端々ににじませ、この春からの新品種小麦の栽培への期待を言葉にした。
そのやり取りで、まずは両者ともおおむね、この現状の変化を望んでいないことを確認し合ったことになる。
「ところで姫様。王都では何やら、姫様が“行方不明”だなどという騒ぎになっているとの噂があるそうですが」
そう先に一歩踏み込んだのは、バーズレックの方だった。
「ええ、そのようですね。まぁ、私が姿を消していたのは事実ですが、何をしていたのかと言われると、少々お答えしづらいですわね」
「というと?」
「随分と周囲が騒がしくなってしまいましたから、そうしたものから逃げ出したくなる気持ちというものを察していただけましたら幸いですわ」
「はは、これはご冗談を」
そう笑うバーズレックの反応も、十代の婦女子に対してどうなのかと思うが、まぁこんなことを言って信じてもらえるとは思っていない。
要するに、聞かない方が身の為ですよ、という意味だ。
「そういう伯こそ。このような情勢下、どうして私を歓待していただけるのでしょうか? 正直、もう少し探るような警戒心を見せられるかと思っていましたが、思いの外そうしたご様子がないことに、呆気にとられています」
とてもそうは見えない様子で、実に洗練された手つきでキコキコと肉を切るエイネシアには、下座で小さなお嬢様が、ぽうっ、とその様子に見惚れる。
真似しようとして、かこんっ、とお皿を削ったナイフの音にびっくりする様子が可愛らしい。
そんな娘にクスクスと笑みをこぼす奥方の物腰の柔らかさが、場の空気をふわふわとさせる。
だがそんなアットホームな雰囲気が、この情勢には妙にミスマッチだった。
そうと分かっているのであろうバーズレック伯も、「仰る通りですな」と取り繕うことのない言葉を口にして、俄かにフォークを置いた。
それからチラリと下座の家族を見やって。
クス、と、僅かに口元を緩める。
「妻を下座に座らせたのは、彼女が“貴族”の出身ではないからなのです」
「え?」
唐突に思いがけないことを言われて、エイネシアもキョトンと一番下座の夫人を見やった。
顔を上げた夫人が、少し恐縮そうに顔を緩めて、頷いて見せる。
いや、確かに。前回この城を訪れた時も、物腰の柔らかで上品な奥方に、だが何となく、貴族らしくない雰囲気を感じていた。
それもこの、言っては悪いが“田舎”の所領ゆえの特色かと思っていたのだが……なるほど。民間の出身と言われると、もっとしっくりとくる。
それもおそらくは……商家の出ではなかろうか。
「私の母も、そうでした」
「ではバーズレック家では、二代続いて民間から夫人を?」
これには驚いた。
食いつぶした子爵家や男爵家ならまだしも、上流貴族である伯爵家。それもそれなりに豊かな土地であるはずのこのバーズレック領の領主が、民間から夫人を取るとは。
貴族は貴族と婚姻を――というのは、この国の常識のようなもので、貴族の結婚は典礼省典礼庁紋章院で管理されている。
すべての貴族の結婚には、国王の裁可が必要なのだ。
だから伯爵家ともあろうものが民間から正妻を迎えることは非常に困難なはずで、確かどこそこの貴族の養女にしてからでないと正妻にできない、などといった決まりもあったはずだ。
それを、二代も続けてやっているとなると、相当のものだ。
「驚きました……。そんなことが現実に、可能なのですか?」
純粋に興味を持って問うエイネシアの様子には、思わずバースレック伯も口をほころばせた。
分かってはいたが……これを聞いて、民間出身という夫人が公爵家の姫と同席したことに腹を立てるでもなく、母が民間の出身と言われてバーズレック伯への態度を変えることもない。ただ知識を欲して好奇心に目を輝かせる様子は、やはり、他のどの貴族の令嬢とも異なっていると言えた。
だからこそバーズレックも、この姫君にこの事実を打ち明けたのだ。
「母の時は、正式な婚姻は認められていませんから、側室です。私は、前伯の“庶出”なのですよ」
「庶出……。あぁ。そういうことになるのですね」
「私の妻の時は、シルヴェスト公が取り成してくださいました」
「ッ……」
そこでその名前が出てくるとは、と、僅かに眉をひそめたエイネシアに、「ご懸念になるような関係はありません」と、すぐにバーズレックが言葉を取り繕った。
「妻はシルヴェスト領に本拠地を構える大商家の出身でして、公爵家にも贔屓にしていただいているんです。その大商家をなんとしても我が領に招致したかった祖父は、足しげく御領に通いつめ、その商家が冗談で持ち出した『だったらうちの娘を伯爵夫人にでもしてくれるのか』という言葉に、その……」
「二つ返事で頷いてしまわれたわけですね」
クス、と思わずエイネシアの顔にも笑みが過った。
この伯爵を育てたという祖父だ。随分と風変わりな方だったのだろう。
多分、その商家のほうが度肝を抜かれたのではなかろうか。
「それで本当に、その商家のお嬢様を連れて帰られてしまったと」
「うちには父の先例があったので、受け入れる下地は出来ていました。しかし正妻にしようと思うと簡単ではない。商家の方も、可愛い娘を貴族の側室になんて、冗談ではなかった」
「だからシルヴェスト公のお口添えを?」
「ええ。それでこの領地とも縁の深かった、隣のハスロー子爵の養女としていただいて、夫人に」
「あら。では夫人はハスロー子爵の養女でいらっしゃるのですね」
そう視線を投げかけたエイネシアに、夫人は物静かに目礼して答えて見せた。
「ほとんど顔も合わせたことのない義父ではございますが、姫君のお父上様であらせられる宰相閣下には、大変なお世話を頂いていると聞いております」
まさかそんなご縁があったとは思わなかった。
「奥方様のことには納得致しましたが。ところで伯。伯のそのご母堂様も、もしや商家のご出身なのでは?」
そう訪ねたエイネシアには、バーズレック伯も一度目を瞬かせて、「ええ、よくお分かりに」と答えた。
「伯のお考え方や行動の端々に、商人と話をしている時のような感覚を覚えることがありました。お母君のご教育なのですね」
「なるほど……そうかもしれません。母はこのバーズレック領の商家の出でしたが、私も庶出ということで、祖父が亡くなってからは、その母の実家に預けられることも多かった」
そしてそこで、貴族らしからぬものの見方を学んだのだろう。
「ですが。こういってはなんですが、そのようなお育ちでは、貴族社会では大変な苦労をなさったのではありませんか?」
そう僅かに言葉を躊躇いながらも問うたエイネシアに、「その通りです」と伯は頷いた。
「そもそもが庶出。しかし伯爵家の世継として連れ回されるわけですから、とにかく肩身が狭い。その上祖父は、私にまたも民間から許嫁を連れてきた」
「それは……」
肩身が狭い所の話ではないだろう。
このバーズレック領に引き籠っていればまだしも、貴族にはそれなりに中央で果たさなければならない社交もあるわけで、その度に伯がどんな目にさらされてきたのかは、エイネシアにだってわかった。
この国が君主制であり、各領地が貴族という階級の血縁的相続によって成り立っている以上、主にはそれ相応の威厳とそれに伴う治世力が求められる。
貴族が貴族であると威張り、貴族同士でしか結婚をしないという“差別”も、ある意味ではその土地を代々守る領主の威厳を守るために必要な措置なのだ。
だから貴族は、国民と自分達を区別したがる。
そんな中、民間の血が流れる貴族というのは、それだけでも周りに軽んじられてしまう。
「姫君。私はね……母が民間の出だというだけで私を小馬鹿にし、母を悪しざまに言う貴族達に辟易していたんです」
自分で自分を貴族と名乗りたくないほどに、その風習を嫌った。
血筋が何だとこだわる連中に、嫌気がさしていた。
身分が高いものであればあるほどに、それに驕っているような気がして腹が立った。
「だから国王が大貴族の姫ではなく、ただの伯爵家の側室を寵愛し、側室の生んだ子を王太子にした時、この世も捨てたものではないと思うほどの感動を覚えた」
「……えぇ」
そしてその感動は、バーズレック伯だけじゃない。
これまでのありとあらゆる権門の勢いに苦い思いをしてきた中小貴族達の、すべての総意だっただろう。
「私もまだ、若かった。父から領主の座を引き継いだばかりで、貴族制度の改革だなんてばかげた夢を追いかけたりもしていました。それまで快く思っていなかった許嫁を即日娶ったのも、その頃ですね」
そう言われた夫人が、肩をすくめながら苦笑した。
実際、嫁いできたばかりのころは、夫人も随分と苦労した事だろう。
今なお、ハスロー子爵家の養女になりながらも最も下座に腰かけていることしかり。
民間の出身なのに正妻を務めるというのは、逆に側室であるよりも大変なことに違いない。
「そんな私ですから。北部貴族達が、シルヴェスト家の姫君を蔑ろにされたことに腹を立てている時も、むしろ私は、償いにシルヴェストの血を引く姫を王太子妃にしようだなんていう保守派の思惑の方が忌まわしかった」
それは即ち、エイネシアのことだ。
ヴィンセントの許嫁になった時、エイネシアはまだ八歳で、王宮とアーデルハイド家と幾つかの公爵家の身内という狭い世界しか知らなかった。
ヴィンセントのためにと誰からも望まれて許嫁という立場についた気がしていたけれど、中にはそれに反感を抱く者もいたのだ。
「ただ、段々と領政に慣れていって、益々調子に乗っていた頃に、この領地は大旱魃と大飢饉に見舞われてしまった」
「八年前の件ですね」
「ええ。それ自体悲劇でしたが、もっと悲劇だったのは、それで慰問に訪れたシンドリー侯爵の人柄でしょうね。期待を寄せていた王太子の外戚。王家の近縁。侯爵様とはいえ、権門を牽制する存在に、期待をしていた私は、本当に浅はかだった……」
それにはエイネシアも、何とも言葉が掛けられなかった。
シンドリーの慰問の件は、エイネシアにも苦い記憶がある。
慰問のなんたるかも、今イースニック地方が必要とするものについても理解していなかったシンドリーと揉めたのは忘れられない出来事で、そのせいできつくヴィンセントに咎められたことは、今思い返しても胸が苦しくなる。
そんなシンドリーが、慰問先でどんな態度を取ったのかは知らない。
だがシンドリーの人柄を考えれば想像は簡単で、おそらく彼は、期待に胸を膨らませて歓待したバーズレック伯に対し、その母と妻のことを知るや、随分と酷い態度を取ったのではなかろうか。
シンドリー侯爵は、反権門を掲げる一方で、本当は誰よりも自分の血統に固執し、それを高めることの執心している人物なのだ。
その人柄がバーズレック伯に、益々上位貴族への反感を抱かせたことは間違いなかった。




