5-2 情勢(2)
「シア!」
遠くから聞こえた声に振り返ると、そこにはこの数日ですっかりと見慣れた月毛の馬から軽やかに降り立ったアレクシスがいた。
今日はそれにお客様が一人。黒鹿毛の馬にのる黒と白の“聖職者服”を纏う客人には、エイネシアもびっくりと目を瞬かせて腰を浮かせた。
一体どうして……“彼”がいるのか。
「お帰りなさい、アレク様。お早かったんですね」
そう駆け寄ったところで、背後で奥様方が、「あらあら」「まぁにやけちゃって」だなんて冷やかしてくれたけれど、今はあえてそれは聞かなかったふりをして、チラリと、不慣れな様子でリカルドに手綱を取ってもらいながら馬を下りる御仁を見やった。
何やら色んなところがくたびれている気がするのは、気のせいだろうか。
「えーっと……あの。ヴィヴィ司祭が、どうして?」
そう首を傾げたところで、もたもたと馬を下りた司祭様……かつてアーデルハイド領で知り合った、西方教区所属なはずのその人が、ニコリと微笑んで丁寧な礼を尽くした。
「ご無沙汰しています、お嬢様。まさか本当にこんなところにいらしたとは」
えっと。えーっと、と、まだ少し困ったようにするエイネシアに、クスクスと笑ったアレクシスは、「取りあえず家に」とエイネシアの手を取った。
慌てて振り返って、「お話を有難うございます」と奥様方にお礼を言ったけれど、「野暮はしないであげるよ」だなんて言葉しか返って来なくて、「何を話していたの?」と首を傾げるアレクシスに、上手く返答できなかった。
別に……期待されるような話はしていなかったのだけれど。
そうして家に入ったところで、どうやらエイネシアが話し込んでいる間に戻って来たらしいノラがすでに家にいて、一礼して主人と客人を迎えた。だがヴィヴィの姿を見るや否や、おっかなびっくりと肩を跳ね上げると、お客様へのお茶の仕度も忘れて、ものすごい勢いで奥の部屋に引っ込んでしまった。
これにはエイネシアも驚いて、カラカラと笑うアレクシスと、深いため息を吐いているヴィヴィの様子に、首を傾げる。
一体何なのだろうか。
「ふっ、ふふっ。相変わらずノラには嫌われているね。ヴィヴィ司祭」
「まったく……私が何をしたというんです。殿下、あの少女によほど聖職者を嫌いになるような何かをなさったのでは?」
「さぁ? どうかな?」
そう呑気な会話をしている二人の様子に、あぁなるほど。聖職者の服を見て逃げたのか、と、納得した。それは昔、アレクシスがノラを教会に預けようとしたとかいう話と関係があるのだろうか。
「取りあえず、シア。悪いけれど、お茶を淹れてくれるかな?」
「ええ、構いませんよ」
そう慣れた様子で台所に向かうエイネシアには、忽ちエイネシアが“姫様”であることをご存知のヴィヴィ司祭が真っ青な顔をして、「何のご冗談ですかッ」と飛び上がったけれど、アレクシスはその首根っこを呆気なくつかんで席に着かせた。
「それより君は、仕事の話を」
そう促すアレクシスに、ヴィヴィはまだはらはらと困ったようにエイネシアを見ていたけれど、そのエイネシアがゆっくりと紅茶を注いでテーブルに置くと、「申し訳ありません」と礼を尽くしながら、大人しく椅子に腰を下ろした。
エイネシアも、そのままアレクシスに促されるようにしてその隣に腰を掛ける。
先程のヴィヴィとノラの様子を見ても、二人はどうやら初対面ではなかった様子であるし、それに目の前で仕方なさそうに息を吐きながらごそごそと鞄から書類を出してゆくヴィヴィの慣れた様子をみても、もしかしたらここへ来たのは初めてではないのかもしれない。
「それにしてもヴィヴィ司祭。いつ王都に?」
「殿下のお引き立てで、この度正式に王都の教会本部に異動いたしました。赴任したのはつい数日前ですが、それまでも何度かご領地とを行き来しておりまして。きっかけはお嬢様が所領でお初めになられた孤児院の件だったのですが、その折、こちらで殿下にも何度かお目にかかっていたのです」
一度肩をすくめたヴィヴィは、書類をバラバラと机に広げるアレクシスを見やると、こそりと声を潜めて。
「王弟殿下を聖歌隊の指揮者などに仕立ててしまった痴れ者の私は、その事をネタに脅され、いまや殿下の下僕となってしまったのです」
んっ? と顔を上げたアレクシスは、自分を見やるエイネシアの視線に、「え、あれ。何かな、その目は」と頬を掻く。
いや、まぁヴィヴィの冗談だとは思うけれど。
あながちこき使われているのも間違いではない気がするのは、司祭様とは思えないくらいにくたびれた様子をなさっているからだろうか。
聖職者を“使う”だなんて、なんて恐ろしい人。
だが別の見方をするなら、王都の教会本部に異動してくるような司祭様が、アレクシスの味方をしているという事。絶対中立で政治に関与をしない決まりのある教会に、アレクシスはすでに太いパイプを築いているのだ。
ヴィヴィにしてみれば、そんなはずではなかった、という所なのだろうが、相変わらずアレクシスの天然人たらし術はすさまじい。
「一体、司祭様に何をやらせていらっしゃるんですか? アレク様」
「聖職者に神に背を向けるような行いはやらせていないよ。まぁ全国津々浦々、検閲もなしにくまなく行き来できる特権と情報網は、実に有意義に活用させてもらっているけれど」
要するに、全国の教会から寄せられる情報を漏らしてもらっているわけか。
それはもう立派な諜報活動というやつで、教会の人間に絶対にやらせてはならないことな気がするのだが……いいのだろうか。
「お嬢様がこちらにいらっしゃることはけして漏洩いたしませんから、ご安心を」
心配していると思われたのか、そんなことを言うヴィヴィはすっかりと“使われる”ことに慣れた様子で、なんだか少しいたたまれなくなった。
「それで、ヴィヴィ司祭。南方はどうだ?」
広げた書類を軽く精査してまとめ終えたアレクシスが問うた問いに、エイネシアは「南方?」と首を傾げる。今気にすべきは、北方ではないのだろうか。
その問いに答えたのはヴィヴィで、「きな臭いですよ」と言う声色と共に、いくつかの書面をエイネシアの方に勧めてくれた。
教会間でやり取りされる青い特別な封が為された書面で、本来なら教会以外の人間が見てはならない類の物だ。
だがそんなことを気にする間も無く、目に入った内容にはエイネシアも眉をひそめて見入ってしまった。
「シンドリー侯爵領の……教会からですね?」
北部ばかりを気にかけていたが、そういえばシンドリー侯爵領は南部に位置するんだったか。
南部は北部と違ってラングフォードの旧版図はすっかりと瓦解し、その豊かな土地柄から、王国創建以来新興した大貴族の所領も多くなっている。
侯爵領や伯爵領など上流貴族の所領が多いのもそうだが、豊かな土地があるゆえに、それを財源に中央で幅を利かせる人材も多く、ある意味でフレデリカ派、権門派、中立派の中枢に位置するような貴族達が最もせめぎ合う地帯でもあるわけだ。
その中の一つ、シンドリー侯爵領は、南部の中でも比較的王都よりで、ラングフォードの旧版図にも入らないあたりにある。他の南部地域と同じく農産物が非常に豊富で、王都への太い街道が通っているため、貿易中継地点としても優位な土地柄であったと記憶している。
その領内で、昨今は不自然なほどの人の出入りと見知らぬ顔の増加が見られるという報告書が一通。また軍事費への捻出が膨大になっており、町中にも徴兵のお触れが出ているといった、かなり細かな領政に関するものが一通。
この二つだけでもかなりのものだが、更にヴィヴィが差し出してきた分厚い書面には、領の政務官が教会に懺悔した内容から、教会への喜捨という名目で脱税が繰り返され、シンドリー侯爵家や癒着の強い商会がかなりの額を懐にため込んでいることまで書かれていた。
これは流石に我々が見ては不味い物ではと顔を跳ね上げたのだけれど、困った顔のヴィヴィは、「これを寄越した司祭も、国にこれをどうにかしてほしいと思っているはずです」だなんて言葉で誤魔化した。
いやまぁ……そうかもしれないが。懺悔の内容を一般人に開示するのは、さすがに教会の信用問題に関わるのではなかろうか。
「これは……本当に、宜しいんですか? アレク様」
「いやぁ。ヴィヴィ司祭に情報の収集をお願いしたのは私だけれど。ここまで見事に諸々の“裏”が取れるだなんて思ってもみなかったよ」
「悪いことは何もしておりません。これは、私が宰相閣下や大公殿下の既知を得たと聞いた心ある同僚たちが、自らの意思で私に送りつけてきたものです」
ここにあるのは、ほんの一部ですよ、というヴィヴィの固い意志を孕んだ声色には、エイネシアも口を噤んだ。
そうだ。ヴィヴィも、分かっていてこんなことをやっているのだ。
そして分かっていて、この状況を憂え、教会の為に協力してくれている。
それをいつまでも懸念していては、逆に申し訳がないかもしれない。
「教会への喜捨という名目は、何かとグレーになりやすいんだ。具体的に領の財源で教会を建てたり、救済院を開いたりすれば明らかだけれど、ただ金銭を喜捨するという場合はその額も用途も不明瞭だし、教会側もそれをわざわざ公表したりはしない。不透明であることが“喜捨”の有るべき姿だからね」
アレクシスの言葉に、「そうですね」とヴィヴィも頷く。
「誰がいくら喜捨した、などと喧伝しては、教会は政治利用されてしまいますから。高額奉献者の名前は教会内でも暗黙の了解になっていますが、絶対に公表はいたしません。それを利用して、教会へ喜捨したと騙って免税を受けたり、その分を私腹として蓄える貴族や商人は元々かなり多いです」
だが教会がそれを自ら、誰それは嘘の申告をしている、などと告発することもない。
ありとあらゆる法に対して無言であることが、人々の懺悔をも受け入れる教会の有るべき姿だからというのが表向き。教会の人間が総じて、そうした何かしらの煩わしい俗世の揉め事に関わることを嫌う傾向にあるというのが本心だろう。
この国でいうところの教会とは、エイネシアの過去の記憶にある教会とは随分と趣が違って、精霊信仰という精霊の加護が集まりやすい環境を築いているという性質を持つ他には、何か強い教義や大々的な祭典があるわけではなく、孤児院や救済院を中心としたボランティア集団的な傾向が強い。
俗世を嫌って遁世した者が多いのも一つの特徴で、国法より厳しい教会法の元で戒律を守って過ごす地位も権力もないその職は、元より野心ある者や欲深い者を厭う傾向が強いのだ。
「中でもシンドリー侯爵領での教会を目くらましにした金銭の動きは破格です。同じように、最近は貴族院評議会に名を連ねるような貴族の所領での同じような手口が増えています。その金銭がどこに流れているのかも、おそらくは」
シンドリーのところ、というわけだ。
「そんなに金銭を集めて、一体どうするんでしょうね」
そうため息を吐く純朴な教会育ちのヴィヴィには、「それは色々とある」と、アレクシスが書面の一つをヴィヴィに返した。
「この軍を募っているという情報一つ見ても、莫大な資金が必要だ。兵を集めればそれを養うための兵糧と給金が必要だし、持たせる武器や鎧を揃えるのもただじゃない。シンドリー領は穀倉地帯を有しているから兵糧はある程度自前で確保できるだろうが、武器は外から買い付けるしかない。だが武器の売買は国法で禁じられている」
「密貿易となると、さらに必要額が膨らみますね」
「あぁ。北部には東方と強いパイプがあって武器も入りやすいが、ほとんどの通商権をラングフォード家が掌握している南部で、その手の不正を行なうのは厳しい。おそらくこのあたりの評議会議員の不審な金銭の流れは、法外な武器の密輸資金だろうな」
東方は唯一国内で武器の鋳造と貿易が許された土地で、領を越える際には用途と質量についてを近衛の監察局に提出しなければならない義務がある。武器を算出する東方の貴族所領ではことさら近衛の監視を厳しく受けるが、貴族院評議員にもなると、その権限で積荷の監査を潜り抜けることもできてしまう。
そんな東方の貴族が協力すれば、シンドリー領が密かに武力を蓄えるのも決して無理な話ではない。
それにしたってこんな財源がどこから出て来たのかとヴィヴィは首を傾げたけれど、それについてはエイネシアもすぐに気が付いた。
「イースニック、ですか?」
「あぁ。イースニック伯自身の羽振りがいいことは元より承知していたが、イースニック伯爵領に続いている復興国庫補助の内の相当額が、シンドリー侯や協力する貴族の元に流れているとみていいだろう。それでもまだ心もとない額ではあるが……この辺はすでに騎士長が近衛を動かして密かに調べてくれている」
「こ、国庫横領ですって?! それで私は殿下に、イースニックの情報がもっとほしい、だなんて言われていたわけですね」
そう言ったヴィヴィが、続いてごそごそと鞄から新しい書類を引っ張り出して並べた。
「生憎、あの辺りには教会も少なく、人員も地元の孤児がそのまま教会に入った場合が多いので、有益な情報は得られませんでした」
そう言いながらも、ヴィヴィが並べた紙面は結構な質量があった。
「ひとまず、民の声を中心に収集してもらいましたが、学の無い民が不信感を抱くほどに、イースニック伯周辺の金銭の動きには不透明な所が多いようですね」
目に見えて分かるくらいに国が援助を行なっているはずで、なのにそれが一切もたらされないことを、領民達でさえ気が付いているのだ。なのに領主はどんどんと肥えてゆく。その不平不満の多さが、この紙面の量に比例しているらしかった。
「こちらは金銭だけではなく、領民に対する不当な扱いに対する治領の乱れを訴えるものも膨大です」
「もはや脇目も振らずに搾取しまくっている、という感じだな」
一瞥しただけでも吐き気のしそうなものばかりで、紙面からにじみ出る訴えの切実さが、遠く離れていても胸を打つような物ばかりだった。
「ちなみに司祭としてではなく私個人の後学のためにお教えいただきたいのですが……クーデターの噂のある北部はともかく、どうして南部で武器を蓄えたり兵を備えたりする必要があるのでしょうか? 戦でもないのに」
そう首を傾げたヴィヴィには、思わずアレクシスもぐっと眉を顰めた。
エイネシアも、一瞬、それは確かに、と考えふけってしまったが、何となく漠然と分かってしまった。
本当に北部がクーデターを起こしたのだとすれば、国軍を派遣すればいい。内乱の鎮圧は、それこそ国軍の職掌であり、存在意義の一つだ。
だが国軍を派遣できない戦。あるいは、国軍では足りない数を相手に戦を仕掛けるつもりであればどうだろう。
そう……例えば、ただの内乱の鎮圧なんかじゃない。北部の王国離反……“シルヴェスト王国”との戦乱支度だとすれば。
「アレク様。これは私の考えすぎかもしれませんが……フレデリカ派は、まさか元々王国に対して叛意的な北部をわざと離反させて、あらためて王国の敵として戦で打ち滅ぼすつもり……なんかでは。ありませんよね?」
まさかそんなことまで、とは思ったが、さらにぐっと眉間の皺を深くしたアレクシスには、エイネシアも口を噤んでしまった。
そんな馬鹿なこと、と、自分で言いながらも半信半疑だったというのに、その反応を見ると、まさかそうなのだろうか。
本格的な“外国との戦”であれば、規模に応じて貴族にも徴兵許可のお達しが出る。東方であれば大半がダグリア公とその周辺領主の擁する東方公軍と東方国軍で賄われるが、それ以外の場所となると、東方国境を守らねばならない東方公が動けない以上、国軍と、貴族が抱える私兵軍集団が対処することになる。
王国が始まって以来そんな有事は殆ど存在しておらず、いまや貴族達も私兵を抱えるといっても、所領内を警備する程度にしか有していないのが普通だが、多くの軍を輩出すれば、それだけ輩出元の貴族に功績が廻ってくる機会は増え、軍権も与えられることになる。
もし今東方以外で有事があったとして、膨大な軍事力を提供できるシンドリー侯は、それだけでも王国内での大きな権力を手にすることになる。
ましてやアレクシスの評では、昨今フレデリカ妃とシンドリー侯爵は、アーデルハイド公を宰相解任に追い込むどころか公爵家の爵位を奪おうとさえしているのではとの見解だ。北部を離反させて戦を仕掛けて。それでもしかしたらその矛先は、次は西方、アーデルハイドを向く可能性だってある。
莫大な軍事力を有する東方公ダグリアや、外国交易が盛んなためにある程度の訓練された傭兵を抱える南方公ラングフォードはともかく、戦とは無縁の北部や西部ならば、下手をすれば国軍ひとつで鎮圧されかねないのも確かで、なによりもシンドリーが公爵位を狙うとしたら、戦で奪うのが“一番簡単”なのも確かだ。犠牲は大きく時間も面倒もかかるが、政局で危うい綱渡りや駆け引きをするよりも、よほどシンドリーの得意分野だろう。
無論、そんなことになって結束の固い四公爵家がおめおめと黙っているはずなんてないが、正直エイネシアにだって、それで軍を擁するダグリア公がどれほどに動いてくれるのかはちっとも想像がつかない。
もしも本当に北部がクーデターなんて起こしたら……。ましてやシンドリーが莫大な軍を蓄えていることも知らず、王国を離反しようとしたならば。
それを考えると、ただとにかく恐ろしい。
ましてやその北部貴族が、クーデターの旗頭にアレクシスなんて担ぎ出したりしてしまったら……。
「北部を、抑えておかねばなりませんね」
思わず口から吐いて出た言葉には、苦々しい顔でアレクシスが視線を寄越した。
「ねぇ、シア……何かその物言いは、良くない提案しか、続かない気がするのだけれど……」
実に察しが良いアレクシスが頭の中に過らせているのは、多分、正解だ。
「今北部を抑えられるとしたら。それは、“私”しかいませんよね?」
ほらやっぱり、と息を吐くアレクシスに、エイネシアもちょっと困った顔で肩をすくめた。
アレクシスが何を言いたいのかは嫌というほど分かる。
きっとアレクシスも同じだ。エイネシアの言いたいことは、聞かずとも分かっているはず。
「ま、ま、待ってくださいッ。お嬢様が北部に行く!? この情勢下、何を仰っているんです。たった今お嬢様がご自身で、北部を離反させて王国が戦を仕掛けようとしているみたいなことを仰ったんですよ!?」
そう良識的なことを言ったヴィヴィには、「その通りです」とエイネシアも迷わず頷いて見せる。
「だからそうさせないためにも、北部の離反を食い止める必要がある。少しでも内乱に陥りそうなアクションを起こしたら、フレデリカ派の罠にはまることになります。そうならないように、誰かが北部を諌めておかねばならない」
「だからって、お嬢様が何故ッ」
それは、と少し言い澱んだどころで、「さぞかし私を納得させられるだけの目算があるんだろうね?」と隣から抑揚のない声までしたものだから、「いや、その……」と困惑してしまった。
そんな目算はちっともないのだけれど……でも当然、北部に向かうならそれ相応の目算がないと、行かせてはくれないだろう。
そのくらい、最早北部は安全ではない場所になっている。
「目算はともかく、理由はあります」
取りあえずそう、話をすり替えてみる。
「まず第一に、私ならば北部貴族に意味無く害されることがないこと。仮にもシルヴェスト公の縁者ですし、北部系貴族達の根底にあるものが“シルヴェスト旧王家の血脈への固執”である以上、反王国勢力に対して私の存在は大きな手駒になる。これを無為に傷つけるような真似はしないはずです」
「単純に害されなければいいという話ではないよ。利用価値を根底としている以上、それは君が北部に出向くことがどれほどに危険かということの反証に他ならない」
いささか不機嫌にも聞こえるアレクシスの物言いに、「それは承知しています」と、エイネシアも頷いて見せる。
なぁなぁに誤魔化されたり、甘い言葉ではぐらかされたりするよりも、真正面からきちんと一人の政治家として言葉を返してくれることが嬉しい。感情に振り回されず、きちんとエイネシアの言葉を聞こうとしてくれていることに、安心する。
「ただ私の存在は血筋という一点だけで、彼らを束ねるのに非常に有効的であるというのが、私が北部に赴くべきと思う一番の理由です」
それは確かにその通りだと分かっているのだろう。これには、アレクシスも口を噤んだ。
「二つ目の理由は、私なら直接シルヴェスト公とやり取りができるという事」
「それは私が一番して欲しくないことだね」
あの人の恐ろしさはジルのお墨付きだから、とため息を吐くアレクシスには、エイネシアも「それは実体験済みです」と正直に答えておいた。
「ただ万が一という時に、シルヴェスト公に顔がきくことは重要です。実際に公は、以前私に免じて今しばらく傍観に徹すると約束して下さったことがあります」
「それが永遠に続くわけではないよ?」
「勿論分かっています。けれど公は一度は私にそう明言なさった。私に、北部の未来を差配しうる価値を認めて下さっている証拠です」
「……」
それは確かにそうだ、と、やはりアレクシスも口を噤む。
認めたくはないが、シルヴェスト家や北部貴族にとって、エイネシアの存在は非常に価値ある物なのだ。だからこそアレクシスはエイネシアを北部には近付けたくないのだが、逆にエイネシアは、だからこそ自分を利用すべきだと言っている。
「シア。でもそれは逆を言えば、反王国派にとって君が恰好の標的になるという話でもある。強引な手法で君を擁立して、シルヴェスト公に離反を迫る一派も出てくるだろう。北部の内乱風潮を諌めるにはヴィンセントの廃太子を視野に入れていることを明らかにしなければならないだろうけれど、それでもし廃太子後のことを問われたら、君は何て答えるんだい?」
もはやヴィンセントの王太子位に未来はない。そう思い、そう願う北部の貴族達に、それを確約して。それで、じゃあその後王国はどうするのか。それにエイネシアがどう答えるのか。
北部の貴族達が納得する答えは、そこに果たして本当に存在するのか。
「きっと……何を言っても、皆納得しないでしょうね。アレク様のお名前を出したところで、歓迎する者もいるでしょうが、逆に邪魔に思う一派も出て来るでしょう」
「そのことは、ちゃんと分かっているんだね?」
目の前でヴィヴィがきょときょとと何度も首を傾げて戸惑っていたけれど、ちゃんと行動に対する反応を理解しているエイネシアは、しかと頷いて見せる。
シルヴェストの血筋だから安泰。だが逆を言えば、北部貴族達の意に反する行動を取ってしまえば、忽ちにその血は彼らにとっての脅威となる。例えば、エイネシアのしようとしている“王家の首をすり替えることで北部を国に留めよう”という行動も、“もはや王国からの離反しかない”“北部はシルヴェストを王に抱くしかない”と思っているような過激派はにとっては、心底邪魔にしかならない。そしてそのエイネシアの行動が、抱くべき王、シルヴェスト公を王国派に留まらせてしまう可能性が高い以上、強引な手法でエイネシアを害する者が現れることも、想定しておかねばなるまい。
そこでエイネシアの中にも流れているシルヴェストの血に慮ってくれるような相手なら良いが、逆に、元ヴィンセントの許嫁だからと恨みに思う者だっているだろう。
「けれど私はシルヴェスト公の近親であり、公が養育したジルフォードの娘です。私を憎く思う者がいたとしても、彼らが大叔父様を王と仰ぐ以上すぐに害されるということにはならないでしょう。少なくとも私には、彼らとの対話の席に着ける可能性があります。私以外の者ではそうはいきませんよ?」
アレクシスが北部に赴いたとて、被る危険はエイネシアと同じ。あるいは一部の北部貴族達は、それを契機に即時クーデターを決行してしまうかもしれない。それは絶対に駄目だ。
宰相ジルフォードが今王都を離れるわけにはいかないし、豊かな所領と王家とのパイプを持つラングフォードが出向いたところで、邪険にされるか締め出されるだけだ。でもエイネシアなら、身軽に動ける体があり、そして彼らにとって相応の価値がある。エイネシアの言葉なら、彼らの耳にも届く可能性がある。
目算なんてないけれど、今北部を抑制できるとしたら、それはシルヴェスト公であり、そのシルヴェスト公を動かせるのはエイネシアだけなのだ。
それはアレクシスにも分かっている。嫌というほど分かってはいるけれど。
「……駄目だよ、シア。そこに、明確な勝算がない以上は、私は君をそんなところには行かせられない」
それは決して、私情だけが理由ではなくてね、と言う真面目な面差しのアレクシスには、エイネシアも一度口を噤んだ。
目算。勝算。出来ることならばそれをはっきりと述べたいが、正直今の段階では何をすれば彼らを説得できるのかなんて、まだ想像もつかなかった。
でもそれでも、このもたらされた情報を前に、こんなところでじっとなんてしていられない。
ここで過ごした半月は、本当に幸せで。愛おしくて。これが穏やかな情勢下ならば、いくらでも浸っていたいような時間だったけれど。
でもやっぱりそんなの、性に合わない。
「心配していただけていることは、ちゃんと分かっているんですよ。それが、どんな気持ちでの心配なのかも」
エイネシアだって、毎日心配している。
こんな情勢下でアレクシスが登城するたびに、何か起こっていやしないかと不安で不安でたまらない。
まだ腹部の怪我だって、完全に治ったわけではないのだ。いつまた同じような目に合うかだって、分かったもんじゃない。
「でも、危ないから何もするなと閉じ込められるだなんて、アレク様も、性に合わないでしょう?」
なにしろそれを理由に上王陛下の離宮を抜け出して、フレデリカの誕生祝の席に乗り込んで行ったアレクシスだ。
これには流石にアレクシスも反論の余地がなかったようで、頭を抱えながら、「それを言われると……ちょっと」と深いため息をお吐きになった。
「ただのエイネシアではなく、アーデルハイド公爵家のエイネシアとして、貴方の傍にいたいと望んだんです。今この状況下、王都から離れられないお父様やアレクシス様に変わって北部貴族達を繋ぎ止める役目を担うべきは私です。四公爵家と。そして、王家の血も引いている私。アレク様が望んで下さったのは、そんなエイネシア・フィオレ・アーデルハイドではありませんか?」
「……分かっている。それは、分かっているけれど……」
「それでも駄目だと仰るのは、それはアレク様が私を、彼らをまとめ上げる役目も任せられないほど、無能で頼りないただの子供だとお思いだからですか?」
「シア……」
そんなことを思っていないのは知っている。だから少し、ズルい言い方をしたことの自覚はあった。
でもそう言ったなら、アレクシスも分かってくれるはずだ。小さな頃から、知識も才能も求められず、それでもただ黙々と図書館で知識を蓄え続けた少女。彼女が何を見て、何を学んで、何を蓄えてきたのかを、彼は誰よりもよく知っている。
そしてその知識を発揮できる場所を少女が探しあぐね、閉塞的な自分の立場にもがいていたことも、知っている。
そうではなく、好きに学び、好きに考えろ――。それがかつて大図書館で、ハインツリッヒとアレクシスが教えてくれたことだった。
そして今、それはまさに、使うべき時なのだ。
守ってもらえることも、大切にしてくれることも、嬉しい。危険から遠ざけたいと願う、最近見せてくれるようになったその厳しい表情が、愛おしい。
でもだからこそ、ただ甘やかされるだけの存在ではいたくない。
「ただ守られているだけの女ではなく、貴方に並び立ち、その手助けをできる存在でありたい。それでは、駄目、ですか?」
首を傾げて問うてみせたエイネシアに、「そんなの絶対にダメですよ!」と慌てふためくヴィヴィとは裏腹に、二度目の深い深い吐息を吐いたアレクシスは、暫しそのまま沈黙した。
それからゆっくりと顔を上げて。
とても、とても不本意そうに。
「シルヴェスト公と直接駆け引きするような暴挙をしては、いけないよ」
その忠告に、思わずクスリと口元が緩む。
「その約束を守ってくれるなら。君に、北部の抑制を任せたい。エイネシア」
「何を仰ってっ」
バンッ、と机を叩いてヴィヴィが身を乗り出したけれど、しかしその深いため息を交えて肩を落とすアレクシスの傍らで、エイネシアが柔らかに笑みを浮かべるのを見ると、思わず口を閉ざして硬直してしまった。
エイネシアを呼ぶアレクシスの声の柔らかさや、そんなアレクシスに駆け寄って、さも自然と手を引かれたエイネシアの微睡むように美しいはにかみや。それを見れば、彼らが互いをどれ程に大切に思い合っているのかなんてすぐにわかった。
だがそんな二人が、決めたのだ。
きっと今この時も、互いに遠く離れ離れになることなんて微塵も望んでいない。
でもそんなただの色恋に浮かれた男女の姿はそこには無く、彼らはもっと大きな大局を見据えている。
そんな“王達”に、どうして自分なんかが口を挟めるだろうか。
「あぁ……まったく。貴方達は……」
なんて難儀な人たちなのか……。
絶対に認めてはいけないようなことを話しているというのに。
何故かどうしようもなく、心焦がされてしまうだなんて。




