1-7 忘れられない思い出(1)
次に図書館に赴いたのは、それから十日後の事だった。
本当ならばまたすぐにでも行きたいところであったが、何しろエイネシアも毎日好きなことばかり勉強していればいいわけではなく、お休みと呼べる日なんてものは月に二、三度あれば良い方。
昨今は経済や社会もさることながら、歴史や地理学などにも大いに興味があるが、そんなものはエイネシアに宛がわれている教育の中のほんの一部に過ぎず、その他諸々の学問は勿論、儀礼、作法、語学にダンス。身分相応の立ち居振る舞いに到っては、歩き方や立ち方、座り方なんてものまで延々と学ばされて、筋肉痛だなんてこともざらにある。
座りっぱなしで延々と刺繍をやらされたり、詞や古事、古歌の教養に、朗詠もやった。ピアノやヴァイオリン、かつては竪琴なんかもやらされたが、あれはとりわけ指が水膨れだらけになって悲惨だった。
そんなエイネシアの生活では、そうそう自由に図書館に行く時間もとれない。
ただ、是非とも図書館に通う時間をとりたいと父に掛け合った結果、家庭教師や習い事は厳選に厳選を重ねて軽減され、十日目にして念願の空き時間が得られた。
勿論、数少ない頭を休めるための休日とは別の、図書館で勉強をする日、という一日だ。
だから当然、エイネシアが王宮の大図書館に出入りすることになったと聞いた各所の先生方から、どっさりとそのための課題を出された。
政治経済は勿論の事、ダンスや詞の先生にまで。これはもう半分、先生方が調べて来てほしいことを依頼しているだけでは、と思うようなものまで。到底一日でどうにかできる量ではないと思うのだが、少しでもノルマを達成するためにと、せめて朝早くから出向くことにした。
ただ生憎この日はアネットが母の所用で外出しており、ならば別の侍女をと言われたが、道はもう覚えたから大丈夫、と、一人で出向くことにした。
貴族の子女なら王宮に上がる際に侍女を伴うのは当然のことだが、しかし社交に出向くわけでもなく、勉強をしに行くだけだ。
それに何か所用があるとして、エイネシアの身分ならば王宮のいたるところで下仕えしている侍従たちに好きに命を下すことが許される。いざとなれば父もいる。
まぁ正直なところ、図書館にいる間、延々と侍女に待ちぼうけさせるのが申し訳なかったのだ。
おそらくアーデルハイド公爵令嬢的にはそこに微塵も憐みなんて持ってはならないのだろうが、人は皆平等という精神のもと十八年間生きていた記憶がある以上、いたたまれないのは仕方ない。
◇◇◇
かくして、行きは父の馬車に乗り合い、先に父が外廷政殿で馬車を降りてから、次いで先日アネットに教えてもらった内廷舞踏館の方へ馬車を回してもらって、そこで降りた。
相変わらず人は少ないが、その分近衛の護りは固く、エイネシアが馬車を降りると、やはりキチッと剣を掲げて礼を尽くしてくれた。
そんな彼らの間を、何ならうっかり「おはようございます」だなんて言いそうになるのをこらえながら、そ知らぬふりをして通り抜ける。
するとすぐにエイネシアを見つけた通りすがりの侍従の少年がはっとした顔をして駆け寄ってきて、「お荷物をお持ちいたしましょうか」と声をかけた。
金色の髪をかわいらしく切り整えた、利発そうで、かつちっとも押しつけがましくない、上品な物腰の美少年だ。
なるほど、これが王宮侍従とやつなのか、と、余りの機敏さに少し驚いてしまったけれど、そこは公爵令嬢らしく動揺を隠し、ニコリと微笑みながら、「助かります。お願いしてもいい?」と言って、課題のノートの束を差し出した。
それを白いグローブに包まれた手で恭しく受け取った少年を後ろに、さて、ここで道に迷ったら恥だぞ、と、聊か冷や汗をかきつつ、しかしさも慣れたふりをして道なりに吹き抜けの回廊を歩く。
たしかはじめは道なりに。一度角を曲がって、少し内向きの廊下に入り、真っ直ぐ抜けたらまた吹き抜けの道。そしたら左手に女王の庭が見えて。庭を横目に道なりに行けば、図書館のある内殿へ行けたはず。
そう思ったところで、はたっ、と足を止めた。
そういえばアネットは、女王の庭を抜けたら近道になると言っていた。
見れば朝露のまだほんのりと残った庭園は緑がわっと迫ってくるように萌えており、朝咲きの白い花が芳しい香りを漂わせている。
通り抜けたら、さぞかし気持ちがいいことだろう。
「少し散策してゆきます。ノートだけ図書館に届けておいていただける?」
「かしこまりました」
そう恭しく頭を下げる少年に背を向けて、内心心を弾ませながら足を踏み出した。
庭という場所は、エイネシアにとっては遊び場のようなものだ。
何しろゲームもパソコンも映画やテレビもないこの世界。遠出をしたり街に買い物にいったりだなんていうこととも無縁のエイネシアが休日にすることといえば、公爵家の広々とした庭を散策して、美味しいケーキと紅茶をいただきながら、東屋でのんびりと花を愛でる事くらいだった。
だから少しだけ、少しだけ、と己に言い聞かせながら庭に足を踏み入れる。
ここに来るのは二度目。そういえば前回はヴィンセント王子に案内をしてもらったが、それでもこの広い庭のすべてではないと言っていた。いつかもっと隅々まで見て回りたい。
公爵家の庭や王宮の他の庭は、いつも盛りの花が季節ごとにかわるがわる植え替えられて、いつでもどこでもすべての花が盛りに成るようにと庭師が手を凝らしているが、この女王の庭は女王陛下が一年をかけて丹誠を込めてお好きな花だけを集めて育てていらっしゃるから、中には花が無く葉だらけのものも、すっかり花が落ちてあまり見目の良くないもの、実や種がゴロッと残っているものも合間合間に散見する。
前者の庭も勿論好きだが、エイネシアはこの庭もとても好きだった。
ついこの間咲いていた花が、今日にはもうしぼんでいる。向かいの列も同じ花だったはずだが、片側だけが綺麗に剪定されている。きっと陛下が時間を見て少しずつこうやって手を入れておられるのだ。
こういう中途半端な仕事の跡を見ると、そこに女王陛下の姿が垣間見えて微笑ましくなる。
少し奥へ進めば、そこは陛下が一番手をかけているという薔薇園。
ここには夏が盛りのものばかり集めてあるというから、今はまだ花は咲いておらず、幾つかの蕾だけが見て取れた。もうまもなくすれば、さぞ美しい花園になることだろう。
その奥には四季咲きする薔薇が集められていて、こちらは庭師がいつも、いつ来ても満開の薔薇を愛でられるようにと整えているらしい。
その真ん中にある真っ白なガゼボは、この庭でも三本の指に入る贅沢な場所だ。
「あら? 本?」
そんなガゼボの白亜のテーブルに、何やら黄色いノートサイズの忘れ物。
その上に一輪乗った黄色い薔薇がロマンティックで、乙女心を疼かせる。
だがそんな“本と薔薇”だなんてベタな忘れ物が有るだろうか。
歩み寄って黄色い花に手を伸ばしてみたところ、すぐにもそれが“折り紙”であることに気が付いた。とても艶のあるまるでシルクのような手触りの紙で折られた、立派な薔薇だ。
一体誰の作品だろうか。
それを傍らに置いて、今度は本の方に手を伸ばす。
本……いや。ノート……だろうか。ページを一枚めくろうとして。
「いやーーーーー!!!」
背後でしたつんざくような少女の悲鳴に、びくーっっ、と、肩を跳ね上げ、思わず手から本を取りこぼした。
なんだ。何が起こった。
パッと振り返ったところで、朝日の中でさらりと泳いだ金の髪と、白い頬を真っ赤に染めて、美しいブルーグリーンの大きな瞳を潤ませながらあたふたと慌てふためく、アンナマリア王女を見つけた。
それに気が付くと、すぐにガゼボの段差を下り、ドレスの裾を摘まんで礼を尽くす。
「あ、あな。貴女……アーデルハイドの……エイネシア、さま」
「ごきげんよう、アンナマリア王女。申し訳ありません。これはもしかして王女様の……」
「見た?!」
「え?」
ぎゅんっ、と、王女様ともあろう者が、礼儀も忘れて必死にエイネシアの顔を覗き込んできたものだから、驚いて顔を跳ね上げ仰け反る。
見たか、というのは。薔薇のこと。いや、本の方だろうか。
「本のことでしたら、いいえ。勝手に触れて申し訳ありません。どなたの忘れ物かと」
「見て……いないのね?!」
「はい。少しも。ですが薔薇の方には触れてしまいました。とても素敵な折り紙ですね。王女様が……」
「違うわ! この事は全部お忘れになって!」
そうパッと傍らを駆け抜けてガゼボに飛び込んだアンナマリアは、本と薔薇をぎゅっと抱きしめると、今一度チラリとエイネシアを見る。
この反応は……やはり、避けられているのだろうか。嫌われているのかもしれない。
そう思ったが、しかしびくびくと何か顔を濁したかと思うと間もなく、ペコッ、と高速のお辞儀をしてから、「お願い!」と念を押された。
う、うむ。いや……嫌われている、というよりは、怯えられているのだろうか。
アレクシスも、最近避けられている、と言っていたが、そういうお年頃なのだろうか。
「勿論。私は何も見ておりません、王女殿下」
だからそう恭しく一礼して言ったならば、ほっと安堵の吐息が聞こえた。
この調子で、エイネシアの認識も改めてくれたら良いのだが。
というかそもそも、怯えられるようなことをした覚えはないのだが。
人見知りだろうか?
「お、お兄様に会いにいらしたの?」
「え? あ、いえ……」
「お兄様なら奥よ。お早く行かれては?」
そう暗に“早くいってちょうだい”と言っているようなニュアンスで庭園の奥を指差すアンナマリアに、そうではない、というタイミングを逸してしまい、どうしよう、とチラリと背後を伺う。
目印のガゼボを過ぎたら、あとは迷わないよう建物の方にルートを戻そうと思っていたのだが、少しくらい道を外れても大丈夫だろうか。
「それでは失礼いたします。どうぞ良い一日を、王女様」
良くできた令嬢宜しくニコリと微笑んで見せる。
それでもなおアンナマリアはビクリと肩をすくめて柱の影に隠れてしまい、会話を成立させることはできなかった。
もう少し慣れたら、話をしてくれるようになるだろうか。
あんな、ザ・お姫様みたいな可愛い子、本当ならお友達になりたいと胸躍らせていたはずだが、ここでは身分というものが邪魔をしてがつがついけないのがどうにも歯がゆい。
それにしても先ほどのは可愛らしかったな、と、少し怯えたように本と薔薇を抱きしめていた少女の姿を思い出すと、クツクツと微笑みが零れ落ちる。
本当に。この庭のようなお姫様だ。
柔和な目元は兄王子とそっくりだけれど、おっとりとまろやかな雰囲気を醸し出しているところはむしろアレクシスと似ている気がする。
小さな頃はアレクシスが手を引いていたと言っていたから、兄妹のように育ったのだろう。彼の影響を少なからず受けているのではなかろうか。
きっと大きくなっても、美人というより清楚可憐とか可愛いとかの言葉が似合う淑女に育つ気がする。
そんなことをニヤニヤとしながら考えていたが、目の前に小ぶりな白薔薇が目についたところで、はた、と足を止めて顎に手を添えた。
いや。まて。すっかりと失念していたが、そういえばアンナマリア王女は“ゲーム”にも登場していた気がする。
というか、アン王女と呼ばれていた人物に心当たりが有る。
毛先だけ癖のかかった長い金の髪に、ぽってりと優しげな面差し。小さな白薔薇をあしらったリボンを結わえた、いわゆるヒロインの“助言役”。ゲーム序盤で、困っているヒロインに手を指しのべ、チュートリアルを行なってくれたのが、そんな名前の王女様ではなかっただろうか。
「あぁぁぁぁ……」
なんだもう。絶望しかない。
あんなにかわいい女の子。絶対友達になりたいのに。一応、未来の“義妹”なのに。
よりにもよって彼女は、エイネシアとは絶対に相容れないであろうヒロインの友達ポジションに納まり、ヒロインを何かと手助けする役回りなのだ。
それはもう。ヴィンセント王子との仲を取り持ったり。度の過ぎたエイネシア嬢の嫌がらせに対し、王女という身分を以てヒロインを庇い、エイネシアを追い返したり。
一応本人の性格上、やんわりとした上品な物言いなのだが、それでもエイネシアとは徹底的に相容れない立場になるお方だ。
最悪だ。
「よく考えたら、ゲームの私にはろくな友達がいなかった気がするわ……」
ヒロインをいじめるための悪役令嬢の取り巻き的な人物が二、三人いたはずだが、どれもあまり印象には残っていない。
何度か父を訪ねてやって来た外務高官のセイロン伯爵が娘を同行してきたことが有り、そこのシシリア嬢がエイネシアとは同い年になるから、多分取り巻きの一人になるのだと思うが、今はまだそんなに接点がない。
お茶会になんか行ける年になったら、他の貴族の令嬢と接する機会も増える。そしたらゲームとは違って、ちゃんと友達作りとかしてみようかしら、と。そんな半ば期待もしていないことを思いながら一つため息をついて、再び足を進めた。
なんだか折角の良い気分が、すっかりとブルーになってしまった。
これは早いところ図書館に行って、勉強に没頭して気を紛らわせて……。
そう顔を上げたところで。
はっっ、と、周りを囲む高い垣根に目を瞬かせた。
青々とした両脇の垣根。
ぱっと振り返ってみても、同じ景色。
ぱぱっと前を見ても、やはり同じ景色。
広々と見通せていたはずの景色が、何故か今はちっとも見えず、両脇から迫ってくるような高い緑の壁に、段々と顔が青ざめて行った。
もしエイネシアが淑女と呼べる年齢のレディであったならば、その垣根の向こうの色とりどりの花々に、これが王宮の二階の窓から楽しむ庭園アートなのだと気が付けただろう。
だが小さな背丈の少女には、もはや未知の森と変わりなく、何処を見ても変わらぬ景色に青ざめるには十分な状況だった。
そしてこれは間違いなく……“迷子”だ。
「や、やだ。ここどこ? お父様? アネット?!」
あわあわとあたりを見回して、来た道を引き返して見るが、混乱して道を間違えたのか、何故かどんどん深みへとはまってゆく。
しまいにはどこを見ても美しい王宮の庭の中とは思えない手入れの滞った荒れ庭へと姿を変え、まもなく小さな枯れた水場がポツンとあるだけの黒鉄のフェンスに遮られた空間へぶちあたって、ぶわわっ、と、薄紫の瞳に涙の膜が張る。
「どうしよう。お母様。エド。ジェシカ。ネリーっ」
そうだ。建物。建物が見えれば、と見回すが、背の高い木々が邪魔して何も見えない。
ちらちらと多少視界によぎった建物だって、全部同じに見える。
こんなに広い庭だ。もしかしたら誰にも気が付かれないかもしれない。
はてはどこからか、キャンキャンと戦慄く獣や鳥の声がする。
それが混乱した今のエイネシアには一層恐ろし声に聞こえて、ますますびくっと体を震わせると、へたり、とその場に足をついてしまった。
どうしよう。あの声の獣が襲ってきたら?
もしこのまま誰にも気が付かれなかったら?
「っ。ヴィンセントさま。ヴィンセントさまっ!」
どうしよう。どうしよう、と。何故だか必死にその名前を呼ぶ。
「ヴィンセントさま!」
日が傾いたらどうしよう。夜になったらどうしよう。
もしも……もしも何か“怖いもの”が現れたら……どうしよう。
その目にいっぱいに溜まった涙が、今にも長い睫の支えを越えてこぼれそうになる。
「ヴィンッ……」
「エイネシア?」
途端にガサリと揺れた木々の音。
ビクリとして振り返ったエイネシアの視線の先に揺れた、明るい金の髪。
そのパチパチと目を瞬かせた鉄格子の向こうの人影に、うるるっ、と、唇が情けなく歪んだ。
「ヴィン……セン、ト、さま」
とぎれとぎれに絞り出した声に、そこにいた少年がはっと辺りを見回し、その高い鉄格子を越える扉が無いのを見て取ると、その隙間から手を差し伸べる。
「こちらへ来なさい」
腰が抜けていたはずなのに、その手を見た瞬間ひょこっと立ち上がることに成功したエイネシアは、マナーも何もかも忘れてそちらに駆けていって差しのべられた手をきゅっと握った。
その瞬間、胸に満ち溢れた安堵に、じんわりと温かい、穏やかな気持ちが広がってゆく。
あんなにも怖くて不安だったのに。ただじっと静かに手の温もりを分けてくれるその人に、ゆっくりと心は落ち着いていった。
やがて安堵がたまりにたまって、ホゥ、と吐息が零れたところで、「落ち着いたか?」と声を掛けられた。
そう言われてすぐに、自分がすっかりと取り乱していたことに我に返り、あっっ、と、急いで手を離そうとしたが、代わりに王子の手がエイネシアの手を包みとめた。
格子越しに繋がった手。包み込むようにしてエイネシアの手に触れる、自分より少しだけ大きなその手が、ドキドキと心臓を高鳴らせる。
「まったく。こんなところで何をしていたんだ? 登城するとは聞いていなかった。それもこんな朝早くから」
思わずじっと見つめていた手から顔をあげる。そうして改めてこの窮地を救ってくれた王子様を目にしたところで、その恰好がいつもと違うのに気が付いた。
相も変わらずきっちりと上等なお衣裳を着こんではおられるが、今日の上着は前丈が短く切られていて、それに皮のベストと、ズボンの裾を中に入れたロングブーツ。いつも颯爽とたなびかせていらっしゃる王子様のマントは見当たらない。
そして腰元のベルトには……鞭、だろうか。
こんな王宮のはずれで何をしていたのだろう……と、よからぬ想像をして顔色を濁すが、それを別の意味に受け取ったらしいヴィンセントは、さらにきゅっ、と両手で温めるようにしてエイネシアの手を包んだ。
「大丈夫だ。安心しなさい」
日頃冷たいくらいなのに、こういうところだけ……本当に、王子様で。
そういうのが、すごくズルい。
儀礼的なものと分かっていてなおトキメク胸の内に、ツキツキとした痛みが伴う。
「ご、ごめんなさい、殿下。私、動揺して……」
「いいから。ここは内宮の更に奥。王宮の森の外れだ。どうしてこんなところに?」
「え? あっ。森?!」
きょろきょろとあたりを見回して、それから改めてこの背の高い柵を見上げた。
それからようやくはっとした。
王宮の森。それは王宮の背後にある広大な森のことで、王家の者が乗馬や遊猟を楽しんだり、そのための幾つかの離宮が建っていたり、また時には軍事演習などでも用いられるという場所の事だ。
すなわちヴィンセントが言った通り、ここは王宮の中でも端も端。図書館のある内廷どころか、その奥、王家の居所がある内宮の、更に最も奥深くということになる。
そして今なお何処からか耳に届いている獣の声も、良く聞けばちっとも恐ろしいものなんかではない。この自然豊かな森でのびのびと育っている鹿や兎、鳥たちの声なのだ。
「わ、私……女王の庭を通って図書館へ行こうと。途中アンナマリア王女にお会いして、その流れで建物とそれる方へ足を。気が付いたら背の高い垣根の中にいて……」
「あぁ。私達の背丈だとあの高い垣根は迷路のようだからな。それで迷ったのか」
「迷っ……」
何のプライドか。思わず“違います!”と反論しそうになったが、どう考えても今の状況はそれ以外の何でもなく、カァと頬を染めて俯くしかなかった。
なんという恥だ。公爵令嬢にして殿下の許嫁ともあろうレディが、王宮の庭を勝手に散策した挙句、勝手に迷子になって泣きそうになっていただなんて。
恥ずかしくて消え入りたい。
だが王子の手が、エイネシアをここに引きとめて離さない。
もっともエイネシアだって、この手を振りほどいたところで再び迷子になることは確実なので、消え入ることもできないのだが。
「あの……殿下はどうしてここに?」
「エイネシアが私の名前を呼んだからだ」
いや、それは、と頬を赤らめる。
名前を呼んだのは咄嗟の事で、助けを求めたのは無意識だ。
それに聞きたいのはそういう事ではなかったのだけれど、しかし間もなく、ブヒヒっ、と、すぐ近くで鳴いた馬の声に、はたっ、と背後を見た。
そこには大きな白と茶色の馬が二頭。
その手綱を持つ黒髪の少年が一人いて、エイネシアがそちらを見たのに気が付くと、キチンと恭しく頭を下げた。
それだけではない。少し離れた場所には近衛や侍従と思われる大人が数人いて、音も無く待機している。
要するに、王子様は朝からこの王宮の森で朝駆けをなさっていたということだ。
そこに控える、同じ年頃の少年と共に。
「私の声が、お聞こえになったの?」
馬に乗っていたなら、通り過ぎるのは一瞬だっただろうに。
そんなまさかと思ったが、その問いにはチラリと王子は背後の少年を見やった。
「アルが……アルフォンスが気が付いた。“少女”の声がする、と」
「アルフォンス……様?」
口にしてすぐ、あっ! と気が付いた。
さらっとした黒髪と、幼さに似合わぬ涼やかな瞳の深いブルー。年の割に乏しい表情ながらも凜とした佇まいは、まさに小さな騎士と称するにふさわしい様子で、そしてエイネシアの前世での記憶が正しいのであれば、それはゲームでの攻略対象の一人。“騎士様”こと、アルフォンス・ルーモス・ザラトリア侯爵令息だ。
幼い頃からヴィンセント王子の近習として仕え、護衛も担っていた臣下であり幼馴染であり、また一番の友でもある人物。ザラトリア騎士長という王宮で最も華やかな武官である女王護衛の筆頭を勤める侯爵閣下の跡取りでもある。
「有難うございます。アルフォンス様」
「どうぞアルフォンスとお呼び捨てください。姫様」
そう子供らしくない落ち着きのある涼やかな声が、王子に遠慮するかのようにやや声量を控えて語りかける。
この過ぎた恭しさは、侯爵家の令息が公爵家の令嬢にする反応ではないが、少なくともこの時点での彼にとってのエイネシアは“殿下の許嫁”であり、ゆくゆくは自分が護衛をすることになる相手という認識なのだろう。
それがいささかむず痒い。
「しかし……困ったな。柵を越えるわけにはいかないし……」
そう目の前の柵を見上げるヴィンセントに、エイネシアも同じ柵を見上げる。
そうだ。取りあえず人に出会えたことですっかり安堵していたが、この柵を越えることはできない。どうしよう。
「殿下。この先……少し歩きますが、通用口が有ります」
そう言葉を挟んだアルフォンスに、そうか、と頷いたヴィンセントは、ずっと握っていたエイネシアの手を解放する。
それが少し名残惜しくて、思わず離れる手を追いかけたエイネシアの手に、それを不安と受け取ったのか、「大丈夫だ」と言うヴィンセントが、今度は格子に掌をあてた。
その視線に促されて、エイネシアもそっとその手に格子越しの掌を添える。
握られていた時よりも、自分で触れているという感覚があるせいか、自分でやっておきながら、みるみる頬が赤く染まった。
恥ずかしい……。
「このまま格子沿いに行こう。少し狭いが、幸い私達には問題ない」
そう言って格子沿いに歩き出したヴィンセントに、エイネシアも慌てて足を進めた。
そこに道というものは無かったけれど、確かに、格子と垣根の間には細い隙間が有って、大人には狭くとも子供には難なく通れる広さがあった。
折れた枝や茂った雑草が歩き辛く、ブーツの王子はともかく、綺麗なドレスに身を包んだエイネシアには困難な道だったが、「小枝に気を付けろ」、「根が浮いている」などと声をかけてくれるヴィンセントの声色と、一つ二つと格子を挟みながら伝わってくるその人の手が、汚れたりほつれたりするドレスの事なんかすっかり忘れ去らせてくれた。
令嬢らしからずぎゅっと片手にドレスを絞り持って、一歩一歩と慎重に行く道なりは、茨の道なのにちっとも苦じゃなくて、それはまるで夢のような時間だった。
二人の間を隔てる格子が、むしろその人の優しさを感じられる。
それがなければ、きっとこんな時間は得られなかった。
それを思うと少し胸が切なくて。
それでもこの時間が、永遠に続けばいいのに、と、そう望んでやまない。
だが必ず道には終わりがあるもので、やがて細い道なりの格子の扉が目に入る。
先んじて外を回ってきたらしい近衛が鍵を開けていて、王子とエイネシアがそこまで来ると、すぐにキィィと錆びついた音を立てる扉を開けてくれた。
その音に促されるようにして、どちらからともなく離れて行った手。
指先に残ったのは冷たい鉄格子の感覚だけで、それでも確かにヴィンセントに触れていたはずの指先を、きゅっと逆の手で包み込んだ。
夢から覚めた途端、それを見ていた周りの目に恥ずかしさが募る。
だがそこでじっと佇んでいるわけにもいかず、どうぞこちらへ、と促したアルフォンスの声に顔をあげると、雑多な茂道から小道へと出て、管理用の通用口と思われるその小さな扉をくぐった。
手入れの行き届かない庭の隅と違い、一歩中に踏み入れた王宮の森は自然が自然のままに造り上げた立派な森の姿をしていて、キラキラと零れる木漏れ日とサワサワとそよぐ風が、格子の向こうとはまったく様相を異にしていた。
なんて心地のいい森だろうか。
「お怪我はありませんか?」
そう紳士に問うてくれたアルフォンスに思考を現実へ引き戻されると、すぐにさっと自分の姿を見下ろし、痛いところのないのを確認する。
「大丈夫ですわ」
とはいえ、その恰好はひどいもので、とてもじゃないが見られたものではない。
「ドレスは着替えた方がいいな」
それを見て取ったヴィンセントがすぐにそういうから、益々恥ずかしくて俯いた。
こんな格好でヴィンセントの前に出るだなんて。
「アドリック。ここから一番近い離宮はどこだ?」
声を掛けられて後ろから控え目に進み出たのは二十代中頃と思しき青年で、温厚そうな彼は、侍従のごとく胸元に手を添えて言葉を返す。
「ノークやミスルなどありますが、おもてなしに足るものとしては、その先のイリアまで戻ってしまった方が良いかと存じます」
それを聞くとすぐに、ではそうしよう、と彼が引いていた馬に手を伸ばす。
エイネシアにはどの離宮の名前もちっとも聞いたことのない未知のものだったから、イリア離宮がどういうところなのかはわからない。
それよりも今はこの恥ずかしい格好を王子の前から隠すべく、道案内の者を一人お借りして、早々と御前を下がりたい。
だから颯爽と馬に飛び乗る慣れた様子の王子様に、失礼するご挨拶を申し上げようと歩み寄ってドレスの裾を摘まみ、『私はこれで』と声を掛けようとしたが、「あそこならひとまずアンのドレスがあるな。それで良いか?」と思いがけないことを言われたから、キョトンと顔をあげた。
良いも何も。よもやヴィンセントが、このみすぼらしい格好をどうにかしようとしてくれているというのだろうか。
しかも王女殿下のドレスだなんて、恐れ多い。
「お言葉は大変有難いのですが、王女殿下のドレスを勝手にお借りするわけには……」
「そんな恰好で外廷に戻るつもりか?」
だがそう言われては、エイネシアも言葉を噤んだ。
それもそうだ。今は取りあえずヴィンセントの目の届かない場所に、という乙女心ばかりが逸っていたが、よく考えれば、こんな格好で人前に現れて礼儀知らずのそしりを受けては、エイネシアだけではなく王子にさえ傷をつけかねない。
そんなこと、王子の許嫁として絶対に許されない。
「では……お言葉に甘えて……」
「なら早く乗れ」
そう差しのべられた手に、一つ、二つの沈黙と。
それから、えっっ! と、エイネシアは馬上の王子様を見上げた。
乗れって。まさか馬に? 王子様と二人乗りをしろという事か?!
そう困惑している内にも、アドリックが一応まだドレス姿のエイネシアのために馬に乗るための折り畳みの台を置いてくれて、手綱を持つ近衛も念入りに馬を大人しく宥めてくれている。
いや、だからと言ってこれは……どうなのだろうか。
未婚のレディが……いや、許嫁だから良いのだろうか。
だがそれにしたって、ただでさえ乗馬の経験もない上に、そんな狭い場所で王子とくっついたりしたら、間違いなく心臓が破裂する。
しかし数多の目が有る中でまさか許嫁に対してそれを拒否するだなんて選択肢はまず見当たらず、さぁ、大丈夫ですから、と大人たちが促す様子を見るにつけても、まさか『私は歩きます』だなんて言える状況じゃない。
それに実のところ、慣れない茨道を歩いたせいでもう足はくたくたで、ちょっと傷もついている気がする。
「どうした。乗らずに歩いて、道すがらそんな恰好を人目に晒しても良いのか?」
さらにヴィンセントにそう追い打ちを掛けられると、はい、とは言えない。
「いいえ。ただ乗ったことがありませんし……殿下にご迷惑をおかけするのがしのびなく」
「そんな恰好で人目に付かれて、“王子の許嫁は”と噂になる方が迷惑だ」
いささか冷たくさえある言葉だが、それはまったくその通りであって、即ち、今伸ばされているその手は“義務”なのだ。
そう思うとむしろ気持ちはさめざめと落ち着き、ほっと安堵さえした。
では、と、台を昇り、王子の手を取る。
その手に引っ張られると同時に後ろからはアドリックが軽々とエイネシアを持ち上げてくれて、あっという間に馬上に横乗りに座らされた。
少し小さめの馬だったが、それでも背の高い馬の上はいつもとまったく目線が違っていて、その風の通りさえも違っているようだった。
吹き抜けた風が心地よく、おもわず、わぁ、と顔をほころばせる。
「ふっ。案外、性にあっていたようだな」
だからすぐ後ろでそう笑うような声色がした途端、はっと我に返って身をすくめた。
いかん。ここはまさかの、王子の腕の中なのだ。
だからしおらしく小さくなると、迷惑にならないようにと出来るだけ小さくなって、鞍にしがみついた。
すぐにも従者が手綱を引き、馬はゆっくりと歩き出す。
決して走らせはせずゆっくりとした歩みで、不安そうにしているエイネシアに気を使ってくれた。
そうして馬を歩かせて、幾らもせぬうちに気が付いた。
『騙された。“人目”なんて、どこにもないじゃない』
閑静な森の中。あるのは可愛らしい野兎や鹿の視線だけで、イリア離宮という湖の傍に建つ小ぶりなお城にたどり着くまで、他の誰にも出会わなかった。
エイネシアの足の事を気にして、わざとそういう言い方をして馬に促してくれたのだろうか。
だとしたら少し不器用で。でもやっぱりこの人は、心根は優しい人なのだと。そう思わされて、心ばかり、そっと胸元に頭を寄せた。
このくらいなら……許されるだろうか。
今だけ。今だけなら……。
だがそんな時間も長くは続かず、すぐにも離宮の傍らに馬が止まると、「お手をどうぞ」と差し出されたアドリックの手に、王子から離れた。
お礼を述べながら軽やかに馬を降りると、視線は再びいつもの高さへ。
すっかりといつものエイネシアへ。
「お帰りなさいませ、殿下……と、エイネシア姫様」
すぐに馬の声を聞き取って離宮から出てきた少女……確か侍女の、アマリアだったか。彼女が現れ、ヴィンセントを。それからそのヴィンセントの馬から下りた客人に目をとめて、恭しく礼をした。
根掘り葉掘りと事情を問わぬ態度は、本当によく出来た侍女だ。むしろエイネシア的には、不作法に予告も無くこんな格好で突然訪ねてしまった自分の方が恥ずかしいくらいだった。
「アマリア、エイネシアにアンのドレスを。それから怪我の手当ても」
そうすぐに指示を出す王子に、やっぱりばれていたか、と、心ばかり足元のボロボロのドレスの裾をかき寄せた。
血は滲んでいないけれど、ほつれたドレスの裾の下に見えてしまっている靴の荒れ具合を見れば、想像はつくかもしれない。
「どうぞこちらへ。お手をお貸し致しますか?」
そう丁寧に問うアマリアに、「平気です」と答えて、導かれるままに離宮へと足を踏み入れた。
そこはとても可愛らしく可憐な小城で、白い柱に黄茶のタイル、青い三角屋根と華奢な搭屋の、まるでお姫様の隠れ家だった。
エイネシアの記憶が正しければ、イリア離宮のイリアという名前は何代か前の王女様の名前だから、きっとその王女様が過ごした離宮なのだろう。
内装はいじってあるようだったが、どこも子供が過ごすことを考えた子供目線での装飾が為されていて、腰の低い装飾や子供の手でも届く低い位置のドアノブ。またどこもここも丸みを帯びたフォルムで、愛らしい造りをしていた。
案内されたのは一階の湖に面した部屋で、白の柱とピンクブラウンに塗られた壁、柔らかい花柄の小ぶりなカウチや白いレースのカーテンなど、どれも素敵だった。
そのカウチに促され、アマリアと、それから色々と準備をしてきてくれた年配の侍女がもう一人。靴を脱がせて土を拭い、傷ついた踝や足首に丁寧に薬を塗ってくれた。
それからアマリアが持ってきてくれたのは、この離宮によくあう小花のレースが縫い付けられた薄桃色のシフォンドレスで、生憎とアンナマリアと一歳違いながらも彼女より背の高いエイネシアが着ると少しばかり丈が短く踝が見えたが、夏の離宮であるというこの場所ではそれがむしろ涼しげにも見えた。
ただドレスは薄手なので、と、厚めのストールを肩にかけてもらい、すっかり乱れた髪も、丁寧に解きほぐして結い直してもらう。
髪飾りの代わりに編み込まれた花は、この離宮の側で摘み取ったばかりというみずみずしい花で、なんだか王宮を訪ねた時よりも綺麗にしてもらった気がする。
お綺麗ですよ、という侍女の言葉にお墨付きをもらって安心しながら、アマリアに連れられて同じ廊下沿いの一際大きな扉をくぐると、そこは庭に面して硝子扉が開け放たれた湖を望む涼やかなテラスサロンになっていて、その一角でのんびりと本をめくるヴィンセントを見つけた。
「お気遣い有難うございました、殿下。素敵なドレスに、怪我の手当てまで」
「気にする必要はない。早く座れ」
そう促す言葉はぶっきらぼうだが、怪我の事を気遣ってくれているのだという事はわかっていて、アマリアが引いてくれた椅子に、一言お礼を述べてから大人しく腰掛けた。
ゆったりとしてフカフカとしたブルーグレーとシルバーのストライプの椅子はレトロで、同じくらいレトロなテーブルに、すぐに紅茶とお茶請けが置かれた。
正直ドレスは有難かったし、疲れ果てた体に温かい飲み物と甘いものは至福であったが、しかしこれからどうしたらよいのだろうか、と思う。
図書館に行くつもりだったのに、いつの間にかこんなところにいて、しかも段々と日は高くなっているにもかかわらず呑気にお茶なんてしていていいのだろうか。
いや。なんだか……もう、いい気がする、と。
心地よい風の吹きこんでくる湖を見やった。
白い大きな鳥が足を止め、湖面を突いて羽をもたげる。
その長閑な雰囲気は時を忘れてしまいそうで、「素敵なところですね」と言おうとヴィンセントを見やったところで、その景色にまるで一枚の絵画のようにしっくりと馴染んだ王子様に、言葉を失った。
片手にティーカップを。膝の上に本を開いて、決して気取らずゆったりと椅子に腰をしずめているその情景は、所謂“オフ”の状態とでもいうのだろうか。
幼い乙女の目にはその光景がチカチカと眩しくて、うっとりと見惚れてしまう。
「手慰みに、何かお持ちいたしましょうか?」
そうしていると、気を利かせたのか、アマリアがそう声をかけてくれる。
勿論、こんな素敵な場所で。その人の傍らで。のんびりとレースを編んだりして過ごすのはとても素敵だろうなと思う。
けれどそんなエイネシアの頭の中で、別の冷静なエイネシアが警告する。
『駄目よ、エイネシア。これは義務。王子はただ貴女が落ち着くのを待っているだけよ』
そう。この静かな時間は、ただエイネシアが落ち着きを取り戻し、外廷に戻ってもアーデルハイドとして遜色なく振舞える冷静さを取り戻すのを、待ってくれているだけ。
「いいえ、平気よ」
だからアマリアにはそう答え、今一度この優しい景色を目に焼き付けてから、ゆったりと席を立った。
それに気が付いたのか、チラリとヴィンセントの視線がこちらを見る。
「お時間を掛けさせてしまいました。もう大丈夫です、殿下」
「そのようだな」
「先んじて荷物を図書館に届けさせてあります。いつまでも現れないと、騒ぎにもなってしまいますから、私はこれで」
実際、少し散策を、といって庭へ消えた令嬢がいつまでたっても戻ってこないとなると、すでに侍従や司書さんたちがオロオロとしだしているかもしれない。父に知られたら、大事にもなってしまう。
そうなる前に戻るべきなのは確かだ。
「ああ……いや」
一度頷いたヴィンセントだったが、間もなく少し考えるそぶりを見せてから。
「そういえば、図書館にはよく?」
そう問われたから、小首を傾げつつ、「まだ二度目です」と答える。
「出入りのお許しをいただいてからというもの、先生方から沢山課題を出されてしまって。時折通わせていただくことにはなるかと思うのですが」
そう言ったところで、ふむ、と何か少し考えるそぶりを見せたヴィンセントが、間もなくおもむろに本を閉じて席を立つと、「送って行こう」というから驚いた。
いや、まぁ誰かに案内をしてもらわなければ一人でたどり着けないのは言わずと知れているが、しかしまさかヴィンセントがそう言ってくれるとは思っていなかったのだ。
「宜しいの……ですか?」
「これからも、登城した際は顔を見せに来い」
これはどうしたことか。
思いがけなさすぎて、パチパチと目を瞬かせる。
でも当然。そこに甘い理由なんてあろうはずもなく。
「登城しているにもかかわらず、許嫁を素通りにして図書館通いが目的だなどと噂を立てられては互いにいいことにはならないだろう」
ええ。ええ。分かっていましたとも。
彼が気にしているのは“体裁”だ。
そして彼が仰る通り、それはちっとも望ましくない噂だ。
この国では女性でも爵位や家を継ぐことができ、女王が立つことも珍しくはないが、それでも女性がバリバリと勉学に励むような姿は、“レディ”として、あまり良い目では見られない。
勉強をすること自体はちっとも問題ではないが、女子の場合、そういうのは家の中でやるのが普通で、外に勉強をしに行くような熱心な行動はレディに相応しくないとされる。優先すべきは慎ましやかでしとやかな妻としての姿なのだ。
エイネシアが熱心に図書館に通うことは、あるいは将来この国を支える者として、周りにも感心されるかもしれない。だがそれはあくまでも、“王子のために”でなければならない。登城したのに許嫁をがん無視して図書館に引き籠るのは、まず間違いなく、よくない噂になる。図書館はおまけ。一番の目的は、許嫁へ会いに来たという、しおらしいレディとしての行動でなければならない。
勿論それは、王子にとってもだ。
よもや“許嫁に蔑ろにされている”だの“図書館よりも価値が下”だなどというレッテルを張られてはたまらないだろう。
「仰る通りです、殿下。そのように致します」
だからそう恭しく答えたところで、手を差し伸べられた。
もういちいち、その手には驚かないけれど、それでもやはりエスコートの手が差し伸べられることには何度だって胸がときめく。
けれどいくらときめいたって、そこへ重ねた手は、無邪気な子供や許嫁のそれではない。体裁と義務という関係で繋がった上辺だけのものでしかない。
触れているのに触れている感覚がしない。
そうして離宮の外へと誘われながら。
あぁ。さっきの“格子越しの手”は。
あんなにも愛おしかったのに……と。
ひそかな寂しさを募らせた。
この無機質な手が、恨めしい。
恨めしくて恨めしくて、恨めしくて。
愛おしい。




