4-5 ハーリア農学研究室
「思ったより……いい先生だったのかしら」
「いえ。姫様のセンスが無ければ、まず間違いなく落馬して大事故になっていました」
カパカパと、まだ多少ふらつきながらも一人で馬を歩かせるエイネシアに、後ろを追従するアルフォンスが、至極呆れたようにため息を吐いた。
アルフォンスはエイネシアがアーウィンに乗馬を教わっている間、いつも完璧にエイネシアの馬の傍に馬を並べ、危険がないようにと警戒し続けてくれていた。
この三日で、多分十回以上は振り落とされそうになったのを助けてくれた彼は、もはや命の恩人である。
「ですが本当にお一人で乗れるようになってしまわれるとは……」
「ふふっ。これならエドにも叱られないかしら」
そんなことを言いながら、馬を歩かせること十数分。
本日の目的地である城の裏手の農地までやってくると、その一角の真新しい建物を目に入れたあたりで、アルフォンスの手を借りながら馬を下りた。
この三日ですっかりと筋肉痛ぎみになった足をプルプルさせつつ、足の裏に触れた堅い地面に、何やらふわふわとした感触がして、「これにはまだ慣れないわ」と、生まれたての小鹿みたいな足取りでアルフォンスの背中を掴んだ。
かと思うとそんなエイネシアを、ぐいっ、と強引な腕が高く抱き上げたものだから、何事だと目を瞬かせて見やる。
「うちのお姫様はちょいと危機感が無さすぎじゃないか? 幼馴染とはいえ男に抱き着こうとは」
「ア、アーウィンッ。ちょっ……なんで抱え上げるのよっ」
しかも肩の上に。やすやすと。
いくらなんでも幼子みたいなことをされて、流石にエイネシアも頬が真っ赤に染まった。
何だ? 何事だ? と、そこらへんからの視線が集まっているのがさらに恥ずかしい。
アルフォンスのしらっとした視線が……たまらなく恥ずかしい。
「いやぁ。本当に。ちょっと見ない間に大きくなったよなぁ。うちのアンジーもいつかはこのくらいになるのかねぇ」
そうエイネシアを抱えたまま歩き出す若様に、「いやいやいやっ」と、慌てて落ちないように肩を掴みながらも足をばたつかせた。
頼むから降ろしてほしい。
「も、もうっ、兄様! 降ろしてっ」
「あー、それそれ。小さな頃は“兄様”って呼んでくれて、可愛かったんだよなぁ」
「その話、今しないと駄目な話ですか?!」
いいから降ろしてー、ともう一度求めたところで、すっかりと目的地の建物の前までたどり着いてしまい、そこでようやく降ろしてもらえた。
一体何の羞恥プレイなのだ。恐ろしい。
「もうっ。私、十八なんですからねっ、アーウィン!」
「“まだ”十八だろう? はぁ。妹の兄離れが辛い」
「アーウィン……」
さてはまた最近、彼の溺愛する妹アンジェリカに、何かとんでもない“お兄様、嫌い!”を喰らったに違いない。
そのストレスを自分で発散しないでほしい。
「あ、あのぅ……一体、何事、ですか?」
そんな二人に、おずおずと声をかけたのは、おさげ髪にそばかすを浮かせた白衣姿の女性で、ちょっぴり困惑気にしているその表情が、どうしようもなく申し訳なかった。
まったく……これから一緒に仕事をする人達だというのに。アーウィンめ……。
「ごめんなさい、何でもないのっ! それより、えっと」
目の前の建物を。それからその建物にどんどんと荷物を運び入れている、研究者というよりは農作業員みたいな恰好の男女を、きょろきょろと見やる。
ちょっと想像していたのとは違うけれど……荷物を運び入れているということは、彼らが、この新設されたばかりの研究室を使うことになる面々。
今日エイネシアが訪ねてきた、目的の場所の、目的の人達だということになる。
「ハーリア所長はいらっしゃいますか?」
先ほどまでの羞恥プレイを拭うかのように、ぱっぱとドレスの裾を整え、貴族らしく微笑んで見せながら問うと、ぽう、と、目の前の女性の頬がほのかに赤らんだ。
どういう意味かは分からないが……取りあえず先程の光景は脳裏から去ってくれたと思う。そう、信じたい。
「えっと姉さんは……」
そうキョロキョロとする女性に、姉さん? と首を傾げていたら、どこからか、「姫様!」とクリンクスの声がして、研究室の方からすぐにもその人が顔を出した。
バーズレック領について早々、行くところがあると郊外に出かけた博士だったが、どうやらこのハーリア農学研究所の皆さんとご一緒だったらしい。
「博士。いつお戻りに?」
「たった今、彼らと一緒にですよ。姫様。それに若様。ごきげん麗しゅう」
そう一応丁寧な挨拶をして見せたクリンクスは、すぐに顔を上げると、それで、と、傍らに一緒に建物を出てきた女性を見やった。
四十ほどの年の頃だろうか。白衣をまとった、栗色のボブヘアーに、そばかすと、大きなメガネをかけた女性だった。
「姫様。こちらが所長の、ヘルヴィ・ハーリア博士です。専攻は違いますが、私の大学部時代の同期でして。ハーリア、こちらは新品種小麦の開発者であり、今回の会議の主催者の一人、アーデルハイド公爵令嬢と、それから、宰相府からの見聞役をお勤めの、ラングフォード卿」
「お会いするのを楽しみにしていました、ハーリア博士」
宜しくお願いします、と手を差し伸べたところで、それをチラリと見たメガネの下の瞳が俄かに細められたかと思うと、「どうぞよろしく」と、ボソボソとした声と共に、ハーリアはさっさと踵を返してしまった。
それを、あらら、と肩をすくめたところで、「こ、これはすみません、姫様。若様」とクリンクスも肩をすくめた。
貴族社会なら不敬と言われるかもしれないが、エイネシアもアーウィンも、そんなことを気にする人柄ではない。
それに、エイネシアとしては、こういう反応をされる可能性も最初から考慮していた。
公爵令嬢が小麦研究を、と聞いて、まさか本当に自ら勾配実験をしたり、農地の真ん中に座り込んで土壌を調べたり麦を伐採したりだなんて、一体誰が想像するだろうか。
現に今も粗末な格好に身を包んだ彼らの中で一人、動きやすいシンプルなものを選んでいるとはいえ、大きなリボンのあしらわれたドレス姿をしており、立派な近衛の騎士服に身を包んだ護衛まで着けていらっしゃったのだから、先ず信用はできないだろう。
しかもアーウィンが、そんなエイネシアを肩に抱き上げるだなんて真似をしてくれたせいで、周りの視線が生温かい。
どこからどうみても、世間知らずな貴族のお姫様への嫌煙と嘲笑の視線だ。
エイネシアだって逆の立場だったら、真剣な研究の場に遊びにいらしたお姫様だと、厭わしく思ったかもしれない。
おそらく彼らの中で、エイネシア・フィオレ・アーデルハイドは、“新品種小麦の利権を持っているだけのお姫様”という認識なのだ。
実際にそれで、間違っていない。
だがそれで終わらないのが、エイネシア様だ。
「まぁ、いいわ。それよりえっと。研究室の中を見ても構いませんか?」
きょろきょろっと辺りを見回して、困ったように立っていた先程の、ハーリアを姉と呼んだ女性を見やると、そう問うてみる。
「え? あ、はいっ。あ」
突然声をかけて驚かせたのか。おろおろとあたりを見回す女性は、周りがそそくさと目を逸らして逃げるのを見ると、「ご、ご案内します……」と仕方なく答えてから、エイネシアを中へと促した。
その様子に、「私もご一緒して宜しいですか」と、クリンクスが一緒に付いて来てくれて、更にアーウィンに、アルフォンスも当然のようについてきた。
その物珍しい建物には、まだエイネシアがどんな仕事をしているのかを良く知らないアーウィンが、「これは一体何の施設?」などと問う。
二階建の小ぶりな木造建築だが、傍らにはガラス張りの温室がついた、少し奇妙な形の建物だ。その上出入りしているのは、白衣や農作業着の男女ばかりが十数人。
何も知らなければ、奇妙にも見えるだろう。
「ここは、バーズレック領で新たに繁殖と生産実験をすることになった新品種小麦の、品質管理や生育観察などを受け持つことになる、ハーリア農学研究所の出張研究室です。今回、新品種小麦をこの辺り一帯に蒔くに当たって、研究の全面助成をなさるご領主様が建ててくださいました」
アーウィンの疑問に答えたのはエイネシアではなく、案内の女性の方だった。
それからチラリとアーウィンの方を見ると、「私は研究員の、ヘルカ・ハーリアです」と、遅ればせながら自己紹介をした。
そのヘルカが、まずは一階の一番引っ越しの片付けでごたついている部屋で足を止める。
「ここ、一階のメインルームは実験室にする予定です。それから奥に書庫と会議室、室長室。二階には事務室や仮眠室。細かい勾配実験室などは、ご領主様がまた別棟を建てて下さるそうですが、そちらはオイリン博士という……えっと」
こういって通じるのだろうか? と首を傾げた女性に、「アーニー・オイリン博士ですね。何度も書状のやり取りをしています」とエイネシアが答えると、コクリと頷いた。
「その、オイリン博士の研究室のグループがそちらで担当します。こちらは私達、ハーリア研究所の作業場が中心になります」
「姫様。魔法肥料関連の話は、そっちのオイリン博士の方と調整しているんでしたか?」
荷運びの様子を見ていたクリンクスが、ふとエイネシアに問う。
「ええ。博士は優秀な魔法士でいらっしゃいますし、ほかにも博士の研究室から、土壌鑑定を行う土魔法士と、クリンクス博士と同じ固定方陣論を専門にしていらっしゃるタハティ魔法士などの人材をご用意いただけると聞いています。クリンクス博士には、そのタハティ魔法士と魔法肥料の実験を進めていただきたいと思っています」
「なるほど。いや、だがその実験の発案者も姫様ですからね。農学研究所に興味ご関心が深いのは結構ですが、我々魔法学研究の方にもお知恵を絞って下さいよ」
そう笑うクリンクスには、「かいかぶりすぎですよ」と肩をすくめた。
チラチラと研究室内の皆の視線が集まっているのを見ると、クリンクスもわざとここでそんな話をして、エイネシアをこの場に溶け込ませようとしてくれているのだろう。
「魔法肥料? 固定方陣論?」
一人傍らで事情を知らないアーウィンが首を傾げていたけれど、「ご案内を続けますか?」というヘルカに、「お願いします」と答えたエイネシアは、一階の奥に向かうヘルカに続いて、アーウィンの袖を引っ張って行った。
一つ趣の違う扉をくぐると、途端に日の光が降り注ぐ、むわっと暖かい空気に包まれる。
秋なのに底冷えするようなこの北部気候の中では、少し暑すぎるくらいで、この珍しい空間には、「へぇ、温室か」と、アーウィンも興味を引かれたように、その眩しい空間を見渡した。
「王都から運ばれた新品種の種は、実際に畑に蒔く前に、ここで発芽実験と成長実験を行います。麦を播いた後も、ここで気温と湿度の調整を行ない、最適値の研究などを行なうつもりです」
その研究は、今回の会議で、エイネシアが新品種の種をバーズレック伯へ提供する旨を確約することで実現することになる。
それに当たって、エイネシアの出した条件の一つが、この麦の管理施設の建設であった。
なのでこの場所の施工を受け持ったのはバーズレック伯。ハーリア研究所の面々を召致したのも伯だが、その伯にこの温室を作るよう求めたのはエイネシアである。
王立薬学研究室を参考に自ら提案設計したもので、未だに数が少なく希少である新品種小麦を提供するに当たっては、保険という意味合いでも必須の施設なのだ。
「こちらには風魔法士が常置されますか?」
「え? 風魔法士ですか?」
困惑したようにきょろきょろとしたヘルカは、すぐに運んできた機材の片付けをしていた男性に目を止めると、「スラッカさん!」と呼んだ。
その声に顔を上げた男性は、チラリとこの場に不似合なドレスの女性に一つ首を傾げたけれど、すぐに荷物を置いて歩み寄ってくる。
「どちらさん? ヘルカ」
「例の小麦の。公爵様の」
そうポソポソと答えたヘルカに、「あぁ」と頷いた男性は、他の面々とは違い、一つ丁寧に胸に手を当てて頭を下げて見せた。
「ハーリア研究所のイーロ・スラッカです。温室管理魔法士を務めます」
「エイネシア・フィオレ・アーデルハイドです。温室は気に入っていただけましたか?」
そう問うエイネシアに、隣でヘルカがキョトンと首を傾げる。
どうしてエイネシアがそう問うかが分からなかったのだろう。
だがスラッカの方は、エイネシアがこの温室の設計者であるのを存じているようで、訝しむことも無く、「正直驚きました」と苦笑する。
「王都式の温室はすべてこういうものなんですか? 全面ガラス張り。それもかなり凝った作りですね。ちょっと私には贅沢すぎて、どこから手を付けていいものやら。今説明書きを読んでいたんですが……その。正直、理解の範疇を越えていまして」
まぁ、温室を“温室”だと思っていたら、確かに変に思うだろう。
「まず、温室という概念をお捨てになって下さい。外観は自然光を取り入れて部屋を温暖にすることに特化した“温室”ではありますが、実態としては、この空間すべての気候調整を魔法で管理することに主眼をおいた、“魔法空調管理室”です」
「はぁ……説明書きにも……そうありますね」
そう首を傾げて手元の紙をハラハラと振るスラッカに、チラリとその内容が目に入ったエイネシアは、ちょっと困ったように肩をすくめた。
「あぁ……それを書いたのは、シーズリース・スロバレスという名の人では?」
「そう署名がありますが」
道理で。なぜ彼が困惑しているのか、すぐにわかった。
元々この魔法空調管理室という概念を生み出したのは、ハインツリッヒと、その無茶ぶりを実現したシーズリースの二人なので、発案者であるシーズリースが説明書きを書くのは理に適っている。
しかし何しろあのハインツリッヒの部下だ。一筋縄でいくはずがない。
説明書きと称される部分は最初の短い三行ほどだけで、あとはすべてが常人には理解できないであろう計算式に埋め尽くされており、設備の使い方ではなく、設備がどういった式によって成り立っているのかを論理的に説明したレポートみたくなっているのだ。
こんなものを受け取ったスラッカさんが、本当に可哀想だった。
「私が口頭で説明しますね……」
「それは助かります」
まずは、と、エイネシアは机に置かれていた図面を見つけると、そちらに歩み寄る。
「建物自体は新品種の勾配実験を行っていたアーデルハイド領の温室と同じ設計を基本に、王都の第三薬学研究室の温室を参考にさせていただいています。とくに特徴的なのが、ここと、ここ」
そう指差したのは、断面図の天辺。天井の部分と、それから建物側の壁面。そこには不自然な円形の縁取りが為された空間がある。
実際にエイネシアが天井を見ると、そこにぽっかりと不可思議な盤面があった。
ちゃんと設計図通りに施工してくれているようだ。
「一つ目はあの、天井の盤面ですね」
「あれは……黒板か? 魔法式の埋め込み用の。どこかで見たことがあるな」
ふらふらと温室を見て回っていたアーウィンが、エイネシアの傍らに足を止めると、そう言って眩しそうに天井を見上げる。
その視線につられるように、皆の視線も上を向いた。
「ええ。但し、粉砕した魔晶石を練り込んだ黒板です。黒板の周りから地面まで走る柱も、すべて同量・同品種の魔晶石が混ぜ込んであり、あそこに刻んだ気候調整型の魔法陣に呼応して、温室全体に魔法効果が結界固定される仕組みです。壁はそれと同じ、湿度調整用。アーウィンが見たのは、王宮の薬園だと思いますよ。あそこと同じ設備です」
「魔法式一つでこの部屋すべてを結界固定するですって?!」
それにぎょっっと身を乗り出したのは、スラッカではなくて、その隣で温室を見学していたクリンクスだった。
「姫様っ。そんな固定魔法式の成功例に関する論文なんて見たことがありませんがッ」
あぁ、そうだった。この方は魔法陣を物体に固定して発動する系の諸々を専門にしているのであり、この空調管理室はまさにその最たるものではないか。
エイネシアも日頃第三薬室で当たり前みたいに見ていたせいで、そのすごさがすっかり麻痺してしまっていたが、隣でポカンと、意味が解らない、といった顔をしているスラッカを見れば、これがどれほどのものなのかは一目瞭然だった。
「そんなことが、可能なのですか?」
「可能です。魔晶石は精霊の通り道を構成する役目を果たしており、そのことはこちらのクリンクス博士が、魔晶石への魔法陣固定による爆発的な魔法力の向上や、魔晶石を連結させることで囲まれた箇所を結界化させる手法などの研究を発表していらっしゃいます」
「いやいや、姫様。確かに理論としては成功させていますが、精々、魔晶石単体に刻んだ場合にその効力が向上することを証明しただけです。害虫避けの固定方陣結界も、確かに私の過去最大の功績であったと自負はしていますが、しかし、こんな大きな部屋全体を結界化できるほど安定性の高い理論ではありませんよ」
「ですが博士の発表以来、この魔晶石で空間固定をするというやり方は、今や王立魔法関連施設では一般的ですよ」
「はぁ」
「ただ魔晶石を練り込んだ支柱で部屋ごと固定するという概念や、そのバランス、組み込む魔法陣の開発などは、大半が第三薬室のシーズリース研究員の研究成果……というより、本人は“副産物”くらいに思っていると思うのですが……彼の編み出したものです」
そう苦笑したエイネシアに、「信じられないっ」と、クリンクスは頭を抱えた。
ええ、そうだろうとも。普通ならそういう反応になるべきだ。
「彼らはあくまで“薬室員”ですから。薬学研究を行うのに用いた魔法式に、いちいち関心なんて持っていなくて……ライブラに提出されていないものも多いんです」
第三薬室は精霊魔法に精通したハインツリッヒがいるため、まだいい方だ。特殊な物や汎用性のあるものは、室長指導のもと、ちゃんと魔法士学会のライブラに提出されている。
だが基本は薬学者で農学者。より良い薬草を栽培するための副産物として生まれた天才達の“ただの思いつき”が、実際はすごい価値のあるものだということを、彼らはほとんど理解していない。
シーズリースの編み出したこの温室も、ありとあらゆる地域の気候・湿度を再現しうる自動調整魔法陣式も、学会に出せばたちまち魔法士達を震撼させることになるはずだが、シーズリースにしてみれば、『昔の陣が何やら調子が悪くなってきましたので、少し手を加えてみました』程度の事で、本人はただの“応急処置”だと思っている。
だが案外それがいい具合で、ハインツリッヒが大層それを気に入ったため、その応急措置が、今では第三薬学研究室の温室の“普通”になっている。
だから持ち出していいかとの許可を求めたら、何故か薬室の全員に不思議な顔をされながら、『こんなもの、勝手に好きにして構わないが』と首を傾げられた。
ある意味ではここは、“最新”というより、未だ認知されていない“未来”の施設なのだ。
それが分かっているからこそ驚嘆の声を上げたクリンクスの興奮ぶりは、いつの間にか、荷物の出し入れをしていた研究員たちが、何? 何かすごいことがあったのか? と集まりだすほどだった。
「とにかく、ここがすごい施設であるのは分かりました。しかし、それも使いこなせねば意味がないということですよね? 私には、その黒板に刻んだらいい魔法陣が分からないのですが……」
「まぁ……それが一番大切なところなわけですが」
ちょっと困った顔でエイネシアが指差したのは、机の上に置かれた、シーズリースの書いた取扱説明書だ。
「これが、何か?」
「そこに書かれている式が、その魔法式です」
「は? いや。ですがこれ、数式ですよ?」
「博士ならお分かりですよね?」
そう言ったエイネシアの言葉に、何々、とクリンクスが説明書を覗き込む。
だが途端に眉を顰めて唸り声を上げたかと思うと、「これを書いたその研究員は、天才ですか? それとも馬鹿の方ですか?」と言うものだから、エイネシアも肩をすくめた。
正直、エイネシアにもこの数式の意味はすぐには理解できない。
これは、精霊の言語を理解した上で魔法式を構築。魔法陣として図式化したものを、更に論理的に説明するために“分解”したものなのだ。
いわば、魔法陣の外周範囲をαとした時の以下百十七種類の精霊文字を並べるに当たっての文字の角度と間隔、配合とサイズ。最初の文字列①を中心点とするαから内円βへの接線xに三十二度の等辺を引いた時に交わるkからrを二分して、あれやこれや……。
普通の人がみたら、いや、完成図よこせよ! と突っ込みたくなる代物だ。
「あの……もしおせっかいでなければ、実際に薬室でシーズリース研究員が用いている図式化された陣を、私が筆記してお渡ししましょうか? 幸い北部気候再現用のものはすべて覚えていますし、細かい気候調整に関しては、二、三日あれば開発できると思います」
王都に使いをやってシーズリースに送ってもらうよりは速いだろう。
「お嬢様が……ご自分で、開発なさるんですか?」
「そうですが。あぁ、ご安心ください。魔法陣論は、先生に……このシーズリース研究員の上司である薬室長に、八歳の頃からみっちりと叩き込まれているんです」
ざわざわっ、と思わずざわめいた温室に、はて、変なことでも言っただろうかと辺りを見回す。
耳を澄ませると、「王立薬学研究室?」「薬室が何だって?!」「薬室長だと?」と、ざわめいており、首を傾げたエイネシアに、「今君は結構贅沢なことをさらっと言ったよ」などとアーウィンが笑ったから、ようやく腑に落ちた。
エイネシアにとって薬室はかなり身近なものだったが、よく考えれば王立薬学研究室は、それこそ全国の選りすぐりの研究者や魔法士が寄せ集められた、国内最高峰の研究機関だ。
日頃呑気に雑談したり、たまに使いっぱしりなんかさせてしまっているハインツリッヒの部下たちだって、彼らにしてみればエリート中のエリートということになる。
しかもその室長ということは、そんな最高峰の研究機関で、十七人しかいないトップだ。
確かに……今更ながら、とんでもないことな気がしてきた。
そんなエイネシアに、ハハハ、と笑ったクリンクスが、「もうお分かりでしょう、皆さん!」と彼らを見渡す。
「私が保証します。こちらのお姫様は、貴方達が思っていらっしゃるような、ただのお姫様ではありませんよ。王宮の大図書館で幼少時からありとあらゆる知識に触れて育ち、王立エデルニア学院ではこれまで常に首席。並み居る大学部の教授陣からも、単位免除や早期取得の認定を受けるほどに優秀な、学者の卵です」
あぁ、いえ。姫君に学者の卵は不味いですかね、と言ったクリンクスには、「あぁ、それは不味いね。伯母上が……シアのお母上が、怖い顔をする」と笑ったアーウィンにつられるようにして、何処からともなく、少し打ち解けたような笑い声が上がった。
どうやら、少しは信頼を寄せてもらえるようになっただろうか。
「えーっと。スラッカさん。これで管理室の使い方は大丈夫ですか?」
「あ、あぁ、はい。大体は分かりました。あとは実際にやってみながら、冬までには使い方をマスターしてみせます」
うむ。頼もしい。
では後の事は研究室の皆様に任せるとして。
「アル。時間は平気よね?」
クルリと振り返って護衛に徹している幼馴染に声をかける。
その嬉々とした面差しに、止めても無駄なことは百も承知で「ええ、大丈夫ですが」と、アルフォンスが少しばかり困ったように苦笑を浮かべる。
「予定通り、領都の東の農地を視察に行かれるつもりですか?」
「勿論よ」
穀倉地帯の広がる領地とはいえ、領都はさすがに町中で、目的だった農地を視察するにはそれなりの時間を必要とした。
それこそたらたらと馬車で移動するには大変な時間がかかってしまい、エイネシアが乗馬を学ぶ必要性に駆られたのも、穀倉地帯を見に行くためだったと言って過言ではない。
ここからなら領都の関も近いし、そのすぐ東の穀倉地帯は比較的近いとの話だったから、今から行けば余裕で視察できるだろう。
更にはバーズレック伯に話を通して、そちらで一泊できるように整えてもらっていた。
アルフォンスとしては、そんな小さな町で、町宿に一泊だなんて、本来ならば護衛として許すべからざる事態なのだが、このお姫様が言い出したら聞かないことはもう分かっていて、もはや仕方がない、といったところだ。
そんな話をしたら、このアーウィンが、「私がシアの手綱を握ってあげよう」と同行を申し出てくれた。
おかげで護衛対象は二人に増えたが、実際、エイネシアを程よく大人しくしてくれるこちらのお兄さんの役割は今や充分に理解できており、アルフォンスにとっても願ってもないことだった。
「いいけど、シア。くれぐれも私の傍を離れないように」
「わかってるわ、アーウィン。ちゃんと言いつけは守ります」
そう言いながらもアーウィンの腕を引っ張って急かすエイネシアには、思わずアーウィンも苦笑を浮かべた。
昔は何かと、王太子の許嫁として相応しいようにと気を張り詰めすぎていたようなところがあったけれど、今は少しばかり、幼い頃の無邪気さが垣間見える。
この仕事がよほど肌に合っていたのか。あるいは、今の立場になって、随分と気が緩んでいるのか。
そういう姿を見ると、少しばかり心も痛む。
『アーウィンは、私にヴィンセント様を選べと言っているのね……』
彼女がこぼした、否定することのできない言葉。
その言葉の重たさが、今の彼女を見ていると、痛いくらい理解できた。
だからせめて今だけは……王都を離れている今くらいは、好きにさせてやりたい、と、そう思うのは、ラングフォードとしてではない。エイネシアを小さな頃から妹のように思って可愛がってきた、一人の男としての兄心だ。
「よし、じゃあ行くか」
だからそう言ってやれば、ニコリ、とエイネシアの顔がほんのりと嬉しそうに綻ぶ。
そうして、早く、と急かすエイネシアの手を取って建物の外を目指そうとしたところで、「あの!」と、案内をしてくれていたヘルカ女史が声をかけた。
「農地って。領都の外の、麦畑に行かれるのですか?」
「ええ。元々この地で育っている麦や、土の様子。実際に農業に従事している人達の話も聞きたいですし」
あと実際に育っている品種や苗の状況。今年の気候の様子や春蒔き新品種小麦をどう思っているのかなど諸々。聞きたいことは色々とある。
そう期待を膨らませるエイネシアに、彼らはチラチラとお互いに顔を見合わせて。
「あの」
そう恐る恐ると声をかけながら、一人の青年が進み出てくる。
「ご迷惑でなければ、私に案内をさせてください。この辺の土地についてでしたら、色々とご説明できると思います」
そう言う青年に続いて、「私も!」と、ヘルカ女史が身を乗り出してきた。
そのどこか好意的に思える反応には驚いたけれど、困惑している内にも、クリンクス博士がニコリと微笑んで頷いて下さった。
皆、エイネシアへの警戒心を解きつつあって、協力したい、との気持ちを持ち始めてくれているのだ。
そんな有難いことはない。
「願ってもないことですわ」
いいですか? と傍らのアーウィンを窺ったエイネシアに、アーウィンもチラリとアルフォンスの方を見ると、護衛を受け持つ彼がコクリと頷くのを見て、「お許しがでたぞ」と言ってやったら、たちまちにエイネシアの顔がほころんだ。
すると途端に色々なところから、「私も!」「自分も」と声がして、大所帯でぞろぞろ研究室を出ようとした時には流石に、「引っ越しの片付けを放り出してどこに行くんだお前達!」と、所長さんの怒声が飛んだ。
おかげでハーリア女史にはさらに睨まれてしまったけれど。
しかしそれ以上に、有益な情報を沢山教えてもらえる、有意義な視察を行うことが出来そうだというこの成果に満足した。




