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4-2 怪我(2)

『十日ほど前。夜に突然、大怪我をされて薬室にいらしたんです……』

 嘘だ。そんなの嘘に決まっている。

 嘘? いや、ユナンが嘘をつく必要性なんてない。

 いいや。でも嘘だ。絶対に嘘――。

 ぐるぐると頭の中を巡る不安に、脇目も振らずに駆け出したエイネシアは、避け続けていた森に飛び込んだ。

 誰の事かなんて聞いていない。

 でも分かってしまった。

 怪我をして、薬室に“いらっしゃる”人物。

 近衛が“殿下”と呼ぶ人物。

 間違いない。


「アレク様……アレク様っ」


 何があったというのか。

 どうしてその人が怪我などしているのか。

 どうして薬室に? リカルドは何をしていたのだ。

 近衛はいなかったのか? 影たちは?

 そんなどうしようもない誰かを責める気持ちばかりが沸き起こって。

 それから。


 ――どうして私は、助けに飛んで行けなかったのだ。


 悔やむ気持ちを拳に込めながら、バンッッ、と勢いよく開け放った薬室の扉に、薬草畑の中からむくりと身を起こした白衣姿ののっぽさんが、早速盛大に眉を顰めた。

「おいそこの馬鹿弟子。温室の扉は繊細なんだ。もっと丁寧に……」

「アレク様は?!」

 話も聞かずに焦燥にかられて叫んだ言葉に、一度ピクリと眉を吊り上げる。

 やがてじわじわとエイネシアの顔が歪んでいくのを見ると、ハインツリッヒはまるでエイネシアを宥めるかのように、わざとらしい、ゆっくりと、長いため息を空気に溶かし込んだ。

 十日間……今までよくもまぁ、誤魔化せたものだと感心すべきか。

 だがここではなんだな、と見やった先では、何事だろうかと目を瞬かせている研究員たちがちらほらと顔を上げていた。いつもは人の少ない温室だが、今日は偶然、温室の薬草の植え替えのために、外庁にある本研究室から若い連中を呼び寄せてあるのだ。下手に彼らの耳に入るのも不味いし、制服姿で飛び込んできたエイネシアの存在にあれこれと邪推されるのも不味い。

 だから仕方なく手をはたいたハインツリッヒは、白衣を脱ぎ捨てながら、薬園を出た。

「まったく。何処の馬鹿だ。口を割ったのは」

 そうブツブツと言いながらも、犯人は分かっているのだろう。遅ればせながら、肩で息をしながら、「し、しつちょーっ」と情けない声を出しながら飛び込んできたユナンに、「お前は後でお仕置きだ」とドスをきかせて脅しておいた。

「お出かけですね?」

 そう気を利かせて手をさしだすシーズリースに、「あの馬鹿のせいでな」と、白衣を渡す。

 それをただじっと黙って、不安そうな面差しで待つエイネシアは、こんな時まで相変わらずよく周りが見えたお姫様で、感心する。

「ついて来なさい。君の訪ね人なら、ちっとも大人しくせずに言うことも聞かないので、“私の家”に縛り付けてある」

 そのあまりにも想定外な物言いには、エイネシアも思わず、ぱちんっ、と一度大きく瞬きをした。

 私の家って。何だろう。

 私って。誰だろう。

 そう思わず首を傾げたエイネシアにかけられた「私は温室に住んでいるわけではないぞ」という厳しい目線と声色に、「ですよねっ」と、慌てて背筋を伸ばした。

 だって……この人に普通の家とか、想像つかないから。


 だが、「少し歩くぞ」などと言って、森のさらに奥へと歩き出したハインツリッヒに、どうしてその言葉を信じたのか。

 黙々と彼が進んでいくのは大学部の本棟の方で、だが建物には入らずに突き進んで、奥の職員棟をも通り過ぎたかと思うと、研究林とも違う鬱蒼とした森に入ってゆく。それはもう、絶対に家なんであろうはずもなさそうな小道に。

 その道すがら、寂れた門が一つポツリとあって、そこに暇そうな守衛が一人、カウンターの中で頬杖をついていた。

 ここは一応、学院の境なのだろうか。

 ハインツリッヒを見て顔を上げた守衛に、彼は「誰か来たか」などと問う。その奇妙な問いに、「いいえ、誰も」などと答えた守衛は、門……ではなく、自分の腰掛けていたカウンターの机板をカパリと開いた。

 なぜカウンターなのか。

 だがハインツリッヒはさも当然のようにその中に入ってゆき、奥の二階建ての粗末な守衛室の二階へ上がる外階段へと足をかけたものだから、これには「ちょ、ちょっ、ちょっ」と、エイネシアも思わずハインツリッヒの背中をひっ掴んだ。

 いくら何でも、勝手に不味いだろう。ていうか守衛も、何ぼうっとしているのか。

 そうキョロキョロしていたら、突然ハインツリッヒが、「心配ない。それはウチの身内だ」などというからギョッとした。

 親戚……なはずはないから、ウチというのは……まさか、ハインツリッヒに買収された守衛ということなのか?

「どうも。そちらの旦那には学生時代から色々世話になっていましてね」

 そう笑って見せるおじさんに、道理で……と、妙に納得してしまった。

 学生時代から、ハインツリッヒやらアレクシスがこっそり学院を抜け出してどうのこうのという話を、ずっと変に思っていたのだ。

 この学院は外と中とを厳重に柵と堀とで囲われており、学生は許可なく門を通り抜けることができないようになっている。それを一体どうやって、守衛らの目をごまかして抜け出していたのかと。

 だがこれで分かった。まさか、守衛を買収していたとは……。

「真似をするなよ。閣下に睨まれる」

「……致しません」

 言葉を返したところで、チラリと視線を寄越したハインツリッヒが、「少しは落ち着いたようだな」と声をかけた。

 確かに。いつも通りなハインツリッヒの様子に、どうやら少しは落ち着いたらしい。

「あの……それで、どうして守衛室に?」

 そう階段に足をかけたままのハインツリッヒに問うたところで、「何を言っている」と首を傾げられた。

 いや、何をも何も。言葉のままなのだが。

「いや。でも……え、まさか……」

「まさかも何も、ここが目的地だ」

「ここ?」

「ああ」

「ハイン様? あの。家だと……仰いましたよね?」

「屋根があって寝床があるのだから、家だろう」

 そう胸を張る研究者に、エイネシアは自分の常識ぶりを呪った。

 家? いいや。これは二十四時間学院と外界を遮断する門を警備する守衛たちが、休息を取ったり事務仕事をするための“掘立小屋”だ。その小屋の、しかも外階段を上ってその先のワンルームがグレンワイス大公家御子息の住まいというのは……いいのだろうか?

「……」

「まだ何か?」

「……ここに。アレク様、が?」

「大人しくしていればな」

 問題ないならさっさとついてこい、と言うハインツリッヒに、何やらとんでもなく気が抜けた。

 やっぱりこの人は、常識では量ってはいけない御仁だった。おかげさまで……少し、落ち着いた。

「アレク様は、どうして?」

 階段を上り、がさごそと鍵を出すハインツリッヒの背中に、思い切って問う。

「どうして、か? 暗殺ぐらい日常茶飯事だろう。それこそ子供の頃から」

「ッ……」

「驚く事じゃない。だから王家の者には影などという物騒なものが付いている。ただまぁ今回は……それでは及ばないくらい、相手も本気だったという事だろう」

「そんな……」

 どうして。何故このタイミングで、そんなことが起るのか。

 そうにわかに感じた不安に胸元を握りしめながら、「それで容態は!」と身を乗り出したところで、カチャン、と鍵が音を鳴らした。それからチラリとエイネシアを見やったハインツリッヒは、「自分の目で確かめなさい」と、ドアを開く。

 ドキドキと胸をざわつかせながら……足を踏み出そうとして、立ちすくんだ。

 怖い。その人がどんな怪我をしているのか。大丈夫なのか。酷い状態じゃないのか。

 それに勢いで飛び出てきてしまったけれど……その人に近付いてしまうことが。

 怖くて……。

「今更躊躇っても遅いぞ」

 しかしそう言ったハインツリッヒに、はっと顔を上げたエイネシアの視線の先で……何故か例の大公殿下が、ドタバタと狭い部屋の中を慌てふためいて逃げ回っていた……。

 思わず目が遭った瞬間、「わぁぁぁ」と声を上げてベッドの上のシーツを引っ掴んだかと思うと、机の下に籠った奇怪な行動と、なぜかベッドの周りに散乱した沢山の本、本、本……。

 この光景に、ハインツリッヒがものすごく深いため息を漏らした。

 えっと……怪我人?

「おい、怪我人。私は“大人しく寝ていろ”と言わなかったか。縛り付けていたはずなのに……どうやって縄をほどいた。くそっ、家具を壊してないだろうな」

 そうブツブツと言いながら部屋に入ったハインツリッヒは、「貴様ッ、私の貴重なコレクションをこんな粗雑な扱いで……」と、散らばった本を拾い上げてゆく。

 いや……これは。何なのだろうか。

「待って、待って、ハインっ。ちょっと良く分からないんだけど、何でシアが君の部屋に来るの?! 何? 私がいること、忘れてない?!」

「何を想像している。間抜けなユナンがお前の怪我をうっかり口外したせいで、連れてくる羽目になったに決まっただろう。こんなことも察せないとは、頭も強く打ったのか?」

 調べてやろうか、などと怪しげな黄色い液体の入った小瓶を取り出すハインツリッヒには、「やめてっ、やめてっ。それ絶対自白剤とかでしょうっ。何吐かせる気?」と、アレクシスが壁に張り付いた。

 何だか……想像していた状況とかけ離れ過ぎているのだが、何からどう反応したらいいのか。

「何をしている。早く入りなさい。茶を淹れられる程度の設備はある」

 そう小瓶を置いて奥のキッチンスペースに向かうハインツリッヒの慣れた様子に、取りあえず、ここが本当に彼の“家”なのだということは分かった。

 僅かな水回りと机とテーブル。小さな衣装棚に、梁にぶら下がる薬草。あとは本とベッドしかないその場所を、大公家の御子息の家と呼んでいいのかは激しく疑問だが。

 だから「お邪魔致します」というのも何だか変な心地がしつつ、取りあえず入室して、パタンと薄い扉を閉める。

 暗殺がどうとか言っていた人が、こんな頼りない家に住んでいていいのだろうか。いや逆に、まさか暗殺者も、こんなところに王弟殿下がいらっしゃるだなんて思わないか、と見やった先で、相変わらず何故かシーツにぐるりとくるまったアレクシスが気まずそうに隅にいるのに目を止めた。

 どうしたのだろうか。元気そうであることには安堵したけれど……なんだかそわそわとらしくなく、いつものように近づいてさえ来てくれない。だからこちらも遠慮がちに、一歩一歩と部屋の中に足を進めてみたところ、はっと顔が青ざめた。

 部屋の中ほどまで足を踏み入れれば、嫌でもわかる。梁にぶら下がるキツイ薬草の匂いと、片隅でコポコポと湯を沸かすハインツリッヒがカップに沈めているハーブの匂いと。でもそれとは明らかに違う。色濃い、鉄錆びた匂い。

 良く見れば、ポツポツと床に黒ずんだ跡があり、シーツの引き剥がされたベッドや壁板にも赤い染みが滲んでいる。そして、アレクシスが引っ掴むシーツからのぞく白い包帯にも。

 全部、“平気な物”なんかじゃない。

 気が付いた瞬間にはもうエイネシアは一歩を踏み出し、がっ、と、強引にシーツを引っ掴むアレクシスの手を掴んでいた。

 その震動に、「痛っ」と眉を寄せて緩んだ手。それでも容赦なく強引にシーツを引き剥がしたエイネシアの目に飛び込んできた、真っ赤な血の痕跡。

「シ、シア……あの。ちょっと、恥ずかしいんだけど」

 そう困ったように言って見せる、エイネシアを心配させまいとする声色。

 その思いのほか逞しい身体の、でも知らなかった……幾つもの小さな傷を残す、沢山の痕跡。

 ほとんどは目立たなくなっていたけれど、幾つか目を引く古傷があった。

 これは一体、幾つの時の傷なのか。

 どうして出来た、傷なのか。

「……シア……」

 困ったような。戸惑うような。

「私はこの通り。大丈夫だよ。ハインは少し、大げさなんだ」

 そんなの、ただただエイネシアを心配させないためだけの嘘だ。大丈夫なはずないじゃないか。

 血が滲んでいるのは左腹部。大きな傷には見えないから、矢傷か。だがもう少し上なら……心臓に当たる。明らかに“命を取ること”だけを目的にした傷だ。そのことに、何やら唐突に、ポツリポツリと涙が浮かび、アレクシスも困惑した様子で慌てふためいた。

 そんな二人を意に介することもなく。「冷めてでもいいから後で飲みなさい。落ち着く」と、テーブルの上にカップを一つ置いたハインツリッヒは、扉の外を目指す。

「ちょ、ちょっと。ハインっ」

「お前が何とかしろ」

 そう言い捨てて出て行ってしまった部屋主に、アレクシスも眉尻を下げながら、やがていつものようにとエイネシアを宥めるかのようにその頭に手をのせようとして……すぐにはっとして、その手を止めた。

 手のひらを覆う包帯に、血がにじんでいる。こんな手で触ったら、その綺麗な髪を汚してしまうと思ったのだろう。けれど困ったように下ろされた手に、エイネシアは衝動のまま、その包帯に覆われた胸に抱き着いた。

「シアっ、血が」

「構いません」

 制服を汚してしまうことを心配したアレクシスに、その言葉を断ち切るかのように言葉を返したエイネシアは、ただただ涙をのみ込み、静かに脈打つ心臓に額をぶつける。

 熱い。熱を孕んでいるのは発熱のせいか。それとも滴る血の暖かさのせいなのか。

 ジワリと滲んで伝わってくるその感触が、どうしようもなく恐ろしい。

 なんて。なんて馬鹿だったんだと、後悔ばかりが頭を埋め尽くす。

 私は何をしていたのか。この人がこんな目に合っている時、自分は何処で何をしていたのか。この人がたった一人で薬室の扉を叩いた時、自分は薬室を避けて逃げて、何を悩んでいたのか。

 少し考えたら分かったはずなのだ。こんなに沢山の古傷を残す彼が、これまでどうやって生きてきたのか。

 きっと彼は小さな頃から、幾度となく懸念の目にさらされてきたのだろう。ウィルフレッドの義弟。女王陛下が可愛がる養子。正統性の危ういヴィンセントに対し、養子でありながらも極めて正統な王家と大公家の血を引いた王子様。

 そしてヴィンセントにとって……フレデリカにとって、最も厄介な身内――。

 その軋轢を、彼はただひたすらに自分を押し殺し、放蕩者を装うことで避けてきたというのに、再びこんな目に合わせる立場に引っ張り出したのはエイネシアだ。ヴィンセントが選んだアイラという少女には無く、エイネシアにはある数多の正統性が、彼を危険にさらした。

 もしもエイネシアが……“アーデルハイド”が、それをアレクシスに与えると言い出したらどうなるのか。それが一体どういうことなのか……わかっていたはずなのに、考えもしなかった。

 “アレクシス・ロゼル・ブラットワイスは、王位を狙っている――”。

 きっとフレデリカ派は、そんな根も葉もない懸念を抱いたのだ。

 私のせいで――。


「ごめん、なさい……ごめんなさい。アレク様……」

 かろうじて零れ落ちた言葉にはっとしたアレクシスは、すぐにも口を引き結んだ。

「シア。分かっているでしょう? 君のせいじゃないよ。ちっともね」

 たまらず伸びてきた手が、頭を撫でる。でもその手の下で、エイネシアは首を振った。

 そうじゃない。この体の幾つもの傷痕の中で、ただ一つ。この一番新しいこの傷だけは、私のせいだ。

「私が、忘れていたんです。全部。何もかも。忘れてはいけなかったものを、忘れて。それで、アレク様を危険な目に合わせた」

「シア?」

 どうしたの、と宥める優しい声色が、今はツキリツキリと胸に突き刺さる。

 その優しさに甘えていた。

 許されると思ってしまった。

 浅はかだった。

 どうして気が付かなかったのか。

 そう……宮中というのは人の目の集まる場所。

『何事にも、慎重に。慎重でないと』

 幼い頃、自分で弟に言い聞かせた言葉だったのだ。

 なのにあの日……暑い暑いの夏の日。エイネシアはそんなことも忘れて、アレクシスの手を取って歩いた。もっと傍に居たくて。離れたくなくて。

 一体その光景を、何人。何十人の視線が追っていたのだろうか。

『君の結婚は、相手に君の持ちうるすべての力を後見として与える』

 ヴィンセントに言われるまで、気が付きもしなかった。

『君は、私の他には誰にも嫁ぐことはできない。ましてや王家の分家に嫁ぐことなどは絶対にあり得ない。“あり得てはならない”』

 今この熱を孕んだ体が、ジワリと伝わる生暖かい血の感触が、そして鼻腔をついた薬の匂いが、エイネシアにそれを実感させる。

 この傷は警告だ。君がアレクシスを王位につけるというのであれば、弓を引くしかない――そういう、フレデリカ派の……ヴィンセントからの、警告。

「シア……君の謝罪の理由は、ヴィーかい?」

 ふと降ってきた言葉に、顔を跳ね上げてしまったエイネシアのその反応が、アレクシスに吐息を吐かせた。あぁ、そういうことなんだね、と。

「私が……アレク様を……」

「それは違うよ、シア」

 涙を拭う指先が熱い。

 頬を撫でる手のひらが愛おしい。

「君に君のこと忘れさせていたのは、私だ」

 ただその人の言う唐突もない言葉に、エイネシアは顔を上げて目を瞬かせる。

「分かっていたからね。君が君の持ってしまった拭い去れない“価値”を思い出してしまったら、私から離れてしまうと。そうじゃない?」

 そう。その通り。当然だ。だって実際に、こんな怪我まで。

「だから思い出さないで欲しかった。何も心配なんていらない。何も知らずに、こうやってね。私の腕の中に、閉じ込めていたかったんだ」

 でも君はそれに、気が付いてしまったんだね、と。そう囁く切ない声色が、エイネシアに唇を噛ませた。

 それはどんなにか甘い夢だろう。何も知らないまま守られて。何にも気が付かないまま。

 それで……そしたら、どうなっていたのだろう?

 王位なんて微塵も望んでいないこの人に、あと一体いくつのいわれのない傷をつけて、そして一体何度この人はそれを隠しただろう。

「でもシア――お願いだ」

 耳元をくすぐる、脳髄を溶かしてしまいそうな甘い囁き。

 何もかも分からなくなってしまいそうな、誘惑の言葉。

「何も心配しないで。そんなもの、全部忘れてしまってくれないか」

 でももう今なら分かる。それはただ優しいだけの言葉なんかじゃない。エイネシアの目を逸らさせるための、まやかしだ。

「どうか。私のために」

 そうやっていつも一人で全部守ろうとして。全部全部背負って。危ういほどに優しくて。

 その優しさが、どうしようもなく怖い。

 何が起こっているのか。自分を取り巻くすべてが暗幕の向こうで、何もわからないことが怖い。


 アレクシスは生きていた。

 でも次は?

 その次は?

 すべて忘れて傍にいて。

 ねぇ。そしたら、ヴィンセントは何をする?

 彼はアレクシスに……何をする?


 そう思った瞬間、ドンッとアレクシスの肩を突き飛ばしていた。

 傷に響いたのか。呆気なく離れた手とわずかによろめいて壁に預けた体。

 彼が浮かべているであろう表情を見るのが辛くて、甘やかな言葉に縋ってしまうのが怖くて。

 堅く目を閉ざして、彼の血に染まった自分の指先を抱きしめた。

 傍に居てはいけない。これ以上傍にいたら、離れられなくなってしまう。

 愛おしさに気が付いたその瞬間からもう、駄目だと言われれば言われるほどに想いばかりが募って。何もかも捨てて、甘く甘美な真っ白な夢の中に蕩けてしまいそうになる。

 目の前が真っ赤に染まっているであろう未来でさえも……幸せな物であるかのように錯覚して、ぐずぐずに、融けてしまいそうになる。

 でも違う。そうじゃない。

 それでは駄目なのだ――。



 気が付いた時にはもう、脇目も振らずに逃げ出していた。

 薄い扉をバンと閉めて、背中で塞いで唇を噛む。

 シア、シア――、と、まだ頭のどこかでその人の声がした。

 大丈夫だから。心配しないでと、そう微笑むその人の顔が何度も脳裏をよぎった。

 だからお願い。行かないで――と。そう願う声色が、何度も耳の奥で囁いた。

 でも駄目だ。

 エイネシア・フィオレ・アーデルハイドは……アレクシス殿下を、不幸にする。

 そんなのは全然、ハッピーエンドじゃない、と。

 ただただ森の中を、逃げ出した。



 それから間もなく。

 エイネシアは一人、逃げるように北方へと旅立った。







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