3-24 しがらみ(2)
「やはり、私には君が必要だ――エイネシア」
唐突に降ってきた言葉の意味が、理解できなかった。
「……え?」
何か言いました? と、そう聞き返すかのように首を傾げる。
「北部の離反。政局の混乱。反権門への牽制。ひいてはこの国の安寧と健やかな未来。そのすべてに、やはり必要だったんだ」
必要? 何がだろうか。
「君が」
君? 誰の事だろうか。
「……ま、って。待ってください。何? どうして……」
「一度言ったことを撤回するのは、王家の者として恥ずべきものであることは百も承知だ。だがその上で、それでも言う。私には、エイネシアの血が必要だ」
まだわからない。だからそれはどういうことで。何がどうしてそうなったのか。
「待ってくださいッ。殿下は分かっていて婚約を破棄したはずっ。それを今更……」
「そうだ。私の見識が浅く、ただ感情のままに動いた結果がこれだ。それを不誠実と咎めるのであれば、君が納得するまで謝罪しよう。それでも足りないというのであれば、君が望むことをすべてやろう。そうするだけのことをしてしまった」
謝罪。彼が言っていた謝罪とは、そういう事だったのだ。
和解のための謝罪ではない。過去を清算し、一度言ったことを取り消す。そのための謝罪だ。
自分の感情のままに婚約破棄したエイネシアに対し、もう一度国の利害のためにそれを清算したい。そう望むことへの謝罪。
そしてそれが個人的感情ではなく、国のため。王太子として、と言われたら、エイネシアだって強くは出れない。その事も全部計算した上での申し出であることへの、謝罪。
でもだからと言って、どうして受け入れることができるだろうか。
もはやそれは終わった話。
終わったがゆえに今、沢山の人達がこの今の現状に、エイネシアがいなくても良いようにと最善の手を尽くしてくれているのだ。
皆、エイネシアのために。
エイネシアの代わりに。
「殿下は、アイラさんをどうこうする気はないと仰いました。その関係を解消する気はない。そうなのではありませんか?」
「その気はない……。アイラの存在は反権門の象徴であり、希望だ。もはや四公爵家が王国の一員となって長い今なお、王家の妃が王族か四公爵家の出身者でなければ認められないなどという古い慣習は早々に撤廃すべきだったのだ。そうでなかったために、シルヴェスト家への不義理が起った」
「では尚更私などもう必要ないではありませんかッ。私は、四公爵家の人間ですよ?」
「感情と現実は違う。妃を選出する制度は改訂すべきだが、しかし北部血脈を色濃く引く君の血を王家に引き継がせることは、選択しうる最善の政治的判断だ」
「だから……“正妃にはしない”。でも“側妃となれ”とでも仰るのですか?」
まさか、と震えた声色に、それがいかに高潔なるアーデルハイド家の令嬢に対して不作法であるのかをわきまえているらしいヴィンセントが、俄かに眉を顰めた。
「エイネシアが望むのであれば……正妃に、迎えたいと思う」
「殿下!」
今更、そんな話。有るはずがない。
その憤りに、思わずバンとテーブルを叩いて腰を浮かせた。
駄目だ。感情的になっては駄目だと思うのだけれど、それでもやるせない思いがずくずくと胸の内を渦巻く。
「それを君が望まないというのであれば、束縛はしない」
束縛は、しない? と首を傾げる。
であれば、エイネシアの血が必要とはどういう意味なのか……。
「ただ、“次の王太子”だけは、君に産んでもらわねばならない――」
ポカンと呆気にとられたエイネシアは、思わず言葉を返すことも忘れてしまった。
もしエイネシアが肉体年齢に比例した十八歳の女の子だったなら、思わず手を張り上げるか絶叫して相手を罵っていたかもしれない。
ただ少なからず前世から引き継いだ倍くらいの年齢の人生経験があるおかげで、いかにとんでもない男とはいえども王族を張っ倒すという無礼だけは働かずに済んだ。
変わりに、無駄に老熟した思考が、至極冷静に言葉の内容を分析しようと試みて、完全にエイネシアの動きをフリーズさせたのだ。
もしもこれが他人事であったなら、理に適っている、だなんて思ったかもしれない。
シルヴェスト家が怒っているのは、現王妃エルヴィア妃が蔑ろにされたことに対してであり、決して王家の血縁にシルヴェストの血が流れなかったことではないのだが、それでも多くの北部系貴族達は、王家に北部の血が流れることを安直に喜ぶだろう。
実際にエイネシアを介して北部系の血を引く国王が誕生すれば、シルヴェスト家や北部貴族が王国に離反する理由を大きく削ぐことになるのも間違いない。
だがだからと言って、まさかそんな話……聞いたこともない。
かつて以上に無機質な関係。ただの政略どころか、もはやただの道具。エイネシアを馬鹿にしているとしか思えないような申し出だった。
そんなこと、受け入れるはずもないではないか。
いや。むしろ突拍子も無さすぎて、逆に真実味が薄く、全然ピンと来ない。
「何かの……ご冗談、ですよね?」
だからかろうじて喉からしぼり出たのはそんな言葉で、それにさらに眉をひそめたヴィンセントは、ジッとエイネシアの方を見やると、おもむろに席を立ってその場で深く頭を下げたものだから、エイネシアも仰天して立ちすくんだ。
仮にも王子。この国の王太子だ。それが国王以外に頭を垂れるなど、あってはならないこと。
「殿下……」
「どれほど酷いことを言っているのかは理解している。だがそれは、相手が君だからだ」
「どういう……」
「かつて誰よりも王家の妃となることを理解し、恐らくは私以上に、自分の背負っている物の価値を理解し、王家のために尽くしてきてくれた。そのことを、私は一番よく知っている。だから恥を忍んで、こんなことを言っている」
「頭をッ。とにかく、頭を上げてください……。こんなことをしては……」
「エイネシア――」
ゆっくりと。
エイネシアを見上げた、ブルーの瞳。
頭を垂れてなお、エイネシアをドキリと萎縮させてしまう、昔と変わらない有無を言わさない眼差し。
「私には、“君の血筋”が必要だ」
酷いのに。酷いことを言っているのに。
なのにズクリと胸が疼くのは、それがかつて、アーデルハイドとしての価値だけでもいいからとヴィンセントを追いかけていたエイネシアが、欲しくても欲しくても得られなかった言葉だからなのか。
「アーデルハイドとして……もう一度、私と共に、この国のための犠牲となってほしい」
絶対に受け入れられるはずもない言葉なのに、何故か泣きたくなった。
もしもその言葉を半年前に聞けていたなら。そしたらきっとエイネシアは、絶対に上手くいくはずもないヴィンセントとの未来を想像しながらも、その言葉にいとも容易く頷いただろう。
たとえ道具のようにしか扱われなかったとしても、それでも良いと、胸をときめかせたのであろう。
それほどまでにエイネシアにとってヴィンセントの存在は大きかった。
ましてや、元々エイネシアがヴィンセントに求めていたのも、愛情などではなかった。
エイネシアが欲していたのは、自分の“価値”を認めてもらうこと。
ヴィンセントにとって最も重要なのが、感情より価値であることを、幼心で誰よりも的確に理解していたのだろう。
王家の妃にふさわしいと、褒められたかった。
エイネシアの存在がヴィンセントの助けになることを、望んでいた。
アンナマリアに言わせれば、そんなのは“歪んでいる”のだろうけれど、しかしエイネシアにとってはそれがすべてだったのだ。
自分の存在価値を認めて欲しい。
自分の存在が、誰かの助けになることを実感したい。
自分が生きている意味を、誰かに必要とされることでしか確認できない。
エイネシア……“小宮雫”にとって、誰かに必要とされることは、自己確立のために最も必要なものだったのだ。
国のための犠牲などと言われたら、普通は嫌悪すべき概念なのかもしれない。
だがそれでもエイネシアにとっては、それが魅力的な言葉に聞こえてしまう。
自分の存在が何かの役にたてば、誰かがエイネシアを褒めてくれる。
立派ね、と称賛してくれる。
いつもどうしようもなく自分に不安ばかりを抱えていたエイネシアにとって、それほどに魅力的な心の安寧はなかった。
だけど……。
「それは……できません」
だけどそんなのは、“昔の話”。
「エイネシア……」
ゆっくりと持ち上がった、かつて大好きだった青い瞳。
その視線に一喜一憂しながら、いつもいつもその中の感情を慎重に見定めてきた。
だからわかる。
落胆と、幻滅。期待を裏切ったエイネシアへ向ける、非難を孕んだ視線。
かつてならば、きっと耐えられなかったであろう眼差し。
「殿下の仰っていることの意味は分かります。もしも本当にそれしか方法がないのであれば、私もよく考えます。でもそうではない」
他人の好意に甘えるのは主義じゃない。
それでも、今地道に北部の信頼回復のために奔走してくれているアレクシスは、少しだってそんなことをエイネシアには望んでいない。
むしろイースニックの農場再編のための手助けをしてほしいと、エイネシアに役割を与えてくれた。
そのやりがいと、効果の実感が、エイネシアに、もう充分なほどの満足感を与えてくれている。
彼はあの日、泣きじゃくったエイネシアに、では明日からは別のエイネシアの物語が幕開くのだと言ってくれた。
誰かにとって価値のある存在でなければならないと恐怖していたこれまでの物語ではなく、やりたいと思ったことを試して、それを互いに尊重し合い高め合う周囲との対等な関係を築いてゆく物語。
子供みたいなわがままを言っても、困ったな、と苦笑しながら頭を撫でてくれる人がいて。
たとえ何の役にも立たなくても、文句なんて言おうはずもない。
上着で作った日陰に、そっとエイネシアを包み込んで、何の利害もなく導いてくれる。
そんな人が傍にいる。そんな人がいることを、もう知ってしまった。
この気持ちを抱えたまま、自分を殺すことなんて、できやしない。
エイネシアはもう、新しい自分の居場所を見つけたのだ。
「殿下が王国の平和と安寧を望んで下さる限り、私とアーデルハイドはそのためのいかなる協力も尽力も惜しみません。ただ私が殿下のものになることだけは、二度とありません。この血もこの肉も、頭からつま先まで。そのすべては私のもの。私自身のものです」
だからこの血もこの肉も。その行く末は、自分で決める。
無為に人生を奪われ無為に命を落とした過去は二度と繰り返さない。
幸せを求める一歩を踏み出すこと。
それを諦めないことが、エイネシアの今世での課題だ。
自分の幸せは、自分で決める。
その幸せを、体裁と上辺だけで取り繕った結果の周りの称賛などで推し測ることはやめた。
見極めるのはとても難しいけれど。多分、周りの称賛などなくとも、この胸が温かくなることが、本当の意味での幸せなのだ。
自分が追い求めるべきものはそれであり、決して誰かの称賛ではない。
「例え非難されようとも。私は、私の気持ちに正直に生きたい」
それが、今の私の生き方です、と。
そうぎゅっと掌で抑えた心臓が、トクリトクリと穏やかな鼓動を刻んでいた。
焦りも絶望もない。迷いも不安もない。
自分で口にした言葉に、穏やかでいられる自分がいる。
これで間違っていないという、確固たる自信と、信念がある。
それから……その想いを支えている、たった一つの強い想いが、ある。
その人を思うと、焦燥とは別の感情が、鼓動を少し早くさせた。
もう、いい加減に認めるしかない。
エイネシアの中で、すっかりと大きくなってしまった存在。
今のエイネシアにとって、大きすぎる支えであり、その生き方の根幹を築いたもの。
「だからもう私は、道具にはならない。“彼”以外の、誰のものにもなりません」
口元に称えた微笑みと、強い意志を孕んだ瞳。
きっぱりと口にして顔をあげたエイネシアに、目の前の彼は何も言わず。
ただその視線がエイネシアではなく、その胸元に重ねられたエイネシアの手をジッと訝しげに見ていることに気が付くと、エイネシアは小首を傾けた。
即座に反論の一つでもされるかと思っていたが、どうしたことか。
一体その視線は、何を見ているのか、と、そうおもむろに体から離した自分の手を。甲を。
それからふと目端を過った左手首のブレスレットに、これ? と、手首を見やる。
その瞬間、ガッと強い力がエイネシアの手を掴み、引き上げる。
痛くはなかったが、あまりにも唐突な行動に、思わず足がもつれてふらついて、短い悲鳴と共に、目の前のヴィンセントの胸元に手を付いた。
はっとして顔をあげたところで、ひどく訝しげに細まった視線がじっくりとエイネシアの腕を見つめたものだから、ドキリと心臓が嫌な飛び跳ね方をした。
何だ。一体、何だというのだ。
このブレスレットの……まさか、そのリングに見覚えがあるというのか。
そう不安になった瞬間、ギリリ、と、エイネシアの手を掴むヴィンセントの手が、痛いほどに力を込めていった。
「ッ、痛っ……」
「その“彼”とやらは、この印章の持ち主のことか」
「持ち、主?」
ギリギリと更に込められてゆく力に、思わず眉を顰めて声をひっつめさせた。
痛い。未だ曾て、これほどのヴィンセントの強い怒りを感じたことがあっただろうか。
そう思うほどの力。そう思うほどの、低い低い唸るような声色。
「一輪の薔薇と二重淵の綬。冠を戴いた一頭のグリフォン。外輪に施された薔薇の装飾。この印章の持ち主は、一体何と言って君にこれを渡したんだ?」
「痛っ、いっ。放し、て」
放してと願えば願うほどに食い込んで行く指先。
血の気の引いた手に、ギリギリと埋まってゆく爪。
何を言っているのかも痛みの中では曖昧にしか理解できなかったけれど、それでもただ一つだけは紛うことなく理解できた。
この指輪の持ち主はやはり、あの部屋のかつての持ち主……アレクシスなのだ。
でも何故だ。
日頃見かけるアレクシスは、これではない、別の印章の指輪を身に着けていたはず。
だからエイネシアも、これを“印章”だなんて思わなかったのだ。
ましてやこの指輪は、下手をすれば永遠に忘れさられてしまったかもしれない場所に閉ざされ、薔薇の花と油の中で汚れ、打ち捨てられていたもので、印章をそんなにも粗末に扱うなど、聞いたことがない。
でももしも本当にこれがアレクシスの印章だったのだとしたら。
どうして……彼はこの指輪を、そんなところに捨てて行ったのか。
「アイツのものになるのは、アイツを王にするためか」
嫌にはっきりと耳に届いたその言葉にだけは、痛みも忘れて、「違う!」と声を張り上げた。
なんて恐ろしいことを言うのか。
そんなこと思っているはずがない。微塵だって望んでいない。
「これが何なんですっ。これは、ただ寮の部屋で拾ってっ……印章だなんて、知らなくてっ」
「知らない?」
僅かに緩んだ手に、ほぅぅ、と、思わず安堵の吐息が零れた。
怖い――。
初めて、ヴィンセントに対してその感情を抱いた。
この指輪が、一体何だというのか。
「寮の部屋の隠し扉に、打ち捨てられていたものですっ。盤面もくすんでいてよく見えなくて。花が刻んであるのは分かりましたが、薔薇だなんて……」
言いかけたところで、はっとして、エイネシアは自分の手を掴むヴィンセントの指を見やった。
そこに納まる見慣れた金の指輪。
薔薇を刻んだ外輪に、綺麗に磨かれた金の盤面。いつもエイネシア宛ての手紙に押されていたヴィンセントの印章。王家を象徴する薔薇と、蔓草の刻まれた綬。賢者の杖を掲げた一頭のグリフォン。その頭上には王家の直系を意味する王冠。
今ヴィンセントは、それとほとんど似通った構成要素を口にしなかっただろうか。
「……まさ、か」
ではこの指輪は、アレクシスの……アレクシス・ロゼル・ブラットワイス大公ではない。かつての、アレクシス・ルチル・エーデルワイス王子の印章なのではないか。
アレクシスがあの場所に打ち捨てたのは、“王弟”としての自分なのではないか。
「そんなものだなんて、私っ。気が付かなくて……」
違う。これはアレクシスの意思なんかじゃない。
彼は王位なんて望んでいない。ましてや奪おうだなんて、微塵も考えていない。
だからこの指輪を捨てて行ったのであり、エイネシアが見つけなければ、永遠にあそこで過去となっていた代物なのだ。
それが自分のせいで疑念を抱かせてしまうだなんて、絶対にあってはならなかった。
「違うっ。違います。これはそういう意味ではっ……」
「アレクシスが、君に渡したわけではないんだな?」
「違います! 神に誓って。証人もいます。これはエニーと一緒に、偶然、部屋の中で拾ったんです。彼にそんな野心はない!」
そう必死に訴えかけたエイネシアに、今少し眉を顰めたヴィンセントだったが、間もなく、「分かった」と頷いて手を緩めてくれた。
だがそれでもエイネシアを手放しはせず、むしろ自分に引き寄せたかと思うと、シュルリと逆の手でリボンを解いて、指輪をエイネシアの腕から取り去ってしまった。
一瞬、あっ、と声を溢して手を伸ばしかけたが、だがそれがもし本当に“エーデルワイス王家”の印章であるのであれば、エイネシアが持っているわけにはいかない。
忽ちにヴィンセントの手の中へと奪われたかと思うと、カン、カランッと甲高い音を立てながら部屋のどこかへと投げ捨てられた指輪に、ぐっと下唇を噛み締めた。
分かっている。分かってはいるけれど……でもその見失った指輪が、たまらなく寂しくて寂しくて仕方がない。
打ち捨てられたその光景が、たまらなく辛い。
「君には必要のないものだ」
指輪を探す視線に、ピリリとした声がかけられて、益々唇を噛んだ。
そうだ。必要がないもの。
でもそれならば尚更、エイネシアの手でアレクシスに返したかった。
たとえ彼がそれをいらないと言って捨てるのだとしても。
それなのに。
「忘れるな。例え君が私の物にならないことを私が認めたとしても、君はアレクシスとは絶対に結ばれない」
ましてやさめざめと頭上に振ってきた冷たい声色には、驚嘆して顔を跳ね上げさせた。
何故、そんなことを言うのか。
ヴィンセントがアレクシスと折り合い悪いことは、ずっと前から知っている。
でもだからと言って、どうしてそんなことを言われなければならないのか。
「ッ……意趣返しの、つもりですか?」
自分を拒んだエイネシアへの仕返しのつもりか。
それとも独占欲。いや、断罪か。
そうギリリと唇を噛んだエイネシアに、しかし降ってきた表情は至極冷静な面差しをしていて、静かに憤るエイネシアを窘めるかのように静やかだった。
「エイネシア。君は、君の価値を忘れたのか……」
「価値?」
一瞬何を言われたのかわからず、価値と言われたところでピンとは来なかった。
価値なんて分かっている。ヴィンセントが今、エイネシアに求めているものがそれだ。
北部貴族や権門貴族。四公爵家の一角を抑え込むこともできる“血縁”。今の治世にあって、国政を平定するのに最も有効的なヴィンセントにとっての道具。
忘れるも何も、たった今そんな話をしていたのに、何を、と訝しんだところで、浅くため息を吐いたヴィンセントの手が、おもむろに、そのシルヴェスト家から受け継いだプラチナの髪を一筋、指先に取った。
「王家と四公爵家の血を引き、北部貴族や権門貴族に今なお圧倒的な支持を受けている」
「そんなことは……分かって」
「いいや、君は忘れている」
何を、と、強気で見上げた視線に、ぐっ、と、エイネシアの髪を掴んだ指先に俄かに力がこもった。
「君の存在はそもそも、後見の脆弱な私の王太子位を確実にするためのものだった」
「ッ」
あぁ、そうだ。その通り。
忘れてなんていない。だがあまりにも付与される価値が多すぎて、最初の理由を見失いかけていた。
今ではフレデリカ妃の勢力が増したことで、ヴィンセントの立場も一定の後見を持つようになっている。だが当初は、王家と四公爵家の血を余すことなく引いたエイネシアを許嫁にすることで、ヴィンセントの王太子位を盤石とするための婚約だったのだ。
そしてエイネシアの血脈は、今も昔と何ら変わりない。
それは要するに。
「君の結婚は、相手に君の持ちうるすべての力を後見として与える」
「……ッ。王家の……王太子をも、正統と位置付ける、後見……」
「以前にも言ったはずだ。君は、私の他には誰にも嫁ぐことはできない。下手に王家の血を引く公爵家の人間は勿論のこと、ましてや王家の分家に嫁ぐことなどは絶対にあり得ない。“あり得てはならない”」
わかるだろう、と促す冷静な声色が、瞬時にしてエイネシアを冷めあがらせた。
足が震え、恐怖に身がすくむ。
目の前にいた幼馴染が、途端に一国の王太子の姿に見えた。
彼は王太子として、絶対にエイネシアの結婚を認めない。
王家の分家などは絶対にあり得ないし、許されはしない。
エイネシアの存在は、その相手に“正統性”を与える。
詭弁かもしれないが、少なくともエイネシアは過去十年近く、そうやってヴィンセントという王子に絶大な後見の存在を与え続けた存在なのだ。
そんな“元王太子の許嫁”であり、そうであるべき理由を持っていたエイネシアが他の誰かに嫁ごうものなら、何が起こるのか。
ましてやそれが、元々ヴィンセントより高い正統性を持つ大公家の人間だったならば?
「ち……違う。違います。私は、そんなことにアレク様を巻き込みたかったわけじゃ……」
震えた声色に、おぼつかない身体。
不安にふらついた足取りで、歩を詰めたヴィンセントから逃れるように引き下がったところで、絡んだ足に、椅子がぶつかった。
追い詰められるようにしてヘタリと座り込んだエイネシアに、更に身を屈めたヴィンセントが間合いを詰め、エイネシアの頬を捕えたまま真っ直ぐと視線を絡め取る。
空のように青くて。でも底が見えないほどに深い暗い青が、エイネシアの目を捕えて放さない。
放すことを、許さない。
「もう一度、良く考えろ。君に、私以外を択ぶ選択肢はない」
反論したいのに、反論の言葉が出てこない。
それでも、と突き放せばよいのに、突き放すための言葉が出てこない。
アレクシスを択ぶことこそが自分の幸せだなんて、どうして思ったのか。
そうじゃない。それでたとえエイネシアが幸せになったとして、それはアレクシスを不幸にする。
エイネシアは、彼が決して望まない、王位争いの火種でしかないのだ。
そんなもの、どうしてエイネシアが堪えられようか。
それはエイネシアが一番避けたかった未来で。なのにそれがよもや、自分のせいで起こるというのか。
そんなの、絶対にあってはならない。
あってはならないのに。
では自分は、どうすればいいのか。
「返事は急がない。ゆっくりと、考えろ」
ゆっくりと離れて行ったヴィンセントの指先が、ピリピリと肌を突き刺すようだった。
どうしようもなく突きつけられた現実に、頭が追い付かない。
つい先程まで夢見ていた光景が、今はもう、微塵も想像できない。
アレクシスを王位争いに巻き込もうだなんて少しも思っていない。ヴィンセントの王太子位を揺るがそうだなんてことも、ちっとも思っていない。
エイネシアが夢見たのは、ただ今と変わらない平穏な毎日。
薬室の研究畑にしゃがみ込んで、彼と一緒にあれこれと議論をしたり。
アーデルハイド領の古びた古城で、群衆と一緒になって名もない踊りを踊ったり。
ちっとも気取らない彼の隣で、ちっとも気取らない風景を一緒に見ていたかった。
ただそれだけだったのに。
「……アレク、様……」
彼に会わないと。会って確かめないと、と、何か無性にエイネシアを急き立てた想いが、おもむろにエイネシアに腰を浮かせた。
そんなつもりじゃなかった。
そうではない道はないのか。
そうならないための方法を……彼は、知っているんじゃないのか。
思わず見やった先で、冷ややかな面差しをしたヴィンセントがすっと踵を返して出て行くのを見て、胸がざわついた。
得も言われぬ恐怖と焦燥。
何かとても良くないことが怒るのではという不安。
「ッ、待っッ」
伸ばした手は宙を掴み、あっという間に背を向けたヴィンセントの姿は扉の向こうへと吸い込まれてゆく。
どうにかして説得して、理解してもらわねばならない。
そうしなければ、“幸せ”はない――、と。
ただそれだけが漠然と分かっていて、ドレスの裾を絡ませながら、必死に走った。
だが伸ばした手はヴィンセントには届かず。
バタンと閉められた扉に虚しく縋りついた身体が、咄嗟にドアノブを掴む。
だがガチャガチャと空虚な音を立てるノブはどんなにか引いても押しても開くことはなく、そのたった一人部屋に取り残された光景を見回した途端、恐怖に顔が青ざめた。
まさか。
ゆっくりと考えろというのは、ここで、ということなのか。
答えを出すまで、ここからは帰さないと。そう言っているのか。
「開けてっ。開けてください、ヴィンセント様!」
子供のように叫んだ自分の声が、更に自分を不安にさせる。
ドンドン、ドンドンと無為に重たい扉を叩き、ガチャガチャと無為にノブを回す。
それでも扉はピクリともしなくて、はっと振り返ったテラスの窓も、いつの間にかすべて締め切られて、一人きりで部屋に取り残されているのに気が付いた。
人の気配がない。
誰もいない。
滅多に人も近寄らず、誰にも気が付かれるはずのない、無人の牢獄。
「ッ。嫌っ。ヴィンセント様っ。ヴィンセントさま!」
どんどん、どんどんと再び扉を叩いても、そこはびくともしない。
ただの扉一枚。
されどその分厚い扉に、あぁ……、と、打ち沈んだ感情が、エイネシアに膝をつかせた。
「やだ。どうして。どうして……。嫌。やっと……やっと」
やっと。この想いに、素直になれたのに。
やっと、この気持ちを認めたのに。
それなのに、どうして。
「明日、また来る。明日も答えが出ないのであれば、明後日。明後日が駄目ならば、明々後日」
扉の向こうから俄かに聞こえる、酷い人の声。
「酷い……どう、して……」
「恨めしく思うくらい、いくらでもすればいい。それを受け止める覚悟はできている。だがどんなにか恨まれようとも、君の血筋をアレクシスに渡すことだけは、絶対にない」
「どうして……」
ほろほろ。ほろほろと、どうしようもない涙が床を濡らした。
悔しかった。
何も反論できないことも。それどころか自分が誇りにしてきたはずの家名に、重荷を感じてしまっていることも。
同時にどうしようもなく、思い知った。
ずっと、おかしいと思っていたのだ。
婚約を破棄された娘に、父が次の許嫁を探すことに消極的であったことも。ましてやアレクシスのプロポーズを、うやむやに濁すような真似をしたことも。
エドワードにしたってそうだ。
頑なにアレクシスがエイネシアに近付くことを嫌がり、少し過剰なほどにそれを咎めた。
それに、ずっと気になっていた言葉。『ご心配なさらずとも、姉上を政略の道具になど、もう二度とさせませんよ』というその真意は、これではなかったのか。
政略に。あるいは政争に関わるような結婚は、させない。
エイネシアの存在は、永く表舞台で王太子の許嫁として目立ち過ぎたのだ。
そのエイネシアが王太子との婚約を破棄して、一体誰の後見となるのか。
そんな風に周りが見ることが分かっていて、父もエドワードも、エイネシアに近付く男たちを牽制してきた。
それがましてや、王弟殿下などであっていいはずがなかったのだ。
どうしてそれに気が付かなかったのか。
どうして……アレクシスはプロポーズなんてしたのか。
どうして。
「……ッ。アレク、さま……」
そんなの、分かり切っている。
『今も昔も。シアは可愛い、私の妹だよ』
実の妹のように見守ってくれてきた人。
『野心だ王位だという話にシアを巻き込むのは止めてくれ。私はただこの子を大切にしたいんだ』
そう言ってエイネシアを庇ってくれた、優しい人。
『私には政局なんかよりも、私の可愛いシアが毎日を安心して過ごしてくれる事の方が、よほど大切なんだよ』
政治的にどうとか、血縁的にどうとか、そんなまどろっこしい大人の事情なんて微塵も関係ない。ただ深く傷ついて泣いていたエイネシアを、無償で慰めてくれた。
存在価値を否定されたエイネシアが自暴自棄にならなかったのは、何も持たなくなったエイネシアを、彼が許してくれたから。何も持たないエイネシアに、プロポーズしてくれたからだ。
アレクシスだって分かっていたはず。
エイネシア・フィオレ・アーデルハイドに、王弟が求婚するということの意味。その重大さ。
それによって引き起こされる、こんな事態も。
なのにどうして……。




