序章 高校受験~強制イベント発生~
福井土晴、中学三年の夏。八月も後半に差し掛かった頃、大学生の兄が帰省してきた。大学生の夏は八月初めから九月半ばごろと聞いていたので、もう少し早く帰ってくるのか、まだ先なのかと悶々としていた。
今か今かと待ち構えていたのは事実だが、別に帰ってきて欲しかったわけでは、決してない。
特段仲が悪いわけではないが、男兄弟における兄というのは多くの場合、恐怖の対象である。優しい兄など幻想であり、ただの創作物である。喧嘩では口より早く拳が飛んでくるし、口喧嘩発生の場合は一方的に言い負かされ、泣き寝入りするのが弟の役目である。
ただし仲が悪くはない、という部分も嘘ではない。普通に会話はするし、誕生日であればプレゼントくらい用意する。今までの積み重ねから、なんとなく苦手なのである。
――優しい兄など、知らぬ。隣の芝生は青くなんかない。青かったら除草剤で枯れてしまえばーかばーか。なんて思う。
ともあれその兄が帰ってきて、居間で寛いでいる。部屋から降りてきた土晴は、一緒の空間にいるのも気まずいので、飲み物を取ったら退散しようと決意する。
そろそろと台所に向かうと、「おい」と向こうから声が掛かってきた。一瞬何かやってしまったかと身構えたが、兄の視線が冷蔵庫に向かっていたので、『俺も欲しい』ということなのだろう。即座に「わかった」とだけ返し、二つコップを出して兄の方にだけ氷を入れ麦茶をなみなみ注ぐ。
兄に麦茶を差し出すと、何も言わずに半分飲み干してから「ん、ご苦労」とだけ返してきた。なんとなく麦茶を注ぎ足しておくと、今度は少しずつ飲み始めた。今日は涼しい方だが、外は連日の猛暑である。麦茶のボトルは既に三分の一まで減っているので、部屋に戻る前にお湯を沸かして足しておいた方が良いのかもしれない。麦茶を飲みながら台所へ戻り、やかんに水を注いでいたところで、再び兄から声が掛かった。
「おい土晴、お前志望校どうすんだ?」
中学三年の夏という時期からすれば、当然と言えば当然の質問かもしれない。
珍しく気に掛けてくれてるんだなと感心しつつ、「玄歳高校だよ」とだけ返す。兄もそれ以上聞いてくるつもりもないだろうと判断したからだ。やかんに水と麦茶のパックを投入し、火に掛けていく。
「なるほどわかった、お前先守高校に入れ」
兄の一言に、思わずお茶を噴出した。ごっほごふ、えほげほっと割と強めに咳きこんだ。先守高校は両親と兄の母校だが、出来の悪い身分からは悪夢のような提案だった。
「ど、どこらへんに「なるほどわかった」要素が含まれてんだ、偏差値二十くらい上なんですけど!?」
「防災部が廃部の危機のようだからな、お前が入ってどうにかしろ」
防災部、という単語に一瞬心が揺れ動くが、兄と自分の頭の出来には天と地との差がある。
ここは容易に「いくいくー」と返答できない場面である。兄は事も無げに言っているが、県内有数の進学校である。何かのまぐれで受かったとしても、勉強についていける気がしない。
兄は幼いころからなんでも出来た。一方土晴は些細なことでも失敗し、何事にも不器用で小さなことすら上手くこなせない。両親は何も言わず、何も比べずにいてくれたが、友人知人親戚からは言うに及ばす、だ。
「何を騒いでいるの?」
「あっ母さん! 母さんからも何か言ってよ!」
よしこれだ。親の口から「無理」と言ってもらえれば、さしもの兄も下がらざるを得ないだろう。少し……いやかなり切ないが、ここはビシッと言ってもらおう。
かくかくしかじか母に流れを説明する。
「……土晴が先守高校を受験?」
事情を呑み込んだ母は難しい顔で俯いた。
そう、それ! 正しい反応はこっちのはず!
なんか圧倒的な切なさが襲うけど、母さん間違ってない!
「今から? 去年の夏ならまだしも半年前よ、今」
「どうにかなるだろ」どうにもならないよ!という心の叫びを全力でお届けしたいがぐっと堪える。
「死ぬんじゃないかしら」死ぬの!? それ比喩だよね!?
「まぁ最悪入学さえできればそれもやむ無しだな」
「やむなく無いよ!? 死んじゃったら入学できないんだよ! もっと俺を労ってくれてもいいと思う!」
とうとう耐えきれなくなった時にツッコんだが、その時には既に何もかもが手遅れだった。
「でも先守のほうが学費はちょびっと安いのよねぇ」
「単願だな。よし、上からテスト全部と教科書全部取ってこい。始めるぞ」
「あのっ無理! 絶対無理だから! 死んじゃうからっ死にたくないからまだ!」
涙目で抗議の声を上げたところで二人は何も聞いていなかった。むしろ清流のように右から左へ聞き流された。俺の意見どんぶらこ!
「さて、試験まで半年弱か。睡眠時間の部分は効率落ちるから減らせないとして、他をどう削るかだな」
「ご飯とお風呂は一日一時間あれば足りるわよね。学校終わってから、最低五時間叩き込めばどうにかなるんじゃないかしら……時間割作りましょう。……塾は無駄なので止めときましょ。お金掛かるし往復の時間を家での勉強に当てたほうが良いわ。駅まで遠いしね」
学校が終わって夏休み突入――のはずが、新たな学校が始まる展開に、底知れない恐怖を感じる。
今から始まる半年間の地獄の予感に、嫌な汗が止まらない。
その嫌な予感が膨れ上がって爆発するように、ヤカンが沸騰を始めた。
それを、諦めにも似た感情で火を止める。
約半年後、真っ白な灰となった土晴の手には、先守学園高等部の合格通知が握られていた。
すみません、人がある程度揃うまであまり防災の話しないかもしれません。