4-9 先生(1)
「まったく……どれだけ心配をしたとお思いですか、姉上」
久方ぶりに帰ってきた学院の寮で、出迎えたエドワードの変わらない第一声に、妙に心が凪いだのは、気のせいじゃなかったと思う。
とても怖い顔をしているのに、それがどうしようもなくいつも通りなのが嬉しくて、思わず顔をほころばせたら、「姉上……」と、益々怖い顔をされてしまった。
でもそれが安堵をよんで、更にエイネシアを笑わせてしまう。
「ごめんなさい、エド。でもなんだか少し、ほっとしたの」
そう言って、ぎゅっ、とエドワードに抱き着いた珍しいエイネシアの行動には、エドワードも流石に驚いた顔をして、宙に手を浮かせたまま硬直した。
昔はエドワードの方から突撃してきて中々離れてくれなかったものだが、いつの間にか反応が紳士になっていて、ちょっと笑った。
「貴方達、本当に仲がいいんだから。でもそろそろ交替ね」
続けて、エイネシアの帰寮を聞いてやってきたアンナマリアがそう言うのを聞くと、顔を上げたエイネシアも、「さぁお義姉様」と手を広げたアンナマリアに抱き着いた。
そうしてぎゅっと抱きすくめあった友人に、なんだかおかしくて、つい苦笑が零れ落ちる。
「ふふっ。ちょっと恥ずかしいわね」
「自分から弟に抱き着いたお義姉様が、何を言ってらっしゃるんです」
それはそうなんだけど、と、腕を解いたところで、アンナマリアはぎゅっとエイネシアの片腕に抱き着いたまま、談話室へと引っ張って行った。きっちりみっちり事情を聞くまで、簡単には手放してはくれないようだ。流石はアンナマリア様。案の定、エドワードもそれに付いてきて、大人しくソファーに縛り付けられてしまった。
「それで? 北部視察の結果は如何でしたか、姉上」
「まったく……誰もかれも、そればかり」
「勘違いしないでください。私が聞きたいのは、北部の雰囲気がどうだったかとか、大叔父上と何を話したのかなんてことではありませんから」
「……」
どうして学院にいたはずのエドワードがそんなことを知っているのだろうか。
「そうではなく、私に黙って勝手に寮を出て、勝手に北部にご旅行なさって。で、その旅行はどうでしたか、という質問です」
「え、えーっと……」
うん。やっぱり忘れてはくれていなかったよね、と肩をすくめる。
「勝手にも何も……半日でお父様に手を打たれて、すぐにお目付け役がいらっしゃったわ。私ときたら、一人じゃ関所も越えられなかったんだから」
「あぁ。アーウィンが同行したそうですね」
なるほど。情報源はアーウィンか……。
「あとアルフォンスも。エド、貴方アルに、私が馬に乗りたがったら止めるように、だなんて言ったんですって?」
そう言うと、エドワードは深いため息を一つ吐いた。
「アルから手紙が来ていましたよ。止めようとしたが、アーウィンが強引に乗せてしまったとか。まったく。お怪我がなくてよかったものの……」
「アルには筋がいいと褒めていただいたのよ。もう一人で馬に乗って、少しなら走らせることもできるわ」
そう自慢気に言ったところで、「だから姉上には乗馬をお教えしたくなったんですが」と、エドワードが頭を抱えた。
なるほど。ただでさえ一人でふらふらと動き回るエイネシアから、足を奪っておきたかったというわけだ。その気持ちは分からなくはないから、エイネシアもちょっと肩をすくめておいた。
「いいなぁ、お義姉様。私もアルに乗馬を教えてと言ったのに、拒否されたのよ。じゃあ後ろに乗せなさいと言ったのに、それも」
むすっとするアンナマリアには、「それは近衛として当然ですよ」とエドワードが苦笑を溢す。
生真面目なアルフォンスのことだ。まさか王女殿下に危ないことをさせたり、近衛の立場で自分の馬に乗せるだなんて無礼なことは出来やしないだろう。それが、“幼馴染”のアンナマリアさんには不満のようだ。
「ふふ。やっぱり……ここは、いいわね。なんだか落ち着くわ」
そう肩の力を抜いたところで、久方ぶりに見るエニーが、「そう言っていただけると、星雲寮の使用人冥利にも尽きるというものです」と、紅茶を置いてくれた。
レディグラムとタイナーを半々でブレンドした、久方ぶりの紅茶だ。いつものその味が、とても心地よい。
この寮で、アルフォンスやビアンナがまだいて、エブリルにジュスタス達。それからエドワードとアンナマリアがいて。その日々には辛いことも多かったけれど、幸せなことも沢山あった。
今もそう。外のしがらみからは隔絶されて、皆と過ごす時間は平和そのもの。それは宮中で感じた現実とは、とてもかけ離れたものであるかのよう。
今目の前で同じようにエニーの淹れた紅茶を嗜みながらのんびりと寛いでいるこの二人が、よもや日に日に王位争いだなんてものに巻き込まれつつあることなど、少しも感じさせない。この二人が結婚して王位を継ぐ可能性だって、ない話ではないというのに。二人はそれを、知っているのだろうか。
そう思ったところで、ふとエイネシアはアンナマリアを見やって、口を引き結んだ。
いいや。そんなのは駄目だ。だってアンナマリアには、“想い人”がいるんじゃなかったのか。
「シアお義姉様? どうかなさいました?」
きょとりと首を傾げる、あどけない顔。何度も何度もエイネシアを助け、支えてくれた親友。まるで妹のように、大切な人。
「アン王女……そういえば私、ずっと聞きそびれていて……」
「何かしら?」
チラと見やったエドワードは平然とお茶を飲んでいて、気にする様子もない。
いや……アンナマリアの想い人は、エドワードではなかったのだ。それはもう、間違いない。
でもだとしたら、結局のところそれは誰なのか。
あの舞踏会の夜、アンナマリアは何処で、何をしていたのか。
誰と、一緒だったのか。
「以前、アン王女の言っていた……」
想い人って。結局誰なのか……そう尋ねようとしたところで、折悪くコンコンと丁寧に戸を叩いた音に、エイネシアは口を噤んだ。
返事を待たずに開いた扉から顔を出したのは寮の侍女のアニタで、その手には良く磨かれた銀盤に一通の手紙とペーパーナイフが持たれていた。
その恭しい様子には嫌な予感がしたけれど、しかし銀盤の上の手紙が粗末な粗い紙面であるのを見ると、皆揃って首を傾げてしまった。
この場にいる貴人に届けられる手紙にしては、趣がおかしい。一体誰宛てなのかと思いきや。
「ご歓談中失礼いたします。エイネシアお嬢様。ただいま寮の方に、こちらの“風手紙”が」
そう言うアニタに、すぐにもそれが何であるかを悟ったエイネシアは、困った顔で肩をすくめた。
間違いない。貴重な風手紙をこうもやすやすと使い、なのに紙自体は大して貴重でもない砕けたものとなると、差出人の心当たりは一つ。王立第三薬学研究室しかない。
アニタが無駄に丁寧に銀盤に乗せて持ってきたのは、差出人の“薬室長”が、仮にも大公家の人間だから。手紙が風手紙なのは、彼の部下が優秀な風魔法士だからである。
「ハイン様ったら……一体いつどこで、誰から私が学院に戻ったことをお聞きになったのかしら」
そうなればもう差出人は一人しか思い当たらず、警戒を解いたエドワードも「相変わらずですね」と自ら盆の上から手紙を取りあげ、ペーパーナイフで簡易の封を断ってからエイネシアに差し出してくれた。
きちんとした便箋でもなく、ただメモを折りたたんだような手紙も相変わらず。書かれていた内容も実に簡潔で、今すぐエイネシアに提出させたい報告書がただただ箇条書きにされているだけの代物だった。
それには覗き込んだアンナマリアが、思わず、「うわ……」と顔を濁す。
「まったく……皆、シア様を働かせすぎよ。たった今寮に戻ったばかりだというのに」
そう再びぎゅっとエイネシアの腕を掴んだアンナマリアは、暗に、行かせない、と主張しているようだった。
「まったくですね。姉上は一応まだ学生だというのに」
同じくそう言って手ずからエイネシアのカップにおかわりの紅茶を注ぐエドワードの様子を見たって、やはりエイネシアを行かせる気はないようだった。
これにはエイネシアも苦笑を溢しつつ、けれどもう一度チラリと紙面を見ると、困った顔をした。
『心配せずとも、君の会いたくない人物は上王陛下の離宮に閉じ込められている。奴が出て来る前に、早急に報告に来ることをお勧めする』
そんな何とも言い難い一言を付け加えたハインツリッヒも、一体どういうつもりなのか。
いや……単純に、まどろっこしいことはどうでもいいから、さっさと報告をしろ、という事なのだろうけれど。
これも、“日常の平和”といえばそうなのかもしれない。
でも……ハインツリッヒは、分かっているのだろうか。彼の実の父が今、王宮でどう振舞っているのか。
「ごめんなさい、アン王女、エド。ちょっと薬室に行ってくるわ」
「もうっ。お義姉様!」
「姉上……」
心配してくれる二人には悪いけれど、でも第三薬室も今回の小麦会議にかかる麦の話とは無関係ではないので、報告は速やかにこなすべきである。それに、ハインツリッヒが言う通りなら……早い方がいい。
「報告を終えたら、すぐに戻ってくるわ」
「絶対ですよ?」
「ええ」
「では今日は夕餐をご一緒に。そうお約束してくれるなら、行かせて差し上げますわ」
ピンと指を立てて、まるで母親みたいに言うアンナマリアには、ついクスクスと笑ってしまった。
心配を……かけているのだと思う。一人で、難しい方にばかり行かないようにと気を引いて、エイネシアの表情をじっと見定めて。それが分かっているから、エイネシアもほっとできる。
「ええ、お約束するわ、アン王女。エドも一緒にね」
そう言えば、渋る顔をしていたエドワードも、仕方なさそうに息を吐く。
「一緒に行きますと言っても、どうせお断わりになるんでしょう?」
「だってエド……私が麦畑にしゃがみ込んで農作業なんてしようものなら……」
「ハァっ、嘆かわしい!」
でしょう? と肩をすくめながら、立ち上がる。
まだ二人とは色々と話していたかったけれど、それはまた後で。取りあえずやるべきことをやってしまおう。
「では、ちょっと行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
「行ってらっしゃい。お帰りをお待ちしてるわね」
そう見送ってくれる二人の存在に、ほこりと顔をほころばせて。
持ち返った資料をたっぷりと腕に抱えたエイネシアは、久方ぶりの薬室を目指した。
◇◇◇
「土壌報告に関するものはこれだけか? 土質は? 現在の栽培品種の生育範囲と成長率に関する報告は?」
エイネシアの持ち返った資料を机一杯に広げて凄まじい勢いで目を通した室長殿の仰りに、エイネシアは早速、肩をすくめる羽目になった。
聞きたいことがあって来たのだけれど……それを聞く余裕なんて微塵もない。
容赦なく駄目出しされるどころか、「農地視察はその……思いがけない客人のせいで、満足にできなくて」と言い訳をしたら、「何をひるんでいるんだ、馬鹿弟子が」と見下すように呆れ顔をされて二の句が告げなくなった。
うぬ……やはりハインツリッヒはハインツリッヒだった。
きな臭い政争とは全く無関係で、ただひたすらに知識にだけ貪欲。もういっそすがすがしすぎて、エイネシアもなにやら馬鹿らしくなってしまう。
「でも、譲渡条件の方はちっとも譲らなかったんですからね!」
そうバンッと別の資料を提示したところで、目を通したハインツリッヒは、ふむ、と頷く。
よしよし。納得してもらえただろうか。
「権利はきちんと守ったようだな。この条件でよくバーズレック伯が納得したな」
「だてに先乗りして、色々と下調べしていませんよ」
「それについては誉めてやろう」
無謀な旅をしたことを褒められたのはこれが初めてだ。
やっぱりこの人は、周りとはかなりベクトルが違っている。王位争いだなんて、とんでもなく無縁。それこそ、百八十度くらい違っている。
でも……どうなのだろうか。
グレンワイス大公は本気だった。本気でなければ、あんなところで堂々と権門貴族を集めて、国王侍従を前にあんなあけすけな発言などできたものではないだろう。それをこの人は、どう思ってるのか。何を、思っているのか。
そう、チラチラとモノ言いたそうに見やるものの、ちっとも気にした素振りのないハインツリッヒと来たら、「次の収穫が最後になるな」などと真面目に麦の話を続けていて、更にあれこれと書類の内容についてエイネシアに問う。その関心はあくまで、麦だけで、北部の政治にだって関わる気などないのは一目瞭然だった。
「温室はどうだった」
「問題なく機能しました。ただ……シーズリースにあんな意味不明なマニュアルを書かせたのは、ハイン様なのですか?」
そう呆れたように言ったところで、薬草園で作業をしていたシーズリースが、「えっ!?」と驚嘆の声を挙げて慌てて立ち上がった。
どうやら、シーズリースが良かれと思って自らの意思で書いたものだったらしい……。
「何か問題が?」
「はぁ……」
説明してもいいが……伝わる気がちっともしない。
「クリンクス博士が、薬室には直ちに温室の設計と使用魔法陣に関する報告をライブラに提出する義務がある、と言っていらっしゃいましたよ」
「面倒な……この程度のものをいちいちライブラにあげていては、研究が進まない」
ほらやっぱり、と肩をすくめるエイネシアに、「そんなことを言うのであれば、君が草稿を書いて来なさい」なんてことまで言うものだから益々呆れた。
マニュアルを意味不明扱いされたシーズリースも、ちょっと恥ずかしそうに頬を染めて頭を掻いていて、「そうして頂いた方が私も助かります」なんて言っている。まぁ確かに……シーズリースに書かせたんじゃあ、結局何を言いたいのかわからないままの超難関論文になりそうな気がしないではないが。
「まったく……この情勢下、私にそんなことを仰るだなんて。ハイン様くらいのものですよ」
そうつい口から吐いて出た言葉に、チラ、と、ハインツリッヒの視線が投げかけられる。
しまった。弱音みたいになってしまっただろうか。それとも、ハインツリッヒの関わりたくないものを口にして、忌まわしく思われただろうか。
そう懸念して気まずく思っていたのは些細な時間で、「何を言っている」と首を傾げるハインツリッヒの声色はいつもと変わらず。
「君は私の弟子なのだから、弟子ならば……」
「師匠の言うことは黙って聞け。ですね」
クス、と思わず笑うエイネシアに、「ちゃんと覚えているではないか」というハインツリッヒは、本当にブレない。
そして願わくば……そのままでいてほしいと、そう思う。
変にきな臭い情勢になんて関わらず、時にはエイネシアにとって耳に痛いことも、取り繕うことなく率直に口にする。それもこれも、彼がただのハインツリッヒといういち学者であるが故のことだ。
彼のその取り繕わない言葉に、エイネシアも背中を押されてきた。
でもだったら今は?
今この情勢下。グレンワイス大公すら動こうという中で、彼は何を思い、何を言うのだろうか。くしくも大公を始め、エイネシアやアレクシスさえも巻き込まれている“王位争い”に、彼は何をどう考えているのだろうか。
『思うことがあるなら、私ははっきりと言う。私には背負うべき貴族の模範などというものはないからね』
かつてそんなことを言っていたハインツリッヒだ。
大公家は三世までが王族とされ、その三世王であるハインツリッヒも間違いなくその一員であるはずだが、自分の世代で最後であるがゆえに、彼は大公家の人間であることを辞めている節がある。彼にとって王位争いなどは、例え身近な人物が関係していたとしても、すべて他人事でしかないのだろう。
でもだからこそ、問いたい。彼が、どう思っているのか。
『愚かな夢は、いつか覚めるぞ。覚めなければ、いけないぞ。その時貴女はどうする。貴女は“何者”になる――エイネシア』
かつてエイネシアに目を覚まさせたその問いを、逆に問いかけたい。
グレンワイス大公は、王位を視野に入れている。それを知ったなら、貴方はどうするのか。
貴方は、何者になるのか――。
「ハイン様……あの……」
きゅっと拳を握りながら、少し不安そうに、書類を捲る師匠を見やる。
「何だ」
視線も寄越さず、ただ黙々と書類を捲っては、時折ニヤニヤと顎に手を添えて楽しそうにする。
その何処までも自由なその人を見やりながら、二度、三度と口ごもって。
結局……それ以上問うことができなかった。
「質問を途中でやめるな」
「……あの。いえ……でも」
でも。“王位をどう思っていますか”だなんて問うたら、きっとその顔を盛大に顰めて嫌な顔をするに決まっている。私にそんなことを聞いてどうする、馬鹿弟子、と、罵られるに決まっている。そんな返答は、望んでいないのだ。
「いいから。さっさと言いなさい」
分かっているのか、いないのか。珍しく、そう再び急かしたハインツリッヒに、今少し言葉を躊躇ってから。
「ハイン様は……“大公殿下”を、如何思っているのですか?」
恐る恐ると問うた言葉に、ピクリ、と書類を掴んでいた手が一度止まった。
それからわずかに眉を顰めたかと思うと、ゆっくりとエイネシアの方を見やる。
「それは……うちのもう一人の、不肖の弟子の話か?」
そう言われてすぐにはピンと来なかったが、やがて“大公殿下”と呼ばれる人物が、今世では三人いることを思い出すと、「あぁ、いえ。そうではなくて」と首を横に振る。
聞きたいのは、ハインツリッヒの不肖の弟子の、ブラットワイス大公殿下の話ではなくて。
「グレンワイス大公のことを――」
そう囁いたエイネシアには、ピクリピクリ、と、薬室内の複数の視線が此方を見やった。
やはり、この場で問うべきではなかっただろうか、と俯くが、そんなに気にした様子のないハインツリッヒときたら、「ふむ」と、書類を机に戻して唸った。
「その問いは、昨今の情勢的に大公の出方をどう見るのかを、弟子が師匠に問うているのか? それとも、明らかに親子仲が最悪であろうことを想定した上で、一応その大公の子である私に問うているのか?」
相も変わらず冷静で客観的な物言いをするハインツリッヒに肩をすくめながら、「しいて言うならその両方です」と言うと、彼は少しも厭う様子など見せず、「なるほど」と今少し考えふけった。
「そういえば君は、先に王宮にこの報告書を持って行ったんだったか」
「……ええ」
頷きながら、ハインツリッヒがその反応で多くを悟ったのが分かった。
王宮で、エイネシアが“何”に遭遇したのかも。
「まず最初に、私はアレを父などと思っていないことを言っておく」
「ハイン様……」
「別に大した家庭の事情があるわけでもない。複雑な感情なども特に存在しない。ただの気が合わないだけだ。だから私はあの人を父のように思わずに育ったし、あの人の後を継ぐつもりもない。父が何をしようが、何を考えていようが、私には関係ない。父が何者になろうとも、私は私のままだ」
それは理解しているな? と言うハインツリッヒに、エイネシアは一つ頷く。
そうだろうとは思っていたが、あえてはっきりと口にされると、ハインツリッヒの意思の固さが分かる。
ハインツリッヒは、ハインツリッヒのままなのだ。たとえ今後、情勢がどうなろうとも。
「その上で今の大公をどう思うのかと言われれば、何ら不思議なことはない。あの人が動くには遅すぎたくらいだ」
「遅すぎた……」
それは少し意外な言葉で、だが言われてみればまったくその通りでもあった。
ヴィンセントの王太子位が揺らいだ時点で、その可能性は充分に生まれていた。それにもかかわらず、この数ヶ月、大人しくしていたことの方が不可思議なのだ。
「うちの父は、前ブラットワイス大公家の三男。長男は上王陛下の婿になり、次男はブラットワイス大公家を継いだ。父は分家してグレンワイス大公の地位を与えられたが、甥の内、一人は国王に。もう一人は上王陛下の養子の王弟となり一世王に叙された。なのに自分の子は三世王で、孫は王家の籍を外され、家は途絶える。下手をすれば貴族にすらなれない」
「言われてみれば……」
数奇な運命としか言いようがない。同じ親に生まれた三兄弟で、片や王になり、片や未来のない家なのだ。大公家の宿命と言われればそれまでだが、甥達の運命に対し、我が子が王籍を離れる定めにあることに、不満を抱く気持ちというのは分からなくもないかもしれない。ハインツリッヒはそれで大いに納得しているようだが、大公はそうではなかったのだろう。
そしてこの情勢下、ヴィンセント以外への玉座への可能性が開かれる中で、ならば自分しかいないだろうと大公が名乗り出るのも、確かに当然のことだった。
元より、グレンワイス大公の血筋は何よりも正しい。先々代国王オズワルドの実弟を父に、王家の姫を母に。上王陛下の義理の弟でもあり、彼自身も王家の血縁を妻に迎えた。下手に公爵家の血が入っていない分、最も純粋な王家の正血統といっても過言ではない。
「だがその父と見解の相違があって家を出た息子としては、馬鹿馬鹿しいと思っている」
「えっと……」
言いたいことは分かるのだが、ハインツリッヒの物言いだと、何やら緊張感が無くて困る。
「それは要するに……グレンワイス大公家には、大公の意を引き継ぐ者がいないから……と。そういう意味で、ですか?」
そう問うエイネシアに、ハインツリッヒは鷹揚に頷きながら、「分かっているではないか」と言った。だからハインツリッヒははじめに、『父が何者になろうとも、私は私のままだ』と強調したのだ。
「大公もそれを分かっていらっしゃるのに、何故今になって動くのでしょうか?」
ならばその原動力は何なのか。我が子が跡を継ぐ可能性はほとんどない。それを大公も、分かっているはずなのに。それとも、後のことなど関係ない。ただ自身が王位を望んでいるだけなのか。
「さぁな。私にあの人の考えはわからないが。あるいは王位なんざ本気ではなくて、ただ混乱を起こして楽しんでいるだけではないのか?」
「ハイン様ったら……」
相変わらず、突拍子もないことを仰るお師匠様だ。
だが不思議とハインツリッヒに言われたら、そうなのかしら? なんて気がするから不思議だ。
ましてやそれがハインツリッヒの実の父のことであるから、あり得ないこともない気がしてしまう。
何しろ……この人の父親なのだ。変に決まっている。
「でも……だったら。だとしたら。“関係”は、ないんですね?」
ジィッと真剣みを孕んだエイネシアの視線に、わずかに眉を吊り上げたハインツリッヒは、暫し口を噤んで……それからゆっくりと、息を吐いた。
「関係とは?」
「アレク様の件と。大公は」
「まったく……」
ハァ、と息を吐くと、がさっと書類を手荒にひとまとめにしたハインツリッヒは、「場所を変えよう」と言って温室の外へと歩き出すものだから、エイネシアも静かに席を立ってそれを追った。
ここでは話せない――。
そういう意味だろう。
実際に、チラチラと此方を窺う薬室の研究員たちも、ハインツリッヒの様子を気にかけていて、話しづらい雰囲気になりつつあった。
そんな温室を出たハインツリッヒは、温室の傍の森の中へと踏み込んで行く。
この温室とは隔絶された、俗世の話をするのに、もっと適した場所。
人気が無く、周りに会話を聞かれない場所へ――。




