恋のスタートライン
真由子と雅也との飲み会の数日後に、ゆかりは達也と穂波と食事に行った。午後六時、早めの夕食だった。ゆかりは二人の良いところを延々と話しながら、気分はあまり良くなかった。自分の好きな人を大切な友人に勧めるほど辛いことはないと思った。更にゆかりを苦しめることがあった。達也と穂波に共通の趣味があることがわかった。二人はスポーツ観戦によく行っており、高校野球、サッカーJリーグ、リアルタイムな話題の冬季オリンピックについて盛り上がっていた。スポーツに縁の無いゆかりは、孤独だった。わからない話にただただ頷くばかりであったが、達也は穂波しか見えていないし、穂波もまた、気が合う男として、達也を見ていた。何となく二人は上手くいくのではないか、とゆかりは直感した。
デザートを食べ終え、三人の食事代が九千四百円程とわかるとゆかりは四千円をテーブルに置き、立ち上がった。
「残りは、達也くんが払って。穂波は私たちが誘っちゃったから奢るね」
ゆかりはそう言った。達也はポカンとした表情を向けた。
「じゃあ、ちょっと帰らなきゃいけないから」
一刻も早く帰りたかった。割り勘なんて面倒なことはしたくない。きっと達也は穂波の分しか奢る気は無かっただろう。だから、ゆかりは適当にお金を置いてさっさと店を出た。目から涙が出ていた。達也と穂波が付き合うことになったわけではないのに、ゆかりは失恋した気分になっていた。振り返らず、駅まで歩いて電車に乗ってようやく、落ち着いた。腕時計を見ると時刻は午後九時少し前だった。ゆかりはスマートフォンを見ると通知が入っていた。雅也からだった。
『ゆかりちゃん、何してる?』
何してるんだろう、とゆかりは思った。食事会という名の、好きな人と友達を紹介する地獄のひと時を過ごした後だ。しかし、そんな重いことは言えない。
『電車に乗ってるところ』
正直で無難な答えを送信した。次のメッセージは数分後に来た。
『ちょっと会えないかな』
ゆかりは迷った。自分に好意を持つ者に気安く会っていいのか、わからなかった。それでも、先程のつまらなかった食事会を忘れたかったから承諾してしまった。
『うん、いいよ』
雅也の家の最寄駅でゆかりは下車すると、改札口に立つ雅也を見つけた。
「雅也くん」
ゆかりが声をかけると、雅也の顔がパッと華やいだ。
「急に呼んで、ごめん」
「ううん、飲みたい気分だったから」
「そっか」
雅也は個人経営の小さな居酒屋にゆかりを連れて行った。
「ゆかりちゃん、お酒弱くてビール苦手なんだから一杯目からサワーでもカクテルでもいいよ」
雅也は優しかった。つまみもゆかりの好物を選んでくれた。こんなに優しい男の前で、ゆかりは頭の中で達也と穂波があの後どうなったのか気になっていた。
「ゆかりちゃん、悩んでることあるの?」
雅也の話をうわの空で聞くゆかりに雅也が問いかけた。
「ううん、大丈夫だよ。ごめんね」
ゆかりは首を振った。雅也は怪訝そうな顔をしたがそれ以上は追求しなかった。二人は大学の話や春休みの話をした。盛り上がるわけでもなく、つまらないわけでもない、ゆかりには心地よかった。雅也は少し物足りない気分だったが、悩んでいるのか聞いたあとはゆかりも積極的に話してくれたのでそれでいいと思った。
お会計は払うというゆかりを押し切って雅也が出した。ゆかりは申し訳ない思いがあったが、お言葉に甘えた。店の外に出ると、冷たい風が吹いた。
「寒いね……」
ゆかりが呟くと、雅也は自分のマフラーをゆかりに巻いた。
「あとで返してくれればいいから」
「そんな、悪いよ」
ゆかりは焦った。雅也といることは楽しいけれど、雅也を好きになれないから困るのだ。
「ゆかりちゃんはさ、片思いしてるよね?」
雅也は真っ直ぐな目をゆかりに向けて呟いた。
「え?」
「俺のこと見てないもん」
雅也はゆかりの耳元で囁いた。
「好きにさせてみせるよ」
「雅也くん、酔ってる?」
ゆかりはそう聞いたが、雅也はゆかりの手を握り、駅まで送ってくれた。
「気をつけて。おやすみ」
雅也が強い眼差しを向けてそう言うので、ゆかりは「おやすみ」と言って改札を通った。振り向くと雅也は手を振っていたので、ゆかりも軽く手を振り歩き出した。
全員が片思い。恋のスタートラインを出発した。