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4-9 先生(2)

 秋の色の深まった森は、歩くたびにサクサクと落ち葉が音を奏でる。

 辺りには熟れた果実のつぶれた甘い匂いが立ち込めていて、実りに生気を濃密にした森の中は、少し息苦しい。

 冷たい風は少し肌寒く、更に日の当たらぬ場所へと歩を進めるものだから、その薄暗さが益々体を冷やすようだった。

 そうしてしばらく歩いたハインツリッヒが足を止めたのは、少しばかり開けた場所の、大きな木の傍らだった。

 木の根もとに、一つ。不自然な立石が立っていた。

 自然に落ちている物とは思えない。まるで……墓標のような石だ。

「それは?」

 不自然な石に首を傾げたエイネシアに、チラリと一度そちらを見たハインツリッヒは、そこらから摘み取った野花を、石のたもとに添えた。

 そうされれば嫌でもわかる。

「ラーシュ・ブラン・ディーブレイの墓標だ」

「ディーブレイ……って。ディーブレイ伯爵家? リカルド卿の継いだ?」

 それは、アレクシスの補佐兼護衛を担っているリカルド・ブラン・ディーブレイの姓だったはずだ。彼はグランデル侯爵家の出身だが、縁戚のディーブレイ伯爵家を継いだと言っていた。ということは、この墓標はそのリカルドの縁戚のものなのか。

「ラーシュは私の学院時代の後輩だ。星雲寮で同寮でな。ディーブレイ家は近衛の家系。卒業後は、近衛に所属していた」

 それが、どうしてこんな学院の隅の、目立たない森の中に墓標などがあるのか。

 そう首を傾げるエイネシアに、ハインツリッヒはその墓標を適当に見やりながら、「これはただの器だ」と言う。

 即ち、ここにそのラーシュの亡骸が埋められているわけではないのだ。

 ただの墓標。誰かが置いた……何かの目印。

「ラーシュはこの場所で死んだ」

「この場所って……まさか、学院内でですかっ?」

 そんなことがあり得るのか。ここは治外法権的な場所であるし、ましてや近衛の介入さえ拒まれる場所。そこでどうして、近衛に入ったというその人物が命を落とすのか。

 いや……でも。

「そう。学院内でも、例外的に立ち入りできる近衛がいる」

「“影”?」

「あぁ。ラーシュは王弟アレクシスの護衛を担っていた、影だ」

 その言葉に、嫌な汗が噴き出した。

 思わず、ゆるりゆるりとその墓標に歩み寄り、膝をついて、その石に触れる。

 アレクシスの護衛を担っていた人が、亡くなった場所。それは要するに……誰かが学院内で、アレクシスの命を狙った過去が存在したということ。

 この墓標は、それを庇った人物のために……多分、アレクシスが置いたものなのだ。

「っ……そんな」

「君は会ったことはないだろうが、ラーシュは君のことも良く知っていたぞ」

「私を?」

「卒業してすぐ、アレクシスにつくようになったんだ。その頃君達は、何をしていた?」

 ハインツリッヒの学院時代の後輩ということは、年齢は一つ二つしか違わないはず。エイネシアが出会った頃のハインツリッヒが大学部に籍を置いていたことを考えれば、その同じ頃に、ラーシュは学院を出たことになる。

「もしかして……私が大図書館に通い詰め始めたのと同じ頃から、その方も護衛として?」

「あぁ。いつも物陰にいた。君は気が付いていなかっただろうが」

 まだ、王家の者の周りにいる影という存在さえ知らなかった頃の話だ。無理もない。だがそうやって、大図書館でアレクシスとあれやこれや議論を楽しんでいた頃、彼はその様子をどこかで見ていたのだ。そう言われると、他人事のような気がしない。

 そんな人が……ここで、知らぬうちに命を落としていたのだ。

 知らなかった。そんなことがあったことも。アレクシスがこの場所で、命を狙われるような事件に巻き込まれていたことも。何も。

「ラーシュを殺したのは、同じ“影”だった」

「ッ」

 ハッと顔を上げたエイネシアに、ハインツリッヒはただ静かに墓標を見つめる。

 影ということは、それを差し向けたのは王室関係者ということ。

「どう、してっ」

「信じがたいことに、アイツは学院では随分と大人しく、実に“優秀”だったそうだからな」

「っ……」

「一年で早々とほとんどの単位を先行取得するほどに有能な王弟を、牽制しておきたかったのだろう。標的は最初から、護衛の方だったようだ」

 それは一体、誰なのか。当時勢いを伸ばしていたフレデリカ派か。それともまさか……国王本人なのか。

「リカルドがディーブレイ家を継いだのは、ラーシュが死んだ後だ。ラーシュの死で跡継ぎを失ったディーブレイ家をリカルドが継いだ。アレクシスとは学院の同級で、護衛に付きやすかったのもあるが」

「ザラトリア騎士長の縁戚を、“影”ではなく“補佐”という立場で護衛に付けることで、ラーシュ卿の命を狙った人物に警告をしたんですね」

「そうだ。そしてこの判断を下したのは、騎士長と、君の父上だ」

 アレクシスが何かとリカルドを遠ざけがちなのは、ただ護衛が煩わしいからなのだと思っていた。でもそうではないのかもしれない。リカルドが、ラーシュと同じ目に合うのを厭うているからなのではないか。

 知らなかった。まさかそんなことが、あっただなんて。

「でもハイン様。この件と今回の件に、何の関係が?」

 エイネシアが問いたかったのは、“グレンワイス大公”が先だってのアレクシスの怪我の一件に関与していたのではないかという疑念についてだ。

 まさかとは思うが、王位を視野にいれた大公が、その上で邪魔になる王弟を排斥しようとしたわけではないのかと、それを聞きたかった。

「君になら分かるだろう。ラーシュの一件を、アレクシスがどう思うのか」

「それは……」

 言わずと知れたこと。自分のせいで護衛を死なせて。しかもそれが、ハインツリッヒという、師であり友であり従兄でもある人物の、少なからず親しくしていた人物でもあり。そして多分、アレクシス自身も、そのラーシュという人物とそれ相応の長い時間を一緒にいて、打ち解けた関係だったのだと思う。

 その彼に庇われて。その彼を失って。

 それは、エイネシアがこの春、自分のせいで命を落とした近衛、アーマンド・イースリーの一件のことを考えれば、痛いほどよく分かった。

 エイネシアの場合は、その日出会って、さほど話をしたわけでもない相手だった。それでも、彼が無為に命を奪われたことに、どうしようもないやるせなさを噛み締めさせられた。

 それが長年ずっと傍にいた相手ならば、一体どれほどの苦しみになるのか。優しいあの人が、どれ程悔いたのか……。

「だがアイツは一言たりとも泣き言は言わず、犯人を暴き、問い詰めたりもしなかった。いつも通りにヘラヘラとして、それからひと月と経たずに卒業論文を提出して学院を去った」

「ひと、月……」

 それはどうしてなのか。

 どうしてそんなことができるのか。

「アレク様は……わかって、いらしたのね。誰に命を狙われたのか……」

 そして多分、今回の件も。

 分かっていて、口を閉ざしている。

 何も言わず。

 近衛さえ動かさず、ただただじっと耐えて。

 そして彼がそうまでする相手は……決まりきっている。


「アレク様の命を脅かしているのは……国王陛下、なのですか?」


 ハインツリッヒに問う言葉が、どうしようもなく震えた。

 そんなはずない。そんなこと、あっていいはずがない。

 そう思うのに、なのにその人しか思い当たらない。

 ウィルフレッド王は、豪胆で朗らかで、少し楽観的すぎるきらいさえある温厚な人柄だ。

 小さな頃、エイネシアも当時王太子であったウィルフレッドに何度もお目にかかり、時には膝の上に座らされたり、頭を撫でてもらったこともある。

 剣や弓を好み、武勇を尊ぶところがある人物ではあるが、そうであるからこそ、無為に人を傷つけるような人ではない。

 それがまさか……本当にその人が、義理の弟の命を脅かしたというのか。

 そんなの、信じられるはずがない。

「陛下自身なのか。その周りなのかは、わからない。陛下の事は姫の方がよく知っているだろう」

「陛下なはずがありませんッ。そんなことをするような方ではっ」

「アレクシスも、そう言っていた」

「ッ……」

「陛下ではない。これは陛下のご意思ではない、と。私には庇っているようにしか聞こえなかったがな」

「……」

「だが刺客が王家の影だったことは間違いない。ラーシュを殺したのが、彼の見知った顔であったことも間違いではなく、近衛が護衛につくような人物は、上王陛下と国王陛下。その弟妹と子供達だけだ」

 すでに王家を離れラングフォードに嫁いでいたアンナベティ王女やアデリーン王女ではないだろう。幼かったヴィンセントである可能性も少なく、アンナマリアであるはずもない。

 そうなると、あとはもう限られている。

 今でこそフレデリカ妃が、近衛や国王の影を我が物顔でほしいままにしているが、ずっとそうだったわけではない。元より、フレデリカが国王の影を操ったのだとすれば、その責任もまた国王にある。間接的であったとしても、アレクシスの命を脅かしたのは、国王なのだ。

「正直、今後父や他の王位継承者が、アレクシスをどうするのかは分からない。だが、ここで起きた四年前の出来事と、今回の怪我の件については、断言できる」

「……大公家の、仕業じゃない」

「あぁ。うちの父が犯人なら、アレクシスは容赦などしないだろうからな」

 でもそうではなかった。

 襲ってきた犯人に、アレクシスは見覚えがあったのだろう。

 だから口を噤んだ――。


「どうして……どうして、ですか?」

 思わず、ホロリと頬を伝った涙に、エイネシアは慌てて涙を拭う。

 それでも取り留めも無く頬をこぼれた涙に、ぎゅっと瞼を閉ざして、唇を噛んだ。

 最早一体、何を信じたらいいのか。

「陛下は……アレク様の、義兄でいらっしゃるのに……」

 そして誰よりもアレクシスが、そう望んでいるのに。何故――。

「だから君たちは、“甘い”というのだよ」

 フゥ、と、重たいため息を吐くハインツリッヒに、ゆるゆると顔を上げたエイネシアは、その何処までも冷静な師匠を見やる。

 甘い――とは。彼の目には、この状況が一体、どう見えているのか。

「いいか、馬鹿弟子。その目を見開いて、私情を捨てて状況を判断しろ」

「ッ……」

「フレデリカ妃の傲慢を増長させているのは、国王だ。君達がどれほどに庇おうとも、それだけは間違いない」

「それは……」

「その国王の態度も相俟って、もはやヴィンセントの後見は失墜した。アーデルハイド公でさえ、何かにつけて宮中に顔を出すうちの父を咎めていない。それがどういうことかくらい、わかるだろう」

「あ……」

 みるみる顔を青くしたエイネシアに、ハインツリッヒは今一度息を吐いた。

 彼女にとっては、信じ難い話だったかもしれない。だがこれが事実。これが現実だ。

 いくらグレンワイス大公でも、公爵であり宰相であるジルフォードに咎められれば、宮中で勝手に人を集めて人心を煽ったりはできまい。そうなっていないということは、ジルフォードがこの情勢を傍観しているという事なのだ。それがどういう意味なのかくらいは、エイネシアにも分かる。

「アーデルハイドは……お父様は、ヴィンセント様の廃太子を視野に入れている。その後の目算を……始めている」

「そして公はその目算に、うちの父が“アリ”だと思っているということだ」

 それが今、宮中でグレンワイス大公が幅を利かせられている理由。

 そしてジルフォードはそれを、フレデリカ派への牽制として利用し、またエイネシアという個人に左右されることなく、王位を奪い得る人物として、有益とみている。それだけでも、アーデルハイドが大公の振る舞いを黙認するには充分なのだ。

 だがハインツリッヒはどうなのか。彼は、グレンワイス大公家を継ぎはしない。それを明言しておきながら、彼は今のこの現状をどう思っているのか。

「でも……グレンワイス大公が玉座についたとして、ハイン様は……」

「私は、玉座などに興味はない。父がそれに相応しいとも思っていない」

「……」

 そう。多分本当はもう、ずっと分かっていた。

 しっくりときすぎる白衣を纏い、そこで無関心な面差しで玉座とはかけ離れた木の幹に背を預けるお師匠様。

 かつて大図書館で、子供を相手に惜しみなく遠慮のない議論をぶちかまし、弟子たちをその手に育て上げた、才知ある人。


 その彼の目に、“誰”が映っているのか。


「今も昔も私は、アレクシスこそが王位につくべきと思っている。最初から。あの大図書館で、一人黙々と学ぶあいつを見かけた時から、ずっと」



 ギリ、と噛み締めた唇に、生ぬるい血の感触が口の中に溶け込んだ。

 今まで政治的な発言など一切しなかったハインツリッヒの、ただの本音。

 いつも淡々と、俗世とは無縁のような日々を送る先生の、誰よりも客観的で、冷静な、“ただの事実”。

 本当は、分かっていた。ハインツリッヒがこれまで、アレクシスに出してきた課題のラインナップ。それはかつて次期王太子の許嫁という立場にあったエイネシアに教えていたことと、まるで同じであった。

 政治、経済、司法、流通、地理学、歴史学。はては魔法学や医学、薬学に、帝王学。何が人を突き動かし、何が人を掌握させるのか。そんな、人を扱う側の心得まで。

 彼は最初からすべて、見越して。アレクシスにその才があることを知っていて、彼に教えを授けていた。

 彼がいつ、玉座についてもいいようにと――。

「どうして……ですか? だって、アレク様はそんなこと、微塵も望んでいない。それをハイン様も、よくご存知でいらっしゃるでしょう?」

「あぁ。だから私は“教えた”だけだ。土壌を作っただけ。そこに根付くかどうかは、本人が決めればいい」

 そう。確かにそうだ。ハインツリッヒは教え子たちに、あれこれと指示なんてしなかった。

 エイネシアがヴィンセントから距離を取るきっかけを作ったのは確かにハインツリッヒだったが、それもただ、『現実を見ろ』と(さと)されただけの話。別にエイネシアをヴィンセントから引き離して、ヴィンセントを廃太子に追い込もうだなんて思って言ったわけではない。それだけは確かだ。

 だから本当に、ハインツリッヒはただ傍観しているだけなのだ。

 アレクシスやエイネシアを、理性ある人柄へと導いて。

 あとは自分たちで決めろと、何も押し付けることなく。



「私がアレクシスと初めてまともに顔を合わせたのは、まだ学院に在籍していた頃だ。講義に満足できず、抜け出して忍び込んだ先の大図書館で、積み上げた本の真ん中で黙々と本を読んでいるあいつと出会った」

 ハインツリッヒが語り出したのは、小さな頃のアレクシスの話だった。

 まだアレクシスが十やそこらで。エイネシアが、ヴィンセントの許嫁になるよりも昔の話だ。

「風変わりな子供だった。小難しい本ばかり積み上げて、朝から晩まで図書館に住みついて。子供らしく遊んでいる姿を見かけないのは勿論、いやに大人びたところのある子供で、興味本位に奴が読んでいた本への批判をしたら、目を輝かせて食いついてきた」

 少し、予想外なくらいな、とわずかに口を緩めるハインツリッヒが思い出しているその人の顔は、一体どんな顔なのだろうか。それは、エイネシアも知っている顔なのだろうか。

「だがアイツと付き合えば付き合うほどに、その理不尽な立場に目眩さえした」

「理不尽……?」

「大公家に生まれながら王家の養子になったことには賛否があった。大人の身勝手な利害の中、実の家族を一度に失ったのに慰めてくれるものさえおらず、広い王宮でたった一人、誰も頼れず孤独にしていた寂しい子供だ。女王陛下の前では王子であらねばならず、だがそれ以外では王子として振舞う事が憚られ……ヴィンセントが引き取られてからはますます肩身を狭くせざるを得なかった。あいつが自由に出歩けたのは、人目のない女王の庭と、大図書館ぐらいだった」

「あ……」

「周りを刺激しないよう、そうすべきであると自分で気が付き、そう振舞うことを自分で選んだんだ。十歳にもならない、子供がだ」

 それはハインツリッヒにとって、信じ難いほどのことだった。

 狡猾で野心家な他の誰ともまるで違う。王家の子でありながら、誰よりも孤独で、なのに冷静にそれを享受する、聡明な王子。

 そして彼はハインツリッヒが教えたことを、まるで湯水のように、見る見る吸収していった。

 その非凡さには、すぐに気が付いた。

「一度、聞いたことがある。何故そうも、学ぶのかと。あるいは王位でも望んでいるのか。そう思って、興味本位でな」

 その問いにアレクシスがどう答えたのかは、聞かずとも、エイネシアには分かる気がした。

「案の定馬鹿馬鹿しいことに、『いつか義兄上をお助けしたいから』と、あのヘラヘラ顔で言っていた」

 もうその時から、アレクシスの周りには暗殺のような類のものが身近にあったのだろう。

 それはエイネシアが垣間見た体に残る幾つもの古傷からも明らかで、多分、それに義理の兄が無関係ではないものもあったのではないか。

 だがそれでも彼は迷うことなく、ただひたすらに、“義兄のため”を口にした。

 それはまるで、自分で自分に、そう言い聞かせるかのように――。

「義兄を脅かさぬよう。甥を脅かさぬよう。ただひたすらに己を殺し、ひたすらに知識を蓄えながらもそれをひけらかすことはなく、玉座から遠ざかるよう振る舞い続けた」

 だがそれでも義兄は決して本当の兄にはなり得ず、甥には嫌煙され……その孤独を紛らわすように、勉学にばかり打ち込んだ。

 あの大図書館で。ただひたすらに。

「女王陛下は、そんなアレクシスを一番よく理解していらした御方だ。ご自身が退位なさる時も、成人するまでは王室に……“家族”の元に留まるようアレクシスを諭したが、それを拒んでブラットワイス大公の位を十五で受け継いだのも、アレクシスの判断だ」

「王弟で居続けることが、ヴィンセント様の地位を脅かすことになると思ったから……」

「あぁ。配慮した国王陛下が政務の補佐を任せるようになってからも、表舞台に立つことは極力控え、地方を渡り歩いて、放蕩者を装い続けた」

「今でも、時折会議をサボって、お父様の執務室で暇をつぶしていらっしゃることがあるとか……」

「不真面目で、王には相応しくない人柄であろうとしている。だが、わざわざそう装わねばならないというのは、王に相応しい素質があるということの反証だ」

 だからわざと、それとは正反対のことをする。

 そうやって彼は、ウィルフレッドとの関係を守って来たのだ。

 その存在を脅かすことはなく、それでいながら義兄の助けになれるようにと、遠回しに働きかけて。

 そんなアレクシスを、ウィルフレッドも憎からず思っていたはずだった。

 少なくともエイネシアは、そう信じている。

 おそらく……アレクシスも。

「だがな。そんなアレクシスが、唯一、“君のこと”に関してだけは、感情的になった」

「え?」

 クツ、と口元を緩めて笑うハインツリッヒに、エイネシアは困った顔で首を傾げる。

 それは一体、どういう意味なのか。

「君のことになると、らしくも無く怒ったり焦ったりして。あの引き籠りが、日中から大図書館を飛び出してゆく所など、早々見られたものではないというのに」

 彼はいつも、その孤独の住処から女王の庭を見下ろしていて。

 そしていつも、涙をこらえて逃げ出すエイネシアを追いかけて来ては、慰めてくれた。

 何も言わず。ただその傍らで、頭を撫でて。

「近頃は特にあからさまになっている。あのアレクシスが、所構わずフレデリカやヴィンセントに喧嘩を売るなど、昔なら想像もできないことだ」

 それは例えば、春の大茶会の日の一件のように。あのような公の場所で、エイネシアを庇って、フレデリカに牽制をかけ、ヴィンセントに挑発するようなことを言って。そんなのは、これまでの彼の自制に自制を重ねたような行いからはかけ離れたことだったのだ。

 それなのに、そこまでしてエイネシアを庇ってくれた。

 あんな場所で、プロポーズまでして。それがアレクシスを、彼が最も望まない政争へと巻き込んでしまうことも分かっていたはずなのに。

 そして今も、エイネシアを犠牲にしないためにと奔走し、無駄に北部で人気を集めてしまい、それに不信感を煽られた誰かの凶刃が、彼を襲った。エイネシアが、そうさせてしまった。

「だがそれは、君のせいではない」

「それは……分かって、います。でも私にも原因が……」

「違う。そうではなく、“それ”が、本来のアレクシスなのだよ」

 一瞬では、ハインツリッヒが何を言っているのか理解できなかった。

 だが段々と、何やら妙に腑に落ちてゆく心地がする。

 フレデリカを前に、エイネシアに危害を加えることを咎め、ヴィンセントを前に、エイネシアはもう君のものではないと道理を説く。世相の揺らぐ北部を渡り歩き、彼らをたった一人で虜にしていったその人柄と才知もしかり。そうした手段で、北部を王国に繋ぎ止めようというその考えも、手段も、何もかも。すべて、アレクシスが自ら王国と王室の未来を思い、行動した結果だ。

 そこにエイネシアというきっかけがあったとしても、それを起点に、王室から“王位につきうる存在”として危険視されるほどのものを持ち、それに相応しい人柄と素質を持ち合わせていた。それは紛うこと無い、アレクシスの本質。それこそが、何も取り繕わない、彼の本来の姿なのだ。

「おかしいとは思わないか? 今のこの情勢を客観的に、冷静に見てみろ。フレデリカは政局を軽んじ、明らかに世を混乱に貶めている。ヴィンセントは浅はかにも四公爵家に喧嘩を売り、その責任も取らず、またも君を手駒として手に入れようとしている。そんな者達と、アレクシスと。本当にこの国を治めるに値する王は、誰だ?」

 いつもそう。ハインツリッヒの言葉は、正しい――。

 彼は個人的な感情があって、言っているわけではない。ただ遠くから冷静に物を見て、真っ当なことを言っているだけだ。

 国を乱す元凶と、その元凶に守られている人物を王位に据えるのが正しいのか。それとも、それさえも受け入れて裏で国を支え続けている者こそが、王位につくべきなのか。


 でもそうではない。それでは駄目なのだ。


「アレク様は、王位を望んでいません……」

「あぁ。では何故、アレクシスは王位を望まない」

「それは……」

 はっきりとは分からないけれど、分かっていることもある。

 アレクシスはいつも、義兄のためにと、己を殺し続けてきたのだ。彼らを脅かすことなく。けれど彼らの助けとなることができるようにと勉学に励んで。

「ウィルフレッド陛下のため……アレク様は、例え命を脅かされるようなことがあっても。それでも、お義兄様を、愛していらっしゃるから……だからきっと、“エーデルワイスのご印章”を、学院の寮に捨てて、ここを出て行かれたのだわ」

「印章?」

 首を傾げたハインツリッヒに、エイネシアは今なおポケットの中にあるその指輪を、服の上からぎゅっと握りしめた。

 アレクシスがこの指輪を捨てたのは……ラーシュの事があった前だろうか。それとも、後だろうか。後……な、気がする。

「古薔薇の部屋の隠し扉の中に、沢山の薔薇に埋もれるようにして、捨ててあったんです。ブラットワイスではない。エーデルワイスの印が刻まれた指輪が。きっとラーシュ卿のことがあって……」

「いや。もしも本当にアイツがその印章を捨てたというなら、それはラーシュじゃない。“君”のせいだ」

「え?」

 思いがけないことを言われて、エイネシアはパチリと目を瞬かせる。

 エイネシアのせい? いや。ハインツリッヒは何を言っているのだ。

 この印章とエイネシアは、何も関係ないではないか。アレクシスがエーデルワイスであることを捨てるのと、どうしてエイネシアが関係あるというのか。

 だってアレクシスがこの指輪を捨てた時、エイネシアはただのヴィンセントの許嫁で、今のように情勢が混乱していたわけでもなければ、ヴィンセントがエイネシアとの婚約を破棄する片鱗だって無かった。結びつけるには、無理がある。

 そう思ったのだけれど――。

「エーデルワイスとしての印章を紋章院に返却させなかったのは、上王陛下の意思だ。アレクシスはそれを返そうとしていたはずだが、学院にあったということは、上王陛下が学院に赴くアレクシスの荷物に紛れ込ませたのだろう」

「陛下が……」

「だとしたらそれに気が付いたアレクシスは、すぐにでもそれを捨てようとしたはずだ。だからその指輪が捨て置かれたのは、ラーシュの件より前。入学して間もない頃のはず」

 でもだとしても、それがどうしてエイネシアのせいになるのか。少しも意味が解らない。

 そんな顔をしたエイネシアに、ハインツリッヒは一つため息を吐きながら、「本当に分からないのか?」と問うた。

 だが分からない。

 本当に、分からない。

 それは、どういう意味なのか。

「君は、ヴィンセントの許嫁だっただろう」

「え、ぇ……。でもそれが……」

 何だというのか。

 そう言おうとした言葉が、ふと途切れて。


 少しずつ、驚きに目を見開いていったエイネシアの様子に、ハインツリッヒは今一度浅い吐息を溢した。

 私は……なんと鈍い、馬鹿弟子なのか。


「私が……ヴィンセント様の、許嫁だったから?」

「あぁ、そうだ」

「ヴィンセント様が王太子だったからではなくて……私が、その許嫁で……」

 そして多分。

「私が……ヴィンセント様を、愛おしく、思っていたから……?」

 自分が王位に近づけば、王太子であるヴィンセントの妃になるであろうエイネシアを不幸にする。どんなにか政局に憂えることがあっても、その王太子位を脅かすことはあってはならない。

 そんなことになったら……“シアが泣いてしまう”から。

「ッ……嘘……」

「嘘じゃない。アイツは昔から、君のことになると物の尺度がおかしくなる」

「じゃあ……じゃあ今。アレク様が頑なに王位を拒んでいらっしゃるのは……」

「君が、ヴィンセントの王太子位を守ろうとしているからだ」

「でもそんなのっ」

 いや。違うとは……言えないのではないのか。

 エイネシアは、アレクシスがそれを望んでいないからという。

 だがそもそも、どうしてアレクシスはそれを望んでいないのか。

 義兄であるウィルフレッドを、今なお敬愛し続けているから――それは勿論、有るだろう。ヴィンセントを脅かせば、その人との間に絶対的な亀裂を刻むことになる。

 でもそれだけじゃない。

 エイネシアが、アレクシスに言ったんじゃないか。


『私にも……その“未来”が見えたと言ったなら。アレク様は、信じますか?』


 春のフロイス・フィオーレハイド城で。あの春祭りの最中、国王陛下の戴冠の祝典の日に起きたことについてを二人で話していて。アイラ・キャロラインが言った、二つの未来――アレクシスが、エイネシアを投獄する未来と、そしてヴィンセントから王位を奪うという未来。それを見たのだという話を。

『君の目にも、私が君を投獄するように……そう、見えたのかな?』

 不安そうに問うたその人に、頷いたのは自分で。

『その時の私は、どんな顔をしているのかな?』

 その問いに、冷たい顔をしていたと告げたエイネシアを、彼はどんな顔で見ていたのか。

『それでも私は……怖いのです』

 そんなことはしないと誓う彼に、エイネシアの答えた不安の言葉。

 いつかアレクシスが王位を奪うようなことがあって。でもそうしたら自分は、牢の中で、冷たい眼差しを向けられるのではないか。そんな不安を孕んでいたエイネシアの、未来への恐れ。

『アレクシス様を……信じていても、良いですか?』

 彼の優しさに縋って、彼をその言葉で縛り付けた。

 涙を拭ってくれたその人を、エイネシアまでもが、“不自由”というしがらみにがんじがらめにしてしまった。

 本当は誰よりも優しく、国を想い、それをどうにかする才知を持った人だったのに。

 それでもただただエイネシアのために、そうとは振舞わず、王位など微塵も望まぬように振舞って。まるでそれが彼の意思であるかのように、錯覚していた。

 でも本当にそうなのか。

 アレクシスの真意とは、何なのか――。



「エイネシア。君が、ヴィンセントの王太子位にこだわる理由とは、何だ」


 ハインツリッヒの投げかけに、エイネシアは呆然とその人を見やる。

 何? 何って……分からない。

 何故、ヴィンセントだったのか。

 ヴィンセントの廃太子が、即ち、アレクシスがエイネシアを投獄するシナリオを引き起こすから?

 いいや。そんなシナリオは、もうとっくの昔に忘れ去ってしまっていた。アレクシスは絶対に、エイネシアを傷つけたりなんてしない。そう断言できる。

 アレクシスが王位争いに巻き込まれたら、彼の命が脅かされてしまうから? いいや。巻き込まれていなくても、もうずっと彼はその命を脅かされてきた。ヴィンセントはもはや、意味もなく彼の命を狙う側だ。

 ではどうして、ヴィンセントが王太子であることに拘るのか。

 それが当たり前だから? エイネシアの存在がなくとも、そうであるべきだから?

 いいや、違う。

「私……は」

 政治的な理由? アーデルハイドとして? いいや、そうじゃない。

 ヴィンセント・ルチル・エーデルワイスは、エイネシアの元許嫁で、この国の王太子。ひどい仕打ちにも黙って堪えて呑み込んで、すべてを受け流し、許し、和解した。それがアーデルハイドとして。エイネシアとして為すべきことと――そう人々に“賞賛”されるために、そうした。

 そうだ。そうして誰かに“流石”と褒めてもらうために。いや、そう思われて、誰かに自分が必要とされている存在であることを確認するために。そうして、安心するために。

 どうして、ヴィンセントが王太子であることに固執するのか。

 それはちっとも綺麗な理由じゃない。

 ただ自分が……“元許嫁”という自分が、まるで仕返しをするようにヴィンセントを追い詰めることを、誰かに非難されるのが怖いから。“醜い悪者”と罵られるのが、怖くて仕方がないから。

 だから必死に、ヴィンセントでなければならない理由を探していた。

 例えば……“国のため”、だなんていう理由をつけて。

 王家が四公爵家の圧力に左右されることなく、ウィルフレッドがそうと決めたことを四公爵家は受け入れ、従うべきだという、臣下としての当たり前。その当たり前を貫くのは、それが国のためだから。

 実際にそれはそれで、間違っていないはずで、だからこそエイネシアの行いは周囲から、“賞賛”として受け止められた。


 だが、今やどうだ?

 今のこの世情の中、果たして本当にそれが、国のためで有り続けているのか?

 フレデリカの勢いは増すばかり。国王はそれを窘めず、ヴィンセントは懸念を抱きつつも、くしくもフレデリカの望む反権門の王子と成り下がった。

 周囲の王位継承権を持つ者に対し、己の才覚や政治的な行動ではなく、エイネシアという存在を利用して牽制を加えようとする王子と、エイネシアを利用することなく、北部に血縁的紐帯とは別の、中央との絆を築くことで彼らの忠誠心を繋ごうとしている元王子と。

 本当に正しいのは、どちらなのか。

 本当に“相応しい”のは、どちらなのか。


「君が今すべきなのは、アレクシスを王位から遠ざけることか? それとも、アレクシスが王位を望むよう説得することか?」


 ハインツリッヒの言葉は、いつも正しい。

 どうしようもないくらいに、正しい――。


 国のためだと言うのであれば、今本当に国民が欲しているのが、どちらの王なのか。

 もしそれで、自分が望まない未来が引き起こされるのだとして。それで、アレクシスとウィルフレッドとの関係を壊し、恨まれることになるのだとしても。それでも今エイネシアが……エイネシア・フィオレ・アーデルハイドが為すべきなのは、“本当に正しい者”を選ぶことなのではないのか。

 それは例えば……かつて愛おしく想い、今なお幼馴染という情に捕らわれ続けているかつての大切な人を、裏切り、恨まれることになったとしても。

 その行いを、周りに非難され、非情だといわれようとも。

 それが捨てられた嫉妬だなどと不名誉な中傷を受けたとしても。

 その憎しみと非難を受ける覚悟を、持つこと。

 それでも構わないと説得して。

 自ら、赤い罪の薔薇を手折って――。



「ッ……でも。それでも……私は……」


 どうしようもなく。手に触れた冷たい土の感触に、ザリリと爪が土を掻く。

 大理石の床も、ベルベットの毛氈もない。ただ土と森とお日様の匂いの中で、みずみずしく実った野菜を手に、『これでケーキを焼いてよ』と言うその人に、屈託なく微笑んでいた日々が愛おしくてたまらない。

 きな臭い政争とは無縁に、手を繋いで歩いてまわった町中や、民衆に交じって踊った規則性も何もない思うがままのダンス。王冠なんかよりもはるかに似合う、花冠を被いた王子様。

 その日々に、恋をした。

 何も持たない、“ただのエイネシア”を愛していると言ってくれたその人に、恋をした。

 だから……その人を王位争いだなんてものに巻き込むのが、嫌で。たまらなく、嫌で。

 沢山傷ついてきたその人を、もうこれ以上傷つけたくなくて。傷ついてほしくなくて。

 これ以上、残酷なことを……言えるはずがなくて。

「……あぁ、分かっている。私も、飄々と好き勝手をして、ヘラヘラと笑っているアイツが、嫌いじゃない。だからアイツに、王位を望めとは言えなかった。過去、一度もな」

 ハインツリッヒはそう言うと、ゆっくりと木から背を浮かせながら、俯くエイネシアに吐息を吐いた。


 悩ましいのは当然だろう。

 でもそれでも、彼女は決めねばならない。

 アーデルハイドが、何を選び、誰を導くのか。

 彼女はそれだけの重責を担う立場であって。

 そしてハインツリッヒは、信じてもいる。この子には、それを定め、そのために歩んで行く力があると。

 小さな頃から見ていたのだから、間違いない。

 あの王宮の片隅の大図書館で出会った、ハインツリッヒが知る限り、もっとも非常識な二人の子供。

 聡明で英明だが王位を望まない馬鹿な王子と、王妃に望まれながら英知と才知を望まれずにいた飢えたお姫様。そんな彼らが、本気で国を憂えたなら。そしたらこの国は、どうなるのか。

 土の上にしゃがみ込んで、野菜の話をしている二人はとても楽しそうだったけれど、でもそんなのはまやかしだ。

 彼らが憂えるべきはもっと広い国土そのものであり、そうできるだけの才が、あるはず。

 昔から何もかも抑圧されてばかりだった教え子達を、放っておいてあげたいと思う気持ちが半分と。その教え子達が思う存分、その才を発揮できる土壌を与えたいと思う気持ちが半分。それを見てみたいと……疼く気持ちも、ほんの少し。

 それはきっと、彼らにとってとても悩ましく、辛い選択でもあるはずだけど。

 愚痴くらいなら……一緒に背負ってやってもいいと、思う。


「だから選べ。本当に選ぶべきものを」


 誰と示唆するわけではない。

 ただ、選ぶべきものを。

 それでもエイネシアがヴィンセントを選ぶというのであれば、それが我が弟子の選択なのだと受け入れよう。

 よもやグレンワイス大公など選ばれては失笑するが、それもまた一つの道なのだと納得しよう。

 選ぶのは、彼女自身だ。

 そして何を選んだとしても、ハインツリッヒはハインツリッヒのまま。


「今回の宿題は、難題だ。だが提出期限は、そう長くはないぞ。馬鹿弟子」


 去ってゆくハインツリッヒの背を見やるエイネシアの眼差しに、僅かに困惑と。それから、困ったような苦い作り笑いが浮かぶ。

 なんてひどい先生。

 爆弾を投下させるだけさせておいて、こんなところに放り出して。

 ちっとも、優しくなんてなくて。

 でも。


「はい……先生」


 何を選んでも、その人は変わらない。

 そう分かった。





 白い薔薇は、真紅に染まる。

 拭いようもない、沢山の罪に浸されて。

 その選択に、誰一人として裏切ることのないハッピーエンドなど存在しない。

 その白い花を、一体、どんな罪で染めるのか――。

 今選ぶべきは、その罪の種類だけ。


 さぁ。

 考えよう。



 どんな罪を、背負うのかを――。







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