一話 入学式~防災部消滅(済)~
入学式の朝は、どろんどろんの曇り模様だった。なんて縁起が悪い、と思いつつ自宅を後にする。見送りの母は仕事で入学式には来られないが、夕飯には好物を用意してくれるらしい。天気はすこぶる悪いが、少しだけ足どりが軽くなる。
からあげと、備蓄の富士の水で炊いたご飯に合わせた何かだろう。
(リゾットかな、カレーかな……お茶漬け? いや、嫌いじゃないけど祝いの席はないか)
土晴は毎朝早い時間に起き、ゆっくり歩いて学校へ行く。毎日あらゆる通学路を試し、周辺の様子の変化を確認しては写真やメモを取っておくのが、小学校から中学、そして今日に至る日課だ。今日は記念すべき登校初日だが、先守高校も家から近いので地元の範囲内である。迷うこともない。
――ここ半年は受験勉強に気を取られ、歩きながら英単語帳を捲る日々だったので、ゆっくりと観察するのは久しぶりのように感じた。
歩きスマホならぬ歩き英単語帳という危険と隣り合わせの日々だったが、合格できたのでその甲斐はあった。ああ、何度電柱にぶつかったことか。
(あそこのでかい空き地はようやく工事に入ったか……基礎部分が広かったから、アパートかと思ったけど、もしかして一軒家かな? 豪邸?)
工事現場を通り過ぎ、坂を降り、築地の猫と戯れながら更に歩く。
さらに角を曲がったところで見覚えのある背中を見かけたので、声をかけて駆け寄った。
「潮!」
2メートルを越す猫背の巨漢がビクリと肩を震わせ振り向き、こちらの顔を確認してほっと息をつく。名前は『伊勢 潮』。身丈に反してかなりの小心者なのだが、気の良い土晴の幼馴染である。
「はるくん」
「潮も早いな! やっぱり入学式楽しみだったのか?」
気軽に訪ねたら、潮の表情がズドンと抜け落ちた。
「ううん……昨日の夜は色々考えすぎて眠れなくて、今朝起きたら胃が痛くて……横になっても良くならないし。あ、いや、全然、そんな大したことじゃないんだけど……」
「う、うん……結構深刻な事態だけど、本当に大丈夫か?」
小心者の上にかなりのネガティブで、何事も悪く捉えがちな性格が早くも高校生活に影を落としている。
「それで、入学初日から休むわけにもいかないし……とにかく家を出て、学校で態勢を立て直せればいいと思って……」
(立て直……せるのかなぁ? それ)
かなりの疑問と心配が襲ってくる。潮が一人でプラス思考になれるとは到底思えないが、なんとなく口に出すことは憚られたので、少しだけ目を逸らす。小学生どころか幼稚園の頃からこの性格である。
「まぁ……式で倒れるほうが大事だから、本当に具合が良くならなかったら保健室にいけよ?」
土晴の遥か頭上の頭がこっくりと揺れた。うーん怪しい、倒れるまで我慢しそうだ。
「でも何をそんなに悩んでたんだ? 潮なら勉強は余裕でついていけるだろ」
この半年、志望校が一緒ということで、学校では勉強を見てもらっていたくらいである。潮は元々頭がよく、中学での成績は上から数えて片手にランクインほどの秀才である。
むしろ心配なのは土晴の方だ。入った途端に落第ドロップアウトなスリリングな日々が待っていそうで、実は内心戦々恐々している。
潮はこの世の終わりかと思うくらい絶望的な表情で、ポツリと呟いた。
「……運動部に勧誘されないか、心配で」
「あー……それは多分、避けようもないな」
潮はその体格の良さから、中学では頻繁に運動部に誘われていた。多数の運動部から学年の上下問わず、それはもう熱烈な勧誘であったことを記憶している。アレがトラウマになっているに違いない。中学では運動音痴っぷりを見てもらって諦めてもらい、最終的には手芸部に三年間所属していた。
「まぁ、その時は俺と一緒に防災部入ろうぜ! で、備蓄品の食べ比べとかしよう」
冗談めかして言ってみると、潮は真剣な表情で立ち止まった。土晴も少し進んだところで振り返り、首を傾げた。
「……はるくん」
「なんだ?」
「……ぼく、手芸部入りたい」
「うん、だよなー」
潮は意外と頑固で、そして可愛い物好きな乙男なのである。
クラス分けの紙を見て、見事に潮とはクラスが別れてしまったのは仕方がない。
一学年5クラスでA~E組と分かれているが、A組だけは成績上位者を集めており、あとのクラスは均等に分けられている。そして潮はA組で、土晴はE組だった。
(本当に……成績順じゃないよな? ごくり。)
潮はがっくり肩を落としていたが、土晴は予想通りだったのでさして驚かない。潮とは保健室の場所を確認させてから別れた。
クラスに行く前に防災部のことを確認しておこうと思い、職員室へ向かう。
職員室の扉をノックしようとしたタイミングで扉が開かれ、中から真新しい制服に身を包んだ女子生徒が出てきた。日本人形のように整った顔に一瞬目を奪われるが、すぐに一歩身を引き扉の前を開ける。
少女はこちらに軽く会釈をしてきたので、土晴も会釈を返す。その時僅かに下げた目線の先にあるものに少し驚き、思わず目で彼女を追った。
カツン、という硬い音と共に歩き出した彼女の右足は、中世ヨーロッパの甲冑のような義足だった。女性らしい装飾が施されていたのも見逃せない。
スポーツ義足を除けば、身近で見るものは人間の足に近づけたデザインで、肌色のカバーに覆われたものばかりだったので驚いた。金属であることを活かしたデザインの義足は、生では初めて見た。
(あれが、噂に聞くオシャレ義足! くっ……ちょっとよく見せてくださいとか言ったら、絶対引かれる……! というか嫌がらせとか痴漢だと思われたら高校生活終わる!)
ぐっといろいろなものを堪え、職員室に入ることにする。同じ新入生なら、そのうち話すこともあるかもしれない。
誰が担任かわからなかったので、とりあえず手近な教員に話しかけてみると、あっさりと衝撃の事実が発覚した。
「防災部なら、廃部になってるよ」
気怠げな教員の言葉が信じられず、思わず「は?」と裏返った声が出る。
今なんつったの、この人。
「いつ……ですか? 今年から?」
「確か最後までいた部員が去年の春卒業して、昨年度は完全に廃部状態だったはず」
その話が本当なら。
去年の夏、兄が聞いたのは廃部の危機ではなく、防災部の廃部そのものだったのではないか?
と、なると――まさか、
――あの兄、俺を騙したのでは……?
ロクでもない真実が見え隠れしていたが、兄が怖いので考えることを止めた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
その晩、わざわざ祝いに来たという兄と母と共に食卓を囲んだ。
からあげと茶漬けおいしい。組み合わせは正直どうかと思うが、味さえ良ければ全て良し。
よく考えてみれば、防災部が廃部になっていたということは、何の部活に所属しても良いということではないだろうか。どうしよう、運動系も良いがアニメ研究会も若干気になる。普段オタクは隠しているが、メガネというだけでオタクっぽいと言われる立場である。見た目は真面目そうな文系タイプと言われるが、実のところ体育の成績以外は壊滅している。……この半年で多少底上げはされたが、受験が終わった途端剥がれ落ちているのを肌で感じる。
(気を取り直して! ……うーん高校ではどういう路線で行こうかな?)
ウキウキと高校デビュー計画を立てながら、からあげを黙々と口に運んでいると、唐突に兄が本題へと切り込んできた。
「おい、土晴。防災部は?」
「えっえーと……廃部になってた」
思わず手が止まり、顔も強張る。
兄は当然とばかりに頷いた。
「知ってる」
やっぱり知ってるんかい! 思わずからあげ落としたわ!
まさかとは思ったが……やはり、騙してたな――っ!? お の れ。
「……なんで教えてくれなかったのさ」
「知ってたら必死に受験勉強しなかったろ」
それは正論ですが、この流れも想定内だろう事態に恐怖を感じています。
「あらまぁ、廃部になってたの」
あ、母さんは知らなかったのね。そこはなんだか安心した。
だが次の瞬間、土晴は凍りつく。
「じゃあ、再結成するのね? 大変ねぇ、土晴」
実の母親から完全に他人事な無茶振りが振られた。大いなる母なる大地が、前震無しで殴りかかってきたとも言える。
え、何それ。
「えっ」
思わず声を上げたところ、兄が頭に手を置いてきた。
――え、慰めてくれるの? 当然、そんなわけがない。
慰めるわけもなく、普通にアイアンクローであった。頭がすごい強さで締め付けられる。
「いだっ! いだだだだだ!?」
「――もちろん、やるんだよな?」
「無理! 無理だって!? 入学したての小僧には無理な要求だよ!?」
ここは断らせて下さい兄上! いや、お兄様!
「でも土晴、小さい頃はあんなに『高校生になったら入りたい!』って言ってたじゃない?」
兄も兄なら母も母だよ! 子供の頃の自分は大変能天気で世間知らずでスレてない無垢な子供の夢だったんですお願いだから忘れて下さい。
それに昔と今では、決定的に状況が違う。
「通常なら入部届出すだけのイージー作業が、まさかの部員集めからのハードモードだよ!? 俺イキナリ部長でオンリーワンってか!? いくら何でも限度があるよ! 俺は楽したい!」
兄は手にさらなる力を加えてきた。うおお、負けない、負けないぞおお!
「……そこまで言うなら仕方ない」
「仕方ないって握力じゃないし! はーなーしーてえぇ!」
「――お前が『うん』と言うまで、俺はここから大学に通う」
ピタッと電源を落とされた機械のように、体が停止する。
ナンダッテ。兄が、帰省したままだと? 鬼畜兄といつも一緒?
母はこちらと兄を見比べ困惑した表情を浮かべていたが、名案が浮かんだとばかりにポンと手を打った。ヤメテ、このタイミングの母さんのヒラメキは、いつも追い打ちからのトドメ、死体蹴りと決まっている。
「じゃ、じゃぁ母さんは毎日、土晴の嫌いなもの作るわ! 朝食、お弁当、夕飯、全部ね! やるって言うまでやるわ!」
ぎゃああピーマン地獄来た――! これが前門の虎、後門の鬼か!
本当に母さんの決意はロクでもない。顔輝かせて言わないでお願いだから。
「うん、はい! やる、やります! 防災部復活すれば良いんだろコンチクショ――!」
土晴の涙ながらの叫びに、兄と母はハイタッチで応じた。……もう好きにしろ。
その後、普通に高校入学を祝って貰ったが、しょっぱい気持ちは眠りにつくまで続いたとさ。めでたしめでた……くねぇよ!
暗雲と悲鳴から始まる高校生活。