4-6 帰路
その日、一泊するはずだったその町からは早々に引き上げた。
一体どれほどの時間エイネシアが馬車に乗っていたのかは実感として分からなかったが、シルヴェスト公に促されて馬車を下りたエイネシアに、もはや民達は先程までのように気さくに麦の話をしてはくれなかった。
何処からかやってきたお嬢様は、もう風変わりなただのお嬢様ではない。古くから根付く旧王国領の民にとって、神にも等しい存在と血を同じくした姫様なのだ。
このような不測の事態に、アルフォンスがこの場に留まることを反対したのは勿論、エイネシアも、出来ればすぐにでもこの場所を離れたかった。
これ以上、エイネシアという存在を北部の者達に刻み込んではならないと思ったのだ。
そんな心地を何とか一日で立て直して望んだ小麦会議では、先だってのことなど忘れたかのように、エイネシアは己の勤めを忠実に果たした。
少し気が張りすぎていたような気はしないでもないが、むしろシルヴェスト公のおかげで、なぁなぁに程よく甘えあうような関係ではない、ピリッとした空気が作られたようで、その先日とは打って変わった公爵家の姫の顔をしたエイネシアには、皆も口を噤んで目を瞬かせた。
良くしてもらっているバーズレック伯に対しても物怖じすることなく、必要な権利の線引きや提供に当たっての少しも食い下がらない条件の提示。管理を任せるに当たってのハーリア研究所やオイリン研究室に対する容赦のない要求。
その真剣で、少しの妥協もない態度は最初こそ皆を驚かせたが、自分達がこの北部地域全体を巻き込むような重要なミッションに自分たちが関与しているのだという矜持を植え付けられた彼らは、次第にこの公爵令嬢をただのお姫様と侮る気持ちを忘れ、その会議に没頭していった。
その様子は、アーウィンをして『あれは天賦の帝王の素質だ』と言わしめるもので、同時に、『それが求められる立場に立つことを想定して、育てられたせいだろう』と、少し切なくも思われた。
その三日間にわたる会議の間に、エイネシアは彼らにとって間違いないこの事業の主体者として認識されたのであり、くしくもそれが彼らに、“エイネシア・フィオレ・アーデルハイド”という、かつては王家に望まれた存在であったことを再認識させた。
はて。どうして彼女はこんなところで、麦の話をしているのだろうか?
どうして彼女は、王宮の最も煌びやかな場所で、最も煌びやかな人の傍で国政を担っていないのだろうか?
そしてその言葉は、会議を終えて王都への帰路に立ったエイネシアに向けられたバーズレック伯の、「貴女を王家の妃に抱けぬことが残念でならない」との言葉に集約された。
そんなつもりのなかったエイネシアを驚かせるのには十分な言葉であると同時に、北部とは縁の薄い新興貴族にさえもそう言われることは、エイネシアにも北部という土地の意味を理解させるのにも十分なものであった。
『素晴らしい。その新たな王国との絆となり得る小麦を齎した姫が、王家の妃となれば、それは我らにとってどれほどの幸いか』
望らくもない言葉。
『話は終わりだ。君の北部に齎してくれた恩恵に免じて、今少しは傍観に徹してやろう』
決して安心などできはしない、時限爆弾のような忠告。
ガラガラとバーズレック家の居城を下りた馬車に、その宰相府の紋を見た民達が、道を避けて頭を下げて行くのを見た。
ここへ来た時は、王都を離れたことへの解放感と、か細いながらも賑わいを見せる町中に心を弾ませていたというのに。
今はもう、その賑わいが聞こえない。
王都にいた時以上の不自由さを感じる。
まるで息がつまりそう――。
「シア……」
そんなエイネシアを何ともなしに呼ぶ切なげなアーウィンの声色だけが、エイネシアを俄かに慰めてくれるようで、でもその声色に、心配をかけまいと、何でもないかのように微笑んでみせる。
シルヴェスト公と何を話したのかを、アーウィンは聞かない。
だが聞かずとも、分かっているだろう。
それでいながらエイネシアの様子の一つ一つにその内容に彼女が何と答えたのかを探ろうとしている様子が見えるから、エイネシアもまた笑顔でそれを誤魔化すのだ。
兄のような存在として、心配をしてくれている一面と。
だがシルヴェスト公のような老獪と話をし、彼女が一体何を思い、何を選んだのかを警戒するラングフォードとしての一面と。
これもまた、エイネシアを取り巻くしがらみの一つ。
「何の心配も、いりませんよ」
だから敢えて口にするとしたら、それ以外の言葉はなかった。
「だが……」
「公はしばらく、傍観に徹して下さるそうですから」
「……」
そう。だからそれは要するに、公がエイネシアに対して選択を迫ったという事。
それでエイネシアは、どうするのか。
「ヴィンセント王子を……選ぶのか?」
気遣わしげな声色にそう問われた時には、エイネシアも思わず驚いて目を瞬かせてしまった。
ほんの数日前、暗にそれを示唆した人と同じ人だとは思えない。
でも彼なりの……エイネシアを妹のように思ってきてくれた従兄なりの、優しさなのだろう。
そのことに、ほんのりと顔がほころんだ。
自分の周りには、なんと優しい人達があふれているのか。
だが同時にそれが、エイネシアを追い詰めてゆく。
「私は甘ったれた小娘になるのも、悲劇のヒロインを気取るのも、どちらも好きじゃないんです」
「あぁ。そんなのは君には、似合わない」
皆に憐れまれて守られるのも。かといって自ら悲劇の選択をして憐みを集めることも。どちらも好きじゃない。
あえて言うならば、“合理的”であることを好む。
「大叔父様がしばらく時間を下さるというのですから……だったら、有難く考えさせてもらいますよ」
ぼうっと見やった麦畑に、あの漆黒の衣の人影が脳裏によぎる。
チラチラとよぎっては、呪いのように瞼の裏から離れずに、“考えろ”と訴えてくる。
「私は、君の味方だ。ラングフォードはともかく……私個人としてはね」
そう不自由ながらも精一杯の配慮をしてくれる従兄殿に、エイネシアも俄かに頬を緩めて、それから少しだけ、困ったように眉尻を落とす。
「ではアーウィン。ビアンナとの婚約を解消して、私と結婚して王位でも取りますか?」
「……エイネシア」
どう答えたらいいのか。
決して“不可能”というわけでもない選択肢に、困ったように頬を掻いたアーウィンには、エイネシアもクスクスと笑って粗放を向いた。
「冗談ですよ」
「分かっているが……それは……まったくなくもない話すぎて、笑えないよ」
「まったくなくもない……ですか」
公爵家は王女降嫁を頻繁に受ける家柄であり、王家とも密接な血縁を保つ家柄にして、王位継承権を持つ者も少なくない。だが、もし実際に王家の直系が絶えたところで、公爵家の当主や子息が実際に王位に就くことはありえない。それがこの王国の、暗黙の了解というやつだ。
だから王位継承権第五位の上席にあるアーウィンといえども、彼が王位につくことなど、まず誰も想像し得ない。
し得ないだけで……だがそれは、有り得なくもない。
その有り得なくもないことを思い出すほどに、今の王家は揺らいでいるのだ。
一体それを、どう安定させればいいのか。
「私が……間違って、いるのかしら?」
おかしいのは自分の方なのだろうか。
「ヴィンセント様の王太子位に拘るのは……そんなに、変なのかしら?」
自分が再び彼を後見することはないと言いながら、それでもヴィンセントの王太子位を疑いもせず支持している。
そんな自分がおかしいのだろうか。
そう問うエイネシアに、アーウィンも何とも言い難い思いで眉尻を下げた。
いいや。
おかしくなんてない。
おかしいのは、婚約破棄した相手を再び手駒に取り込もうとしているヴィンセントであり、そんなただの一人の少女にすべての重荷を背負わせ、選択させようとしている公爵家の方だ。
「君は正しいよ……とても“当たり前”のことしか、言っていない」
でもその正論が、いらぬ諍いを引き起こす――。
それは小さな頃、一番最初にヴィンセントがエイネシアに対し咎めたことだった。
それは今も変わらない。
結局、当たり前の正論……当たり前の人権を主張したところで、それは諍いしか引き起こさない。
だから自制し、己を殺せ。
王家の妃としてあるべき姿にと求められ、言い諭されてきたことが、今もまたこうして目の前に全く同じに存在する。
もはやこれは、因果とでもいうべきものに違いない。
きっとここから目を背けることはできない。
どうあるべきなのか。
どうすべきなのか。
まだその迷いの中で、けれど必ずどれかを選ばねばならない。
赤い薔薇か、白い薔薇か――。
罪か。それとも、まやかしか――。




