4-11 失踪
“居なくなるための準備”は、周到に行った。
焦らず、じっくりと案を練って、慎重に手筈を整えて。
そしてすべての構想が固まった後、考えに考えたあげく、ただ一人。ハインツリッヒに、会いに行った。
この計画を実行するに当たって、どうしても一人ではできることに限界があり、その上で、ハインツリッヒならばと思ったのだ。
いつも冷静で、ボロを出す所など見たことがない、信頼のおける先生。
そして多分、唯一エイネシアのこの提案に、理解を示してくれる人。
案の定ハインツリッヒは、エイネシアの話した計画の全貌に大層なため息を吐いて、三割増しに、いかに自分の弟子が馬鹿であるかを語ってくれたが、その上で、「わかった、協力しよう」と言ってくれた。
そのハインツリッヒに、一通の手紙をお願いした。
この計画において、最も重要になる人物への手紙を。
“居なくなる”名目は、農地視察にした。
他の理由を考えていたが、どうせやるならば、北部との関連性を疑われそうなそれであるべきだ、との指摘をくれたのは、ハインツリッヒだった。
最終収穫を終えた薬室の実験畑の麦を手に、少量を先んじて、手ずからバーズレック領のハーリア研究室に届けに行く。それが、王都を出る理由。
前回のこともあったせいで、エドワードもアンナマリアも随分と心配して、「ついこの間行ったばかりなのに」と苦言を呈したが、そんな彼らをも、「このために単位を急いで取ったのだもの」と説得した。
本当は少し、考えた。
二人には、何か言い残しておくべきではないのかと。
きっとこれから、とんでもなく心配をさせて、とんでもなく後悔をさせてしまう。
だからそうしないように、何か少しだけでも、言い残すべきではと。
だがそれは止めた。
この計画は、ほんの少しの綻びで、とんでもない大事件になってしまうのだ。
そうしないためには、例え大切な身内であろうとも、この計画を話すことはできなかった。
トランクに旅程分の荷物を詰め、ハインツリッヒから受け取った大切な麦の種を懐に抱き、実家から呼び寄せたアーデルハイド家の馬車に乗り込む。
見送りしてくれるエドワードは、まだどこか不満そうな顔をしていたけれど、エイネシアが再び視察に出向く事には納得をしてくれた。
「せめて、近衛の護衛が来るのを待ってから出発なされては如何ですか?」
エドワードが最も懸念しているのはその事のようで、だがそれも、アーデルハイドの馬車だから大丈夫。近衛とはちゃんと、以前と同じメルムント伯爵領で合流する手筈だからと、説得した。
御者の一人だけで護衛もいない旅程はエドワードだけでなく、同じく見送りに来てくれたアンナマリアまでも、「本当に大丈夫なの?」と心配そうな顔をしたけれど、それも、同じような理由で言い諭した。
「お前……見ない、顔だな」
ただアーデルハイド家の馬車の、だがアーデルハイド家では見たことのない御者に怪訝な顔をしたエドワードには、エイネシアも少しドキリとして御者を見やった。
エイネシアも知らない顔だけれど……でも多分、“分かっている”人物であるはず。
「恐れ入ります、若様。ただいま御者のフリックが、春先の一件で怪我をして休職しておりますので、その代わりにと雇い入れていただいたばかりでございます。以前は、ご領地の方の厩番として勤めておりました。スティングスと申します」
エイネシアの指示した通りのことを言った御者に、エドワードは、「スティングス?」と、僅かにその警戒を解いた。
スティングスというと、アーデルハイド領で名馬を産出する地域に遣わされている馬事総監の姓と同じだ。総監の事なら、エドワードも良く知っている。
そしてそんなことは、よほどアーデルハイド領内の事に詳しくなければ知りようのないことで、エドワードの警戒を解かせるには最も有効的な名前なのだ。
本当は彼がそんな名前でないことを……エイネシアは、知っているのだけれど。
「もう行くわ、エド。あまり遅くなっては、今日中に関を越えられないもの」
「ええ……ですが姉上。どうかくれぐれも、お気をつけて」
「有難う、エド。でも心配しないで」
今にも喉を付いて出そうな本音を、ぐっと飲み込んで。
変わりに腕を伸ばすと、ぎゅっと、その腕に弟を抱きすくめた。
すっかり大きくなってしまって、今では腕を回すのがやっとだけれど、代わりにエドワードの手が、エイネシアを抱き留めてくれた。
アーデルハイドの百合の香りと、ほんの少しの古書の香り。
頬を掠めた、自分と同じプラチナの髪に、頬を寄せて。
心配しないで、と、もう一度囁く。
「とても大切なこの麦を、持って行くわ」
「え? ええ……」
「でも一番大切な髪飾りは、置いていくわ」
「どうしたんです? 姉上」
「何でもない。でも、忘れないでね。一番大切なものは、ちゃんとここに残してあるから」
ゆっくりとエドワードから腕を解くエイネシアに、エドワードは訝しむような顔をしたけれど、その眉間の皺を、クスクスと笑いながら突いてやれば、その顔も困ったように綻んだ。
「姉上……」
「あまり怖い顔ばかりしては駄目よ、エド。お父様のようになっちゃうわ」
「怖い顔をさせているのは、誰ですか」
「まぁ。お聞きになった? アン王女。エドったら、私のせいにするつもりよ」
そう茶化して見せたら、不安そうにしていたアンナマリアも、「もぅ……貴女ったら」と、その顔をほころばせた。
そのことに、安堵する。
「では行ってきます。ちょっと遅くなるかもしれないけれど。心配しないで、待っていてね」
そう言って馬車に滑り込んだエイネシアに、「遅く? ちょっ。姉上。聞いていませんよ!」と、エドワードが馬車の扉に張り付いたけれど、そんな彼にはクスクスと笑って見せてから、手を振った。
素早く御者台に乗った御者が、若様のことなどお構いなしに鞭をしならせる。
「姉上!」
怒った声を聞きながら、ガラガラと動き出した馬車が、寮の門を出る。
遠ざかる白い壁と、青い屋根の平和な館。
頭を抱えているエドワードと、そんな彼の肩を叩きながら笑っているアンナマリアの、とても心地よいいつもの光景。
その姿がどんどんと遠ざかって。
遠ざかって。
「本当にこれで、宜しかったんですか? 姫様」
御者台の方から、少し不躾に問われたその問いに、ゆっくりと息を吐いたエイネシアは、改めて前を見据える。
学院を出て、馬車は王都郊外の方向へ。関所へ向かうための、小さな町の入口を目視する。
「構わないわ。“予定通り”に、して頂戴」
では、と。
今一度しなりをあげた鞭に打たれた馬車は、町への入り口をくぐって。
行き交う旅人がちらほらと見受けられるその場所で、おもむろに車輪を止める。
煌びやかな紋を掲げた馬車に、何だ、何事だ、と首を傾げる民達。
御者台を下りた御者が、道すがらの屋台に駆け寄って、売られていた果物を一つ、買い求める。
「姫様。ご休憩がてらに、お一ついかがですか?」
そう扉に駆け寄って果物を差し出す御者に、エイネシアは自らカーテンを掻き分けると、チラリとその物陰に潜む男達を確認しつつ、視線を寄越す。
「ええ。いただくわ」
果物を受け取るべく、カチャリと扉のノブを押しあける。
そうして果物へと手を伸ばしたエイネシアの傍らを。
ヒュンッッ、と突き抜けて行った風に、思わず目を見開いて、受け取りそこなった果物を取り落した。
ビィィンと余韻に揺れる矢羽。
エイネシアが顔を出したそのすぐ傍ら。馬車の横壁に突き刺さった、一本の矢。
いや……まさか、こんなものが飛んでくるとは思っても見なくて。
これが果たして、本当に“計画通り”なのか、どうか。ドキリドキリと心臓が高鳴る。
きゃーっ! と叫んで逃げ惑う民達と、彼らを掻き分けるようにしてと突っ込んできた馬の群れ。
そこから飛び降りた黒ずくめの男達が、剣を振り抜いて馬車を取り囲む。
「姫様っ、馬車の中へ!」
扉を塞ぐように立って賊の襲来に対処しようとした御者が、次の瞬間には剣の柄で殴られ、馬の背に放り投げられる。
「誰かっ。衛兵っ、衛兵を!」
どこかで誰かが叫んでいる。
「お貴族様の馬車が襲われている!」
「女の子がいるわ!」
どこかで誰かが、エイネシアを見ている。
その衆目の中で。
「少し……乱暴にさせていただきますよ。“姫君”」
襲撃犯にしては気遣いにあふれた声色が、そういってエイネシアの手を掴んで馬車から引きずりおろす。
きらりと日の下で瞬いたプラチナの髪と。
あっ、と振り仰いだその視線の先で、瞬きをする間も無く振り下ろされた剣。
それが刃であるのか。柄であるのか。
それが“予定通り”であるのか。“そうではない”のか。
それを判断する間も与えることはなく。
ズキリと傷んだ頭に、あっという間に目の前は暗幕に閉ざされて。
「ご無礼を……」
だが最後まで残った聴覚が、エイネシアを抱き留めた人物がそう囁くのを聞いた。
そのまま、プツリと意識を落としながら。
“アーデルハイド家の馬車が賊に襲われた”との噂は、瞬く間に王都へと伝達され。
その集団が、関所を破って北部へと逃げたとの噂だけが、残された――。
◇◇◇
ズキンと傷んだ頭に、うんっ、と一つ唸り声をあげながら、ゆっくりと身を起こす。
薄暗い部屋。ふかふかのシーツ。古びた建物と、気付け薬の香り。
そわそわと暗がりの中で手を彷徨わせて、指先に触れた布を掴むと、やんわりと掻き分ける。
途端に入ってきた赤い夕焼けの光に、一度目を細めて。
それからそっと、息を吐く。
どうやら……ことは計画通りに、進んだらしい。
どこかの大きなお屋敷の一角。すべらかなシーツと、重厚なベルベットの天蓋。目に留まった窓の瀟洒な彫刻と、床に敷かれた繊細な図柄の絨毯。金のオルモルが施された、姫君のための可憐なカウチ。
「目が覚めたかな」
何処からともなく聞こえた、低い男性の声色に、くらくらとする視界を振り払って、ベッドから足を降ろす。
寮を出た時とは違う、少し楽な部屋着のドレス。
いつの間に、誰が着替えさせてくれたのか。
でもこの格好で人前に出るのは、と躊躇したところで、ベッドの天蓋の影から延びてきたお仕着せに身を包んだ侍女の手が、エイネシアの肩にショールを纏わせてくれた。
一体いつの間に用意したのか。
更には足を下ろしたエイネシアに、柔らかい布の部屋履きを履かせてくれて、何も言わず、さりげなく手を貸して立ち上がらせてくれた。
その心遣いに感謝しつつ、ベッドの影を歩み出て。
奥のソファーに腰かけた、砕けた装いの貴人に、ゆっくりと、丁寧な一礼をする。
「このような訪問の仕方を、お許しください。グレンワイス大公」
「いや、まったく。まさか本当に、貴殿がこんなことをしでかすとはな」
そう喉の奥でクツクツと笑った大公は、手慰みにしていたらしい本を放り出すと、「座りなさい」と目の前の席を促した。
北方へと馬車を走らせたエイネシアを襲ったのは、この大公が遣わした者達だった。
でもそれは、ただのショー。お芝居だ。
エイネシアが、この王都から。そしてこの国から、“居なくなるため”の。
「まずは改めて、ご協力、有難うございます。お遣わし下さった御者と、賊は?」
「皆うちの身内だ。外に漏れる心配はない」
「私を連れ去った者の行き先については……」
「北部への関を越えさせた。元々裏仕事をやらせていた連中だ。上手くやっているだろう」
そう言う大公には、その言葉に突っ込んだらいいのかと困った顔をしたが、「何も聞かない方が、君の為だ」と言われたので、口を噤んでおいた。
まぁ大公家たるもの……そのくらいの者を飼っていたって、ちっともおかしくはない。
「さて。もう何年も音沙汰のなかった息子が手紙を寄越した時には驚いたが……エイネシア姫。これは、うちの息子が計画したことなのか?」
まだあまり詳細が分かっていないらしい大公の問いに、「いいえ」とエイネシアは俄かに肩をすくめる。
大変言い辛いが、その息子さんを巻き込んだのは、エイネシアだ。
「私が、ハイン様にお願いをして、大公にご連絡を取っていただきました」
「ほぅ。よくもまぁ、そんな大胆なことを……」
よくも知らない相手。それも、王位を狙っているような大公に協力を仰ぐなど、確かに、大胆なことだろう。
だが何も、目算がなくこの計画を練ったわけではない。
この大公の人柄を見越してのことだ。
「大公が仰っておられた通り、ハイン様は相変わらず歯に物を着せない御方でいらっしゃいます。そんなハイン様に、お聞きしてみたんです。“グレンワイス大公殿下とは、どんな御方か”と」
「ほぅ。それで。うちの愚息は、何と言っていた」
少し興味深そうに身を乗り出すその人は、やはり、思っていたような野心の塊みたいな人物ではない。
何か少し、ずれた……そう。例えばハインツリッヒが言っていたような。
「“混乱を起こして、楽しんでいるだけではないのか”と」
「ハァァ……」
がっかりとしたように深いため息を吐いた大公は、頭を抱えると、何とも言い難い面差しでエイネシアを見やった。
「あの馬鹿者め。私を何だと思っているのか……」
「私は……あながち、まったく的外れでもないと、思っていますが」
「姫まで、何を言っている。享楽で王位なんぞ狙うものか」
そう大公は呆れた顔をしたけれど、しかしだからこそ、疑わしいのだ。
彼は本当に、野心を抱いているのか。
「でもこんなお芝居に、お付き合い下さったではありませんか」
「勘違いをするな。私は姫に、協力したつもりはない」
そう俄かに口元を緩める大公は、トツ、トツ、とその指先で頬を叩いて、堂々とした態度を崩さぬエイネシアに、満足そうに笑い声を溢す。
天才などともてはやされた息子が、並々ならぬ関心を抱いた娘だ。
それに興味があっただけ。
「それに私を頼ったということは、私の派閥につくということだろう?」
試すように言ったその言葉に、一瞬ひくりと口端を歪めたエイネシアだったが、でもすぐにその顔に微睡むような笑顔を浮かべる。
その面差しは、どこか艶やかで惑わしく。無駄に容貌が整っているせいか、一層の迫力を醸す。
「ご冗談を、大公様」
蕩けるような囁き声は、男ならば誰でも虜になってしまいそうな声色で、でもその言葉の辛辣さには、にや、と、大公も指先を留めて、その“ただの小娘”などであろうはずもない姫君を見やった。
「大公様がもし私にとって不利益なことをなさるようでしたら、この狂言誘拐を、ただの本当の誘拐であったと告発するだけでございます」
「ほう。大それたことを言う。私の手元には、ハインツが送ってきた、君の計画の全貌を書いた手紙が残っているのだぞ?」
「あら、グレンワイス大公。ご存知ないのですか?」
クスリと微笑む口元が、いっそうその笑みを深くして。
「“私の先生”は、天才でいらっしゃるんですよ」
「……何が、言いたいのかな」
「その手紙。届いてから、何日経ちましたか?」
「……七日、といったところか」
「ではもう、“無くなっている”頃ですね」
「無くなっている?」
何を言っている、と訝しむ大公は、チラリと扉の前に立つ執事長に目配せする。
その合図を受けたように駆けて行く紳士を見送りつつ、ニコニコと笑みを崩さないエイネシア。
それから程なくして、慌ただしく戻ってきた執事は、「こちらでございます」と、恭しく手紙を差し出した。
ほら。無くなってなどいないではないか。
そう口元を緩めて、手紙を取りあげて。
でもその瞬間に、忽ち大公の面差しが陰った。
「……これは。どういうことだ」
は? と、首を傾げる執事と。
でも変わらず目の前で、ニコニコと微笑む姫君と。
「何故宛先が、消えている」
「そんなまさか! 取り違えたりするはずはございません!」
そう訴える執事に、「ええ、取り違えたりなさっておりませんよ」と、エイネシアがすかさず口を挟んだ。
「大公。どうぞ、中もお確かめになられては?」
その言葉に促されるようにして、中の便箋を引っ張りだし。
目に入ったその“白紙の紙面”に、深いため息を吐きながら、それをテーブルに投げ出した。
「なるほど。ハインツは、“天才”か。一体、奴はどんな手品を使った」
「何ということはありません。ハイン様は、薬草学のスペシャリスト。その紙と同じ成分で作られた特別なインクに、薬室の優秀な木魔法士が魔法をかけたものを用いてしたためたものです。そのインクは日が経つごとに紙に溶け込み、やがて同化してすべての文字は消えてなくなる。ただの“天才”が、紙の節約のためという庶民的な理由だけで生み出した、ただの“消耗品”ですよ」
鉛筆なんてものが存在しないこの世界では、インクは一度紙面に書けば二度と消えない。
紙というものもそこそこ貴重であるため、雑多な計算式や策案などを書くときは、黒板とチョークを用いるが、ただ一瞬走り書きしたいだけの計算式などにいちいち黒板を用いるのは面倒で、ましてや黒板には大きさに限りがあることに業を煮やしたハインツリッヒは、この“何度も書き直せる紙とペン”の開発に、ほとんど執念で乗り出した。
その結果生まれたのが、これだ。
かける魔法の度合いによって、消える時間の割合も変わる。
ほんの数十秒から、あるいは三日。七日。ひと月くらいまで。
これを用いて大公に手紙をしたためて欲しいとお願いした時は、ハインツリッヒに、『私の愛用品のラペル紙とラペルインクを陰謀の道具に使おうなど、恐ろしいことを』と眉を顰められたが、『でもそうしないと、ハイン様も共犯になっちゃいますよ?』と言ったら、しぶしぶ協力してくれた。
この紙自体がこの家にあることは、ここが“ハインツリッヒの実家”であることを思えばちっともおかしなことではない。
これで、エイネシアの企んだこと。ハインツリッヒの協力。そのすべての証拠は、無くなったのだ。
残っているのは、誰かが町中でアーデルハイド家の馬車を襲い、エイネシアを誘拐したという、目撃情報だけ。
「まったく……私は我が子のこの偉業を、喜べばいいのか、恨めばいいのか。これでは分からんな……」
「私の先生は、きっと大公様よりよほどの策略家でいらっしゃいますよ」
なんだかんだ言って、そんな陰謀に使えそうな代物をあっさり作り出してしまったことしかり。エイネシアが何か言ったわけでもないのに、“七日”という、最も良いタイミングに文字の消える時間設定をしたこともしかり。
何より、言葉だけでエイネシアにこんなことをさせるくらいに、怖い人だ。
「わかった。くしくも今、この現状の優位性が姫にあることは、認めよう」
「ご理解いただけたようで、感謝します」
「だがこれは我が子のこの小賢しい発明品と、それを巧みに利用した姫の才知に対する譲歩だ」
「はい」
「姫が自分の失踪を装うことで何をしでかそうとしているのかは知らないが、それが私にとって不利益になると判断した時は、直ちに姫を“売らせて”貰う」
「ご随意に。ですが、けして悪いようには致しませんことをお約束します」
よかろう、と頷いた大公は、無意味と化した手紙をその場に放り出したまま、ソファーから腰を浮かせた。
珍しく息子から手紙なんて来るから、何事かと面白がって乗ってしまったが……さて。早まっただろうか。
だが今そこで堂々と臆することもない姫が、何を考えているのか。
それに関心があるのも、また事実。
「邸内では好きにするといい。裏手の庭にも人はいないが、表の棟と東の離れは客や行商が出入りする。近づかないように」
「自分の立場は心得ております。慎重に振る舞います」
「あぁ、それから……」
チラリ、と、大公は目を細めながら、その年若い少女を見やって。
少しばかり……その顔をほころばせて。
「宜しければ、夕餐を共にしよう。ちっとも顔を見せない愚息の話でも、聞かせてくれると有難い」
そんなことを言った大公に、エイネシアは思わず一度目を瞬かせて。
ちょっと困ったように、苦笑した。
「ええ。お耳には痛い話ばかりかもしれませんが」
「それは楽しみだ」
ゆるりゆるりと扉を出て行くその背中が、途端に寂しい一人の老人のように感じられた。
そういえば聞いたことが無かったけれど……ハインツリッヒの母。大公の奥方は、どうなさったのだろうか。
物静かな廊下と、重々しい空気。窓の外の、寂れかえった庭。
見た限り、この屋敷に、女気のようなものはあまり感じられなくて。
でもこの部屋は、どこか可愛らしい装いをしているようで。
ここは、元々誰の部屋だったのだろう。
そんなことを思いながら。
机の上に散らばった便箋を一枚、手に取った。
文字の消えて、何も残っていない便箋。
でもこのチャンスを無駄にしないために。
さぁ。手始めに、何を行なおうか、と。
ゆっくりと、鋭い眼差しを持ち上げる。




