こおり鬼
空き地の隅の方に、いつまでたっても日のあたらない場所がある。朝日が昇っても、お昼に日が高くなっても、夕日が遠く斜めに差し込んでも。ずっと日陰の場所がある。
ある冬の日の昼下がり、みのりはそこにびっしり生えた霜柱をザクッザクッと踏みしめていた。軽く足を乗せた瞬間はかすかに押し返してくる感じがして、この霜柱は乗っても崩れたりしないんじゃないかと思ったりもする。けれどもそのまま足を踏み出すと、やはりザクッと荒い音をたてるのだった。
いくつもの賑やかな声が重なり合って近づいてくる。ガシャンと乱暴に自転車のスタンドが立てられる。何台もやってくる。男の子も女の子も自転車を降りて空き地に入ってくる。
「あ、みのり~!」
駆け寄ってくるあかねとゆかりに手を振ってこたえる。
みのりのクラスは仲がいい。放課後一度家に帰ってから、塾や習い事のない子はこの空き地に集まる。だから曜日によってその顔触れはちがう。四年生にもなって塾も習い事もないのはみのりくらいのものだ。
空き地のすぐ隣にはたくさんの家がひしめいているから、ボール遊びなどはできない。だからもっぱら鬼ごっこの類が多い。いろ鬼だったり、たか鬼だったり……。
「こおり鬼やるもの、この指と~まれっ!」
はい! はい! と集まった八人全員が一本の人差し指に飛びつく。
「いたい、いたいって!」
笑い声とともにみんなが手を離す。
「じゃんけん、ぽん! あいこで、しょ!」
チョキで負けたみのりが鬼となる。
きゃあと笑いながら逃げるあかねに手を伸ばした瞬間、あかねは「こおり!」と叫んで立ち止まった。これではつかまえることができない。
みのりの通っていた幼稚園では、こおり鬼は遊び方が少しちがった。逃げる子は自分で固まったりはしない。鬼が触れると固まってしまい、ほかの子に触ってもらわなければ解けない。全員が固まったら鬼の勝ち。けれどもひとりでも動ける子がいる限り、固まっている子もまた動き出せるので、あきらかに鬼が不利だった。
小学校のこおり鬼は、鬼に捕まりそうになったときに「こおり」と宣言して固まれば、鬼に触られることはないという遊びだった。もちろん「こおり」状態では動けないので、誰かに触れてもらうしかない。そして当然、このやり方でも鬼が不利なのは変わらない。一度鬼になったら最後、誰かが「もうやめよう」と言い出すまで終わらない――はずだった。
「こおり!」
ゆかりが固まった。
これで全員が「こおり」状態。
ゆかりは逃げるのに必死で、自分が最後の一人だと気付かなかったのだろう。こんなことは初めてだ。だけど、もちろんこれでおしまい。続けられないのだから。
「みんなこおりになっちゃったよ~!」
みのりは笑いながら叫んだ。このできごとにみんなも大笑いするだろうと思いながら。
「ねぇ、みんな……?」
みのりを除く子たちは固まったままぴくりとも動かない。
「やだ……なにしてんの? もうおしまいでしょう?」
最後に固まったゆかりの肩を叩こうとしたものの、水の流れのような強い力で押し返されて触れることができない。
「……なんで?」
私が鬼だからだろうか? 鬼だから「こおり」状態のゆかりに触れないのだろうか?
みのりは自分の考えにまさかと思いながらも、恐る恐るほかの子たちに手を伸ばしてみる。
あかねもほかの子たちも誰もみのりを触れさせてはくれなかった。
「い~しや~きいも。おいもっ」
遠くで石焼き芋のおじさんの声がスピーカーの割れた音に乗ってやってくる。固まっているのはここにいるみんなだけだ。
買い物帰りの知らないおばさんがちらりとこちらを見て、にこりと笑って去っていく。
「あのっ……」
おばさんに声をかけようとして思いとどまる。だって、なんと言えばいいのだろう。「こおり」って言ったら、本当に凍っちゃいましたって? 笑われるだけに決まっている。
そうかといって、友達をこのままにしておくわけにもいかない。
「まだ僕が残っているから終わらないんだよ」
真後ろで声がして、飛び退りながら振り向くと、見たこともない男の子が立っていた。
学芸会の劇に出てくる「村の子一」みたいな男の子だ。そう、つんつるてんの着物に下駄。もう冬だというのに、こんなかっこうで寒くないのだろうか。
そもそも、こおり鬼を始めたときにこの子はいただろうか。この指とまれの瞬間を思い出してみる。でも、全員がとまったと思っていたので、誰がいるかなんて気にしていなかった。
「ほら、つかまえて」
男の子が走り出すので、みのりも慌てて追いかける。けれども男の子はすばしっこくて、とても追いつくことができない。本人もつかまらない自信があるのだろう、ほかの子に触れて「こおり」を解くこともせず、自ら「こおり」を宣言することもなく、ただ木枯らしに吹かれるように飛び回る。
「こんなの無理よ!」
みのりは立ち止まって叫んだ。走り回っていたのに体が冷えて、とても寒い。
「よし。じゃあ今度は僕が鬼だ!」
あんな足の速い子に追い掛けられたらすぐにつかまっちゃう。みのりは「こおり」の友達の間を縫うようにして必死で走った。
あ、もしかして。
みのりはあかねに手を伸ばしてみる。
やっぱり……!
跳ね返されない。きっともう鬼ではないからだろう。
みのりはそのままあかねに触れた。
「冷たいっ!」
手が凍るかと思った。男の子がすぐそばまで来たので急いでその場を離れる。
走りながらちらりとあかねを見やるが、解けた気配はない。
おかしい。たしかに触れたのに。触れれば「こおり」状態が解けるんじゃないの?
みのりはゆかりにも触れてみた。今度は覚悟して触ったので、先ほどのように焦ることもなく、しっかり撫でまわす。冷えて固くなっていた。まるで氷だ。本物の氷だ。
「ほぉら。つかまえちゃうぞ~」
耳元でささやく声に、みのりは飛び上がって駆け出す。
追いかけていたときは全然追いつかなかったのに、逃げているときはつかまらない。
もしかして、わざとゆっくり走っているのだろうか。わざとつかまえずにいるのだろうか。
なんのために? 私がつかまったら終わりになるから? そうだ、きっと終わらせたくないんだ。
だったら……。
みのりは立ち止まって、くるりと追ってくる男の子の方を向いた。ぴたりと足を止める男の子。
「どうしたの? 逃げないとつかまえちゃうよ?」
にこにこと心底楽しそうに、弾みながら寄ってくる。
みのりは男の子の頭から突き出ている小さな突起を見つめながら叫んだ。
「こおりっ!」
耳の奥でカチーンっと効果音のようなものが響いて意識が飛んだ。
男の子は凍ったみのりのほっぺたをカツカツと音を立ててつついた。
「ちぇっ。つまんないの」
◇◇◇
暑い。喉や鼻を通る息が熱い。
みのりは顔まで覆っている掛布団を押しのけた。
え? お布団?
こわばる瞼をゆっくりとこじ開ける。
「みのり、起きたの?」
「お母さん……」
みのりは自分のベッドにいた。あれは、夢?
「いつまでもお外で遊んでるから風邪ひくのよ」
お母さんはそう言いながらみのりのおでこに手のひらをあてた。少しガサガサするけれど、ちょっぴり冷たくて気持ちいい。
「まだ熱が高いわね。冷やすもの持ってくるわね」
そう言い残し、部屋を出ていく。
ふぅ~。
みのりは熱い息を吐いて、ふたたび目を閉じた。
夢じゃなかった……。
全員「こおり」になったから、こおり鬼は終わったんだ。そのときに空き地で凍って、それで風邪をひいたのにちがいない。みんなも風邪をひいてしまったのだろうか。
――ひやり。
おでこにやわらかく冷たいものが乗せられる。
手? お母さんがもうもどってきたの? でも、お母さんの手はもっとガサガサしていたけど……。なにより、この手は小さい。
目の奥がグワングワンと脈打つ痛みをこらえて、どうにか目を開く。
あの男の子が覗き込んでいた。みのりのおでこに手をあてて。
なんでここに? お母さんにはなんて言ったの? あなたは誰?
いくつもの問いかけが頭に浮かんでは、熱に溶けていった。
「……ごめんね」
男の子は泣きそうに震える声でつぶやいた。落ち込んでいるからだろうか、小さく見える。
なんで謝るのだろう。一緒に遊んだだけなのに。
男の子の手はひんやりとして心地いい。
聞きたいことはいくつもあるけれど、一番気になることを聞いてみる。
「……みんなは?」
熱い息とともにかすれた声が出た。
「みんなのところにも謝りに行ってきた。きっともう元気になっていると思う。あとは君だけ」
まるで自分のせいのような言い方だ。
「どうしてそんなふうに言うの?」
男の子の手はずっとみのりのおでこに乗せられたままなのに、いっこうに温まらない。いつまでもひんやりと冷やしてくれる。
「だって僕のせいだから」
目を伏せ、うつむいた頭に小さな角がのぞいている。
「早くよくなって」
そう言って、男の子はみのりのおでこに両手を並べて置いた。ちょうどいい大きさだ。
あれ? 小さすぎやしないだろうか? さっきまでは片手でちょうどよかったのに。
みのりは改めてじっと男の子を見つめた。
……小さくなってる?
そう思って見ると、空き地で会ったときよりずいぶんと小さい。あのときは同じ年くらいに見えたのに、今は幼稚園児ほどもない。
「ごめんね」
男の子はまた謝る。
「なんで……?」
みのりはなんで謝るのか聞いたつもりだった。けれども男の子はちがうことを聞かれたと思ったらしい。
「一緒に遊んでみたかったんだ。友達ってどんなものなのかなって思って。でも間違いだった。僕は誰とも友達になんかなれない」
「なんで……」
「楽しかった。とっても。だけど、ごめんね……」
おでこのひんやりが小さくなっていく。
「……ありがとう」
耳元に冷たい息がかかった。
「待って……!」
呼び止めようとした声はもう熱くなかった。
「おまたせ」
戻ってきたお母さんが、私の頭を冷やそうと、なでるようにして額にかかる髪をよける。
「まあ。ちょっとの間に熱が下がったのね。よかったわ」
お母さんはたった今持ってきたばかりのものを持ち帰るべく片付け始める。
「あら? なんで床が濡れているのかしら? なにかこぼしたかしら?」
お母さんは「ぞうきん、ぞうきん」とつぶやきながら、ふたたび部屋を出ていく。
みのりが身体を起こしてベッドの横を見下ろすと、小さな水たまりができていた。あの子が立っていたところだ。
みのりは手を伸ばしてその水に触れてみる。指先が痛むほどに冷たい。氷水のようだ。
「――ありがとう」
あの男の子と同じことばをみのりもつぶやく。
「ありがとう。友達になってくれて」
その小さな水たまりに、熱い雫がぽたりぽたりと吸い込まれていった。
◇おしまい◇