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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第一章 定められた配役
13/192

1-8 弟の登城(2)

 戻ってきたエドワードと共に、すっかり歩き慣れた内廷を歩くと、この日公爵家の嫡男が洗礼を受けて登城していると知っているらしい様々な貴族達が、「おめでとうございます」「お喜び申します」と声をかけた。

 中にはエイネシアもすでに顔見知りになった貴族もいて、道すがら、ちょっとお姉さんぶって、「先ほどのエンリゲル侯爵はウィルフレッド殿下の学院時代のご学友」「先ほどの夫人はネイソン伯爵夫人。詩の吟詠がお得意」などとエドワードに教えた。

 自分で自分に、調子に乗ってるな、という印象は抱いたけれど、黙ってそれを聞きながらコクコクと頷いてくれるエドワードがかわいすぎて、ついつい偉そぶってしまった。

 やがて内廷の奥。もうすっかり馴染みの顔になった近衛が二人剣を掲げる建物へ足を踏み入れる。

 いつの頃からか忘れたが、顔見知りになったことで少しばかり言葉も交わすようになり、道すがら、「殿下はいらっしゃいますか?」と問うたエイネシアに、気のいい青年兵がにこやかにほほ笑んで、「お待ちですよ」と言ってくれた。

 まぁ待っているかどうかは……怪しいのだけれど。

 ただそんな言葉の使い方一つで、幼い少女の心はふわりとほころんでしまう。

 そうすると自然に足取りも軽くなり、あっという間に殿下の日中のお部屋の前までやって来た。

 ここにも馴染みの侍従が二人、扉の脇に立っているが、今日はその二人が見当たらない。

 部屋にいないのだろうかと首を傾げたところで、「姫」と呼びかけるすっかり聞き慣れた声に、はた、と廊下の先を見やった。

 そこには侍従と二人、沢山の本を抱えたアルフォンスがいて、どうやら奥の書斎へ行っていたらしいことが見て取れた。

 ヴィンセントは課題を行なう時もあまり図書館へ近づかないが、その変わり、この勉強部屋の近くに良く使う本を集めて、書斎にしているのだ。

「ごきげんよう、アル。重たそうね。手をお貸し致しましょうか?」

 そう言ってみたが、案の定すぐに、「どうかお気遣いなく」と断られた。

 アルフォンスはいくら言っても、このエイネシアへのお姫様扱いをやめないのだ。

 だが今日は少し違っていて。

「では私が手をお貸ししますよ。アル」

 そう言って歩み出たエドワードには、えっ?! と、エイネシアの方が驚いてしまった。

「あぁ。では本ではなくて、扉を頼む。手が離せない」

 さらにアルフォンスまでもそう気さくにエドワードに声をかけるものだから、益々首を傾けた。

「もしかして二人とも、顔見知りなの?」

 だからそう思いいたって口にしたところで、「そういえば姉上にはお話していませんでしたね」と、エドワードが肩をすくめた。

 まずは促されたままに扉を開けて、お先にどうぞ、と視線で促されたエイネシアが先に立ち入る。

 部屋主が不在だったが、ヴィンセントが書斎にこもっている間に勝手にこの部屋にお邪魔することはすでに何度か経験が有り、気にせず入って待っていろ、というのが王子様の言であるから、遠慮なく入って、ソファの一角に腰を下ろした。

 それからすぐに、それで、と、二人の関係についてを問いただす。

「春先の事件の頃から、父上にお願いをして武芸の師をつけていただいたのです。それで時折、ザラトリア騎士長のご指導を受けに、侯爵家へ」

「まぁ。ちっとも知らなかったわ。ではもしかしなくても、エドは私よりも早くアルとお知り合いになっていたのね」

「申し訳ありません、姫。てっきりご存知でいらっしゃったとばかり」

 でも言われてみれば思い当たる節が無いでもなかった。

 何かの会話の折にエドワードの名前が出てきた時にもアルフォンスは普通に会話を共有して受け応えていたり。あるいは最近エドワードが時折出かけていることが有るのも知っていたし、いつの頃からか屋敷の厩に見覚えのない小ぶりな馬がいるのを見かけるようにもなった。

 あれはエドワードが乗馬を学ぶにあたって、おそらくは駿馬の一大輩出領でもあるアーデルハイド領から取り寄せられた子供馬なのだろう。

 艶やかな青毛に白い鬣で、とっても凛々しい顔立ちのポニーだ。

「でもエド。どうして突然武芸だなんて? 剣や馬は好きではないのだと思っていたわ」

 一応貴族の嗜みとしての護身術などは習っていたが、この美人聡明なエドワードが武芸を嗜んでいるところなんてあまり想像がつかない。

 ゲームでも、文武両道のヴィンセント王子。剣と乗馬の名手で騎士様と称されるアルフォンス。そして聡明博識、学校一の秀才と名高いエドワード、と、知的キャラの位置付けだったように記憶している。

 まぁ、一部ルートで精霊の力を爆発させた姉を一突きで殺せるくらいの剣の腕が有ることは確かなのだが。

 それでも想像はつかなくて、首を傾けて問うてみたら、エドワードはなんだか少し恥ずかしそうに肩をすくめて見せるという、思っていたのとは違う反応が返ってきた。

「姉上が仰ったのではないですか。いつか姉上を馬に乗せて、遠駈けに連れていって欲しい、と」

 そう全く思いにも寄らなかったことを言われて、またしてもきょとんっと目を瞬かせた。

 そうだ。言った。確かに言った。

 あれはもう半年以上も前の事で、しかもベッドの中でうとうとと微睡んでいる弟に、寝物語替わりに語りかけた一方的な約束だ。

 確かに、約束します、とエドワードは言ったけれど、それも半分微睡の中での話だ。

 まさか本気にしているとは思っていなかったし、覚えているとも思わなかった。

「覚えていてくれたのね、エド。それで乗馬を?」

「はい。良く考えたら、それはもう私の役目ではないのですが……」

 そうちょっと目じりを下げたエドワードが姉の隣に見ているのは、この部屋主の事なのだろう。

「ですがいつか、私とも遠駈けに行ってください。その時は姉上の手料理を、だなんて我儘はもういいませんから」

 そう笑うエドワードに、まぁ、と頬に手を当てて、ほんのりと笑みをこぼした。

 なんて可愛いうちの弟。絶対にバスケット一杯の手料理を用意して、一緒にピクニックしてやるんだから、と、姉心が疼く。


「何の話だ? 手料理?」

 そんな中、開いたままだった扉から部屋主が顔を出したので、パッとエイネシアは席を立つと、「ごきげんよう、ヴィンセント様」と挨拶をした。

 すぐにエドワードもそれに並んで丁寧な礼を取る。

 貴族の間では、馴染みの深い相手同士でもない限りは、下位の者から先に上位の者へ声をかけることは礼を失するとされる。だから口を閉ざして王子からの許しを待つエドワードに、すぐにそれに気が付いたヴィンセントが、「顔をあげていい。礼は必要ない」と促した。

「エドワードだな。エイネシアからよく話を聞いている」

 そう言いながら手ずから持ってきた本を机の上の山の上に置いたヴィンセントが、奥の席に腰を下ろす。

「お初にお目にかかります、殿下。エドワード・フィオレ・アーデルハイドでございます。明日より近侍として、時折王宮に上がらせていただきます」

 相変わらず七歳とは思えないしっかりとした物言いでそう告げたエドワードに、「父から聞いている」というヴィンセントが、もう一度座るようにと促した。

 武門の家柄であるアルフォンスは滅多なことでは同席せず、頑なに立ったままで護衛に徹することがほとんどだが、これから一緒に学ぶ立場にもなるエドワードはこうしてヴィンセントと席を並べることが増えていくのだと思う。

 いちいち遠慮していては煩わしいだけで、ただ一言感謝をのべたエドワードは素直にその前の席へと腰を下ろした。

 本来ならばエイネシアも隣に座ってこの可愛い弟を安心させてあげたいところだが、許嫁の君の目の前とあってはたとえ相手が弟でもそうはいかず、二人の斜め向かいへと腰を下ろした。

 なんでもいいが……机に積み上がった本が、とっても邪魔な気がするのだが。これはスルーする方向でいいのだろうか。

「それで、エイネシア。何の話だ?」

 本をジッと見ていたら、そう話の矛先を向けられたから、はたと顔をそちらに向けて気を取り直す。

「エドがアルとお知り合いだったことを、つい先ほど知ったのです。弟は何でも、ザラトリア騎士長に教えを請うていたようで」

「あぁ。そういえばザラトリア候が言っていたな。もう……半年ほどになるか?」

「はい。候にはとてもよくしていただいております」

 なるほど。ヴィンセントもご存じだったのか、と思う。

 そういえば彼もまた、騎士長であるザラトリア侯の教え子なのだったか。ということは、三人はすでに同じ師に学ぶ者同士だったわけだ。

 なんだかちょっぴり羨ましい。

「それで、手料理とは?」

 どうやらまだそこが気になっていたようで、何の事だ? と首を傾げるヴィンセントに、「昔そんな口約束を」と、エイネシアが答える。

「私がエドに、いつか遠駈けに連れていって欲しいとお願いしたんです。その時は私がお弁当を作るので、持って行きましょう、と」

「君が、料理を?」

 そう首を傾げられるのは当然のことで、エイネシアも肩をすくめる。

 姉弟の会話としては睦まじくて良いのだが、実際問題、公爵令嬢、それもやがては王妃になろうかという姫がお料理だなんて、おかしなことこの上ないだろう。

 だが何しろ前世の記憶のあるエイネシアにとってみれば、料理も充分身近なものであったし、よく母の手伝いをしたり、お菓子作りなんかもした。とりわけ甘えん坊な妹の求めに応じて色々と挑戦している内に、得意といえるものになっていたと自負する。簡単な物くらいなら作れるはずだ。

「知識はあるんです。いつか挑戦してみたいと常々思っているのですが」

 ダメ元でそう口にしてみたところで、「私も食べてみたい」という思いがけない返答が返って来たから、ビックリした。

 エイネシアに王妃としての資質を誰よりも求めている人物であるからこそ、普通の令嬢らしからぬことには嫌な顔をされると思っていたのだが、どうした事だろう。気の迷いか何かだろうか。

「ではその日までに特訓致します。エド、毒見に付き合ってね」

 つい高上した気分でそう言うと、嫌な顔一つせずにニコリと顔をほころばせたエドワードが、「えぇ、いくらでも」と言ってくれた。

 なんていい子なのだろう。

 手始めに、この世界ではまだお目にかかったことのないグミなんかを作ってみようと思う。ゼラチンは料理に使われていたのを見たことがあるし、氷魔法のかけられた収蔵庫、もとい冷蔵庫に近しいものは存在しているから、何とかならないこともないだろう。

 そうだ。この世界での料理について学ぶには、それこそ図書館にいい参考書が沢山あるではないか。早速ニカに、初心者向けの本を見繕ってもらおう。

 そう思うといてもたってもいられず、そろそろ図書館に、と気が逸る。

 それを見て取ったのか、「今日はこれからお二人で図書館に?」と、アルフォンスが話題を振ってくれた。

 彼は実によく空気を読んでくれる。

「ええ。エドにも陛下からお許しがいただけたので。それから新しいレースの編み図を写しに」

 ニコリと微笑んで淑女らしい返答をすると、「相変わらず熱心だな」とヴィンセントが口元を緩めた。

 図書館に通うのは、本当は山のような課題のせい。けれどそれを彼らの前であらわにしたのは最初の一度きりで、今はヴィンセントにそういうところを見せないように心掛けている。

 図書館で過ごすのは、刺繍や編み物の図案を調べたり、詩や古吟の勉強をするため。出されている課題も、ごくごく一般的なこの国の歴史や貴族達の事、語学やマナーのような、淑女が嗜んでもおかしくない類のものばかりを挙げ、彼らが一緒の時は極力そうしたものの課題しかしないことにしている。

 いかにいずれ王妃になる姫とはいえ、やはり彼らの前で政治や経済の勉強をするのは良い顔をされないと、すぐに理解したからだ。

 だからエイネシアの言葉には、日頃彼女がアーデルハイド家でどれほどみっちり帝王学を仕込まれているかを存じているエドワードが首を傾げたけれど、良くできた弟はすぐにそんな姉の意を汲んで、「姉上のレースは母上たちにも評判です」と話を合わせてくれた。

 実際に評判なようで、手慰みに編んだドイリーなんかは女王陛下にまで献上されたくらいだ。

 それもこれも記憶が戻って以来、あまりにも暇すぎるこの世界の娯楽の少なさに、数少ない手慰みとして散々編みまくったからなのだが。

「ではヴィンセント様。私共はそろそろお暇を」

「あぁ。今日は公爵家で祝いが催されるのだろう? 帰る前の挨拶は良い」

「お気遣い有難うございます。それでは本日はこれにて失礼させていただきます」

 涼やかに席を立って一礼する姉に倣って席を立ったエドワードも、同じく丁寧な挨拶をして、姉に続いた。

 部屋を出たところで控えていた侍従に、「シアとエドは図書館へ向かって、そのまま帰宅します、とお父様に伝えて頂戴ね」と頼んだ。

 それから侍従が去る方向とは逆へ歩を向けた。

 ここから図書館へ行く時は、建物の中を通って道なりに行くのが一番近い。

 どうせならエドワードにこの素敵な庭も色々と案内したかったが、公爵家の姉弟が揃って内廷を我が物顔で散策するわけにはいくまい。

 大人しくそのまま図書館を目指した。


 ◇◇◇



「姉上は、図書館にはいつも先ほどのような理由をつけて行かれているのですか?」

 その道すがら、釈然としないといった様子の声色で口を開いたエドワードには、やはりそうきたか、と、肩をすくめた。

「ええ。レディがあまり政治だ経済だと口にするのは、やはり体裁が良くないでしょう?」

「私は姉上と小麦や街道の話をするのは楽しくて好きです」

 そんな可愛いことを言ってくれる弟には、ニコリ、と微笑みを浮かべることで、私もよ、という意を示した。

 だがそれは、あくまでも“家の中のエイネシア”なのだ。

「ここは王宮よ、エド。何事にも慎重に、慎重でないと。今はまだ子供だからで色々なことを見逃してもらえるけれど、でも子供だからこそ、ここでの一挙手一投足は、後々まで大人たちの口に上り続けるわ」

 そう声を潜めて言うエイネシアに、エドワードは素直にコクリと頷いた。

 その顔はまだどこか納得いかない、という色を残していたものの、一応は理解してくれたらしい。

「それに心配いらないわ。図書館には、理解者もいるのよ」

 だからあとはその憮然とした顔をどうにかしてあげようと、声を明るくして続ける。

「理解者、ですか?」

「有意義な議論をなさってくれる先生や、司書、研究員の方々。皆とても熱心で、私がどのようなことに興味を持っても、ちっとも嫌な顔なんてなさらないわ」

「いつもお話し下さっている、ハインツリッヒ卿とアレクシス殿下のようにですか?」

「ええ。きっと今日もアレク様がいらっしゃるわ」

 そう軽やかに歩を進めて、やがて見えてきた図書館に、あそこよ、と駆け寄る。

 それは「危ないですよ」と追ってくるエドワードが姉を窘めるほどで、しかしエイネシアが重たい扉を開いて中へと促せば、すぐにエドワードもこの迫りくるような本の森に目を輝かせた。

 そうだろう、そうだろうとも。この知的好奇心を第一にする弟が、この蔵書にときめかないわけがない。

「素敵でしょう、エド」

「ええ、本当に。十三世紀のスレイディアン式でしょうか。でも装飾はもっと新しいエルデバラン式ですね。あ。ここの細工はノーストリッド朝のシェザーリン王の離宮にあしらわれていたものと同じモチーフでは?」

 わっ、と階段の手すりに飛び付いた弟のらしくもないはしゃぎっぷりには、姉も流石に度肝を抜かれた。

 いや……うん。ちょっと予想のはるか上を行ってしまったようだ。

 それは見知らぬ来館者に声を掛けようとしたはずのカウンターの司書さんも同じで、だがすぐにも彼は目を輝かせると、「そう、そうなんですよ!」と、エドワードの言葉に食いついた。

 そういえば、いつもカウンターにいる一番若手だという彼は、建築史が専門だといっていたか。

 エドワードとは気があいそうだ。

「この図書館は十一世紀の設立で、十三世紀に改築が為され、シオルデン朝にも増改築が為されているんです。けれど各所の装飾がエルデバラン式なのは面白い特徴で、エルデバラン王の先代であったシオルデン王の時代にすでに当館に見られる鍍金技術や曲線を組み合わせた繊細な燭台、この辺りの円形を駆使して組み合わせたようなモチーフが採用されているのはとても面白く、それだけでもこの建物がどれほど価値のあるものなのかを物語っていて……」

「それはすごい! 本当にそんなことがあるのですか? このモチーフは確かエルデバラン王の肖像に描かれている玉座の側面にも刻まれていますよね?」

「そう。そうなのです! まさにエルデバラン王のモチーフなのです!」

 入館早々大盛り上がりしだして、むしろエイネシア以上に一気に図書館に馴染んだエドワードに、え、えー……、と、エイネシアはポツリと佇んだ。

 どうしよう。何か弟に変なスイッチが入ってしまっているみたいだ。

「そうだっ。こっちの部屋の天井画を彩る装飾も見てください。これも面白いんです!」

 そうエドワードを連れて奥の部屋へ駈け込んで行く司書に、エドワードもすぐに目を輝かせて飛び込んで行こうとしたが、そこではっとしたようにエイネシアを振り返った。

 見る見る頬を上気させて、うずうずと奥の部屋とエイネシアとを見比べている。

 そんな子供らしいところなんて久しぶりに見たから、なんだかつい嬉しくなってしまって、ふふっ、と肩を揺らしてしまった。

「私は課題をしているから、平気よ。存分に見ていらっしゃい」

 そう言ってあげれば、たちまち目を輝かせて、奥の部屋へと駆け込んで行った。

 いやはや、なんと俊敏なことか。あんなエドワードは始めてみた。


「ミケとあんなマイナーな話で盛り上がれる少年なんて初めて見たよ」

 すると、クツクツという笑い声が上の方から降ってきて、ふと顔をあげたエイネシアは、すぐにもドレスの裾を摘まんで礼を取った。

「ごきげんよう、アレク様。騒がしくしてしまってすみません」

「今のがエドワードかい?」

「はい。本日洗礼を終えて、始めて登城を」

「それはおめでとう」

 父すら失していた言葉をスラリと口にしてくれたアレクシスは、いつものようにのんびりと階段を降りてくると、ハイ、と、道すがらおもむろに手にした本をエイネシアに手渡した。

 何だろう? と首を傾げながら受け取った本を見ると、この部屋の二階に並んでいる古い著名なレース職人が残した図案集の一つだった。

 そのまるで見て来たかのような本のチョイスに、相変わらず、と肩をすくめてしまう。

 すでにアレクシスも、エイネシアがいつも図書館通いにレース編みやら刺繍やらの図案を書き写すといった淑女らしい用事を理由に付けていることを存じているから、いつもこうして先んじて本をチョイスしてくれているのだ。

 アレクシスのセンスは間違いないから、これで刺繍の図案本を選ぶ手間が省けた。おかげで残りの時間は有意義に本来の課題や有意義な議論に活かせる。

「今日の理由がレースだとよくお分かりになりましたね」

「前回は刺繍。その前は語学。その前が詩集。シアの理由は大体このローテーションで回っていて、時折貴族の伝記や系譜関連の調べものが混じる」

「……気が付きませんでした」

 まさか自分の適当に口にしてきたことに規則性があるとは思ってもみなかった。

 それに気が付くだなんて、この人の記憶力と洞察力は侮れない。

「それで、今日の本題は何かな?」

 そう問うてくる彼にはすでに何もかもお見通しで、ふふ、と肩を揺らしたエイネシアは、「今日は弟を案内するだけのつもりだったんです」と答えた。

 でも本当は、もし時間が取れたなら第六回目の小麦議論を交わしたかった。

「おや。もう小麦はいいのかな?」

 しかしすぐそう言われたから、まったく、本当にお見通しなのだからと肩をすくめた。

「先日出たニドレイ博士のユードレック麦芽の独占と品質保持への懸念に関する論文は?」

「読んだ。とんだ自己主張の塊のような酷い論文だったけれど、ユードレック子爵の方策批判とその理由については一理あると納得した。あと種苗法(しゅびょうほう)の穴をつく斬新な()()()()()は、なかなか面白かった」

「私は品質に関する部分に興味が有ります。博士がユードレック領では折角の改良麦芽が品質を落としてゆくとした理由がはっきりと書かれていなくて、根拠が有るのならもっと詳しく知りたいと」

「同感だ。それについては私も気になって、ハインから実に分かりやすい走り書き論文を預かっているよ。読むかい?」

「是非!」

 ハインツリッヒの専門は薬学らしいが、農学や植物学への造形も専門家に劣らない。むしろそれ以上ともいえ、彼のいう事なら間違いない、という信頼がある。

 早速、定位置になりつつある奥の部屋の重たいカーテンがかけられた窓際の大きな机へと向かって、そこでハインツリッヒのレポートを受け取った。

 この机は、昨今何かと本を積み上げて議論を重ねる三人のためにとニカが気を利かせて置いてくれたもので、周りの本も整理して、少し広めに空間を取ってくれている。

 彼らがこの図書館の常連だから、と、特別に誂えてくれたのだ。

 そんな図書館はいつも大体静かだけれど、今日はどこからか、エドワードと司書の白熱した建築学うんちく論が語られていて、なんだかちょっとおかしな感じだった。

 二人の議論には、エイネシアの前の席に腰かけて、相変わらず本を積み上げて良く分からない課題に取り掛かっているらしいアレクシスが、すごいなぁ、と感心の声をあげるほどで、ふらふらっと建築史関連の本棚に吸い込まれてゆくのを見てしまった。

 これであの王子様の課題は、また三倍。いや、五倍に膨れ上がってしまい、ハインツリッヒ先生に頭を抱えさせるに違いない。

 机の上の古代文字の本や古代文学。はたまた数学書という脈絡のないチョイスも気になるが、それと建築史はまったく関係ないと思う……のだが。

 一体あの王子様は何を目指しているのだろうか?


 エイネシアが分厚いハインツリッヒの論文を読破して、ハァァ、とすっきりした顔で満足そうな吐息を溢した頃には、何故か三人が中央のテーブルで世界儀を囲んで白熱した議論を交わしていて、いや、なんでそこから世界儀になった?! と驚嘆してしまった。

 本当に……脈絡がない。

「いつの間にやら、アレク様まで交じってしまわれたのですか?」

 だから苦笑を交えつつそう声を掛けたら、はた、と皆の顔が向く。

「すごいんだよ、シア。ウォールズ朝に流行ったウォリンテンス紋は、なんとエーデルワイスの当時の国土の形にそっくりなんだ。でもその場合東方のグリンクスの国境をどう見るのかが大きな問題になっていて、もしかしたらこの歴史的問題はウォリンテンス紋というモチーフから紐解けるかもしれない!」

 これは歴史的大発見だ、と言うアレクシスに次いで、司書のミケ青年までもが、「すごい。これはすごいことですよ!」と大興奮の声をあげた。

 うむ、それがどれだけすごいのかはエイネシアも分かるけれど。

「あの。皆様、落ち着いて? 取りあえず……ね」

 と。そう口にしたのは、他でもない。ミケ青年が興奮のあまり、世界儀を抱きしめて今にもキスしそうな様子だったからだ。

「どう思う? シア。もしこの説が有り得るなら、ウォールズ王は征服したグリンクスを、まだ自国の版図(はんと)として見ていなかったことになる」

「もっと冷静な判断が必要ですわ、アレク様。モチーフはモチーフ。他とのバランスを見て、含めない方が形が良い、と、苦渋の決断をした可能性だって、まったくないわけではありません」

「その通りだ」

「しかしウォールズ王がグリンクスにかけた情熱には疑いようもありませんから、意味を見出したいという気持ちは同じです。その紋がどれほどウォールズ王に好まれたのかを詳しく調べて見ない事には……」

「そこが奇妙なんだ。ウォリンテンス紋が最初に用いられた建物はナザレーの大聖堂。これはグリンクスを落とした翌年に、終戦記念に寄進された聖堂なんだ。だとしたら余計におかしいだろう? それからも王は度々、聖堂や教会などに特に多くこの紋を用いている。グリンクス戦で命を落とした国民への追悼だとしても、やはりグリンクスを版図に含めない紋というのは奇妙じゃないか?」

「それは……不思議だわ」

 気がつけばエイネシアも世界儀を凝視して、件の紋とやらとならべて熱心にそれを観察した。

 確かに。それはびっくりするくらい似ていて、さらにウォールズ王といえば初めて世界地図を作らせた王としても有名であるから、このモチーフがエーデルワイスの版図を模していたことに気が付かないわけがない。

 どうしよう。とっても面白くなってきた。

「それにこういう例は他にもありますわよね? うちのアーデルハイド家の百合の家紋が、元は所領が三俣の河の源流に当たって、その広がりが百合の形に似ていたからだとか。たしかラングフォード公爵家の片翼の鳥も、古い時代の所領の形だったはずです」

「それはウォールズ朝より前かな?」

「少なくともアーデルハイド家では新王国時代になって程ない頃からずっと今の家紋を用いています。それに十世紀の頃に河川整備がなされて、今では百合の形ではなくなっていますもの。少なくともこれ以前ですわ」

 ふむふむ、と考え込む二人に、「こちらがご入り用ですか?」と、すぐにもニカが数冊の本を抱えて歩み寄ってきた。

 それは紋章院の発行した貴族の紋に関する由来や承認年月日などをことこまかに記したもので、生憎とウォールズ朝より後に編纂が始まったものではあるが、その来歴には信憑性が高いとされている史料だ。

 その流石のチョイスに、そう、これこれ、と、早速それぞれ手に取った本にかじりついて黙り込むのを見ると、その傍らで、いつの間にか静かになっていたミケがクツクツと声を潜めて笑い声をあげ、同じくいつの間にか口を噤んでポカンとしていたエドワードを見やった。

「お二人はいつもこうなのですよ。アレクシス殿下は大人が舌を巻くほど博識でいらっしゃいますから、唯一真っ当に議論を交わせるのは、ここを訪れるこの国有数の博士や教授たち。それからハインツリッヒ卿くらいなもので、今や我々司書よりもこの図書館に詳しいくらいです」

「姉上からも、そう聞いています。とても聡明な方だと」

「若様のお姉君もですよ」

「え?」

「勿論、四つほどお年が離れていらっしゃいますから、今は知識量で勝るアレクシス殿下が姫様に教えを授ける事の方が多いですが、姫様の発想は新鮮でとても豊かだと常々お褒めになっておいでです。それにこの年で殿下と真っ当に議論が成立しているだけでも、私には信じられないことです」

 どうしてこの世に、八歳やそこらで王立大学のれっきとした博士の論文に対して、それを理解し、異を唱えるだなんてことができるだろうか。

 間違いなく非凡だ。

 もっともそれは、たった七歳でミケと対等に建築史の話題で盛り上がることのできたこの少年もなのだけれど。

「王国は得難い王妃候補を得られた。恐れながら、私はそう神と公爵家に感謝をしております、若様」

 そうこっそりと囁いたミケに、エドワードも顔をほころばせて、目の前でぶつぶつと本と話している姉を見やった。

 なんて熱心なのか。

 本当はこんなにも好奇心が旺盛で、学ぶという事が好きなのに。

 なのにどうして……どうしてヴィンセント王子の前ではそれを隠しているのだろうか。

 見たところ仲は睦まじいようであったのに。どうして、と。

 そう首を傾げながら。



「ところで若様。先にご忠告差し上げます。()()()()になったお二人は、まず間違いなく閉館時間まで我に返りません」


 と。そんな爆弾を投下したミケに。

 なるほど、そういうことか! と、慌てて姉の意識を現実に引き戻す努力をすることになったエドワードは、この日一日にして、いつも姉が慌てふためいて帰ってくる理由を察したのであった。






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