1 二年目、都築好弘
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ではでは皆様、涼しい夏を……m(_ _)m
都築好弘は相棒ジェットストリームに跨がり、若干憂鬱な気持ちになっていた。天候は雷雨。相棒にとって何よりも厳しいコンディションだった。
「まあいい。例え雨が降ろうが、不良だろうが、俺らが組めば間違いなく最強だ」
好弘は自分に言い聞かせるかのように、相棒に軽く撫でながら語りかける。
もうすぐ、入場だ。
遥か前方から、この雷雨の轟音にも負けないほどの、大歓声が巻き起こった。このレースの二番人気、一枠一番ロンバルディアの本馬場入場だ。好弘の足が、否、それを乗せている本年度の牡馬クラシック三冠馬、ジェットストリームの脚が、この大歓声にゆったりと、かつ、確実に近付いていき、やがて、吸い込まれていった。
九枠十七番サツキドロップスが、芝が雨露の重みにへたっている本馬場へと駆け出し、ジェットストリームがそれに続いた刹那、轟音がターフを揺るがした。
「ジェット、大地を揺るがす大声援ってのが……、ほんとに在るんだな」
苦笑いを浮かべながら好弘はジェットストリームの返し馬を行った。
ジェットストリーム。先週の菊花賞で牡馬クラシック三冠を制覇した、漆黒の馬体に鼻先まで突き抜けるド派手な流星の青毛牡馬。
三十年間破られることのなかった芝二千四百メートルの日本レコードを一秒半も縮めたその逃げ足は、ロンバルディアが一着でゴールしても単勝が万馬券になるほど、壮絶な人気を集めていた。そんな馬の本馬場入場である。声援によって地震が起こるのも、ジェットストリームがそれに驚いて暴れ出してしまうのも、もはや必然的な流れと言えるだろう。
「あと三戦だ」
いつものように暴れ始めた相棒を、いつものように宥めながら好弘は、想い人の笑顔を思い浮かべていた。門倉優里愛、このレースでロンバルディアに騎乗する、一歳年上の先輩ジョッキーである。
《あと三戦……、この天皇賞、次のジャパンカップ、締めの有馬記念。それ全てに勝てたら……》
【プロポーズ】
それは、自分に対して立てた誓い。そして、年長者を扶養していくための力の源。この天皇賞、どうしても落とす訳にはいかない。
返し馬を終え、ゲートに入る。この段階でもう、ジェットストリームは落ち着きを取り戻していた。必要以上に盛大なファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。それと同時に勢いよく飛び出してきた黒い塊があった。
九枠十八番、ジェットストリームだった。
「なんだ!?」
絶好のロケットスタートで馬群からの突出に成功した直後、なにか得体の知れない不安と猛烈な寒気に襲われる。普通のサラブレッドと比べ蹄の大きいジェットストリームは、確かに馬場が荒れると脚が滑る。だが、そんなありきたりな戦術レベルの不安ではない。
なにかもっと、得体の知れないアンノウンに取り憑かれてしまったような、とてつもない不安。
スタート直後の小カーブを抜けたところで動悸や息切れ、悪寒といった不安から来る諸症状は脱したが、不安はまだ残っていた。突然このような症状に見舞われたという事実に対する不安が。天皇賞に於いて、ここの小カーブをもう通過せずに済むなら何の問題も無いのだが、東京競馬場芝二千メートルのレースは、このスタート地点をもう一度通過しなければならないのだ。
戦略上最も重要な地点となる、最終コーナーの出口として。
原因不明の不安に陥ってしまった好弘を背に、ジェットストリームは向正面から第三コーナーに入ろうとしていた。頭と尻尾を激しく振り乱し、何やらただならぬイレ込みようだ。もしかすると、背を預けている好弘の不安が伝わってしまったのかもしれない。あるいは、獣としての本能が、好弘と同じ【何か】を認識してしまったのだろうか。
とにかく【かかっている】。
それだけは、素人目にもはっきり判る疾りだった。
これまでの展開は、九枠十八番ジェットストリームが後続を大差で引き離してのバカ逃げ一人旅状態となっている。明らかにかかってはいるものの、展開自体は今迄の勝ちパターンと同じだ。雷雨の中にあっても超満員の観衆も、おそらくはさほど気にしてもいないだろう。
第三コーナーを無事回り切って、いよいよ例の最終コーナーに差し掛かる。
位置取りは、最短距離でコーナーを回り切ることの出来る内ラチ沿い、いわゆるインベタを採択。周囲に一頭もライバル馬が居ないのだから、至極当然の選択だ。馬場が荒れている上での豪雨であるため、半ば泥沼と化してはいるが、蹄が大きいジェットストリームにとっては、濡れた芝の上を行くよりかえって安全でもある。コーナーの出口付近に何も無いことを確認した上で、内ラチに張り付いた。
順調だ。ここまでは何の問題も無い。後続がどの程度詰めてきたのか把握するため、好弘は一度振り返る。先程と比べるとかなり詰まってきてはいるが、二番手ロンバルディアはまだ第三コーナーの真ん中。
《勝った!》
そう確信した瞬間、好弘の体が宙に浮いた。あまりに突然の出来事に、この落馬というアクシデントに対する対応が全く取れなかった。
《何があった!?》
宙に舞いながら必死に辺りを見回して状況を把握しようとした好弘は、有り得ない光景を目にしてしまう。最終コーナーの出口に、確認した時は間違いなく存在していなかった葦毛馬が、さも苦しそうに悶えながら横たわっていたのである。
《何だあれ!? ぐはっ!》
存在し得ないアンノウンに驚いた瞬間に着地。受け身を取り損ねての背中からの着地に、呼吸もままならない状況に陥ってしまった。当然、身動きなどとれる筈もない。
そんな好弘の上に迫ってくる黒い影があった。葦毛馬に蹴っ躓き、バランスを崩して倒れ込んできた相棒、ジェットストリームである。身動き一つとることの出来ない彼に出来ることはもう、おとなしく下敷きになることだけだった。
体重五百三十六キロ。そんな塊の下敷きになってしまえば、いかに鍛え抜かれていようが人体など一たまりも無く押し潰されてしまう。
【ぷちっ】
かわいらしい音を発てた都築好弘の胸部と腹部は、弾けて芝に張り付いた。
天皇賞(秋)着順
一着、一枠一番、ロンバルディア
二着、三枠六番、アステロイドボム
三着、八枠十五番、サイレントボマー。
九枠十八番、ジェットストリーム、競争中止、予後不良。騎乗騎手都築好弘、圧死。
二年連続となった悲劇に、東京競馬場は大混乱に陥ってしまった。