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4 四年目、月島幸子 四角

 一番人気の呪いを受けているだろうシルフィードウインドと、それに跨がる月島幸子は、何を血迷ったのか四角に入る時点でまくり戦術によって三番手につけてしまっていた。

 前に居れば居るほど後ろを気にしなければならないのだということは言うまでもない。必然的にそれだけ振り返る可能性も高まってくるのだ。

「府中でまくっても意味無いってこと判らんわけでもないだろうに……、何だってあんなこと」

 東京競馬場は一風変わった競馬場で、ホームストレートが五百二十メートルもある。競走馬がレースでスパートをかけ始める平均距離が三百メートル前後であることを踏まえると、最後方にポツンと取り残されでもしない限り、三角からまくる必然性など皆無なのである。

 なのにそれを、命が関わるレースであるということを解っている筈の、幸子がやってしまったのだ。

「おまえのダチ、わざと負ける気でいるのか……?」

 慶輔が妙に説得力のある見解を示してきた。確かに、距離がギリギリの馬で東京競馬場の三角からまくったりしては、ゴール前でバテるのも当然である。もし幸子が【勝つことも許されない】と踏んでいるならば、この騎乗も頷ける。

 一昨日『参考になる騎乗をして見せる』と言っていた幸子だ。あらゆる可能性を網羅するつもりなのかもしれない。

 だが、この【わざと負ける】という騎乗を、優里愛は参考にすることは出来ないのだ。

 なぜなら、現在二歳最強であるとされているテヅカアクエリアスが、かつてキングカメハメハが目指したNHKマイルカップ、東京優駿(日本ダービー)、天皇賞(秋)の変則三冠【東京競馬場三冠】を、優里愛を主戦騎手として取りに行く方針を陣営が固めてしまっているからなのである。

 勿論断れば済む話なのだが、いつぞや幸子が語っていた通りの【自分が助かるために、人を犠牲にするなんて嫌】という倫理感、【ガメ(テヅカアクエリアス)と死ねるなら本望】という連帯感が、その一番有効な対策に待ったをかけてしまう。

 先頭集団が四角を抜けてきた。シルフィードウインドは、まくりの勢いをかって先頭に踊り出ている。いわゆる【四角先頭】という、先行馬の必勝パターンだ。

 これがスプリント戦やマイル戦だったなら、そして、東京競馬場や新潟競馬場外回り以外のコースであったなら、この時点でシルフィードウインドの勝ちはほぼ確定したようなものなのだが、残念ながらこのレースは東京競馬場芝二千メートルなのである。慶輔の指摘通り、負ける可能性のほうが遥かに高い。

 最後の、ホームストレート五百二十メートル。まるで何かから逃れようとしているかのように、幸子が必死に手綱をしごいている。

「うわ、ひっでえな。レギオンが分裂して寄ってたかってジョッキーに張り付いてるぞ」

 どうやら幸子は早くそれから解き放たれようとしているらしい。頭部から透明な液体を宙に舞わせながら、ブルブルと震え始めてしまった。

「うわっ、ユッキ泣いちゃった……」

「この状況で泣くだけで済むなんて、たいした根性だよ」

 幸子の体の震えは、痙攣しているかのように激しくなってくる。

「そろそろやっちまうか……」

「何を?」

「……失禁……」

 決して有り得ない状況ではない。それでも、残り三百メートル地点に到達するまで、その惨状を持ち堪えている。

「マジ凄えよ、お前のダチ。お前なんかたぶん、4って標識の辺りで垂れちまってんじゃねえのか?」

 幸子がどれほど恐ろしい目に遭っているのかは、彼女の様子を見れば一目瞭然だ。確かに並の人間であれば、とっくに振り向いているだろう。少なくとも、失禁ぐらいはしている筈だ。優里愛はそれを、心から認めた。


「おい、ユキコちゃんどっかおかしくなったんじゃねえのか!?」

 観客のこの叫びを皮切りに、スタンドが一斉に幸子の体調を心配しはじめる。明らかに普通ではないのだ。この反応も、少し遅すぎるぐらいだろう。震えがやたらと大きくなり、もう、痙攣しているようにしか思えなくなってきた。突然発病した食中毒か何か、おそらく観衆の認識はそんなところだろう。

 そんな幸子に背を預けたシルフィードウインドは、相変わらず先頭をキープしたまま、二百メートルの標識を通過した。千二百メートルや千六百メートルといった短距離ジーワンレースを十勝している実力馬の、東京競馬場三角からの大まくりである。この段階でシルフィードウインドは、二番手の馬に十馬身差、いわゆる、大差を付けていた。

 このタイミングで幸子から、何かからせき立てられたように、否、狂ったように、鞭が連打で入れられる。シルフィードウインドはその激に応えるように……、減速した。そう、既にバテバテだったのである。いくら距離にして二百メートル近い差をつけているとはいえ、ギャロップしている馬の移動速度を踏まえると、とてもセーフティーとは言えない。

 今、漸く馬群がスタンド左端に陣取る門倉兄妹の前を通過していった。案の定、シルフィードウインドとの差を見る見る詰めてしまっている。だが、そんなことはどうだっていい。問題は、勝ち負けよりも安否なのである。

 乗っている人のほうがかなり酷い目に遭っているようだが、取り敢えずは人馬共に健康だ。あと百五十メートル。いくら速歩ぐらいの速度まで落ちているといっても走っているサラブレッドであれば、ものの一秒程度で走破できる距離であろう。【あと一秒】この一秒を乗り越えることが出来れば、おそらく幸子は救われるのである。

 残り百メートル。後続の馬群が三馬身差程度まで追い上げて来ている。もはやシルフィードウインドが差し切られてしまうだろうことは、その場に居る誰の目にも明らかだった。だが、それでよいのかもしれない。一番人気が負ける。それによって、呪いの連鎖が一時的にではあるが断ち切られる事になるのだから。

 ここ最近の一番人気は、結果を出せないどころの話ではなく、完走すらできていない。これは偏に呪いを受けてしまったが故の悲劇であるのだが、負けてゴール板を駆け抜けることによって、連鎖を断ち切り、そして、単勝オッズ零・一倍の馬で負けるという生き恥を晒すことによって、死ぬという効果の無効化或は相殺が望めるかもしれないのだ。

「優里愛ちゃんのダチ、意外とビンゴかもしれんぞ」

 先頭を疾る鹿毛馬を食い入るように見詰めながら、慶輔が呟いた。

「少なくとも、【振り向かなきゃ死なん】っていう彼女の読みは正解じゃねえかな。じゃなきゃ、分裂までして張り付く必要ねえし」

《確かにそうかもしれない》

 優里愛は思う。集合霊が単体に分裂して一斉に取り憑く、その動機は仲間に引き込むこと以外に無いだろう。その状況でまだ幸子は生きている。それは、幸子を仲間に引き込むための条件が未だ満たされていないということなのである。

 今まで幸子が見せてくれた騎乗は全て死ぬ条件に当て嵌まらない。後ろから行く、三角からまくる、四角を抜けたとき、先頭に立っている。少なくとも、この三つの条件ならば死なずに済むことが判明したのである。これは大きな収穫と言えよう。来年の十月には優里愛がこの呪いを受けてこのレースを疾っているのだから。

 残り五十メートル。二番手の馬とシルフィードウインドの尻が重なった。もう、シルフィードウインドの勝ちは完璧に無い。東京競馬場のゴール板は、門倉兄妹からの距離が遠いため、二人は双眼鏡をバッグから取り出した。そして、それを覗き込んだ時、二人は見てしまったのである。


 一番見たくなかったもの。


 一番見てはならないもの。



 顔に空いている全ての穴から様々な体液を垂れ流しながら、引き攣り切った笑顔を浮かべている【月島幸子の顔】。



 そう、幸子は、ゴールまで後数メートルというところまで来て【振り向いてしまったのだ】。

「ちっ!」

「嫌あぁぁあ!」

 慶輔が舌を打ち、優里愛が泣き叫ぶ。


 ゴール直前、シルフィードウインドが前のめりに浮き上がる。前脚は地面に噛み付いたまま。間違い無くへし折れるだろう。或はもう、折れているのかもしれない。

 幸子は、まだ馬上で持ち堪えている。普通なら、とっくに吹っ飛んで行ってしまうだろう状態であるにも拘わらず、鐙に足を掛け、手綱を握っている。まだ【騎乗している】と見なされる状態を馬体が垂直に立ち上がった今もしっかりとキープしていた。


 その両脇を馬群が遠巻きに通過して行く。馬の川が逆立ちしているシルフィードウインドを中心に真っ二つに分かれ、さながら『十戒』のワンシーンのようだ。

 殿馬(ビリケツの馬)が脇を通過すると同時に、逆立ちしていたシルフィードウインドが、背中から倒れた。その背に跨がっていた幸子は当然下敷きとなる。馬の大津波が去った後には、月島幸子を源流とする、赤い河が残ってしまった。


 事故を起こした人馬を係員が慌ただしく収容していく。掲示板には、審議中を意味する【審】と、写真判定中を意味する【写】が代わる代わる点滅していた。おそらくはシルフィードウインドがゴールしているのか否か、していたとして、それを認めるのか否かが議題であろう。

 傍目で見る限り、鼻先は通過していたのだ。だが、鼻先が掠め通っただけで、全身は通過していなかったのである。


 掲示板に、直ぐさま確定を意味する【確】が現れた。三番目の枠に【11】。それは、シルフィードウインドの三着入着が正式に認められたことを意味している。









   天皇賞(秋)

一着 三番テヅカソレイユ

二着 一番マキノクレイモア

三着 十一番シルフィードウインド


 なお、シルフィードウインド、骨折予後不良。騎乗騎手月島幸子、下腹部破裂の重態。




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