5-4 再び北へ
北部に赴くには、いくつかの行路がある。
一番メジャーなのは、王都郊外の四方にある大門と言われる大きな関所の内の一つである、メルムント伯爵領への門をくぐり、そこから小麦街道と呼びならわされるルートを通る方法だ。
以前エイネシアがバーズレック領に赴いた時に通ったのも概ねこの行路で、途中少し回り道をして、国王領や宰相府の役人の所領などを通る安全策を取りはしたが、それがある意味北部への最短ルートでもある。
だが今回は事情が違う。
大きな関所や国王領には王国から派遣された国軍省の辺境査察軍が常駐しているのが普通で、関所の通過記録も毎日チェックされる。
旅には、リカルドがどこからか偽造手形を入手してきたが、それでも、六十ほどのいかつい老紳士と、髪の色も目の色も違う絶対に家族には見えない若い男女が三人という面子はただでさえ怪しく、また以前通ったルートでは、エイネシアの顔を見知った者もいるかもしれない。
そうした諸々を考慮して、出来るだけ目立たない小さな関と、細い行路を。貿易では使われないような、人目に付きにくいルートを通ることにしましょう、というのが、世事に詳しいというオーブからの提案だった。
リカルドが教えてくれたが、このオーブという紳士は元々近衛の監査局に勤め、国中を渡り歩いた御仁らしい。仕事で片腕を怪我して引退し、当時宰相だった先代のブラッドワイス大公に拾われて、今の職務につくようになったが、その腕前と知識量は今も健在なのだそうだ。
そのオーブの勧めもあり、大公領からは一番近い、やや西寄りの小さな関を潜ったのが、昼下がりのことだった。
あまり混雑もしていない、本当に小さな関で、馬車が通れるような大きなものではなく、地元の人たちが行き来するようなものだ。
王都郊外の関所は何処も警戒が厳密になっているはずだったが、それでもその小さな関の警戒は大してきつくなく、何の面子かよく分からない集団が馬で通過しようとしても、問い詰めたりすることも無く、手形だけキチンと確かめるとすぐに通してくれた。
エイネシアは一応ブラウンのウィッグを付けていたけれど、それさえ意味があるのかどうかわからないくらい、呆気なかった。
そして立ち入った領地の、それなりに規模はあるが大きくはない町で、宿を取る。
初めはジェシカが、「お嬢様を町中のお宿にだなんて」とハラハラしていたが、これがお忍びの旅であることは理解していたようで、「せめて私にお世話させてください」と、手足を拭うお湯やらお茶やらを用意してくれた。
それから夜が更ける前にと、男部屋の方に集まって地図を広げる。
まずは、今後の計画を立てる所からだ。
「最初の関は簡単に行きましたが、ここから先はそう簡単ではありません。この時勢、国軍省だけでなく近衛も方々に監査として入り込んでいるでしょう」
特に、この辺りとこの辺り、と地図を指差すオーブに、エイネシアも首肯する。
およそ、きな臭い噂が絶えず、近衛が監査していそうな所領だった。
「私は多分、近衛には随分と顔が割れているわ。ウィッグぐらいでは誤魔化せないと思うのだけれど」
そう呟いたところで、「私もです」と言ったのはリカルドだった。
今はアレクシスの補佐兼護衛という立場で大公家の所属になっているが、それも近衛からの派遣という形での立場だ。元は近衛の所属であるし、そもそもリカルドの実家のグランデル侯爵家は近衛の名門。現騎士長ザラトリア候の縁者でもある。知られていて当然だ。
元近衛だというオーブのことを見知った人物も多いだろう。
「近衛に関しては、幸いザラトリア騎士長が宰相府に協調的なので、私や姫様の顔を見ても騒ぎ立てずにはいてくれるはずですが、すべてが騎士長に同調しているとは言い切れませんから……出来るだけ、遭遇しないに越したことはありませんね」
そう言うリカルドに首肯したオーブは、「ですので、こう、少々遠回りにはなりますが、迂回しようと思います」と、大きく西回りの行路を指で辿った。
迂回しても、馬車ではなく騎馬で行くので時間はそんなにかからない。風魔法が使えるというリカルドのおかげで、馬にも早掛けの魔法がかけられるから、平地ならさらに時間は短縮される。多少の遠回りも、差し引きおつりが来る速さは出せるだろう。
「この行路なら、二日で北部に入れます。問題はその北部に入ってからですが」
そうチラリとエイネシアを見やったオーブの視線に、エイネシアもじっと地図を見つめた。
実際に北部に入ったところで、エイネシアがどう行動するのかはまだ誰も聞いていない。エイネシア自身も、まだ手探りの状態で、一体どうすれば北部に内乱を起こさずに済むよう出来るのかなんて分からない。その上で、エイネシアが彼らに提案したのは、まずは一人、北部貴族に味方が欲しい、ということだった。
だからオーブの視線は即ち、北部に入って。それで、エイネシアは一体、“誰”を取り込むのか、という視線だ。
それに応えるべく、じっと地図を見つめたエイネシアは、やがておもむろに、一つの地点を指差した。
「……やはり、バーズレック領ね」
「バーズレックですか?」
首を傾げるリカルドに、エイネシアも顔を上げる。
「北部貴族の中でも、おそらくは王国に叛意的ではない貴族として、私が自信を持って名前を挙げられるのは、残念ながら伯くらいだわ」
「その根拠をお聞きしても?」
オーブの問いはごもっともで、頷いたエイネシアは、ずっと懐に大切に持ち歩いていた小麦の種が入った袋を、机に置いた。
「伯も周辺の北部貴族に協調的であるよう努めてはいたけれど、私がもたらしたこの小麦に熱心に権益を求めていた様子には、従来の血縁に頼らない北部と王国の新しい貿易を主軸にした関係性への期待が窺えたわ。もっと簡単に言うなら、国内の諍いより、自分の領地を富ませることに熱心な様子だった、と言ってもいいわね。そしてその領内に益を齎す小麦の権益を持った私が協力を申し出たところで、それを無碍にはしないであろうという自信があるわ」
「なるほど。姫様に何かあれば、今まさに領地に富を齎そうとしている新品種の小麦を失うことになる。伯は、姫様を無碍にはできませんな」
「領民のことを思う人柄や、私に対し好意的な様子が感じられたという主観的な理由も有るけれど、それだけでなく、まだ北部貴族としての歴史が浅く、伯自身も若く柔軟な物の見方ができること。それに北部ではもはや王にも等しいシルヴェスト公に対しての忠誠心が浅いのも一因ね。私の話に聞く耳を持ってくれる可能性が高い」
「ただ、イースニック領とは目と鼻の先ですよ」
そう懸念を示したリカルドには、確かに、と、オーブも地図を見る。
「どちらにしても北部に深く踏み込むには、ここらの穀倉地帯を通らねばならないわ。その点バーズレックなら、私にも多少なりとも土地勘があるし、協力的に接してくれるであろう人脈もある。それに新品種の小麦の繁殖地として私やハインツリッヒ卿が許可しうるほど、いちはやく飢饉から脱し、領地の内政が安定した土地よ」
そう言われればまったくその通りで、「なるほど」と、オーブも賛成した。
「では目指すべきは、バーズレック領」
「領へはここのハスロー子爵領を経由する前回の行程と同じでいいと思うわ。子爵は今も宰相府で懇親的にお勤めくださっている」
「では国王領は避け、周り込む形で、ドローテア領、メイナート領、オークランス領と通って参りましょう」
知らない名前ばかりだが、中央で聞かない名前ということは、いずれも北部部族出身系の貴族だろうか。
「まだかろうじて商人の出入りが途絶えていない土地です。しかし治安はかなり悪くなっているはず。姫様はくれぐれも、我々から離れないようにお気を付けを」
その言葉には、エイネシアよりもジェシカの方が厳しい顔をして、ぎゅっ、とエイネシアの腕を抱きしめた。
いよいよ、この先はそうした所領になってゆくということだ。
「大丈夫ですよ。私はアレク様みたいに、護衛をまいて行方不明になったりなんて致しませんし、そもそもアレク様みたいな偽装技術もないですから」
だから彼らのそんな緊張を紐解くかのように、そう笑って見せたところで、その大公家のお二方は大層眉を顰めて、ハァァ、と、深い深いため息をお吐きになった。
本当に、彼らの苦労がしのばれる。
◇◇◇
それからの旅程は大きな事件にこそ遭遇しなかったが、エイネシアには随分と衝撃的なものとなった。
ほんの四五日の旅程とはいえ、以前馬車に揺られて安全な行路を選んだ時と違い、騎馬で、しかも町中に宿泊したため、町の様子が具に見えたせいだ。
一見平和そうに見えても、路地の裏にはすさんだ空気が立ち込めており、賑わいの声なんて一つも聞こえない。何処へ行っても、旅行者に対して好意的なもてなしがされることもなかった。
こんな時に北へ向かおうだなんて物好きは、とち狂った商人か、たくらみごとの一つや二つある者くらいなものだ、というのは、その道中に通った関所の門兵の言葉で、「それであんたたちは何処に?」という訝しげな言葉に、「どうにも王都が住みずらくなってきましたのでね。故郷に戻ろうかと思い」と肩を落としてみせたオーブの演技は、流石のものだった。
それでも訝しむ者はいたけれど、そんな時は、意外とエイネシアのプラチナの髪が役にたった。
エーデルワイス王国はとても広い国で、元々多くの部族が統合して出来た国だから、髪や瞳の色も様々だ。
西に行けば金の髪。南に行けば赤い髪。東に行けば黒い髪。そして北に行けば、銀の髪。
元々北部でもエイネシアくらい見事なプラチナの髪をした者は早々おらず、くすんだグレーや薄茶、浅い金色が多いのだが、それでも他の土地ではまず見かけない。
既にすっかりと白髪になっているオーブが、「孫を故郷に連れて帰るところで」と言うと、案外皆も納得してくれたし、“北部が故郷”だといえば、態度の悪い宿屋の女将も表情を和らげた。
小さな町の小さな宿でさえ、南からの旅行者を厭うのだ。
その閉鎖的な空気は、嫌というほど身に感じた。
それは北部に行けば行くほど顕著で、噂に聞いていた通り、時折、クーデターを促すビラが貼られている所にも遭遇した。
その一方で、貧しい土地になればなるほど、懇親的に教会が炊き出しを行っている様子も垣間見えた。
凍えるような山裾の村の教会もないような場所に、わざわざ馬車で食料を運んできた聖職者たちが温かい汁物を仕立てて配布していたのだ。
これには驚いて、馬を止めたエイネシアは、思わず彼らに話しかけた。
交易も途絶えて物資もか細くなっているのに、何故こんなことができるのか、と。
その言葉に、どうやら地元の出身であるらしい北部系の顔立ちの神父が、嬉々と顔をほころばせて言った。
「王は我々を見捨てはしない」
どういう事か、と首を傾げたエイネシアに、神でも崇めるかのように手を組んだ老人が、「教会を通してはいるが、我々はみんな知っている。これらは全部、シルヴェスト公が施して下さっているんだ」と言った。
少しリカルド達に我儘を言って遠回りをしてもらい、実際に幾つかの大きな町を巡検してまわったが、老人が言っていた通り、教会にはシルヴェストの紋が入った木箱が幾つも積み上げられていた。
北部はもはや王都をはさんで南方との交易が途絶え、物資が不足し困窮しているというが、しかしシルヴェスト家に関してだけはいささか例外である。四公爵家の結束の元、中央政府と王都を介さない独自のルートから、シルヴェスト領にだけは他領から物資を取り寄せることができる。今もおそらく、ダグリア公の援助の元、東方のか細い交易路を使って、物資が届いているのだろう。
それをシルヴェストは惜しみなく教会に“喜捨”し、北部の各所領に施している。
それだけではなかった。
大きな町には大抵いくつもの救済院や大きな商会が並ぶものだが、錠をかけて閉ざされた店が多い中、かろうじて貧民の受け入れを行なっている救済院にはやはりシルヴェストの紋の入った木箱が運び込まれてえいた。
貿易馬車が出入りする幾つかの商会もまた、その大半がシルヴェスト領に本拠地を持つ商会だった。
くしくも北部は既に、“シルヴェスト王国”と言われても疑わないほどに、シルヴェストを主軸としてまわっているのだ。
元々そうなのか。それとも王国と北部の関係の悪化のせいなのか。
何処から何処までがその影響なのかまでは分からなかったけれど、救済院や商会の誘致などは、一朝一夕でどうにかなる物ではあるまい。きっと長い時間をかけて、こうやってシルヴェストは常日頃から、旧版図内の民達に心を砕いてきたのだ。
それは、北部貴族の所領、新興貴族の所領関係なく行われていて、領主の思惑とは関係なく、民達の間では、存分にシルヴェストへの信頼が培われているようだった。
いくらなんでも他領にまで手を出し過ぎなのではと言うようなものでもあり、だがそれが北部の“普通”なのだというのが、町を歩いてみると良く分かった。
シルヴェストを王に――。
なるほど。それもあながち、この北部ではまったく絵空事などではない、誰もが考え得る身近な思想なのだ。
これ見ると、シルヴェスト公エルジットが、王家とシルヴェストの血が同族であればこそ、王国の一部で有り得る、とこだわった理由も、少しは分かる気がした。




