3-25 エルヴィア
最低限の装飾しかない、シンプルで小ぶりなホール。
打ちっぱなしの石造りの階段は真っ白で、花の一つもない白亜の空間は、まるで雪深いシルヴェスト領そのもののようだった。
エルヴィアは何処へ行ったのかと見渡したところで、使用人の姿の一つもない。ただ左手の扉の向こうから、カチャカチャと食器の音がするのを耳にして、そちらに足を踏み入れた。
玄関ホールとは一変。まるで真冬のように沢山の敷物が敷かれ、タペストリーのかけられた空間で、奥の火の消えた暖炉の前に、エルヴィアの姿を見つけた。
背の低い、織物がかけられたずんぐりとしたソファーも、北部特有のもの。
暖炉の火を妨げない小ぶりで背の低いテーブルも。そこにふんだんに置かれた、ふかふかの大きな沢山のクッションも。どれもシルヴェスト領で見たことがある装いをしていた。
ただ、公爵家の居城でというよりは、彼らが俗世を離れて時折滞在するという、小さな別荘の装いに似ている。
王妃陛下がお住まいになるには、多分似つかわしくない装いだ。
「蜂蜜を切らしているわ。お砂糖でいいかしら」
そう促すエルヴィアが、手ずからランプの火からおろしたポットの中身をカップに注ぐ。
ほんのりと甘くかぐわしい、ミルクの匂い。
そういえば、何も食べていなかったことを思い出した。
「お気遣い……いたみいります」
そう丁寧に一礼をして答えたところで、チラリとこちらを窺った父とよく似た目元が、俄かに細められた。
ポットを置いて、砂糖を手ずから二杯。
それをテーブルに置くと、ゆっくりとエイネシアを見やる。
「こちらにいらっしゃい」
そう促す声色は、王妃陛下というよりも、ただのエイネシアの大叔母。父が、姉のように思っていると言った、ただの叔母のようで、ついエイネシアも格式ばるのを忘れて歩み寄ると、ソファーではなく、テーブル横のクッションに腰を下ろした。
それを咎めることも無く、すぐ後ろのソファーに腰を下ろしたエルヴィアは、ソファーの上に置かれていた籠から編みかけのレースを取りだし、何も言わずに針を動かし始めた。
ただ何も言わず。
薄明りの中で、ゆったりと。
その空気にほだされるようにして、エイネシアもおずおずと手を伸ばし、ティーカップを手に取る。
この真夏に、けれどちっとも厭わしくはない仄かな温かさのミルク。
うっとりと甘くて、でもほんの少し苦みがあるのは、何かお酒が少し入っているのだろうか。
僅かなアルコールが、グズグズに脆くなっていたエイネシアの理性を突き崩し、いつの間にか、ほろほろと涙が零れ落ちていた。
一体どれほど、そうしていたのか。
すっかりと空になったカップと、いつの間にか降り出したらしい外の雨音を聞きながら、ぼうっとしていた。
「雨が、降り出したみたいね」
やがておもむろに口を開いたエルヴィアに、うとりうとりと振り返る。
細いレース糸がどんどんと形を成してゆき、膝の上で襞になっていた。
とても美しい、レースショールだ。
「眠たかったら、寝て良いのよ」
「……いえ」
ここにいます、と再び前を向いて足を抱えたところで、「そう」と頷く静やかな声が、今はとても心地よかった。
「眠れないのなら、少しお話でもしましょうか」
決して優しい声色なんかではない。少し冷たくて、それでいて通りのいいその声は、声の高さこそ違っているものの、父とよく似ていた。
そのせいだろうか。何だか少し、安心する。
つい先程まで、シルヴェストの忌まわしい血を呪っていたというのに。どうしたことか、今はその雰囲気が、心地よい。
「貴女に最後に会ったのはいつだったかしら?」
「……六年前です。国王陛下の戴冠の式典で」
「そう。もう六年にもなるの」
チラ、とエイネシアを見やった視線が、少しだけ柔和に緩んだ。
「大きくなるはずね。あの時の小さな姫が、見違えるように美しくなったこと」
あの頃はまだ、十一、二歳だっただろうか。
その春学院に入学するというアレクシスが王宮から姿を消すことが少し不安で寂しくて、『だったらお祝いにチェリーパイを焼いておくれ』という彼のために、自分の身支度も忘れてリボンを選んだ。
だけど朝からその人の姿はどこにも見当たらなくて、同じくこのエルヴィア妃もまた、殆ど姿を見せてはくれなかった。
ただ戴冠式では王妃としての務めを果し、その夜の祝賀会ではしきたり通りに、新王陛下のファーストダンスのパートナーをお勤めになった。
だがエイネシアが見かけたのはそれっきり。
いつの間にか会場からエルヴィアの姿は消えており、エイネシアも女王の庭でアイラ・キャロラインに出会ったせいで、すぐに自分の事で手いっぱいになってしまった。
だからその後、いつの間にかこのエルヴィアが姿を消していたことにも気が付かず、気に留めることもできていなかった。気が付いた時にはもう、その人は王宮からいなくなっていたのだ。
だから本当に、それっきり。
エイネシアが美しくなったというのであれば、エルヴィア妃は老いたというべきなのであろうか。
しかし五十ばかりになるはずの妃は、随分ほっそりとしているものの、昔と変わらずとても麗しく、カラーの花のように清く凜としていて、褪せることがない。
「貴女はリジーに似たようね。ジルに似なくて良かったわ」
いつかどこかで誰かに言われたようなことを仰るエルヴィアに、エイネシアもぼんやりとその整った面差しを見つめてしまった。
「そういうエルヴィア様は、父とよく似ています」
「あら、そう? 姉とは……ジルの母とは、ちっとも似ていなかったのよ」
エルヴィアの姉エルリッサは、エイネシアの祖母だ。エイネシアは肖像画でしか見たことがない人で、彼女はエイネシアが生れるよりもずっと前に、病で早世したと聞く。
祖父は忙しく、曽祖父母も早くに亡くなっていたというから、母も兄弟もいないジルフォードは、同じく早くに両親を亡くした四つ年上のエルヴィアと共に、エルヴィアの十一歳年上の兄、現シルヴェスト公爵エルジットとその奥方の元に預けられることが多かったのだという。
父とエルヴィアの物腰にどことなく似た雰囲気を感じるのも、彼らが姉弟のように育ったからなのだろうか。
「ジルは元気?」
「はい。変わりありません……」
答えていながら、妙な違和感を感じた。
あれほどに油断も隙もない父が、よもや姉とも思うエルヴィアの今のこの状況を知らないはずがない。
それなのに、どうして父はこの状況を放っているのだろうか。
そう首を傾げたのが分かったのか。「不思議?」と問うエルヴィアに、僅かに肩を揺らした。
「あの子は、私を好いてはいないのよ」
「まさか」
思わず即答してしまったのは、そんなことちっとも想像していなかったからだった。
だからエルヴィアも思わずクスリと僅かばかりの微笑みを口元に称えると、「そんな反応をされるということは、まったく嫌われてもいないのかしら」と訂正した。
「でもほら。あの子は、厳しいでしょう? 色々と」
「え、えぇ……まぁ」
それについては、何もフォローできない。
「嫌々ながら嫁いだ私が、何の努力もせず身を引いたのが、気に食わないのよ。そのせいで……貴女に、すべての責任を押し付けてしまったことも」
「そんな……」
確かに。つまるところ、今の王家の継承問題の発端は、エルヴィアだ。
正妃であるエルヴィアに子は無く、王太子の母は側妃である非権門伯爵家の令嬢。
そのせいでシルヴェスト公は妹を蔑ろにされたと王家に憤り、その怒りを諌めるために、ジルフォードはシルヴェストの血を引く自分の娘を王家に差し出した。
でもそんなの、エルヴィアのせいなんかではない。
ましてやエルヴィアは今、“嫌々ながら嫁いだ”のだと言ったではないか。
「陛下が……お好きでは、無かったのですか?」
「さぁ……どうだったかしらね」
レースを編む手を止めて。それからまた、ゆっくりと手を動かし始める。
「私も貴女と同じ。陛下とは小さな頃からの許嫁で。でも貴女のように頻繁に王宮に出入りしたりはしていなかったし、関係は希薄なものだったわ。だから実感もなくて。他に、好きな人もいたのよ」
「好きな……? それは、陛下ではない方を?」
「えぇ……」
小さく頷いたエルヴィアは、少し眩しそうに、自分を見やるエイネシアに目を細めた。
似ていないと言ったけれど……でもかつて王宮で見かけていたこの子に、その面影を何度も見た。
理知的で、思慮深く、年不相応に落ち着いていて。でも時折、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべる所とか。
幼い頃のあの子に、とてもよく似ている……。
「ご結婚なさると聞いて、その方はお止めにならなかったのですか?」
「思いを打ち明けたことはないわ。どうせ叶う相手ではなかったもの」
「だから……思いを告げなかった?」
「ええ。それで嫌々嫁ぐ私の膨れ面に、ジルは大層目くじらを立ててね。『そんな顔で嫁いで殿下の心証を損なうのが、シルヴェスト家の娘のすることか』だなんて説教をされて……あぁ。どうして男というのは、あぁも無責任でデリカシーにかけるのかしらね」
それは……娘として、大変申し訳なく思う。
「だから私も、少しは努力したわ。殿下を好きになる努力。でも、互いに心が向いていないのだもの。上手くいくはずなんてないわね。殿下はすぐにも私とは真逆の……闊達で奔放で、まるで太陽のように明るいフレデリカと恋に落ちたわ。私はそれを……ただ、見ているだけだった」
「咎めたりはしなかったのですか?」
「何も思わなかったのよ。夫が誰と恋をしようが。そこに何人子供が生まれようが。感心が無かった」
だがその無関心が、ジルフォードを怒らせた。
自分の思いを捨ててまで嫁いで、それで夫と向き合うことも無く、愛人の奔放さを煩い目を背け、フレデリカの増長を許した。
彼女が何かをしでかすたびに、エルヴィアはそれを厭うて奥へ、奥へと逃げ、すべての諍いから逃げた。
エルヴィアは、許嫁に嫁ぐという責務を果たした後、他には少しとしてそのシルヴェスト家の姫としての責務を果たさなかったのだ。
「貴女がヴィンセントの許嫁になった時は、私も自分を責めたわ。その頃からね。ジルから……慰めの手紙の一つも、届かなくなったのは」
「ちっとも知りませんでした。お父様はよくエルヴィア様を、姉のような方だと仰っておられたから……仲睦まじいものかと」
「では私は忘れられたわけではないのね。喜んでいいのか……少し、分からないけれど」
何なら皆、自分のことをすべて忘れてしまえばいいと思う。
そしたら少なくとも、今ここで頼りなく座り込んでいる少女の重荷を、半分は軽くしてあげられただろうに。
「貴女は、私のようになっては駄目よ――」
少し鋭い覇気を孕んだ声色が、エイネシアの胸をずくりと揺さぶる。
「エルヴィア様……」
「義務や責務を果たすと、そのことに一瞬の満足感を得ることができる。でもその満足感は、あっという間に過ぎ去ってしまって、残るのは寂寥感と絶望だけよ。決してそれは、貴女を幸せにはしない」
プツリと糸を噛み切ったエルヴィアは、針を置き、息を吐く。
俄かに薄明りを携え始めた窓の外に、いつの間にか雨が上がり、朝が近いことを知る。
「こんなところで一人無為に過ごすのは楽だけれど。ここには、生きていることへの実感も感情も何もないわ」
窓の外の朝日にさえも、感動を得られない。
ただただ楽なだけの、何も起こらない、何もない日々。
今自分が本当に生きているのか。それとも夢を見ているだけなのか。それさえもわからなくなってゆく、無価値で曖昧な日常。
「迎えに来てくれる人がいる内は、それを大事になさい」
そう言って編み終えたレースをエイネシアの肩にまとわせたエルヴィアは、おもむろにソファーから立ち上がると、チラリと扉の奥を見やる。
さらさらと、少しふわふわと。肩を撫でたレースの感触。ほのかに漂う甘い雪国の花の香りと、少し切ない煤けた暖炉の匂い。
いただいてしまっていいのだろうかとその優しい肌触りのぬくもりに微睡んだ瞬間、何処からともない馬の蹄とわななきと、それから間もなく、ドンドンと扉を叩く音を耳に入れて、はっと怯えたようにショールをかき寄せた。
ドンドン。ドンドンドン、と、鳴り止まない音。
じっと動かないエルヴィアにかわって、どこかでカチャリと開いた扉の音と、間もなく玄関を開ける音がした。
誰もいないかと思っていたが、どうやら誰か他にも人がいるらしい。
取り次ぎに出た誰かとの会話は遠かったけれど、間もなくバタバタと慌ただしく入ってきた足音は重たく、まさかヴィンセントなのではと怯えたエイネシアは、忽ちに身を縮めた。
途端に、取次も待たずにバンと開かれた扉と。
「シアッ――」
慌てたように名を呼んだその声色に、エイネシアははっと顔をあげて振り返った。




