3-22 舞踏会(4)
「ねぇ。貴女ってどうして、そうもお人好しなの?」
突如背中にかけられた声に、ふと背後を振り返る。
昔アンナマリアに言われたような言葉だったけれど、その声がアンナマリアでないことはすぐに分かった。
建物の中の、星よりもけたましい明かりの中で、フワリと肩の上で揺れた赤味の強いピンクブロンド。意図したように地味で目立たない、サンドベージュのドレス。ゲームではいつも濃い赤茶色のドレスを着ていたのに、それとは似ても似つかぬ淡い色。
きっと来ると思っていたから、驚きはしなかった。
まさか、お人好しだなんて言われるとは思わなかったけれど。
「貴女には、あれがお人好しに見えたの? メアリス」
「お人好しでなくて何だというの? 気が付いていたでしょう? 上座に王子がいたこと。あのまま放っておいたら、恥をかいたのはアイラさんよ。そうなれば、貴女にとって本望でしょう?」
なるほど。彼女は……メアリスは、やはり知っていたのだ。今宵、王太子が舞踏会にやってくるということを。
それを知っていながら、アイラには隠した。
隠したどころか、きっと彼女がアイラをそそのかして、あの場であんな恥をかかせ、エイネシアに暴言を吐くよう仕向けた。
ヴィンセントがそれを見ていることを……知った上で。
「勘違いしているわ。私はアイラさんをどうこうしたいなんて、微塵も思っていないわよ」
「嘘よ。去年散々あんな目にあわされておいて、何も思ってない? 頭おかしいんじゃないの?」
酷い言われようね、と、一つ肩をすくめる。
「でもお生憎。本当に、どうも思ってない。しいて言うなら、ちゃんと王太子の許嫁になって、王太子妃になってくれないと困るわ」
「困る?」
「あのねぇ、メアリー。私、もう殿下の事、何とも思っていないのよ? なのに今アイラさんがまわりの信頼を失うようなことになったらどうなるか。分かるでしょう? “エイネシア様の方が良かった”なんて言われるのは、不本意なの」
「本気? 貴女本気で、未練がないの?」
だからそう言っているじゃない、と苦笑した。
なるほど。メアリスは、未だにエイネシアはヴィンセントに未練があると思っていたのか。
確かに、ゲームだとそうなのかもしれない。何しろ逆上してアイラを殺そうとしたくらいだ。
でもお生憎。
ここにいるエイネシアは、ゲームのエイネシアではない。
「ねぇ、メアリー。貴女こそ、どうして? どうして、アイラさんを貶めないと気がすまないの?」
「……何ですって?」
「わざわざ味方のふりまでして。今回のことも、貴女の入れ知恵なのでしょう? 殿下がいらっしゃることを秘密にして。それで、何と言ってアイラさんをそそのかしたの? 皆の記憶にまだ新しい去年の事を思い出させて、もう一度切り刻まれたドレスで会場に行って、私が犯人だと言えば、皆きっと信じるから、とか?」
「どうして私だと? アイラさんが自分で計画したとは思わないの?」
「残念ながら、そんな知恵、働かないわよ。あの子には」
聊か酷い物言いながら、メアリスもそれを否定はしなかった。
何しろその通り。アイラが自力でしでかしたことなんて、精々エイネシアの悪口を言いまくる。嫌味を言う。エイネシアを突き飛ばしたにもかかわらず自分がよろけて被害者ぶる。この三つくらいなものではなかろうか。
いや、それが結構な効果を発揮して、去年はあっという間にエイネシアを貶めることになったわけだが、しかしどれもこれも行き当たりばったりなことでしかなく、アイラには“計画性”というものはないのだ。
だから、こんな風に前もってドレスを切り刻んでみせるとか、そういうのはしない。できない。
必ず誰かが、“こういうのはどうですか?”と入れ知恵したに決まっている。
「でもそんな必要、なくないかしら? アイラさんが出世すれば、友人の貴女も良い思いは出来るだろうし。むしろそのために私を追い落としたのではなくて?」
「良い思い? ふっ。馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように言うメアリスに、エイネシアは首を傾ける。
馬鹿馬鹿しい? では一体、何の為にそんなことをしているのか。
「あの子が本気で王太子妃なんかになれると、思っていらっしゃるの?」
「殿下の許嫁にはなったじゃない」
「貴女、自分とあの子を比べてみたことはないわけ?」
「比べるって……」
「あの子に貴女の代わりが務まるわけないでしょう? これは、貴女から王子を奪ってハッピーエンドみたいな単純なゲームじゃないのよ」
あぁ、と、エイネシアは俄かに目を細めた。
メアリスは分かっている。ちゃんとわかっていて……でもそうでありながら、アイラを放置してきたのだ。
では一体何故。どうしてそんなことをするのか。
思い当たることは……ある。
『勝つためなら、何だって利用する』
星雲寮で茶会を催したあの日、メアリスが吐き捨てた言葉の数々。
『しょうがないじゃない。ただでさえ私が一番、“負け”に近いんだから』
勝ちと負けにやたらとこだわり、何かに怯えたように呟いていた姿。
『勝たなきゃいけないの。そのためなら、その馬鹿だって利用するしおもねりもする。何なら捨てもする』
そんな彼女が言った、アイラと共にいる理由。
『そうしないと……絶対に“不幸”になる――』
不幸を恐れて、幸せになる努力をするのではない。ただひたすらに、自分より誰かを不幸にすることばかりに必死になって。
そしてその標的は、きっと今も昔もただ一人。アイラだけ。
でもどうしてだろうか。どうしてそうなってしまうのだろうか。
アイラをバッドエンドに導こうとするにしても、それで、どうしてわざわざアイラを王太子の許嫁にするべく立ち回ったのだろうか。
いや。
いや……もしかして。
「あぁ……そうか。貴女、気付いてないのね?」
そうだ。すっかりと失念していた。
でもあり得る。それしかない。
一人は必ずバッドエンド。それは“七人”の内の、一人。
エイネシアはその七人の内、六人を知っている。
でもメアリスは違う。違うのだ。
彼女が知っているのは、アイラだけ。もしかしたら、シシリアやカレンナのことさえ気づいていなかったのかもしれない。
だから誰かを追い落とすとして、その相手はアイラ以外にいなかった。
去年、メアリスがエイネシアを王太子の許嫁の地位から引きずりおろす手伝いをしたことは、まず間違いなく、エイネシアを“バッドエンド”にする結末だった。けれどメアリスは知らなかった。エイネシアもまた、七人の内の一人であるという事を。
だから、メアリスにとって、エイネシアを追い落とすことは決して最終目的ではなく、ただの過程だったのだ。
エイネシアという正統な王太子妃候補を追い落とす罪を犯した上に、新たな王太子妃候補として相応しくないというレッテルを張られて没落するアイラ。
それが、メアリスの思い描くアイラのバッドエンド。
エイネシアの事も何もかもすべて、ただただアイラを追い詰めるためのサブストーリー。
「気付くって……何が……」
「この世界は、ゲームじゃない、って。今貴女、自分でそう言ったじゃない」
「は?」
「勝ちとか負けとか。そういうゲームじゃない。普通にしてれば、貴女が言うところの“負け”になんてならないのよ」
エイネシアだって、アイラが余計なことさえしなければ面倒なことにはならなかった。
たとえシシリア、メアリス、カレンナの三人がシナリオ通りにエイネシアの取り巻きになっていたとして、エイネシアがアイラをいじめる理由はないわけで、きっと“普通”にしていれば何事も無く普通に日々が過ぎただろう。
アイラが過剰なほどにエイネシアを追い落とそうとしたこと。そしてそれにメアリスが加担したこと。それが、ことを大きくした。
未熟なままに死んだ少女達の、未熟な感情が、彼女たちを焦らせた。
バッドエンドを回避しようと、必死に。必死に。
もしかしたらフィーのあの言葉は、そうして自分達を焦らせ、試すための言葉だったのかもしれない。
そしてそれに、皆踊らされた。
私も……メアリスも。
「そもそもバッドエンドにならないためだというけれど、だったらどうして自ら悪役を買って出たりするの? シシーやカレンのように、アイラさんと適度に距離を取ることもできたでしょう?」
「それでアイラさんがハッピーエンド? 冗談じゃない」
「でもそれで終わっていれば、私がバッドエンドになっていたわ」
「……え?」
「勿論、私はそれを回避するために動き回っていたから、バッドエンドにはならなかったかもしれないけれど。でもどうしてそこまで貴女がアイラさんばかりをバッドエンドに位置付けたがるのか。勝たないといけないと思っているのかが、私にはわからないわ」
「待って。ねぇ、待って。貴女、何を言ってるの? さっきから、さも当然のようにバッドエンドとかハッピーエンドとか。ねぇ……」
ねぇ。
「まさか……」
「私も、“七人の内の一人”よ。貴女と同じ」
はっきりと述べたエイネシアに、みるみるメアリスが目を見開いていった。
本当に、微塵も想像していなかったのだろうか。
これだけシナリオと違う動きをしていたのだから、勘付いてもよさそうなものだが、しかしやはり、メアリスは知らなかったのだ。
「じゃあ……ッ、じゃあ、どうして。どうしてっ」
「どうして、王太子の許嫁なんてやっていたのか? それとも、どうして王太子を諦めてアイラさんの肩を持つのか?」
「両方よ! だって、分かってるでしょう!? 誰か一人はバッドエンドなのよ? 私の知る“悪役令嬢物”の主人公は、全員断罪を避けるために立ちまわったわ! なのに貴女は馬鹿みたいにどこまでも許嫁に従順であり続けたじゃない!」
「悪役令嬢物の主人公……の意味がちょっと分からないのだけれど……」
ご、ごほんっ。つまりメアリスはエイネシアがおりこうさん過ぎて、転移者の可能性から除外したと? くっ……心外である。
「小さい頃から王太子を立てろ、王家の支柱であれと教え込まれて、それだけが存在価値であるかのように言われ続けたのよ? ヴィンセント様を王にしなければ起こりうる最悪の事態のすべてを学ばされているのに、何も考えずに“ザマァみろ”だなんて言える人の神経の方が理解できないわ」
「は? 何よそれっ。だからって、なんで自らバッドエンドだってわかっていてッ」
「だから私なりに努力はしたわ。追放されずに今ここにいるじゃない」
「それはアイラが馬鹿だからっ」
「否定はしないけれど、それだけで運よく私が助かったみたいに思われるのは心外だわ」
これでも一応、最後の方は頑張ったのだから。
「メアリー。そもそも貴女はどうしてそんなにバッドエンドを恐れるの? 私と違って、貴女は私にさえ近づかなければバッドエンドになんてならない立場なはずでしょう?」
「はぁっ?! だってそんなのッっ……」
そんなの、当たり前で、と言いかけた口を噤んだメアリスが、途端に顔を青くして唇を噛む。
その様子に一つ首を傾げたエイネシアは、一歩、一歩、とメアリスに歩み寄る。
そうして目の前まできたエイネシアに、途端に顔色を濁して後ろめたそうに引き下がる様子は、どう見てもただ事ではなくて。
それはもしかして。
“前世”に、関係することなのか。
「バッドエンドになるような……心当たりが、あるの?」
思わず問うた声色に、厳しさが混じった。
メアリスを咎めようとしたわけではない。
ただ自分のかつての死を思い出すと、未だにどうしようもなくぎゅっと胸を締め付けられるような痛みと、首を絞めつけるような息苦しさがある。
平和だったはずの日常に、突然襲い掛かった恐怖。いつ殺されるのかと脅えた数日と、必死に助けを願うしかなかったかつての最後。
もしも。もしもメアリスが、何か犯罪を犯したというのであれば……果たして自分は、それを許せるだろうか。
「違う……違うわ」
「だったら……」
「私のやったことなんて、あの子に比べたら大したことじゃない!」
否定に言葉に納得しかけて、しかし続けられた言葉には、驚いて目を瞬かせた。
あの子……というのは、まさかアイラだろうか。
メアリスは、アイラの過去を知っているのだろうか。
「私は殺されたのよ! それは確かに自業自得でっ。でも殺されたことで罪は償ったじゃない! でもあの子は違う! あの子は違うんだから、あの子がバッドエンドに決まってる!」
「待って。待って、メアリー。話がよく分からないわ……」
どういう事、と冷静に話を求める。
「貴女がどんな死に方をしたか知らないけれど、見てれば分かるわ。今世と同じ! お人好しで、悪いことなんてちっともしたことなくて。さぞお利口な子だったのでしょうね!」
「それは……」
そのお利口さが、むしろ自分の課題だったわけだから、それには何とも答え辛い。
だが確かに、お利口だった。そしてそれは同時に、メアリスはそうではなかったという意味。
「一体、何を……したの?」
「クラスメイトをいじめていたのよ。半年間。毎日毎日」
「いじめ?」
「上靴を隠したり、机や黒板にひどい事を書いたり、教科書を破り散らかしたり、お弁当をごみ箱に捨てたり、罵ったりっ。女子高生が思いつきそうな典型的なことは一通り全部やったわ」
「……」
「でも悪かったなんて思ってない。私、あの子が大嫌いだったの! いつもいつも被害者面して、自分は何も悪くないみたいな顔で。ちょっと肩がぶつかっただけで大げさにこけて見せて、なのに肩を抑えながら『大丈夫、私は痛くなかったよ』なんて笑って周りの同情を煽ったかと思うと、裏ではコソコソと、『ゴリラにぶつかられた。マジ痛い、死ね』なんてSNSに垂れ流すような奴よ!」
ただ少しぶつかっただけなのに自分が悪者のように言われる。その陰で、いともたやすく他人をコケにする。そうしたことが積み重なり、段々とそのあざとい同級生に痺れを切らしてわざとぶつかるようになり、それが段々とエスカレートしていった。
「その挙句、被害者面で『この私に許しを請わなかった貴女が悪いのよ』なんて言って、私を電車のホームから突き落とした。ねぇ、これって私が悪い? 私が悪かったの!?」
それは、と、エイネシアも言葉に困ってしまった。
正直、分からない。
いじめは駄目だ。絶対に良くない。いじめは、いじめた方に全責任がある。実際に去年散々な目にあったエイネシアとしては、簡単に他人を貶めることのできる人間の心理というのがまったく分からない。
けれどメアリスのような、いじめられる側に問題があった事例も、なくはないと思う。
無論、いわれのないいじめもあるだろう。だがそうではない場合。いじめられる側の問題が存在した場合。間接的な暴力への報復であった場合。それははたして、いじめる側ばかりを責められるものなのだろうか。
当然、手を出したら負けだ。ただいじめられた側が被害者面だけして、いじめられてるんだから私が悪いはずないじゃない、みたいな顔で嘲笑っていたら、流石に腹も立つ。そんなのはアンフェアだ。メアリスが言っているのは、多分そういうことなのだろう。
メアリス自身も、自分が悪かったことは分かっている。でもそれでもどうしようも堪えられなかった。裏でコソコソと他人を貶めるその子を許せなかった。そのやるせない感情が暴発して、歯止めを失ってしまった。
それに何だろうか。メアリスが語る、そのいじめていた子とやらが、何やら妙にアイラの姿と重なって見えた。
まさかそれが、メアリスがアイラをバッドエンドにしようと躍起になった理由なのだろうか。
「ほら。その顔。貴女もやっぱり、私がバッドエンドだって思うのでしょう?!」
そんな顔をしていただろうか。いや、今の頭に血の上ったメアリスにしてみれば、どんな顔もそう見えるのかもしれない。
けれどエイネシアには、その言葉が逆に、メアリスが後悔して後悔して仕方がない、と言っているようにしか聞こえなかった。
自分の衝動のせいで、自分が殺された事実。そう。かつて前世でのメアリスが、誰かに殺されたということに、違いはないのだ。
その時の恐怖や痛みは、きっとメアリスもまだ覚えている。それを思い出すたびに、恐れ、怯えたであろう。
それに負けないために、『私は悪くない』と虚勢を張るのだ。
「でも違った。私なんかより、よほどあの子の方が酷い。あの子なのよ!」
「あの子って……アイラさん? メアリー、アイラさんの過去も知っているの?」
「べらべら勝手に語ってくれたわよ」
ふん、と一つ吐き捨てたメアリスは、忌々しそうに眉をひそめる。
「あの子。生まれつきの難病だったんですって。筋力がどんどん低下していくっていうやつ。ろくに歩けなくて、小学生の頃からずっと車椅子生活。次第に自力で車椅子も動かせなくなって、呼吸も自分できなくなって、ずっと入院」
「不治の……病?」
「病名なんて知らないわよ。ただそんなことを本人が言ってた。そういう“生まれながらにかわいそうな子”だったんですって」
吐き捨てるような言い方が、すでに嫌悪感を孕んでいるように聞こえる。
「あの子、自分は“かわいそう”な人間だから、何をしても許されたんだと思っているのよ。欲しい物を全て買ってもらうのは、それ以外に楽しみもない可哀想な子供だったから。気に食わなくて暴力をふるうのも、自分が精神的に追い詰められた可哀想な人間だったから。暴れて息が苦しくなると、皆泣き縋って諌めようとしたらしいわ。皆あの子が辛くならないように、機嫌ばかり取ったのよ。それに気が付きもしないで、あの子の我儘と傲慢はエスカレートしていった。あの子にいわく、“病気だから仕方がない”のですって。母親はあの子の癇癪で三針縫う大怪我をしたこともあったけれど、それさえあの子は “当然よね”なんて笑っていたわ」
「笑う……?」
「自分の機嫌を損ねることを言ったのが悪いんですって。親は自分の世話を焼いて当然。だって自分は、可哀想な子だから。親のせいで可哀想な子に産まれてきたのだから、って。皆が自分に優しくするのも当然で、自分のために尽くすのも当たり前。そして憐れにも彼女はたったの十三歳で、楽しいことも何一つ知らずに死んだんだそうよ」
「十三歳……」
ただでさえ近い年頃の子や周りと話すこともなく、何をしても許してくれる親と、自分を憐れんでくれる医師くらいとしか関わり合いになることも無く、その世界がとても狭いままに、ただただ自分で自分を憐れんだまま若くして死んでしまった子供。
そんな自分を憐れみ、可哀想な子と思われることこそが、彼女にとっての幸福であり愉悦であった。
所謂、悲劇のヒロイン症候群。そして、そんな可哀想な自分をいつか誰かが救ってくれると夢見て自立を拒む、シンデレラ・コンプレックス。
そんな彼女は、この世界で自由な手足と丈夫な体を手に入れて。それで、何を思ったのだろうか。
「あの子曰く、この世界は“自分のため”の世界なんですって。世界で一番可哀想に死んでしまった自分のために神様が用意してくれた自分のための物語。だからこの世界では自分は何をしても許される。だって全部、神様が自分のために用意してくれた世界だから」
ようやく少しだけ、腑に落ちた。
いつもいつも、自分を被害者にしないと気が済まないアイラ。誰かに憐れまれることを欲し、それでいて平気で他人を傷つける。
ただ未熟なだけじゃない。きっと彼女は今までもずっとそうし、そうされてきたのだ。
この世界でもそう。不遇を被った母と、その母と共に男爵家で肩身の狭い思いをしてきた憐れな少女、アイラ。
でもだからこそ、この世界を、神様がアイラのために用意した、アイラが幸せになるための物語だと勘違いしている。
「それを聞いた時、私、分かったの。あぁ。バッドエンドは私じゃない。“この子だ”って」
そう言ったメアリスの声色がとても鋭く、エイネシアは思わずドキリと息を呑んだ。
一体神様は、何を思ってこの二人を引き合わせたのだろう。
事情は違っていても、多分アイラのその態度は、メアリスがいじめていたというその子に近い。
絶対的に、メアリスとアイラは相容れない関係なのだ。
「だから……アイラさんを追い詰めるために、色々としたの? そうしないと、アイラさんに貴女が追い落とされる?」
「そこまで取り違えてはいないわ。私がいじめていた子とアイラのことも、混同なんてしていない。でも私じゃない。私がバッドエンドになるくらいなら、あの子の方が絶対にそうであるべきなのよ」
「けれどアイラさんを調子に乗せたのは貴女でしょう? バッドエンドにさせたいと言いながら、どうして?」
「それは全部勘違いよ。貴女のせい」
「私?」
どういう事? と首を傾げる。
「あの子、案外したたかで、王子とも自力で親しくなっていったのよ。でもそのままハッピーエンドなんて冗談じゃない。だから去年、わざと裾の短いドレスを勧めたりして、恥をかかせようとしたのよ」
「ッ、あ……」
そうだった、と、つい頭を抱えてしまった。
その件については、皆に散々言われた。シシリアにも、お人好しにもほどがあるとため息を吐かれた。
「貴女がいらないことをしなければ、アイラはあの日舞踏会場で大恥をかいて、上手くいけばあの時点で退学。社交界からだって追放されてた。王子が庇ったとしても、その心象は悪くなっていたはずだわ。貴女なら分かるでしょう?」
「殿下はアイラさんの飾らない物言いや雰囲気に惹かれたけれど、本来、礼や作法を失する言動には敏感で、お気に召さない方だわ」
「その通り。でも貴女がアイラを庇ったせいで計画はめちゃめちゃ。ましてや王子はアイラに同情する始末よ!」
「……それは。その」
王子の件については、一概にエイネシアの過失ばかりではない。むしろそれこそ、メアリスたちが散々にエイネシアの誹謗中傷を広めて、ヴィンセントとエイネシアの間の溝を深めてくれたおかげなのではなかろうか。
「貴女の印章を盗ませたのだってそうよ」
「あれも貴女の提案?」
「普通、男爵令嬢が公爵家の姫の印章が押された手紙なんて出したら、王子は疑うでしょう? なのにどうして疑わないの?! どうして変に思わないの?!」
「それは私に言われても困るわ」
ヴィンセントに直接言っていただきたい。何しろエイネシアも、ヴィンセントが微塵も疑わなかったことにショックを受けたくらいなのだから。
「卒業パーティーの日、アイラに貴女を徹底的に貶めるようそそのかしたのも私よ。あの頃にはもう、皆も貴女への疑いを拭いつつあった。なのに貴女に謂れのない罪をふっかけるアイラを見れば、皆絶対にアイラに不信感を抱くはずという確信があったの。だから私はあの場に、アイラを貶めるだけの材料という材料を取り揃えて、それを全部暴いてやるつもりだったのよ。印章の押された手紙もその一つ。あの日あの場所で全部上手くいっていれば、王子はアイラへの疑いを抱くはずだった!」
「えーっと……」
驚いた。驚きすぎて、なんかもう、言葉が出ない。
まさかメアリスは、エイネシアのために……ではないが、少なくともエイネシアにとって悪くない立ち回りをする計画を立てていたということではなかろうか。
「でもそれをめちゃめちゃにしたのも貴女よ! 大体、何よあれ! どうして今まで従順だった貴女がいきなり自分から許嫁を返上する展開になるわけ?! ならもっとアイラを増長させて国外追放に煽れば流石に度の過ぎた処分に誰かしらがアイラさんを責めだすのではと期待したのに、今度はエドワード卿まで出てきて王国離反ってっ! なにそれっ。もうわけわかんない!」
まさかあの場でメアリスがそんなことを考えていただなんて、思いにも寄らなかった。エイネシアの方が、もうわけわかんない、の気持ちだ。
「じゃあ春の休みの間、私が王都にいないことを知っていながら、私がアイラさんにあれこれしただのいう噂を流したのも、メアリーなの?」
「それはアイラが勝手にしたことよ。私は止めなかっただけ。だって、流石に皆おかしいと思うでしょう? 王都にいない貴女がアイラを脅しただのなんだのって。馬鹿馬鹿しい」
おかげさまで、新学期が始まるや否や、エイネシアは周りの突然の好意的な反応に、随分と驚かされた。
だがメアリスの言い分を聞く限りでは、どうやらエイネシアが気が付いていなかっただけで、実はもっと前から周りの目は変わり始めていたのではなかろうか。
メアリスは、それに気が付いていた。
だから、『貴女じゃないならあの子』なのだ。
エイネシアが転移者であったことは知らなかったようだが、それでもその可能性を考慮した上で、悪役令嬢という役回りのはずのエイネシアがバッドエンドならば、それでよし。でもそうならないのであれば、バッドエンドはアイラしかないと決めつけた。
「それで、今回の件ね。殿下にアイラさんの本心を見せて、周りの様子も見せて。それで、がっかりさせるつもりだった? 殿下がアイラさんから心を離すんじゃないかって。そしたら間違いなく、アイラさんがバッドエンドになるって。それが、貴女のシナリオ?」
「そうよ。実際、見ていらしたわ」
「……ええ。見ているだけだったわ」
それについては、エイネシアにも分からない。
どうして見ているだけだったのか。可愛いアイラがあんな憐れな姿をさらしてエイネシアを誹謗していたのに、前みたいにアイラを庇うでもなければ、許嫁に救いの手を差し伸べるでもなく、本当に、ただただ見ていただけ。
「まぁ、王子にも驚いたけれど、それより貴女の行動こそ、相変わらず私の予定外の行動ばかりで、全然想像していたのと違っていたんだけれどッ」
「それは……ごめんなさいね」
「でもこれでいい。見ていただけということは、王子も気が付いたということだわ。アイラじゃない。あの子は相応しくないって!」
「相応しくない?」
ふと首を傾げて。
その言葉の違和感に、エイネシアは思わず自嘲を溢した。
相応しくない、か。
いいや。そんなこと、皆が知っている。最初から分かっている。
もしそんなことでヴィンセントがどうにかなっているなら、エイネシアはこんなに苦労しなかった。
「メアリー、貴女……」
だからそれは違う。
それは。
「ヴィンセント様を、侮り過ぎよ」
冷ややかに零れ落ちた声色に、メアリスの瞳が見る見る見開かれる。
何を言っているの? と問いたそうなその顔に、エイネシアは思わず一つ、ため息を溢した。
悲しきかな。残念なことに、エイネシアはヴィンセントという人のことを実によく知っている。
ゲームでのヴィンセントしか知らないメアリスとは違って、この世界で、ゲームとは違う行動を取った諸々の人達の中で、少なからずその変化の影響を受けて育ったであろうヴィンセントのことを、本当によく知っている。
ずっと見ていたから。その人に惹かれていたから。だからよく、知っている。
「殿下は全部、分かっていらっしゃるわよ。アイラさんが相応しくない事なんて、最初から」
「ッ……なっ」
「でなければ、私との婚約を破棄するはずがないじゃない。私と殿下の婚約は、“感情”ではないわ。“政略”よ。四公爵家の血を引かない殿下の王太子位を盤石とするための政略。フレデリカ妃を推戴する反権門勢力と、権門の象徴であるアーデルハイド公爵家との分裂を阻止するための人柱。王太子としての“務め”」
「……でもッ」
「殿下は、私という存在一つを我慢するだけで手に入ったそうした諸々の利権のすべてを捨ててでも、アイラさんを選んだの。それが、そんなに容易く覆ると思う?」
「覆るわよッ。だって現に、王子は今も貴女のッ」
「逆の言い方をするなら、殿下はむしろ、もう捨てたくてもアイラさんを捨てられないのよ」
「どうして!」
「だって、アーデルハイドを敵に回してまで手に入れたのよ? それを今更捨てたら、私の立場はどうなるの? アーデルハイドは、どうすると思う?」
「そんなのどうでもいいじゃないッ。このゲームとは何の関係もッ」
「あるわよ」
メアリスもアイラと同じ。
全然わかっていない。
この世界には、ゲームには描かれていなかったような利権や利害、血筋や王室の事情。様々な複雑なしがらみが存在し、この件が単純ではなく、一国の未来をも差配してしまうような話であることを。




