3-26 許されない結末
「シア――」
薄暗い部屋の向こうで、零れ入る朝日を受けて飛び込んできた人。
引っかけた上着がいつも以上に乱雑で、柔らかなクリーミーブロンドがいつも以上にはねていて。
エイネシアを見やったこの森のように深く澄んだブルーグリーンの瞳が、どうしようもない安堵に柔和に目尻を落として、吐息を溢す。
その姿を見ただけで、忽ちエイネシアの網膜には涙が張った。
愛おしくて。でも愛おしんだらいけなくて。
会いたくて。でも会いたくなくて。
なのに心のどこかで、絶対に来てくれると信じていた。
思わず浮いた身体と、でもそれに反比例するかのように躊躇う気持ちに、動きが止まる。
エルヴィアは迎えに来てくれる人を“大事にしろ”と言ったけれど……でもどうしたらいいのかわからない。
大切で、大切で。でもその人は、自分が近づいたら不幸になってしまう人。
決して、自分が触れてはならない人。
「エイネシア――」
なのにその声に名前を呼ばれるたびに、ずくりずくりと胸が疼く。
苦しくて、切なくて。でもどうしようもなく、安堵して。
駆け寄ってくるその人から逃げることができなくて。
伸ばされた手を、避けることなんてできなくて。
頬に触れた熱を孕んだ指先が、嬉しくて。
凍えた体を抱きすくめた腕と。その何処からともなく鼻孔をくすぐる、古書と薔薇の香りと。それに、ここまで急いで駆け付けて来てくれたのだろう。夏の熱気に充てられた熱い胸が、仄かな汗の香気を孕んでいて、たまらなく愛おしくて。
気が付いた時にはもうその胸に縋り、硬くその服を引っ掴んで額をこすり付けていた。
子供みたいなことをするエイネシアに、いつもなら宥めるように頭を撫でてくれるはずのその人は、今日ばかりはそんな余裕も見せず、ただひたすらにエイネシアを抱きすくめた。
とくとくと頬に伝わる、少し慌ただしい鼓動。
その鼓動が段々と落ち着いてゆくに従い、不思議とエイネシアの気持ちも落ち着いた。
もう永遠に……このまま、この鼓動の中で微睡んでいられたらいいのに。
「突然の訪問をお許しください。エルヴィア陛下」
「私は貴方に、その子のことをお知らせしたことはなくってよ、アレクシス殿下」
咎めるようでもなく、ましてや関心があるようにも聞こえない無機質な声色が、未だエイネシアを腕の中に納めて放さない義理の弟に、嘆息交じりの言葉をかける。
「宰相閣下は、今も貴女をご心配なさっているということです」
ただそう答えたアレクシスには、エルヴィアも言葉を飲み込んだ。
それは即ち、手紙の途絶えて久しいジルフォードが、今なお日々誰かをこの離宮の辺りに遣わし、エルヴィアの様子を報告させているという事。そして昨夜はその誰かが、行方不明になったと騒がれていた宰相閣下のご令嬢が、この離宮に姿を見せたことに気が付いたのだろう。
流石にそんなことは想像すらしておらず、エルヴィアも思わず自分の胸元を引っ掴んで躊躇してしまった。
まったく、本当に……優しいのか優しくないのか、ちっとも分からない人。
そういうところはそういえば、昔から全然変わらないかもしれない。
「甥に心配されるようでは、私も立つ瀬がありませんわね」
ただそう言って何事もないかのごとく装いながらため息をこぼし、部屋の外を目指す。
チラリと振り返った先では、今なおまるで子供のように安心しきったエイネシアが、小さくその人の腕の中で丸まっていた。
一体、自分が宮廷から身を引いてこの方、何がどうなってこんなことになっているのか。
ただどうしてエイネシアが打ち沈んでいたのかは、この光景だけで充分に理解することが出来た。
きっとここにこの子を残してゆくことは、彼女を深く悩ませるのであろう。
でもだからと言って、どうして引き離してしまうことができるだろうか。
そもそもそんなことをしようものなら、日頃温厚などと呼ばれているようなこの義弟が、どんなにか恐ろしいことになるのか。想像しただけでもため息が零れそうだった。
「年寄りに夜更かしは辛いわ。私は部屋で休むとしましょう」
その配慮が聞こえているのかいないのか。
パタンと閉ざされた扉の中で、ようやく手を緩めたアレクシスは、その涙に濡れたエイネシアの頬に指先を絡めた。
一体どれだけ泣いたのか。真っ赤に腫れた目と、涙の痕。
その涙の滴った先で、じわりと指先に熱を伝えた、首元の血のにじんだハンカチ。
訳も分からぬままにぐつぐつと煮えたぎった怒りが、たまらずアレクシスに拳を握らせた。
どうして、もっと早く。こんなことになる前に、助けに来てあげられなかったのか。
この一晩で、一体この子はどれ程に泣いたというのか。
「ごめん。ごめんね、シア……遅くなって」
いつもの穏やかさとは打って変わった不安そうな声色に、ゆっくりと瞼を持ち上げたエイネシアは、ブンブンと首を横に振る。
遅くなんてない。ちっとも。
いつでもどこでも、絶対にこの人は来てくれて、ただその腕の中にいるだけで、すべてが忘れてしまえる。
「シア……今度は一体、何を言われたんだい? ヴィンセントは君を連れ去って。それで今度は、どんな理由を付けて私から君を取り上げようとしているんだい?」
いつもと変わらないはずの柔らかい口調。
なのにその言葉の節々にあからさまな怒気が垣間見え、思わずエイネシアも目を瞬かせ、その笑みの一つも浮かべていない面差しを見上げた。
柔和なはずの目元。
優しい色なはずのクリーミーブロンド。
でもどうしてだろうか。
今日は少しだけ……そんな彼が、怖い。
ちっとも笑わない、冷たい冷たい、静やかな怒り。
「シア……シア。お願いだから。もう、他の誰かのせいで傷つくのはやめてくれ。ヴィンセントのせいで怪我をするのも、やめてくれ」
傷口の上を強く撫でた指先が、怪我したばかりの首元をチリチリと傷ませた。
頸動脈をなぞる指先は優しくて、でも呼吸のすべてを支配されたかのようにぴくりとも動けない。
少し乱暴にほどかれた血に濡れたハンカチ。
未だじゅくじゅくと癒されない、鋭い傷口。
それを見つめたアレクシスの目元に、どうしようもない憤りと悲しみがよぎって。
おもむろに。喰らいつくように傷口の上に触れた唇が、ドクンと心臓を弾ませ、エイネシアの息をひっつめさせた。
傷口を吸った唇に、未だ乾かぬ血が拭い取られてゆく。
じわりとあふれ出した傷口の血とそれを奪われてゆく感覚が、途端にエイネシアの胸を締め付ける。
この身の内に流れるシルヴェストの血が、忌まわしいほどに厭わしい。
なのにその血が彼の口から彼へと流れ込んで行くことが、たまらなく蠱惑的で愛おしい。
このまま何もかも、融けて一緒になってしまえばいいのに。
この傷口からあふれ出たすべてが、全部彼を染めてしまえばいいのにと、そう思った時にはもう、思わず伸ばした手が、アレクシスの頭を抱きすくめていた。
ふわふわと優しく絹糸のように指先に絡んだ彼の髪。
夏の夜の香りと、何処で付けて来たのか分からない、一枚の髪に絡んだ薄桃色の花びら。
自分の腕の中で、ピクリと身じろいだ生きたその人の感触と。
一度腕の中に抱きすくめて知った、手放すことの恐ろしさ。
ゆっくりと背中にまわされた手が、更にエイネシアをきつく抱きすくめる。
抱いて、抱かれて。触れれば触れるほどに、もっと。もっと、と心がせいてたまらない。
「シア……声を。君の声を、聞かせてくれないか」
抱きしめた腕の中で、首筋にかかる吐息に肌がざわつく。
少し気弱で。でも何度もエイネシアを慰めてくれた同じ声が、もっと聴いていたいくらいで。
彼もそうなのだと思うと、それがただただ愛おしかった。
ゆっくりと緩ませた腕の中で、こちらを見上げた端正な面差し。
わずかに血に濡れた、艶めいた唇が、「シア――」と、愛おし気に名前を呼ぶ。
その響きがどこか切なくて。
まるで融けて消えてしまいそうで。
この人は駄目だ。
絶対に手に入らない人だと分かっているのに。
気が付いた時にはもう……自分から、その唇を奪っていた。
腕の中で、一瞬ピクリと身じろいだ体と。
でも次の瞬間にはエイネシアの髪に絡んだ大きな手がその体を抱きすくめ、深く、もっと深く、エイネシアの唇を食んだ。
呼吸を求めて浮いた唇を、更に追いかけるようにして絡んだ舌が、余すことなく口内を貪り、唾液を絡ませて遠ざかる。
じっと憂えた眼差しで自分を見つめるその瞳が、もう偽り様もないほどに愛おしく。
ただただどうしようもなく、その人が欲しくて。
でも心のどこかで冷静でいる自分が、“お前は彼を不幸にする”と囁いている。
ここにいて。この腕の中にいて。無心に求め合う場所にいて。
なのにどうしても手に入らないことへの不安に、ポタリ、ポタリと涙が零れ落ちた。
熱い雫が頬を伝い、アレクシスのすべらかな頬に落ちてゆく。
悲しそうに下がった目尻と、不安そうな面差しと。
それさえも愛おしくて、その愛おしさに比例したように涙があふれる。
「……あれく、さま」
ようやく喉の奥から絞り出した声はかすれがすれで。
でも一度口にしたら、もう留まることを知らず。
「アレク様。アレクシスさま……」
もっとその人を感じたくて、ただただひたすらにその名を呼んだ。
胸の内にくすぶるすべての不安を取り除くかのように、何度も何度も。まるでお守りのように名を呼ぶ声を。
「シア――」
それに答えるようにエイネシアを呼んだ唇が、再びその言葉ごと飲み込んだ。
この感情に、もう偽りは通用しない。
一度知ってしまったらもう、歯止めなんてものは意味をなさない。
だから駄目だと分かっているのに、今はそれさえも忘れてしまえるほどに愛おしさばかりがあって。
「君を、愛している……」
囁かれた言葉が、何度も何度もその目に涙を湛えさせた。
「君をヴィンセントには渡さない。例え君が望んでも……もう、君を手放したりはできない」
君は、私のものだ――、と。
脳髄を蕩けさせるような幸せと、何度も重なる唇に、何度も何度も口は空気を食んで。
でもどんなにか愛おしくても、その言葉に『はい』と答えることはできなかった。
『君は、アレクシスとは絶対に結ばれない――』
どこか頭の奥深くで、何度もその言葉がこだました。
『君は、私の他には誰にも嫁ぐことはできない』
目の前にいるその人ではない。別の誰かの言葉が、少しずつエイネシアを不自由へと絡め取ってゆく。
『ましてや王家の分家に嫁ぐことなどは絶対にあり得ない。“あり得てはならない”』
それはその相手を、政争に巻き込むことを意味している――、と。
繰り返しその言葉の意味を理解しながら。
絶対に触れてはならないものの腕の中で、どうしようもなく微睡んで行く。
愛おしい。
どうしようもなく、愛おしい。
自分の幸せは、疑いようも無くこの腕の中にあって。
この腕の中にいることが絶対に間違えようもないほどに幸せな結末なのだと分かっているのに。
なのにそう思うたびに繰り返し繰り返しあふれ出した涙が。
とめどなくそれを、否定し続ける。
第三章 UNHAPPY ENDING
 




