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5 五年目、門倉優里愛 三角まで

 東京優駿を勝った後、アーリントンミリオン(米国アーリントン競馬場芝二千メートル、ジーワン)九着、オールカマー(中山競馬場芝二千二百メートル、ジーツー)十三着でテヅカアクエリアスは天皇賞に臨んでいる。

 二つのレースをわざと着外負けすることによって、一番人気を避ける手段を採ったのだが、どうやら傍目に見てもわざとであることが見え見えであったらしく、開催当日、単勝一倍の一番人気となってしまっていた。

 テヅカアクエリアス。それは、焦げ茶色の黒鹿毛馬、真っ黒な青毛馬という両親から生まれてきた白い馬。ごく稀に真っ白く生まれてくる葦毛馬がいるが、葦毛は片親が葦毛馬でないと絶対に生まれてこない最劣性遺伝子であるため、この馬は正真正銘の突然変異体である【白毛馬】ということになる。

 五十年ぐらいに一度出るか出ないかという希少種白毛。そんな馬が無敗で東京競馬場二冠を達成してしまったのだから、否が応にも競馬サークルは盛り上がってしまったのだ。

 もし、東京優駿に負けていたならば今日の一番人気は無かっただろう。なまじこの二千四百メートルを制覇してダービー馬になってしまったからこそ、【二千メートルが限界だとみせかける】という目眩ましが通じなかったのである。

 この馬の主戦騎手である門倉優里愛は、ここに来るまでにあらゆる防御策を打っている。兄である慶輔からお札を作ってもらったり、義姉である霊能者に東京競馬場をお祓いしてもらったり、その義姉と二人で霊能番組に出ている妹からお守りを作ってもらったり、その中に好弘の遺骨を入れてみたり。

 レース前、テヅカアクエリアスを連れ立って、初めてではない東京競馬場で異例のスクーリング(基本的には、初出走となる競馬場の勝手を馬に覚えてもらうための場内引き回し)も行っている。もちろん今回は、二回疾ってどちらも勝っているテヅカアクエリアスのためではなく、騎手である優里愛が生き延びるためのものだった。

 レギオンに対する出走前のご挨拶。そして、事故後に遺品として遺族から手渡された婚約指輪のお供え。これは、好弘の分とセットで四角の脇に置いてある。もちろん生きて帰ることが出来れば、回収してそのまま指に嵌めるつもりだ。優里愛の好弘に対する想いは、決してその場凌ぎの見せ掛けではないのだ。

 防御は完璧だ。あとは、レギオンの攻撃力がそれを上回らないことを祈るのみである。









 十月最終週、日曜日。この日は秋雨前線の消滅前の最後の抵抗なのか、霧のように煙るしとしとした雨がサラサラと降っていた。一昨年、一昨昨年の、悲劇を見越して天空で神が泣いているかの如き大粒の雨ではなかったが、それでも馬にとっては足を滑らせやすいコンディションであることに変わりはない。

《晴れてほしかったなぁ。不安要素は一つでも減ってほしいのに》

 パドックをテヅカアクエリアスと共に引き回されながら、優里愛は心中頭を抱えた。運命の発走まであと少し。今、優里愛が震えたのは、決して秋から冬に季節が移ろう時期特有の肌寒さだけが原因ではない。

 







 いよいよ本場場入場。返し馬を終え、ゲート前に待機する。何やらただならぬ気配。ゲートの向こうに見える小カーブから漂う気配。どうやら、あのコーナーに何かが居ることは、ほぼ間違いなさそうだ。


 全馬ゲート前に出揃い、間もなくゲートインである。ゲートが開いて、続々と各馬がゲートに収まっていく。

 ここで場内にざわめき。一番人気テヅカアクエリアスがバタバタと激しく暴れてゲートインを嫌がっているのだ。キャリア九レース、今の今までこんなことは一度も無い。

 必死に手綱を引いて、ようやっとのことで相棒を落ち着かせた優里愛は、すぐ正面にどんよりと漂うドス黒い雰囲気に震えながら、テヅカアクエリアスと共にゲートへと収まっていった。


 いよいよファンファーレだ。いつ聞いても場違いな程盛大で、しかも時折音程がズレる。いつもと変わらない天皇賞。一昨年、事故を起こしたジェットストリームの脇を素通りして、一着でゴールした天皇賞。あの時は全く感じなかった何かを、今はしっかりと感じ取ってしまっている。あの時好弘を黄泉へと送った死神の気配を、今年は優里愛がひしひしと感じ取っているのだ。

 ファンファーレが終了し、スタート前の一瞬、場内がまるで異次元空間であるかのように静まり返る。数あるジーワンレースの中でも特に格式の高いジャパンカップ、東京優駿、そしてこの天皇賞にしか見られない、そこに存在する全てのものが満場一致で息を呑む瞬間である。

 いつもの彼女なら、ほぼ間違いなくこの時点で手綱をしごいていることだろう。テヅカアクエリアスは先行馬。先行馬のスタートは、遅らせてから加速して先団に取り付くよりも、飛び出してから減速する方が馬に対する負担を抑えることが出来るのだ。

 だが、今日は。東京競馬場三冠の最終レース、この天皇賞(秋)だけは、このタイミングで手綱をしごくわけにはいかなかった。



【後ろから行けばいい】



 昨年のレースで、親友月島幸子が身を呈して示してくれた、呪い対策の一つである。意識意識不明の重態に陥ってまで示してくれた助かる騎乗の見本だ。活用しない手はない。



  【追い込む】



 レース前から優里愛は決めていた。したがって、今回は意識的にスタートを遅らせる腹積もりなのである。


 沈黙の瞬間から狂喜の瞬間へ。ゲートが開き、各馬がスタートする。その瞬間に騰がる歓声がまた、万馬券でも出たかのような狂おしい騒ぎ様なのである。疾る度に優里愛は思う。

「何がそんなに嬉しいんだろ?」

 こんなことを言っているぐらいなのだから、彼女にもまだまだ余裕があるのかもしれない。


 スタート直後のイカレ気味な歓声のあとに続いた声は、どよめきだった。テヅカアクエリアス、出遅れ。もちろんこれは、跨がっている優里愛が意識的にスタートを遅らせた故だが、今回はこれに、他馬が軒並み好スタートを切っていたという偶然が重なり、ぱっと見た印象ではテヅカアクエリアスが大幅に出遅れたのと同じような状況が出来上がってしまったのである。

 ロケットスタートの申し子、超光速の逃亡者と呼ばれて久しいライトニングボルトが、馬群の中で必死に出ムチを入れて抜け出しを図っているという状況が、テヅカアクエリアス以外の全ての馬が申し子レベルのロケットスタートを切ったのだという何よりの証拠となるだろう。少なくとも優里愛は、スタート直後にライトニングボルトが馬群の中に居るのを初めて見る。

 この状況はさすがに誤算であったが、優里愛は敢えて、加速せずにそのまま馬なりで追走することに決めた。テヅカアクエリアス以外が軒並みロケットスタート。しかも、一番人気はくたばると踏んだのか、テヅカアクエリアスは全くのノーマークで、二番人気のライトニングボルトを単騎で逃がすまいと必死になって競りかけている。そして、ライトニングボルトが単騎で逃げようと更に加速する。

 典型的な【超ハイペース】の展開だ。後方に陣取る者など、テヅカアクエリアスしかいない。それほど近年の競馬において、このレースの一番人気は勝てないし、超光速の逃亡者を単騎で逃がすこともまた、それ以外の馬にとっては絶望的な展開なのである。


 目まぐるしくハナを切る馬が入れ代わるという激しい先頭争いを茅の外から見る形で、優里愛は魔のカーブへと差し掛かる。

「うっ!?」

 思わず呻き声が出てしまった。時は十月末。確かに【うすら寒い】という表現がしっくり来る季節ではある。そういう季節ではあるのだが、日常的な季節の変化によるそれとは別な、表皮ではなく、臓腑の感覚神経が感じ取っているような病的な寒気がコーナー通過の瞬間に襲い掛かってきたのである。

 まず腕が震え始めた。それを皮切りに、震えはまるで何かの病気であるかのように、全身に広がっていく。己自身の危機察知能力が必死に告げている。【降りろ、もう降りろ】と。


 いつぞや慶輔が言っていたレギオンとやらは、結局視認出来なかった。気配はしっかりと感じ取っているだけに余計に恐ろしく感じてしまう。おそらく、その姿が見えた時こそが死ぬ時なのだろう。

 テヅカアクエリアスは、現在最初の小カーブを通過してスタンド前のストレートの中腹に差し掛かっていた。先程まで激しい先頭争いを繰り広げていた他馬達は【とにかくライトニングボルトの抜け出しを許すな】というのが満場一致の戦略らしく、徹底マークというより、むしろ、進路妨害紛いの包囲網を展開している。彼らは既に一角を通過して、二角の入口、つまり、カーブの真ん中に差し掛かっている。

 どうやら、テヅカアクエリアス以外の馬がゴテゴテに密集した超ハイペースという方向に、レースのベクトルは固まったようだ。


 とにかく流れが早い。千メートル通過タイムが三九秒。正しく前代未聞の珍事である。こんなスピードをゴールまで持続できる馬がいたとしたら、それはもうサラブレッドではないか、或は何かによって増強されているか、とにかくドーピングで引っ掛かることはほぼ確定的である。

 この展開で、ミドルペースないしちょっと速いぐらいのペースであればテヅカアクエリアスの負けは決定的なのだが、それが超ハイペースとなると話は逆になる。他馬がゴール前でバテることは目に見えており、今の段階で、テヅカアクエリアスの勝ちは確定していた。



 勿論、無事走り抜ければの話なのだが。




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