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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第三章 幸せな結末を探して(下)
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3-24 しがらみ(3)

「アレクさま。アレクさま……。アレクさま……」

 イリアンナ王女のためのふかふかの絨毯。取り外されたシャンデリアのせいで、薄暗い部屋。どこもかしこも可憐に造られたその部屋で一人。ぽたりぽたりと零れる涙が、とどめなく床を濡らす。

 もう、扉の外に人の気配はなかった。

 その建物のどこにも。

 誰もいない。

 深い深い森の中。でも学院の研究林とは違う。誰も助けてくれない薄暗いその森で、どうしようもない不安に身を縮めた。

 何も頼るものがなく、何を頼みにしたらいいのかさえ分からない。

 もしかしたら自分はここでこうやって永遠に、王家の正統な子を産むだけ産んで、人形のように朽ちてゆくのだろうか。

 何もかもに慮り、出過ぎることもできず、誰を選ぶこともできず。

 たった一人で、生きて行くのだろうか。

 エイネシア・フィオレ・アーデルハイドに……ハッピーエンドは、ないのだろうか。

「……どうして」

 どうして、神様。

 いつもそう。

 手を伸ばした時にはもう遅く、大切な物は全部この手からこぼれて行ってしまう。

 かつての本当の両親も。目の前で殺されたかつての弟も。ようやくつかみかけていた新しい家族との生活もまた、無残な形で壊された。

 それをやり直そうと、今度こそ睦まじい本当の家族を得たというのに、恋した人には振り向いてもらえず、愛した人にはその想いを告げるよりも早く、その想いを挫かれた。

 あとはもう。何をどうしたらいいのかもわからない。

 有るのはただただ、どうしようもない絶望だけだ。

 一体どこで間違ってしまったのだろう。

 ここに来たのがいけなかったのだろうか?

 いいや。ここに来ずとも、いずれはエイネシアも気がついただろう。自分の存在が、アレクシスにとって悪い物しかもたらさないということに。

 アレクシスに惹かれたのが間違いだったのだろうか?

 そう。研究室の黴でいいと言っていたのは自分じゃないか。

 なのに欲が出た。

 傍らで楽し気に語らうその人との時間が、愛おしくて、愛おしくて。その人が褒めてくれるのが嬉しくて。そんな幼稚な動機が、エイネシアを研究に没頭させた。

 では、国外追放になってしまった方がよかったのだろうか?

 そうなのかもしれない……。

 エイネシアが、そうなるべき未来を捻じ曲げたのだ。

 両親に絶望され弟に蔑まれ、心無い誤解を受けたままに学院を去っていたなら、それはきっとどうしようもなく辛かったかもしれない。

 でもそうして国を出た未来に、もしかしたら神様が用意した幸せが転がっていたのかもしれない。

 あぁ。でもそんな石ころみたいな幸せ。どうしてこの数ヶ月の思い出と比べられようものか。

 たられば論なんて意味がない。

 神出鬼没でいつもふわふわと掴みどころがなくて、可愛らしい白い花冠なんかが似合ってしまうどうしようもないその人が、もはやエイネシアの中のたった一人なのだ。

 他の誰かであっていいはずがない。

 その人の夢も、理想も、思い描く未来も。今ではそのすべてが、エイネシアの夢であり理想であり、思い描く未来になっている。

 なのにどうしてそれを自分が壊すことができようか。

 国王だなんてそんなもの、彼は微塵も望んでいないのに、と、彷徨った視線が、部屋の片隅に打ち捨てられたサテンのリボンを見やった。

 どこかへ投げ出されたはずの指輪が見当たらない。

 でもその指輪を結っていたリボンが、指輪の存在を思い起こさせた。

 アレクシスは、一体どんな気持ちでその指輪をあんな場所に封印したのだろうか。

 エーデルワイスの王籍を抜けてなお、返却されることのなかったその指輪に、何を思っていたのだろうか。

 女王の養子で国王の義理の弟。王太子となった甥に、その存在を認められなかった、孤独な王子様。

 彼が指輪を捨てたのは、王位を望まなかったからだ。

 自分よりも正統性が劣ってしまうヴィンセントのことを、彼なりに案じて、彼なりの方法で身を引いた。

 ただ一つ、自分を引き取って育てた義理の母や義理の兄との繋がりさえも打ち捨てて、ブラットワイスという広々とした古城に一人、退いて。

 そうまでして、この国の平穏を望んだ優しい人なのに。

 エイネシアの存在は、彼の足枷にしかならない。

 下手をすれば、その命さえも脅かす。

 どうしてそのことに、今の今まで気が付かなかったのか。


「ごめんなさい……ごめんなさい、アレク様……」

 月が夜の帳を連れてきて、広々とした湖面にうっすらと光を落とす。

 何度も何度も謝罪して、何度も何度も悔やんだけれど、それでも少しも決意は固まらなかった。

 灯りの一つもない寒いくらいの部屋。

 どんなにか見渡しても、そこにあの温かい光魔法はなく、あってももうそれに近付く事さえ恐ろしい。

 何が悪いのだろう。

 この血だろうか。

 このエイネシアという体に流れる血が悪いのだろうか。

 皮膚の下で脈々と流れる血管の一本一本。数多の血管に支配されたこの体のすべて。

 そこにシルヴェストの血が流れているから、駄目なのだろうか。

 ヴィンセントの許嫁になったのも。反権門に目の敵にされて下手な政争に巻き込まれるのも。そして、アレクシスの傍にいることができないのも。全部、この血のせい。

 もしもこの体からシルヴェストの血が無くなったなら。

 ただのエイネシアになったなら。

 そしたらもう、何も躊躇う事なんてない。

 幸せになれるんじゃないのか。

 そう思った時にはもう、エイネシアの目は鋭利なものを探していた。

 丸みを帯びた家具。やたらにかつての持ち主のことを気遣った優しげな部屋が、イライラとする。

 そんなエイネシアの目に留まったのは火の消えた暖炉の上の燭台で、これなら、と、指先が冷たい金属を握りしめる。

 突くなら手首。いや、首がいい。

 こんな細い針では、大して切れ味も良くないはずだから、手よりもっと沢山体の中の悪い物を出してくれる場所がいい。

 だから、首を、と針先を己に向ける。

 金属の冷たい感触が首筋をなぞり、チクリと傷んだ皮膚に、一瞬の躊躇いが生じる。

 でもその首をたらりとこぼれた赤い血に、どうしようもなく安堵した。


 悪い物が、落ちてゆく。


 もう一滴。この手に滴るほどに。もっと。もっと、沢山、と。

 針を推し進めようとしたその手を、パシンッと掴み止めた白い手。

 暗がりの中で、遅れて吹き込んできた夜の風と、水の匂い。

 薄ぼんやりとした部屋に、ゆらゆらと外の灯りを背に受けた、大きくはないシルエット。

 アレクシスでもヴィンセントでもない。

 華奢だがよく鍛えられた女性の手。

 すらりと長い手を覆う白いフリルと黒のお仕着せ。

 慣れた様子ですかさずエイネシアの手を床にたたきつけ、燭台を投げ飛ばした機敏な動き。

 ぼうっと顔をあげたエイネシアを見やった、夜に輝く琥珀色の瞳。


「駄目です」


 きっぱりと降ってきた力強い声色が、訳も分からぬままにエイネシアの目を潤ませた。

「悪いのは貴女の血ではありません。こんなことをしてはいけません。姫様」

 エイネシアの首元をぎゅっと抑えた熱い掌。

 ずっと外のテラスにいたのだろうか。夏の熱気に生ぬるく温まったその掌が、じんわりとエイネシアの中の冷たく凍えたものを溶かしてゆくようだった。

「……手を、放して。“アマリア”」

 ヴィンセント王子の忠実なる侍女にして影。

 その存在が、少しばかりエイネシアを冷静にさせた。

 死ぬつもりなんてなかった。でもどうしようもない衝動にかられていた。それを止めて欲しいなんて、微塵も思っていなかった。

 だって、こうする他にどうすればいいのか。

「手を離したら、今度は私の懐の懐剣をお奪いになるでしょう?」

 エイネシアの視線を的確に見抜いてそう返したアマリアに、ふとエイネシアも顔を持ち上げる。

 じっとこちらを見る美しい瞳。日中ではブラウンに見えるのに、薄闇の中では鷹のように鋭く、鮮やかだった。

 その彼女の目に、一体自分はどう見えているのだろうか。

 惨めに床に打ちひしがれて、子供みたいにおろおろと泣いて。なんて情けない。

 一人暗闇に取り残された恐怖に腰が抜けているのを知られたくなくて、おぼつかない手で何とかアマリアの肩を押した。

 自殺なんてしない。そんなつもりはない、と。

 そんなエイネシアの様子に、ひとまず取り押さえていた手を解放したアマリアは、エプロンの大きなポケットから取り出したハンカチを広げると、ぎゅっと傷ついた首に巻いて堅く端を結んだ。

 ジワリと広がる血の感触。少し息苦しいくらいに強く圧迫された傷口に、妙に頸動脈が大きく脈動しているかのような錯覚を覚えた。

「申し訳ございません、姫様。もっと早くお止めすべきでした」

「……そんなこと」

 必要なかったのに、と首元に伸ばそうとした指先を、アマリアの手が掴み止める。

「お許しください。殿下も、姫様を追い詰めたかったわけではないのです。ましてやこのように、お体に傷をお付けするなど」

 いたわるような手つきでエイネシアの体を支えてくれる彼女には、きっと体の力が抜けていることなどお見通しなのだろう。

 ゆっくりと手を引き、腰を押し上げるように添えられると、自然と腰が浮いて、足が立った。

 そのままカウチにでも誘われるのかと傍らを見やったけれど、しかしアマリアの手はそのままエイネシアをテラスの方へと押すものだから、驚いて足を止めた。

「ま、待って……アマリア。何処に行くつもり?」

 硬く施錠されていたはずなのに、今はその戸が一つ空いている。

 扉の外に人の気配はないが、遠く、湖の対岸でエイネシアが逃げ出さないように見張っているのであろう誰かが持つ松明の炎が、ゆらゆらと揺れている。

 王子の忠実なる侍女にして影である彼女の主はヴィンセントだ。だとしたら彼女も、エイネシアがここから逃げ出さないようにと番をしていたのではないのか。

 だがチラリと振り返ったアマリアは、ただ何も言わずにもう一度エイネシアの背を押してテラスへと誘った。

 ぼんやりと降り注ぐ月の光が、うっすらと流れてきた雲に遮られて外を一層暗くする。

 その暗がりに漬け込むかのように身を滑らせたアマリアは、少し強引なくらいにエイネシアの手を引っ張ってテラスの隅へと連れてゆく。

 一体、どこへ連れて行くつもりなのか。

 そこがもしもヴィンセントのところだというのであれば、行きたくない。

 だからそうぐっと足を引き止めて抵抗したところで、再びアマリアが振り返った。

「悪いようにはいたしません。私について来てください」

「え?」

 一体、何を言っているのか。

 困惑するエイネシアに、そのとろとろとした行動に痺れを切らせたのか、「失礼します」と言って再びエイネシアの手を掴んだアマリアが、強引にテラスの隅から柵を乗り越えた。

 その先は湖なはずでは、と驚いて身を乗り出したエイネシアは、「待って、待ってッ」と慌てて声を出す。

 だがその口さえもパシリと塞がれてしまって、同時に湖面だと思って足を付けた場所に細い板が敷かれているのを見て、はっと顔をあげた。

 こんな板、元は無かった。あるいは工事のための足場が残っているのだろうか。

 渡って行くには酷く頼りないもので、だがそこをすいすいと突き進んで行くアマリアに手を引かれ、エイネシアも足をもつれさせながら板を渡った。

 だがあと一歩で陸地というところで、突如立ち止まったアマリアの背に、ドンッと頭をぶつける。

 今度は一体何なのだ。

 そう訊ねようとして、僅かにアマリアが壁に身を寄せながらエイネシアを隠すような仕草をしたものだから、エイネシアもほとんど反射的に壁に身を寄せて小さくなった。

 その視線の先で、ゆらりと目の前を横切った炎。

「誰だ」

 気迫のある声色と、目の端によぎったブルーのお仕着せは、近衛ではない。おそらく、ヴィンセントに仕える侍従の類だ。

「私です」

 エイネシアに出てこないようにと一つ手で制してから一歩踏み出したアマリアに、ゆらりと松明が掲げられる。

「アマリアか。こんなところで何をしている。殿下のお傍に仕えていなくていいのか?」

 見知った顔だったようで、警戒を残しながらもそう声を和らげた侍従に、「ええ、殿下の御命でこちらに」と、アマリアが少しの違和感もない声色で答えた。

 殿下の命。ではエイネシアを連れ出すのは、やはりヴィンセントの命なのか。

「こちらの御方にお夜食をお持ちするようにと言われ、仕度に参ったところでございます」

 そこの、食堂の勝手口から、とアマリアが指差したのは、すぐ隣の建物で、それを疑った様子もない侍従が、「あぁ、こんな時間だからな」とさらに声を和らげた。

「だがこんな夜更けに、明かりも持たずに来たのか?」

 そう俄かに訝しんだ言葉には、「あら」と、アマリアが笑って見せる。

「王家の“影”が、そこらへんの侍女と同じだとは思わないでいただきたいですね。まぁ……体裁としては、面倒くさがらずに明かりの一つも持ってくるべきだったかもしれませんが。人目に付きたくはなかったものですから」

 クスクスと暗がりの中で笑って見せる美女というのは中々の迫力があり、侍従の方も慌てた様子で、「失礼しました」と口調まで変えて飛び下がった。

 影などと呼ばれる仕事を担っていることは、限られた人物しか知らない。それをはっきりと口に出されては、何か別の特別な任務でもあったのではと勘繰ったのだろう。

「もう行っても?」

 だからアマリアがそう続けると、「お気をつけて」と慌ただしく踵を返して、侍従の方が逃げるように去って行った。

 そんな様子にフゥと一つ息を吐き、「もう大丈夫です」と、再びエイネシアに手が差し伸べられる。

 ほんの短いやり取りだったけれど、だがその会話が、エイネシアに一つの確信を与えた。

「……アマリア。貴女、殿下の命で私を連れ出したわけではないのね?」

 だからわざわざ扉ではなく、テラスから現れた。

 灯りの一つも持ってこず、理由もなく強引に、少し急いだ様子でエイネシアを連れ出そうとしている。

 勘付いたエイネシアに、チラリとそちらを窺ったアマリアの瞳にはエイネシアを害そうというような気配はなかった。

 だがそれでも、不安は募る。

 一体、何をしようというのか。

「……時間がありません。とにかくついて来てください。理由は道すがら、お話します」

 少なくともアマリアが強引なのは時間がないからなのであって、意思を無碍にしようとしているわけではないことが言葉の端々から感じられる。

 信じるべきなのか。

 でも一体ここを出て、どうするというのか。

 実家に連れて帰ってくれる? だとしたら、そんなものは望まない。

 アーデルハイド家に戻って、それでどうする。

 きっともう昨日までと同じようには過ごせない。

 むしろ今は、誰とも顔を合わせたくない。

 日常が、怖い――。

「行き先はこの奥。カネシャ離宮です。ひとまずそちらにお連れします」

「カネシャ、離宮?」

 聞いたことのない離宮だった。

 でも行き先をはっきりされたせいか、「お早く」と手を引っ張ったアマリアに、何となくなされるがままになってしまった。


 離宮脇の小道を突っ切って森の中へ。

 少し先へ行くと馬が一頭繋ぎ止められていて、そこに慣れた様子で颯爽と飛び乗ったアマリアが、少し強引にエイネシアを引っ張り上げて、自分の後ろに座らせた。

 初めて誰かの後ろに乗った馬は、支えがなくてとても不安で、「掴まっていてください」というアマリアに、慌ててその背中にしがみついた。

 こんなものまで用意して。一体どういうつもりなのか。

「……アマリア。貴女、誰の命で……」

「私の一存です」

「一存?」

 カパカパと音を潜めてゆっくりと馬を歩かせ出したアマリアは、今しばらく声を潜めたようにしていたが、次第に人気のない小道に出ると、ようやくそう落ち着いた様子で言葉を返した。

 ここらにはもう、王子の手の者はいないということなのか。

「私の判断は間違っていましたか? 姫様」

 前を向き、手綱を取ったままに言うアマリアに、エイネシアはドキンとして思わず、アマリアのハンカチの巻かれた首に触れた。

 そうだ。アマリアの言う通り。

 彼女が来なければ、今頃エイネシアは何をしていただろうか。

「……死ぬ気なんて、無かったわ」

「はい。ですがそのような傷痕を見たら、殿下がお悔みになります」

 悔やむ? いいや……無意味で馬鹿なことをしたものだと、嘲るに違いない。

 分かっていながらそう現実を突きつけないのは、彼女なりの優しさか。

 ただ……。

「殿下のために、殿下の命なく私を連れ出したと?」

「そう言っても間違いではありません。私なりに……今回の件について、憤るものがあり、じっとしていられなかったことも事実ですが。ですのでこれは、職権に反した身勝手な振る舞いです。お許しください」

「アマリア……」

 女性なら大半がエイネシアの境遇に憤っただろう。

 一度は婚約を破棄しておきながら、今度は側室でもいい。世継を生め。気持ちが固まるまでここにいろと軟禁させられるなんて、相手が王太子でさえなければ立派な犯罪行為だ。

 だが目下、エイネシアにとってそれは大したことではないのだ。

 今エイネシアを追い詰めているのは、ヴィンセントのことじゃない。アレクシスのこと。

 そしてこの体に流れる、シルヴェストの忌まわしい血のことだけ。

「姫様……どうか、殿下をお許しくださいませんか」

 カパカパ。カパカパと、ゆったりと歩む馬の足音と震動。

 それに呼応するかのように告げるアマリアの声色が、どこか漠然と虚ろな声色に聞こえた。

 許す、とは。一体何をだろうか。

 エイネシアを騙して離宮につれてきたことか。それともその離宮に閉じ込めたことか。あるいはエイネシアが絶望するほどの現実を、容赦もなくつけたことだろうか。

 離宮の件なら、馬車に乗ったエイネシアにも責任がある。閉じ込められたことについては、確かに問題だ。だが結局のところ、そこの他に、エイネシアには今居場所がない。そして彼がエイネシアに突きつけた現実とは、確かにエイネシアを絶望はさせたが、それでも紛れもない事実だった。

 何等咎めるものはない。

 アマリアが謝罪することでもない。

「殿下は、事実しか仰っていないわ……」

「そう……お思いですか?」

「忘れていたわ……この血の事なんて。自分の存在価値なんて。だって、そんなものいらないと言われたから。それでいいと言われて……」

 そしてそれがどうしようもなく、幸せだったから。

 だから、と声を震わせたエイネシアの視線の端に、きらりとわずかに外灯の灯りがよぎり、はっとして顔をあげる。

 鬱蒼と覆いかぶさる木々と、取分け細い小道の先で、僅かに橙色のきらめきを灯した白い壁が浮かび上がっていた。

 やがて馬が小道を出ると、そのぽっかりと空いた空間に、小ぶりな石造りの建物が一つ、浮かび上がった。

 雪深い国に多く見られる、ツンとせせり立った角度の鋭い三角屋根。頑丈そうな石柱と、煉瓦積みされた石の壁。客人を出迎えるようには出来ていないであろう、ポーチもない簡素な扉の両側に、一つ、僅かな明かりが灯っていた。

 離宮の中では小ぶりな部類で、周りの雰囲気を見ても随分とひっそりとしている。

 ここが、カネシャ離宮なのか。

 まるで人気がないけれど、外の灯りが、ここに誰かがいることを示唆していた。

 それはまさか……エイネシアの、会いたくない人なのではないのか。

 そんな不安が、馬を下りたアマリアに続くことを拒んだ。

 このままこの馬で、ここを離れてしまえたら。

 そう思うけれど、アマリアが掴んだ手綱は固く、さぁと促す手を退けてまで馬を走らせる技量もない。ただただ馬上で戸惑うしかなかった。

「離宮の主がお待ちです」

 そんなエイネシアの様子を見て取ったのか、そう急かすようなことを言ったアマリアに、エイネシアはふと顔をあげて扉を見やる。

 その瞬間、扉がゆっくりと、内側から開いた。

 あっと顔をあげたアマリアが、すぐにも手綱を掴んだままに深く頭を下げる。

 夜の帳。ほのかに明るい広くはないであろう玄関ホールの灯り。

 その明かりを受けて、ゆったりと歩み出てきた長い髪の、女性のシルエット。

 スラリと背が高くてとても華奢で、簡素なドレスに一つストールだけを被いた飾り気のない姿。

 ただその背後の光を受けた長い長いキラキラと輝いた銀色の髪だけが強く印象的で、僅かに、玄関脇の灯りを受けてきらめいた淡い薔薇のような薄紫の瞳が、ドキリとエイネシアの心臓を飛び跳ねさせた。

 嘘だ。まさか、そんな。こんなこと、あるはずがない、と。

 混乱しきった心臓が、バクバクと脈を打つ。

 そんなエイネシアを見やった婦人が、ひたりひたりと音も無く玄関を出て、佇む。

 何を言うわけでもなく。歓迎の言葉をいうでもなく、かといって馬上で呆けている少女を窘めるわけでもない。

 ただじっと佇むその人の姿が、途端にエイネシアの胸の内を強く鷲掴んだ。

 それはまるで、“自分”だった。

 プラチナの髪。紫の瞳。深い深い森の奥で、小さく灯った灯りの下で、何を言うことも無く、そこにいることさえ忘れられて佇んでいる貴婦人。

 ただエイネシアを、何も言わずに待ってくれている人。


「……エルヴィア、様……」


 ポツリと零れ落ちたその名を呼んだのは、一体いつ振りだろうか。

 エルヴィア・クリス・シルヴェスト王妃――。

 表舞台から姿を消して久しい、国王の正妻。

 氷の如く冷たく透き通った、余りにも美しい孤独の王妃。

「中にお入り。暖かいミルクを淹れるわ」

 囁くようなかすかな声色。けれど透き通った凜とした高い声音が、まっすぐとエイネシアの耳に届く。

 途端に我に返ったエイネシアは、はっとして馬の下を見やった。

 それに合わせて差しのべられたアマリアの手で、馬からおろされる。

「貴女……ここにエルヴィア様がいらっしゃると知っていて……」

 混乱していた。

 エルヴィアが王宮を出たという噂を聞いたのはもうずっと前の話だった。

 国王戴冠の式典に姿を見せてすぐ、どこかの離宮に居を移したと聞き、てっきり上王陛下のように、王都郊外のどこかの離宮でお暮らしなのだとばかり思っていた。

 だがそれがどうした事か。

 このような薄暗く、王宮からも目と鼻の先にある森の中で、たった一人。王妃の住まいとは思えないような、まったく人気のないこの小さな離宮でお暮らしだったというのか。

 だが……どうして。

「私はここにどなたかがいらっしゃるかなど存じておりません。何も見ても、聞いてもおりません」

 そう瞼を伏せて一線を引いたアマリアに、エイネシアも口を噤む。

 やはり……ここの事は、公には伏せられているのだ。

 そしてそこで律儀に頭を下げて足を止めたアマリアは、中へまではついてこないということの意思表示をしている。

 アマリアはただ、エイネシアを連れ出しただけ。

 そして突如現れた訪ね人に、こちらにお住いの貴婦人は、入るように促した。

 ただ一人。“エイネシアに対して”のみ。

 正直、まだ胸はざわついていて、考えがまとまっていない。

 ヴィンセントのことも。アレクシスのことも。

 ただ考えるだけならば、イリア離宮でよかった。

 もしかしたら……エイネシアの様子次第では、アマリアも何もせずにいたのかもしれない。

 アマリアを突き動かしたのは紛れも無く、エイネシアの自傷行為のせいだ。

 だから余計に躊躇った。

 勝手にこんなことをして、アマリアは大丈夫なのだろうか。

「殿下には……何と?」

「ご心配なく。イリア離宮での一件をお聞きになったこちらの御方が、姫様をお迎えにいらしたと、そう明日の朝、ご報告させていただきます」

「……そう」

 要するにヴィンセントも、この森の一角に、真の王妃がひっそりと暮らしていたことを存じているということだ。

「いらぬ世話でしたでしょうか」

 ただ一言、そう顔をあげて問うたアマリアに、エイネシアは言葉を躊躇った。

 いらぬ世話……そうだったかもしれない。

 でもそうではなかったかもしれない。

 今この心臓が痛いくらいに飛び跳ねているのは、思い悩んでいるせいではない。

 すぐ傍にいた、エルヴィアの存在のせい。

 エイネシアとの関係は深くはなく。でも確実に同じ血を引いた、エイネシアの大叔母。

 この深い深い森の中で、唯一エイネシアに差し込んだ光明。

「……いいえ。有難う……アマリア」

 素直に感謝する気持ちではなかったけれど、でもここにいる人のことを教えてくれたことには、心から感謝した。


 この人に会ったならば。何か答えが見つけ出せるだろうか。


 そんな淡い期待が脳裏をよぎり、ふと、エイネシアの足を突き動かす。

 一歩。一歩と、歩み寄って。

 その開かれた扉をくぐる。


 一度チラリと振り返ったけれど、その時にはもう馬ともどもアマリアの姿は影も形も無くなっていて、それに驚くこともなく、エイネシアは改めて離宮の中へと歩を進めた。






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