それから
虐待を思わせる部分があります。ご注意ください。
ただの思い込みだと思う。
けれど、速まる鼓動を抑えられない。
街灯が申し分なくあっても、ちょっと声を張り上げれば少なくない周囲の住人が気にかけてくれそうでも。
妙な怖さと焦りが身体中を支配していた。
後をつけられている。
なんの根拠もないのにわたしの心身がそう確信してしまっていた。
自然にみえるように靴を直す。
小石を出せたかはわからない。
靴を振るふりをして、わたしは必死に耳を澄ませていたから。
まだ、足音はしない。
たん、と足をついてわたしは歩き出した。
たすたすたすと頼りない自分の足音にずれて、音が再開した。
ひたひたひた・・・
もっと重い音だったか。
でもカツカツカツじゃなく、ざりざりざりともしていない。
といっても音について深く考える前にわたしは走り出していたので、細かくは覚えていないのが事実。
火事場のなんとかなんだろうか。
すっごく疲れていたのに体が軽く感じた。
とんで帰るって、こんな感じなんだろうかと思った。
アパートに着いた時には心臓が顔に上ってきたような状態だった。
ぜぇぜぇひぃひぃと目を回す寸前で目の前がチカチカした。
汗だくで、膝も手もがくがく。
鍵を落っことしそうになりながら鍵穴に差し込み崩れ落ちるように部屋に入った。
ドアを背にしてずり落ちる。
心臓の音が邪魔でドアの外の音が聞こえない。
半分腰が抜けた感じでドアノブに片手をかけて、後ろ手に鍵をかけた。
二十分か三十分か、ドアにもたれて座り込んでいた。
まだドキドキしているが、飛び出るような動悸は治まった。
でも手足に力が入らない。
その間、誰一人、ドアに近づく様子はなかった。
汗で張り付いた前髪が気になり出す頃には、すっかり気持ちが落ち着いていた。
生まれたてのなんとかみたいな体を叱咤してシャワーを済ませ、ベッドに横になり思う。
勘違いじゃない。
そして、あれは間違いなく。
女だった。
ついてきたのは女。
なぜわかるの。
なぜなんだろう。気配?
静かな部屋で気が高ぶるわたしは、その日全く眠れなかった。
その日以来、帰りが夜になると誰かが後をつけてくる。
走ったり道を変えたり寄り道して時間を潰したりしても、居るのだ。
振り返ってみても姿は見えないけど。
居る。
おかげで、いつか部屋まで来られたらと思うと眠れない。
持ち物を我が身から離さないようにして、知らない誰かに話しかけられたら体に力がこもり、目をつぶる。
寝不足で顔色悪く挙動不審だから、さすがに皆に心配された。
「私と一緒に帰るときはそんな足音しないんだよね・・・。ストーカーかな?ねぇ、はる、警察いきなよ」
「そだね・・・」
我ながら弱々しい笑顔をともこに見せて、つけてくるだけで実害はなに一つないから無駄だと思う、と心で言った。
姿を見ていないのに『女』だと確信していることはもっと言えない。
ともこは眉を下げたままじっとわたしを見つめると、おもむろに両腕を掴んできた。
「出かけよう!気晴らし、ね! よし、映画行こっ、今話題のやつ。そうしよう!! ほら、スケジュール出して」
ともこは唖然とするわたしを急かしてスケジュール帳を開かせた。
目を月予定に走らせて、素早く閉じる。
「たまには頭で覚えておくよ」
問われる前に笑って言えば、ともこは乗ってきてくれた。
「えぇ~!?5分でも私を待ちぼうけさせたら、カフェランチ驕りだからね!」
大袈裟に驚いたあと、にこにこしながらともこはランチメニューを挙げている。
わたしの震える体もぎこちない乾いた笑いも、おかしく思われなかったようだ。
良かった。
異常事態が、実はもう一つ起きているのだ。
わたしの、スケジュール帳。
見せてはいけない気がして、反射的に隠してしまったけど。
こなした予定に、いつの間にか付け加えられている一言。
○月×日、8:45、バイト 非効率的
○月△日、2コマ目、グループワーク打ち合わせ 影が薄い
○月⚫日、講義後、カフェ ともこのオマケ?
○月□日、1コマ目、小テスト 評価の価値無し
×月▽日、10:30、□駅 存在の価値無し
×月◇日、18:00、○○店 存在の価値無し
×月△日、・・・・・・
最近はずっと“存在の価値無し”と書かれている。
予定が変わっていたり増えたりしなくなった代わりに書き込まれ始めたそれらは、わたしの字にそっくりだ。
そっくりでいて異質な文字たちは、じわじわとわたしに浸透していく。
違和感なくわたしの目から視神経を伝わり脳に侵入し、身体中に伝えるのだ。
お前は存在する価値が無い、と。
しき君に指摘されてから、なんとなくAM、PMを使わなくなった。
だから正直、それ以来予定が変えられたり追加されたりしていないという保証はない。
だって見分けられないから。
一言増えているのは不思議だけど・・・
それもわたしの字そっくりだ。
誰かが書いているの?
ううん、そんなことを確かめたい気持ちは、わたしにないのかもしれない。
変えられても増えても、見分けなければ同じ。
わからなければわたしの予定同然なんだから。
ほら、わたしの手帳だし?
わたしの字だし?
わたしの予定だし。
わたしの?
なんなのだろう。
自分でもよくわからない。
・・・こんなんだから存在する価値がないんだ。
うん、そうだ。
存在する価値がない。
そうだって、お父さんもお母さんも・・・。
「おいっ!!はるっ!」
ちょっと乱暴に体を揺すられて、重たいまぶたをうっすら開けると、ぼやけた視界が上下するのがわかる。
「はる!大丈夫か?!」
「な・・・に?」
呼び掛けられる声から、わたしを揺さぶるのがしき君だと知れた。
応えたつもりが声はかすれてしまう。
またわたしは思考の世界に行ってしまっていたのか。
もう少しがんばって目を開けたら、疲れと焦りの混じったしき君の顔がはっきり見えた。
あ、泣きそうでもある?
「しっかりしろ!なんて顔してんだよ。ご飯は食べてるのか?水は?ったく、大学に出てこないで、携帯にも出ない。心配どころじゃないって・・・」
え?
今日は何日?
いつからここにいたんだろう?
・・・覚えているのはともこと・・・。
自身を見下ろすと、いつ着たのかもわからない服で、自室のソファーに横になっていた。
「なんだよ、一昨日の夕方から今日の朝まで、寝てたのか」
がっくりと毛足の長いラグに膝をついたしき君は、はぁっと息を付いた。
どうやら考え事からの寝落ちで、音信不通の新記録を出してしまったようだ。
しき君に引っ張られて、体の下敷きになっていた手帳がソファーの下に落ちた。
視界と頭がクワンと回る。
上体を起こすと体が軽く感じた。
お腹が空いているのか腹部がきゅうきゅうしている。
身体中が節張っていて、ぎこちない。
まさに寝すぎた寝起きだ。
「水とお粥にゼリー、買ってきた」
しき君の後ろ斜めにずらされたローテーブルに、コンビニ袋が置かれていた。
「わたしの存在価値がなくて、買ってきて貰ってごめん」
真剣にしき君に懺悔したい。
そんな気分だった。
しき君は目を点にして口が半開きのまま動きが止まった。
そして眉間にしわを寄せる。
「なんて?」
「意味のわからないくらい存在価値がなくてごめん」
「誰かになにか言われたのか?」
ますます怖いくらいの形相で、しき君はわたしを見つめている。
「あの、誰だっけか。仲良いやつ・・・あいつか?」
しき君の言葉で真っ先に浮かんだ友達は、誤解だと伝えたくて慌てて両手を振った。
「ともこじゃないよ!わたしがわたしで思った価値で」
ともこの名前を出したとたん、しき君は方眉を上げて少し引いた。
「あのさ、前から思ってたんだけど、ともこって誰?会ったことないんだけど」
え?
え?
ともこだよ?
ざぁっと床がのびるようにしき君が遠ざかる。
部屋がひろい、ひろい。
部屋の角があんなに斜めに遠い。
はるか遠くにいったローテーブルの前で膝をついたままのしき君が、わたしを見つめている。
わたしの隣に
誰かいる。
あ
ともこ?
“ほら、ともこじゃん。居るよ。”
と声に出したのか出なかったのか。
わからない。
ともこは目を細めてにっこり笑っている。
「違うよ」
笑って、笑って、笑っている。
「私だよ」
わたしだ。
「そうだよ。ずっと私」
私が笑う。
ずっとわたしがいたんだ。
「うん、気付かなかったでしょ」
うん、気づかなかった。
「だってはるは隠れてばっかりだったから。辛い時に嫌な事、みーんな隠れて、見てなかったでしょ?だからだよ」
小さな、六歳頃の私がわたしに微笑む。
長い髪はきちんと編み込まれ、ぱりっとしたシャツにプリーツの利いたスカート、白い靴下。
日に弱いからと周囲に言い、年中長袖と膝の見えないスカート、長い靴下で。
そうやって見えないように、いくつものアザや傷が身体中に隠されていた女の子。
「だからお父さんやお母さんに存在価値がないって言われちゃうんだよ。がんばってたのは私だもん」
嬉しそうに笑う中高生くらいの私が、わたしの胸元に抱きつく。
長い髪は真っ直ぐで、大人に近付いた体は異性の気を引いた。
そんな時もわたしは隠れて、私が代わりに。
底の見えない黒い瞳がわたしを覗きこんでいる。
「何回もチャンスあげたじゃない?出ておいでって」
そう、だから大学は、外に出たんだ。
「なのに全然、見ようとしないじゃん」
大学は楽しいことばかりで。
辛くも、嫌な事もない。
・・・そっか、今もわたしは見てなかった。
わたしと同じ目線に私がいる。
肩を包み込むように私がわたしを抱く。
肩に頭をのせて、優しくささやくのだ。
「もう、それなら、私でいいじゃん。無価値の代わりじゃない私で。大丈夫だよ、私はわたし。私だから」
ね?
わたしの世界が溶けた。
とろりとバターみたいに形を崩し、最後は空気と同じになる。
消えた。
消えたのだ。
残ったのは、私。
目を開けると、目の前にしき君がいた。
「はる?」
「うん、私だよ」
「上手くいった?」
しき君を抱き締めて、私は感謝した。
「手伝ってくれてありがとう、私は私だけになれたよ」
ぽんぽんと彼に背中をあやされ、私は体を離す。
口に弧を描いたしき君が、君の力になれたのなら良かった、と呟いた。
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しきは、目の前にいる女の子から表情が抜け落ちたのを確認し、静かに観察する。
彼の求めるひとは現れるだろうか?
はるは消えたと言った女の子は、眠りに入ったようだ。
はるを消すために労力を使ったのだろう。
ならば、
ならば次に現れるのは─────。
女の子に向き合うしきの顔が徐々にほころぶ。
待ちわびたひとに会えて、哀しいくらい嬉しい、笑顔だった。
「きみがきみになれる日を、待っているよ」
だから、何度でもきみを────。