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七人の少女とたった一人のバッドエンド  作者: 灯月 更夜
第三章 幸せな結末を探して(下)
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3-23 招待状

 誰かに相談をしたいようで、そうできず。

 結局朝まで戻ってこなかったアンナマリアを心配する余裕すらなくて、思い悩むように何日も部屋に閉じこもっている間に、アンナマリアの話を聞くタイミングも、相談をするタイミングも、失してしまった。

 過保護なエドワードに相談するなんてもってのほかであるし、ましてやアレクシスにだなんて、知られたくさえない。

 声を聞きたいと思って疼く胸の内と、でも会いたくないと怯える胸の内と。

 そのせいか、アレクシスと遭遇しそうな研究林の畑からさえ足が遠のいていると、流石に心配したらしいエドワードが、「久しぶりに家に戻りませんか?」と気を利かせてくれた。

 家に……アーデルハイド家に戻る。

 そうすれば、畑から足を遠のかせる合理的な理由付けにもなる。

 それにあそこには、父も母もいる。自分を守ってくれるものがある。

 この春に感じたその安心感が、今のエイネシアにはとても魅力的に感じられた。

 実家なら、いざ何かあった時、父に相談することもできる。

 子供に過度な自立を求めがちな父ではあるが、本当に困っている時はきちんと適切な助言をくれる人だ。

 今はその存在が、これ以上なく心強く思えた。

 ゆえにエイネシアは、学院生活三年目にしてはじめて、夏休みに実家に帰省することにしたのである。




「私どもは、お嬢様がお戻りくださって皆喜んでいますわ。やはり仕える主がいてくださるのとそうでないのとでは、張り合いというものが違いますからね」

 いつになく親しみを込めてそう言いながら、念入りにエイネシアの髪をブラシで梳く侍女のジェシカに、エイネシアもその懐かしい感覚についうとうととした。

 生憎と母はエイネシアが実家に戻った前日から折悪く、上王陛下やアンナベティ王女に誘われて一緒に避暑に出向いているらしく不在で、忙しいらしい父が家にいる時間もとても少なかったけれど、それでもやはり実家は落ち着いた。

 何よりジェシカには、物心つくころからこうやって毎日髪を梳いてもらってきたから、どうにもうとうとと安心してしまう。

 まだ朝方だというのに、再び目が閉じてしまいそうな感覚で船をこぐ。

「あらあら。まだ眠たいですか? お嬢様」

 クスクスと笑いながら、ゆったりと柔らかに髪を編んで行く指先が心地よい。

 いつの間にやらジェシカもすっかりと腕を上げたようだ。

「ジェシカに髪を結ってもらうのは久しぶりね。心地よくて、うとうとしちゃうわ」

「赤ちゃんでいらっしゃったころから、こうやって私が髪を梳いていましたからね。お嬢様の御髪は本当に絹糸のようにさらさらと心地よくて、私の方が、お嬢様の御髪を触るのが好きだったのですよ」

 そういってパチリと後ろでとめてくれたバレッタは、少し前にアレクシスが送ってきてくれた東方の細工物だ。

 どうやらまた仕事でダグリア公領の方まで行っていたらしく、その時にダグリア公爵家のリードスから預かってきたのだといっていた。

 リードスには冬の頃に、大切にしていた簪を壊してしまったお詫び手紙にしたためて以来で、中々返事が来ないことを不安に思っていたのだが、こうして夏を前に、わざわざ手ずから新しい髪飾りを作って送ってくれたのだ。

 贅沢な大きな一枚貝の螺鈿地に、小さな真珠の縁取りと、淡いミントカラーの葉と象牙の百合の花が立体的に刻まれた素敵なバレッタ。日常使いもしやすいデザインだから、最近のお気に入りで、こればかり身につけている。

「さぁ、お仕度が整いましたよ。今日は何をして過ごされますか?」

「そうねぇ」

 やることは沢山あるはずだけれど、実家にいるとついつい手が緩んでしまう。

 夏の間にはまたイースニックの農政改革会議があるので、新品種の麦に関する報告を取りまとめて。それから大学部がそれにあわせて考案してくれた魔法肥料化計画の概案にも目を通して。この機会に、手から離れていた所領関連の戸口調査や街道整備、孤児院成立の件なども報告を受けたい。

 あれとあれはエドワードに相談。こっちとこっちはお父様に。

 そう頭の中で整理を始めると、何やらモヤモヤと胸の内に抱えていた悩みも吹き飛んで、意識もクリアになっていった。

 何かすることがあるというのは素晴らしい。

 嫌なことも不安なことも、取りあえず仕事をしている間は忘れられるのだから。

「取りあえず書類整理からね。書斎にこもるわ」

 よし、と気合を入れて立ち上がったところで、「もうお嬢様ったら」と、ジェシカが眉尻を落として苦笑した。

 ジェシカとしては、折角綺麗にしたお嬢様には、お嬢様らしく優雅にティータイムを楽しんだり、のんびりと過ごしていただきたいのだろう。

 だがお生憎、エイネシアにそんな時間はない。

「まぁ分かっておりましたが。でも適度に手を抜いて、根を詰めないでくださいませ」

「分かっているわ、ジェシカ。後で、昨日焼いたケーキを……」

 持ってきてちょうだいね、と、そう言おうとしたところで、コンコンコンコンッ、と、いつもより慌ただしく急かすようなノックがしたものだから、何事だろうと首を傾げつつ、入室を促す。

 すぐに扉を開けて飛び込んできたのはネリーで、エイネシアの姿を見るや否や、「大変です、お嬢様!」と飛びついてきた。

 はてはて。最近は大変なことばかりだけれど、今度は一体何があったのか。

「落ち着いて、ネリー。何が大変なの?」

「お、お客様、が。とんでもない、お客様が!」

 とんでもない? と、一瞬、エイネシアの顔色が濁った。

 なんだか前も……こんなことがなかっただろうか。

 小さな頃、涙にくれて飛ぶように帰ってきたエイネシアが一人ベッドに突っ伏し、何日も打ち沈んでいたら、こうやって、大変です大変です、とネリーが飛び込んできて、とんでもないお客様がいらっしゃったことを告げた。

 その時いらっしゃったお客様は……ヴィンセント王子だった。

 だからまさか、と顔色を濁したのだけれど。

「ア、アンナマリア王女殿下が!」

 ネリーが続けた言葉には、一瞬にして顔から寒気が引き、ぱちんっ、と目を瞬かせてしまった。

「アン王女? え? あら。どうして?」

「知りませんよっ、お嬢様。どうして王女殿下がお屋敷にっ」

 そう慌てふためくネリーに、そういえば、あれほど親しくなったアンナマリアであるけれど、彼女がこの屋敷に来たことは一度も無いのだと気が付いた。

 毎日のように一緒に同じ寮で過ごしていたから、少し不思議な感じがする。

「思い立ったら即行動というのは、アン王女らしいわね」

 でもその報告はなんだか嬉しくて、ふふっ、と頬を緩ませながら、すぐに部屋の外を目指す。

「ジェシカ、ケーキを二人分……あぁ、エドにも声をかけて、皆の分用意して頂戴。ネリー、アン王女はどちらに?」

「ひとまず奥のサロンにお招きしております」

 すぐに行くわね、と飛び出して、聊か足早に階段を駆け下りてゆく。


 玄関ホールの方に顔を出すと、まだサロンに移動していなかったらしい、数日ぶりのアンナマリアの姿を見つけて、あっ、と顔をほころばせた。

「アン王女」

 そう声をかけて階段を駆け下りる。

「ごきげんよう、シアお義姉様。突然ごめんなさいね」

 ニコリと微笑んで手を振ったアンナマリアの前には、報告を受けて降りて来たらしいエドワードが先に出迎えをしてくれていて、さらにアンナマリアの後ろにはアルフォンスまでいた。

 今日は王女殿下の護衛という名目だろうか。

「アン王女でしたらいつでも大歓迎です。それにアルも。いらっしゃい」

 そう声をかけたところで、アルフォンスは相も変わらず律儀に礼を尽くして、「突然の訪問をお許しください」と謝罪した。

「どうかなさいました?」

「いいえ。お義姉様がご実家に帰られていると聞いたものだから、この機会に“噂”のアーデルハイド家を見に行こうって。急に思い立ったの」

「ふふっ」

 相変わらず。でもその相変わらずに、ほっとした。

 思えばアンナマリアとちゃんと面と向かって話すのは、舞踏会以来。

 その翌日から夏休みが始まり、城に戻るアンナマリアをお見送りはしたけれど、エイネシア自身も色々とあったせいでちゃんとアンナマリアの様子をうかがうことが来ていなかった。

 だがどうやら元気そうで、安心した。

 あの日、あの夜……アンナマリアは、ちゃんと想い人と過ごすことができたのだ。

 やっぱり少しは不安だけれど、でも微睡んでしまいそうなくらいにふわふわと穏やかな笑みを浮かべているアンナマリアを見ると、そんな不安も消し飛んでしまいそうだった。

 良かった……。

「すみません、姫様。先んじて報を寄越すべきでしたが、何しろ周りの目も有りましたので、このような形で非公式な訪問を」

 付け加えたアルフォンスに、どうしてアンナマリアが電撃訪問したのかの理由はすぐに察せられた。

 一応、フレデリカの娘であるアンナマリアが、公的に。即ち、きちんとお伺いを立ててアーデルハイド家に御幸するというのには問題があるわけだ。

 ただ友人を訪ねて行きたいだけだといっても、それさえ難しいのがこの世界。だからわざわざ何か別の理由をつけて城を出て、非公式に訪ねてきたわけだ。

「ちっとも構いませんよ。さぁ、サロンに。昨日、ちょうどパウンドケーキを焼いたの。まったくお二人とも、計ったようなタイミングでいらっしゃるんですもの」

 そう笑ったエイネシアに、「ケーキっ」と、僅かにアルフォンスの目が輝くのを見てしまい、あらまぁ、と、アンナマリアまでもが肩をすくめて笑った。

 そういえば、アルフォンスにケーキを振舞うのはとっても久しぶりかもしれない。

 何ならまたアルフォンスとは、『座って頂戴』『いえ、私はここで』なんて押し問答になりそうな気がしていたのだけれど、すかさずジェシカが四人分のケーキをテーブルに並べると、アルフォンスは「アルも座って下さい」というエドワードの言葉に拒絶を見せることも無く、「お言葉に甘えて」と腰掛けてくれた。

 小さな頃からちっとも変わらない。アルフォンスは、ケーキがある時だけは大人しく席についてくれる。

 そんなことを言ったら、「そう言えばそうだったわ」と、アンナマリアも笑い声をあげてアルフォンスをからかった。

 こうしていると、何だか本当に昔みたい。

 ただ……昔とは少しだけ。人が足りないけれど。

「でも聞いていた通り。本当に星雲寮の白百合の部屋にそっくりな内観なのね。外観はイリア離宮にそっくり!」

「上の応接室なんかは、もっと寮の部屋にそっくりですよ」

「アーデルハイドカラーって、結構乙女な感じよね。私はとても好きだし、シアお義姉様にもとってもお似合いだけれど……」

 でも……、と、アンナマリアが見やったのは、手元のとても美しい装飾をした硝子のティーカップ。

「ここに“あの”、ジルフォード閣下がお住まいだなんて……想像できない」

 その言葉には、くくっっ、と、給仕をしていたジェシカまでもが笑いをこらえて声を溢してしまった。

 中々的を射ている。

 エイネシアだって、たとえばこの母好みに可憐に設えられたサロンにいる父の姿なんて、ちっとも想像できない。

「お父様のお部屋や執務室は、趣もちゃんとそれらしく変えてありますよ。でも私も昔、白と銀とミントカラーのいかにもな馬車に乗り込む父の後姿に、似合わない……なんて引いた覚えは、そういえば」

 クスクスと笑いながらそう言うと、「あー、それは私も」とエドワードが同意した。

 同じような人柄でも、エドワードが乗り込むと、なんだか様になっていて王子様感が増すだけなのだが、如何せん、あの父にはやはり似合わない。

 というかもう、白とか光物とかが、全然似合わない。

「ジル様にはやっぱり黒よね、黒。真っ黒。白百合というより黒牡丹」

「ええ。重厚で暗ーい感じの」

「あぁ、ちょっと陰鬱な雰囲気もありそうな」

 そう三人肩を寄せ合って父の悪口を言ったところで、「貴方方……」と、アルフォンスだけが困ったような顔で頬を掻いた。

 一体彼らは宰相閣下を何だと思っているのやら、と。

「そういえばシアお義姉様、ブラットワイス大公家にはいらっしゃったことある?」

 突如アンアマリアの言った問いには、えっ、と過剰に肩が跳ね上がってしまった。

 いやいや落ち着け。別に、ただのなんてことない話題だ。

「いいえ、無いけれど。そういえば大公家って、どこに?」

 確かハインツリッヒの実家であるグレンワイス大公家は、王都の郊外にある元離宮が基になっていると聞いたことがある。

 大公家は他の貴族とは違って所領というものはなく、王室御領地の運営に関わったりはするものの、基本的に住まいは王室の御領地内にあるはず。

 だったらブラットワイス大公家もそうなのだろうか。

「これがまたおかしいの! それはもう雰囲気たっぷりで、大きくて歴史の有りそうな重々しい古城なのだけれど、ちーっともアレク義兄様に似合わないの!」

 なるほど、と、エイネシアもつい顔を緩ませる。

 確かに。立派なお城だなんて柄じゃない。

「しかも留守にしてばかりだから使用人も全然いなくて、まるで幽霊屋敷よ。私も一度しか伺ったことないのだけれど、ちょっと薄気味悪くて、すぐに飛んで帰って来たわ」

「ブラットワイス大公家は、大公家の諸城の中でも一番古い城ですからね。居城は確か、十世紀頃の建築。国内でも最も古い古城の一つだったはずです」

 そう付け足したエドワードは、そういえば結構な建築マニアだったのを思い出した。

 はて。しかしその言い方を聞くと、ブラットワイス大公家という家への認識が少しぶれてきた。

 エイネシアにとって、現ブラットワイス大公といえば元王子様のアレクシスなものだから、その歴史がどうとか言われてもあまりピンとこなかった。

 だがそういえばブラットワイスの姓は、代々王家の分家に与えられる姓であり、正確には姓というか、“ブラットワイス大公”という、一つの爵位というべきなのだ。

 実際、アレクシスは上王陛下の養子に入って王家の子になっていたものの、元は先代のブラットワイス大公の子。先代の大公も、王弟が叔父の大公家の家名を継いで、王家の分家として開いた家だ。

 居城も、その家名や爵位と一緒に、ブラットワイスを冠する者に受け継がれてきたということだ。

 だとしたら……その家は、両親が亡くなる以前。幼い頃に、アレクシスが生まれ育った家ということ。

 彼は今そこで、たった一人で暮らしているのだ。

「そんな大きなお城にたった一人なんて。確かに、ちょっと似合わないですね」

 だからつい憂えた声色でそうポツリと呟いたなら、すかさずアンナマリアが、「いやいやいや」と首を横に振った。

「そこはそれ、アレクお義兄様だもの。そう仰って、ちっとも居城に居つかないどころか、何でも王都郊外の町屋を借りてそこに寝泊まりしているとかいう噂が……」

 どうしよう。

 相変わらずアレクシスはアレクシスだった……。

 なんて逞しい。

「そういう逞しさは、ちょっとアン王女と似てますよね」

 思わず呟いたエイネシアに、ふっ、と、大人しくしていたアルフォンスが俄かに吹き出す。

「ちょ、ちょっと。その反応は何よ、アル!」

「ふっ、ふふっ。いえ。確かに、と……」

「あんなとんでもないお義兄様と一緒にしないで頂戴」

「いえいえ。逞しくていらっしゃいますよ、アン王女は」

 珍しくそう言葉を続けたアルフォンスには、あら珍しい、とエイネシアも目を瞬かせてしまったけれど、でもエイネシアもアルフォンスに同意見だった。

 なんだかんだ言って、アンナマリアもいざとなったら城を飛び出して、逞しく町で一人暮らしとか始めそうな気がする。

 ものすごく。

「いやだわ、心配になってきた……。アン王女。家出をなさる時は、私でもエドでも誰でも宜しいから、ちゃんと相談をしてからにして……」

「お義姉様まで!」

 致しませんから! と頬を膨らませるアンナマリアはいつも以上に可愛くて、つい肩を揺らして笑ってしまった。

 彼らが来てくれたおかげか、なんだか少しもやもやとしていた胸の内もすっきりした。

 そういえばあの舞踏会の夜からもう何日もたっており、なのにいつまでたってもヴィンセントの言っていた招待状なんて届きやしないではないか。

 今まで不安でいたのが馬鹿みたいだ。

 この夏にはアイラもシンドリー家に戻っているであろうし、だとしたら連日登城して、ヴィンセントとも会っているはずだ。

 アイラと過ごす内に、またエイネシアの事なんてどうでもよくなったのかもしれない。

 中途半端になったとはいえ、一応あの場で謝罪も受け取った、という事になるのだし、もうすっきりしたのかもしれない。

 それならそれでいい。

 何の心配もないではないか、と。

 そう、賑やかな彼らとの会話に浮かれていたら。

 案の定……それは唐突に、やって来た。


「お嬢様……」

 真っ青な顔をして。俄かに声を震えさせ、楽しそうに笑っているエイネシアに声をかけたジェシカ。

 その後ろで、サロンに立ち入る一歩手前に立った、宮廷侍従のお仕着せの青年。

 彼の視線が一度チラリとアンナマリア王女殿下を見やったけれど、すぐにその隣の目を見開いたお嬢様を見るや否や、そちらに恭しく頭を下げた。

「ジェシカ……そちらは」

「お嬢様に……書状を、お届けに。直接お渡しするようにとの御命があると仰られまして」

 そう戸惑うような様子を見れば、それが誰からの書状なのかなど一目瞭然だった。

 それに思い当たったエイネシアも、すぐに顔色を青ざめさせると、慌てて、ガタンッと席を立つ。

 よりにもよって、どうしてこの場所で。このタイミングで。

「姉上?」

「お義姉様……」

 訝しげなエドワードとアンナマリアの視線。警戒をあらわに目を細めたアルフォンスの気配。そんな彼らを制するように慌てて駆け寄ったエイネシアは、「ここでは何ですから」と、侍従を連れ出そうとする。

 だがそれよりも早く、そんなエイネシアの肩をエドワードの手が掴み止めて、すかさず、侍従が手にする銀盤の上の手紙を取りあげた。

 それを侍従の視線がチラリと見やるが、エイネシアの実弟であるのを見るや否や、大人しく銀盤を下げて顔をあげた。

「……ヴィンセント……殿下から」

 その見慣れた封蝋の印に、エドワードが眉を顰め、ぐっと唇を引き結ぶエイネシアに視線を寄越す。

「姉上……。そのご様子。あまり、驚いていらっしゃらないようですが」

 もごもご、と、少し口ごもる。

 今更、誤魔化しもなにも聞かない。下手に隠した方が、この弟は無駄に感を働かせてしまうだけだ。

「確かに受け取りましたと、殿下にはお伝えください」

 だからそう押し黙っている侍従に声をかけたところで、彼はニコリと微笑んで、「すぐにお返事を頂いてくるようにと仰せつかっております」と、そんな如何ともしがたいことを仰って下った。

 いや、分かっている。分かっているとも。彼が悪いわけじゃない。

 わざわざ侍従を遣わして、その場で返事をもらってくるようにと命じたのは、間違いなくヴィンセントだ。そうしなければ、あるいはエイネシアが招きを拒むかもしれないことを理解した上で。

「……エド。書状を」

 こちらに、と手を差し出したところで、エドワードの視線はさらに鋭くなり、チラ、と、手にした書状を見やる。

 金の縁のなされた、王室からの招きとして第一級に用いられる正式な招待状。

 宛先はエイネシアの名前。

 封蝋はヴィンセントの印章が押された、最も正式なもの。

 この内容を拒むことは、よほどの事情でもない限りあってはならない。そういう類の手紙だ。

「姉上。まずは説明を」

 そう厳しい声色で問うエドワードに、一つ、ゆっくりと息を吐いた。

「学院の舞踏会の夜。殿下にお会いしたわ」

「お聞きしておりません」

「言うほどの事ではないと思ったの。ただ少し、立ち話をしただけよ」

「シア様……」

 そんなことが? と、不安そうなアンナマリアの視線がエイネシアを窺う。

 あの日一晩、アンアマリアはずっと不在だった。そのことを、少し悔いているかのようだった。

「殿下は今、お父様の元で施政を学ばれているのだとか。そこで、ご自分も権門と反権門とを調停しうる“中立”であり“公正”であることの難しさと、けれどそうありたいと思うようになったことをお話くださったわ」

「だから姉上をお招きして、アーデルハイドと……権門と反権門の紐帯を担うはずだった姉上と、和解したことを見せつけようという魂胆ですか?」

 相変わらず察しのよいエドワードに、そういうことよ、と頷いて見せる。

「お受けするつもりなのですか? 姉上」

「それは……」

「そんな必要はありません。元より父上は中立。婚約の破棄があってからもその姿勢が変わることは無く、権門にも十分な配慮を行ない、宥めて参りました。今更再び姉上を王宮に招いて和解など、必要ありません」

「エド。でもこれは、殿下からの正式なお招きよ。謝罪をしたいというお気持ちに偽りはないようでしたし」

「必要ありません」

 再びきっぱりと言ったエドワードはそのまま手紙を侍従に押し返そうとしたけれど、それはエイネシアが慌てて掴み止めた。

 いくらなんでもそれは不味い。

 エドワードの気持ちは痛いほどよく分かって、エイネシアのためであることなんて百も承知だ。

 でもこの正式な招待状を、封も開けずに突き返すだなんて真似をしたら、余計に今のこじれた政局の溝を深めることになってしまいかねない。

 折角父が苦労して繋ぎ止めている現状、その父の足を引っ張ることにもなる。

 それはこのアーデルハイドの次期当主として、決してしてはならないことだ。

 気持ちは嬉しい。エドワードの感情が、エイネシアを守ってくれる。でもだからこそ一層、それでは駄目なのだという覚悟が決まる。

 その招待状が付き返せないものであることが、一層よく分かってしまう。

 くしくもエドワードのおかげで……迷っていた気持ちが、吹っ切れた。

「ジェシカ、部屋に便箋と封筒の準備を」

 だからそう言ったエイネシアに、「姉上!」とエドワードが声を荒げた。

 チラチラと戸惑うようにエドワードを窺っていたジェシカだったが、どのみち行くにしても行かないにしても、返事をしたためねば、そこでニコニコと待っている侍従は帰ってくれないわけで、「すぐに」とジェシカも飛んで行った。

「せめて父上に相談を。いえ、何なら陛下に直接、謝罪はもう必要ないと!」

「エド……」

 分かっている。もうエイネシアに傷ついて欲しくないから。だからヴィンセントに近付けたくないのだろう。

 それで少しでも昔を思い出すことさえ厭うて、エイネシアのことをそうした政局からも遠ざけたい。そう思ってくれている。

 でも駄目だ。これはエイネシア自身が付けなければならないけじめ。

 自ら清算しなければならない、過去だ。

「心配はいらないわ。和解を人目に知らしめることが目的だもの。殿下も私を悪いようにはなさらないでしょうから」

「そういう問題ではありません。春の一件からだって、まだそう日は経っていないのですよ?」

「だからこそ、余計に今、私が殿下と何憂うことなくお会いできるという体裁が必要なのでしょう? エド。貴方も分かっているはずよ」

 無論、分かっていてなお止めようとしてくれるその理由も、分かっている。

「ではなぜ姉上お一人を招くのです。せめて私も一緒に。この際、アレクシス殿下が一緒でも構いません。せめて……」

「アレク様には言わないで」

 自分でも驚くくらいに、ピリリとした声色がエドワードの言葉を咎めた。

 その声色には、思わずエドワードも口を噤む。

「姉上……」

「お願い。言わないで」

「……」

 何故かなんて自分でもわからない。でも何故か、アレクシスにだけは知られたくなかった。

 ヴィンセントからの招待状のことも。それを受けたエイネシアが、ヴィンセントに会いにゆくことも。絶対に。

「でも……シア様……」

 不安そうなアンナマリアに、エイネシアはぱっと表情を取り繕って、振り向いて見せる。

「平気です、アン王女。先日は殿下とも普通にお話できました。アイラさんが裏でやって来たことも、どうやら勘付いていらっしゃるようで、その上で、アイラさんを罰するつもりもないと、はっきりと仰いました」

「……そ、う」

「この際ですから、きちんとお話してきます。私にアイラさんをどうこうしようという意思などないことも。殿下の円滑な即位を望んでいることも」

「でもシア様……エドの言う通り。せめてエドや。アルでもいいわ。誰か一緒に……」

「殿下は私をお招きになったんです。そこにアーデルハイドの世継を連れて行ったり、王族を護衛すべき近衛を連れて行ったりしては、喧嘩を売っているみたいではないですか」

 そんなことはできませんよ、と言うエイネシアに、それはそうだけれど、とアンナマリアも肩を落とす。

 それでも不安なの、と、そう思ってくれる気持ちだけで十分だ。

「自分の問題だもの。きちんと自分で……けじめをつけて来るわ」

 でも心配だから。お城の入り口までは、送って頂戴ね、とエドワードの微笑んで見せたなら、エドワードも不安な面差しのままに、しぶしぶ頷いてくれた。

 それでもまだ不満そうではあったけれど、きっと父に相談したところで、『印章の押された正式な招きを断るのに、納得いくだけの理由が思い当たるならそうすればいい』なんてことを言われるだけだと思う。

 実際、その通りだ。

 これは招待という名の、立派な招請命令。貴族である以上、それを断るすべなど最初からないのだ。

「何かあったなら、すぐに言ってください。飛んでいきます」

「ええ、有難う、エド。貴方がいてくれて、頼もしいわ」

 不安そうにするエドワードの手を、一度ぎゅっと握りしめて。

 その手から手紙を抜き取ると、それを自分に引き寄せた。

 ただの薄っぺらい紙一枚が、とんでもなく重たい。

 ずっしりと、その身を重くする。

「……ごめんなさい。部屋に戻りますね。アン王女、アル。ゆっくりとしていかれてね」

 そうニコリと微笑んで見せて、王女殿下への礼を尽くし。

 でも返事も待たずに、「返事は部屋で書きます」と侍従を引きつれて、少し足早にサロンを飛び出した。

 あんまり長くあの場に居たら、この不安がばれてしまいそうで。うっかりとエドワードに、一緒に来て、だなんてことを言ってしまいそうだったから。

 だから急いで部屋に駆け戻って、急いで扉を閉ざして、急いで机に駆け寄って。

 ようやく、恐る恐ると手紙の封を解いた。

 見違えるはずもない、何度も何度も見たヴィンセントの筆跡。

 エイネシア・フィオレ・アーデルハイドを王宮に招く、という、招待状の定型文。

 それから、『よく君が訪ねて来てくれた部屋に来てほしい』と添えられた一言に、そっと手紙を置いて、硬く目を閉ざした。

 それはきっと、ヴィンセントが日中を過ごした王太子の政務室。

 かつてはヴィンセントの勉強部屋だったそこは、ヴィンセントとエイネシアにアルフォンス。それからエドワードが混じるようになって。大図書館に行くために登城しては、いつもうきうきとその部屋を訪ねた。

 登城する時は必ず顔を見せにこいと言われ、それに浮かれていつもいつも。

 それが義務であることも、体面のためであることも分かっていたけれど、それでもそれだけではないと信じて、出入りした。

 机一杯に本を積み重ねて、時には主不在のその部屋で、コロンとカウチに転がってエイネシアも読書をした。

 そこはエイネシアが……王太子の許嫁が、通い詰めた部屋のこと。

 よりにもよって、そんな場所に呼び出すだなんて。

「お嬢様……」

 いつの間に部屋に入って来たのか。

 少し不安そうに声をかけたジェシカに、エイネシアはゆっくりと息を吐きながら気持ちを落ち着かせると、何事も無いかのように取り繕って、振り返って見せる。

「有難う」

 ニコリと微笑んで見せながら、ジェシカの持ってきてくれた上質な箔押しの便箋を取り、机に置く。

 目の前のペン立てには、かつてアレクシスが送ってくれた薄紫の薔薇のガラスペンが立っていて、伸ばしかけた手がピクリと躊躇した。

 その手がじっと動かない。

 これから綴る文字を、そのペンで綴りたくはない……。

 だからしまってあった別のペンをわざわざ取り出して、赤味を帯びたブルーインキに浸し、短い返書をしたためた。

 じわりと便箋に滲んで行くインク。

 一枚の紙面に、消しゴムでは消えない文字がくっきりと刻まれてゆく。

 心にもない、お招きを喜ぶ決まり文句は、小さな頃から、何度も自分が綴ってきたはずの言葉だった。

 それを、一文字。一文字。

 自ら封に入れ、印章を用いて封蝋に刻印を刻む。

「ジェシカ。明日の午後、登城します。ドレスや馬車の仕度をお願いね」

「……はい。それは手ぬかりなく、承知いたしましたが……」

 でも本当にそれでいいのか、と不安そうにするジェシカに、「お願いね」ともう一度念を押すと、奥の書斎へと引っ込んだ。

 今は少し、一人にしておいてほしい。

 そうしないと。

 なんだか、言わなくていいことを、言ってしまいそうになるから。


 ◇◇◇



 翌日、ジェシカが用意してくれたのは、白とミントグリーンの、アーデルハイドらしい色合いをしたドレスだった。

 オフショルダーのチュールラッフルスリーブ。くるぶし丈のふわりとしたAラインスカートに、繊細な銀糸と真珠で刺繍が施された上品なドレス。

 あくまで内外に“和解”の光景を見せつけることが目的の一つでもあるから、あまり格式ばった雰囲気にならないようにと、髪はかるく編んだハーフアップの砕けた感じにしてもらい、サテンのヘッドドレスに、白と淡い黄緑の映えるダリアとジャスミンの花をあしらった。

 まるでかつての女王の庭を思わせるような髪飾りには、仕上げたジェシカも満足そうな顔をした。

 百合を象った諸々のお飾りと、王宮では第一の身分証明にもなる印章の指輪。何となくつけたままになっていた寮の部屋で見つけた指輪は外してゆくつもりだったけれど、エイネシアの最近のお気に入りだと勘違いしたらしいジェシカがわざわざ髪飾りとお揃いのサテンのリボンにジャスミンの蕾とレースを編み込んでアレンジしてくれていたので、腕に着けてもらった。

 他人のものだったであろう指輪をいつまでも自分が身に着けていることはどうかとも思うのだが、エニーに『大公殿下の忘れ物のようですし、置き土産の一つと思っていただいておけば宜しいのではないですか?』なんて言われて以来、なんとなく手放せずにいただけなのだ。

 それにしても、こんなちゃんとした登城は久しぶりだからだろうか。

 少し緊張しているようで、思わず浅くなった呼吸に、一度ゆっくりと深呼吸をしてから部屋を出た。


 玄関ホールにはエドワードが待っており、お待たせ、と声をかけようとしたところで、そのエドワードが応対している侍従のお仕着せの青年が目に留まって口を噤んだ。

 どうやら王宮から、わざわざ迎えが来ているらしい。

 こんなこと、許嫁時代にさえされたことはなかったというのに。

「お待たせいたしました。エドワード、そちらは王宮から?」

 振り返ったエドワードの顰め面は中々のもので、あんまり父にそっくりなものだから、笑いそうになった。

 お陰で気がまぎれる。

「ヴィンセント王子からの迎えだそうです。私がお連れするからとお断りしようとしていたのですが、命があるからと」

「彼らを困らせては駄目よ、エド」

 彼らはあくまで、命を受けてそれを遂行しているだけ。

 だがアーデルハイド家には下手に権力と家格というものがあるせいで、侍従の方も、王子殿下の命とアーデルハイドの世継の言い分との間ですっかりと困った顔になってしまっていた。

 彼らは何も悪くないのだから、困らせるものではない。

「姉上。やはり私はどうにも腑に落ちません。このようなやり方……以前ならば無かった」

「私が逃げるとでも思われたのかしら」

 そう肩をすくめて見せたら、「いっそそうなさってくれたなら」とため息を吐かれた。

 だが生憎と、そんな仕返しみたいなことで王太子殿下を困らせるつもりはない。

「エド。貴方が心配してくれているのは充分にわかっているわ」

 そっと持ち上げた指先が、昔とは見違えるほどに立派になったエドワードの肩に触れる。

 もうすっかりと自分の身長も追い抜いてしまって、体つきも顔立ちも、すっかりと大人びてきた。

 相変わらず綺麗な顔をしているけれど、なよなよしさなんてちっともない。頼れる弟だ。

 でもそれでも、エイネシアにとってエドワードは弟。大切な弟。

 アーデルハイドを背負う彼に、姉である自分が恥ずかしい行動などとれるはずもない。

 それが姉としての矜持であり、見栄だ。

「その上で、お願いするわ。一度きちんと、殿下とお話をさせて頂戴」

「……」

「大丈夫。未練なんてないわ。ちゃんと殿下のお考えを聞いて、自分の思いも述べて。きちんと和解できたなら、政治的にも大きな意味を持つ。私は私のしでかしたことに、そのくらいの落とし前は付けるべきよ」

「姉上がなさらずとも……」

「でも私もアーデルハイドよ。そうあれるようにと、エドが守ってくれたのだもの。だったら私は誇りを持って、アーデルハイドであり続けるわ。それだけは忘れないで」

 そう触れていた手を離そうとすると、代わりにぎゅっとその手を握られた。

 すっかりと大きくなった手が、賢明にエイネシアの手を、まるで祈りを込めるかのように包む。

「わかりました。姉上がそう仰るのであれば」

「心配しないで。すぐに帰って来るわ」

 戦地に出向く兵士でもなし。すぐ目と鼻の先にある通い慣れた場所に行くだけだ。

 何の心配もない、と言い聞かせながら、ゆっくりと手を離して。


「行ってくるわね」



 そうニコリと微笑んで見せたその時はまだ。

 これから起こることなんて、ちっとも知らなかった。

 長い長い一日になるなんて。

 ちっとも。






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