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探偵は嗤わない

復讐の作法【探偵は嗤わない、閑話】

作者: 黒崎江治

この話は探偵は嗤わない、閑話となっています。

エピソードとしては独立しているので単独でもお読みいただけますが、シリーズを呼んでいるとより楽しめます。今回もほぼクトゥルフ関係なし。

 新宿の街に今日も陽が上る。夜も眠らぬこの街は、清浄な朝とは無縁である。夜にまき散らされた欲望の残滓は店の軒先に積み上げられ、それにカラスがたかる光景は間違ってもさわやかな光景ではない。

あらゆる欲望と悪徳がここにはある。食欲、性欲、虚飾、傲慢、貪欲、贅沢、嫉妬、汚濁、搾取、暴力。それでも光に虫が集うように、この街の表面的な華美に人は吸い寄せられる。

 私はなぜ此処に留まるのか。私は自由な身分だ。職業や住居に縛られたりはしない。望むならどこにでも行くことが出来る。どこであっても生活することが出来る。

 では、私はなぜ此処に留まるのか。それは幼い日の私がここで行き倒れ、雨に打たれながら死ぬのを待っていた時に、一人の女性に拾われ、介抱されたからだ。私は彼女に感謝し、この街で彼女を見守ろうと決めたのだ。

 私は猫である。名をアウレリウスという。私を拾った女性から与えられた、高貴な名である。彼女は私を『うーたん』と呼ぶが、正しい名前はアウレリウスである。彼女は時折私に食事を与え、私はそのささやかな対価と引き換えに、彼女の事務所の夜間警備を担っているのである。

 彼女が与える食事の量は、私の肉体を維持するのには不十分である。しかし私はより多くを要求することはしない。足りぬ分は己で確保する。そうすることで自らの野性を保つ。それが猫のあるべき姿だ。すべてを人間に頼り、人間に媚びることで十分な食事を得、肥え、太りながら野性を失っていくことを、私は良しとしない。

 適度に飢えた腹を抱え、私は夜間事務所周辺を警備する。そして時折猫の会合に顔を出す。地域社会の安全確保は、同胞との連携無くしては不可能である。

 日中は日中で忙しい。肉体を維持するだけの食糧を確保せねばならぬし、事務所への報告も必要である。そして、猫にとっては眠るという大きな仕事がある。

 猫にとっては常識であるが、我々猫は、現実での意識を眠りに溶かし、夢の世界へと旅立つことが出来る。そこはある程度現実世界と似通ったところもあるが、全く別の世界である。あえて表現するならば、物質世界と精神世界が入り混じった世界、とでも言えるだろうか。人間はせいぜいその片鱗に触れることしか出来ないと聞いたことがある。何とも貧しい生き物である。

 大抵の猫はその世界で気ままに過ごすが、私の場合は別の仕事がある。優れた猫として、『閣下』の近辺に侍り、その仕事を補佐するのである。閣下は美しい銀の毛並みを持つ大きな猫であり、夢の中の猫たちを統べる偉大な存在なのである。

これ以上解説したとしても、人間にはおそらく理解できぬであろうし、虚ろな夢しか見ない人間にはその意味もないだろう。要するに、眠っている猫は、ただ惰眠を貪っているわけでは無い、ということを理解していただきたいのである。


 そうこうしているうちに、事務所の面々が出勤してくる。私が警備している事務所は探偵社であり、そこで働く面々は非常に個性豊かである。

 まず、華美なスーツに身を包んだ所長が出勤してきた。彼は長身であり、猫の私から見ても美しいと思えるような顔立ちをしている。高い身長、そり上げられた頭髪からして、おそらくは男性であると思われるが、いわゆる性別不詳、オカマ、とでもいえばいいのであろうか、ともかくそのような種類の人間である。外見から性を判別することは難しい上、香水のせいで、臭いでの判別も困難である。

 以前はこの街でオカマバーの店員として働いており、そこで様々な悩み相談を受けたのがこの探偵事務所設立のきっかけらしい。面倒見がよく、所員には慕われている。私にも親切に接してくれるが、香水のにおいがきついので、私はあまり好きではない。

 続いて出勤してきたのは、イヌヅカという男性所員である。身長百六十センチ強。痩躯。体格に恵まれず、彼がもし猫であったならば同胞から軽んじられそうなものであるが、彼はどうやら違うようだ。周りの所員や、私を拾ってくれた女性の話から察するに、若くして実力があり、この事務所に勤めている探偵達に一目も二目も置かれている。見た相手を射すくめるような鋭い眼光を見れば、納得できないこともない。

 彼は私を見かけると、そばにしゃがみ込み、おもむろに手の甲を差し出してくる。これは人間なりのあいさつのようなもので、私はそれに応じて彼の手の甲をふすふすと嗅ぐ。私はこの鋭い眼の男があまり好きではないが、この挨拶を無視するような礼儀知らずではない。臭いを嗅ぎ、しかる後に鼻を鳴らして顔をそむける。ただ、不快なタバコの臭いがしないのは好感が持てる。

 続いて出勤してきたのも男性所員である。テルツキ、という男である。テルツキは特に私を気に掛けることは無いし、私も彼に対してなにがしかのアプローチをすることは無い。しかし何となくこの男、瞳が私と似ているのである。猫っぽい、というわけでは無く、行き倒れて拾われる前、居場所を失って彷徨っていたあの頃の私の瞳に似ているのである。

 私が辛い過去を思い出していると、エイコ嬢が出勤してきた。あの雨の日、私を拾ってかいがいしく世話をしてくれた女性である。

『うーたんおはよー』

 彼女は私のそばにしゃがみ込み、私の黒い毛並みを撫でる。私が彼女と出会ったのは九カ月ほど前であるが、その間に彼女もいろいろ成長したようで、日々探偵として逞しくなっているように思える。彼女を見守っている身としては嬉しい限りである。最近立て続けに厄介な事件に巻き込まれているのか、やや元気がなさそうな点が心配な所ではあるが。

 エイコ嬢と共に、私は事務所の中へ入る。彼女を自席までエスコートし、夜間警備の報酬をもらうのが日課なのである。食事を待つ間、エイコ嬢の隣に席を構えるイヌヅカを観察する。彼は毎朝エイコ嬢が淹れた紅茶を飲みつつ、新聞を読むことを日課にしているらしい。

 以前から気付いていたことなのだが、エイコ嬢はこの男に懸想、つまり恋をしているらしい。エイコ嬢の美貌をもってすれば、もっと良い男がいそうなものだが、人間の恋愛は分からないものである。現に、彼女に思いを寄せる所員は一人や二人ではない。

 そういえば先日も、エイコ嬢とイヌヅカが、二人して外出して行くところを目撃した。買い物と食事に行くのだとか言って、エイコ嬢は嬉々して出かけて行ったが、帰りには少ししょんぼりして帰ってきた。

『二人きりだと思ってたのに、まさか藤さんもいるとは……』

帰りしなに事務所に寄り私を抱き上げて彼女はそういったものだ。何が起きたのかは知らないが、イヌヅカになにか不実を働かれたのであろう。腹立たしいことである。


 警備の報酬を受け取り、ようやく仕事から解放される。ここからはプライベートな時間である。さっそく夢の世界で閣下にお仕えしようかなどと考えていると、向こうから一匹のトラ猫が近づいてきた。

「おはよう、アウレリウス」

 話しかけてきた彼は私の友人である。名をチョムスキーという、三歳程度の野良猫である。私と同様、人の言葉を解す猫である。彼はその他にイヌ語、鳥語を流暢に話し、蛇語も嗜む多言語話者である。人語以外にイヌ語の単語を多少解するぐらいの私から見れば、大層な秀才であり、努力家である。

「早いな、チョムスキー。どうかしたか?」

 彼が望んでこちらに会いに来ることは少ない。もとより我々猫はそれほど社交的ではない。必要以上に慣れ合わず、個々の独立性を尊重するのである。

「シュレディンガーを見なかったかね」

 シュレディンガー、というのも我々の共通の友人の一人である。色素の薄い白猫で、存在感も希薄である。いつもフラフラしていてどこにいるのか分からぬし、近くにいても時々認識できないことがある。

「見ていない。いつものようにふらふらしているのでは?」

 と私が返すと、チョムスキーはかぶりを振った。

「いや、私も数日彼を探しているのだが、見つからないのだ。さすらい猫の彼とて、我々に一言もなく姿を消すはずがない」

 ふむ。と私は考える。野良犬に比べれば野良猫は保健所の捕獲の対象にはなりにくいし、そもそも我々の仲間にそんな間抜けはいない。拾われた、というのも考えにくい。この近辺の住環境からして、猫を飼えるような家庭は少ない。彼はまだ若いし、病気を患ったという話も聞かない。もし車に轢かれたのならば噂にもなろう。

 何らかの事件に巻き込まれたか。

「そうか……少々嫌な予感がするな」

 それからしばらくチョムスキーと話し合い、私もシュレディンガーの捜索に加わることにした。


 チョムスキーと連れ立って、私はシュレディンガーの居そうな場所をもう一度見て回る。小さな公園、喫茶店の看板の上、無数にあるビルの隙間や室外機の上。その何処にも、シュレディンガーはいなかった。

「まったくどこに行ったのか……」

 チョムスキーは後ろ足で頭を搔く。彼は猫にしては世話焼きな方である。猫社会で孤立しがちな私の、この街で初めての友人となってくれたのも彼である。

「ムラサキには聞いたのか?」

 私はチョムスキーに問う。ムラサキとは、シュレディンガーの恋猫である。おとなしいシュレディンガーとは対照的に、気の強い雌の三毛猫である。

「いいや、まだだ。彼女はこの時間なら、風俗街の方にいるだろう。行ってみようか」

 私とチョムスキーが風俗街の方にとことこ歩いていくと、派手な案内所の看板の眼に、彼女はいた。容姿は取り立てて美しい猫ではないが、いつも妙に扇情的な雰囲気を漂わせている。

「あら、お二方。朝早くからどうしたの?」

 私達に気付いたムラサキは、長い尻尾をくねくねさせながらこちらを向く。すでに時刻は午前十時を回っているが、夜を生きる彼女にとっては早朝と呼べる時間帯なのだろう。

「シュレディンガーがいなくなった。何か知らないか」

 私が訊くと、ムラサキは物憂げな表情でかぶりを振った。

「私も探してるんだけど、ここしばらく見てないわ」

 どうやら彼女もシュレディンガーの居場所を知らないようだ。

「それに、このあたりには彼は来ないわよ。いつも私の方が彼のところへ行くもの。住宅街の方、知っているでしょ?」

 なるほど。彼に何かがあったとすれば、彼の行動圏内でそれが起こった可能性が高い。

「住宅街はここから西か。アウレリウス、行くとしよう」

 私が物思いに耽っていると、チョムスキーがそう促す。

「ちょっと待って、私も行くわ」

 どうやら、ムラサキも付いてくるつもりのようだ。我々は三匹連れだって、シュレディンガーが普段生活している、西の住宅街へ向かうことにした。


「ここにも彼の姿は無し、か」

 二時間にわたる捜索も無駄に終わり、私は少々疲労感を味わいながら前足でひげを撫でていた。チョムスキーもややぐったり顔だ。

 そのように我々がしばし途方に暮れていると、目の前を一匹の老いた猫が通りかかった。

「すまない、ご老体。少し聞きたいことがあるのだが」

 チョムスキーが声をかけると、その老猫は柔和な笑みを浮かべてこちらへ向かってきた。

「ほうほう。君たちはビジネス街の方の猫だね。においでわかるよ。何の用かな?」

 その老猫は灰色の体躯をゆったりと横たえてそう言う。

「失礼。この年になると立ちっぱなしが辛くてね」

「いや、それは構わない。それよりも、シュレディンガーという猫を知らないか?」

 私が訊くと、老猫はしばし目を閉じて沈黙した。ゆっくり考えてから話すタイプの猫のようだ。

「知っておるよ。彼がどうかしたのかね?」

 間延びした彼の言い方に少しいらいらしつつ、さらに私は質問する。

「彼がいないんだ、ここ数日。どこを探しても」

 その言葉に、老猫は少し思い当たる節がある用だった。またしばし考えてから、ゆっくりと話し始める。

「ここ最近、この界隈では行方不明の猫が多い。いなくなったのは彼だけではない」

 老猫の言葉に昏い調子が混ざる。

「それ……どういうこと?」

 ムラサキが不安そうにつぶやいた。普段は飄々としている彼女だが、さすがに恋猫の安否が心配になってきたらしい。

「おそらくは、攫われている。保健所の連中ではない。拾われているにしてもここ最近急に、というのが不自然だ。目撃証言もない。あくまでも、私の予想に過ぎないが」

 猫さらい。そんな不穏な言葉がよぎる。時折人間にイタズラ半分で攻撃されたり、時には無残に殺害されたりすることがないではない。しかしそんな人間は人間社会でも爪弾き者だし、そういった噂はすぐに出回る。何の痕跡もなく、目撃証言もなく消えるというのは不可解だ。

「じゃあ、どうすればいいのよ。彼は帰って来ないの?」

 ムラサキが強い様子で老猫に詰め寄る。

「やめろ、ムラサキ。ご老体に八つ当たりしてもしょうがあるまい」

 私がそうたしなめると、ムラサキはくるりと振り返って、こちらを睨みつけ、尻尾をピンと立てて私の横をすり抜けようとした。

「待て、ムラサキ。手分けして探してみよう。また二時間後にこの場所に集合。アウレリウスも、いいな」

 チョムスキーの言葉にムラサキは振り返ると、こくりと頷いて角を曲がっていった。私もチョムスキーの指示通り、この近辺をさらに捜索することにした。


 私は住宅街を歩く。このあたりの家はほとんど集合住宅で、一軒家に住んでいる人間は五十人に一人ぐらいのものだろう。その一軒家もそれほど広くはなく、家々の間も我々が通れるほどの隙間しかない。

家が狭いのはまあ良いとしよう。私も狭い場所は好きだ。しかし、こうも密集して住まなければならないものなのだろうか。人がこんなにも身を寄せ合わせて、息苦しくはないものだろうか。

 住む場所もそうならば、働く場所もそうだ。ここから西に少し歩けば駅があるが、そこからは毎朝大量の人間が吐き出されてくる。線路脇からは、人間ですし詰めになった電車が見える。

 群れていなければ捕食されるというわけでもあるまいに、なぜそんなにも寄り集まるのか。身を寄せ合わなければ生きられないほど、人間とは寂しい生き物なのだろうか。

 マンションのセキュリティをすり抜けて上階を見回り、塀の上から家の軒先を探す。シュレディンガーは何処にもいない。ダメもとでとある庭先の犬に話しかけてみるも、カタコト程度の会話力では聞き込みもおぼつかない。

チョムスキーやムラサキは、シュレディンガーを見つけてくれているだろうか。普段はいるのかいないのかわからない存在だが、いないとなると、やはり何か足りぬ気持になる。なんだか泣きたい気分になってきた。

二時間にわたる捜索は結局徒労に終わり、私はトボトボともとの地点に帰ってきた。

先にチョムスキーが戻ってきていた。浮かない顔を見るに、どうやら彼の捜索も空振りに終わったようだ。

「ムラサキはまだか?」

と私が訊くと。

「ああ」

 と短く答え、地面に体を横たえた。秋も深まるこの季節、少し寒さが身に沁みるようになってきた。シュレディンガー。どこかで震えていないといいが。

 そうして待つことしばし、まだムラサキは帰って来ない。予定の集合時間からもう三十分ほどが過ぎた。

地理がわからないから迷っている? 彼女は時折この地域にシュレディンガーを訪れていたというからそれはないだろう。集合の約束を破って先に帰った? 彼女は纏う雰囲気とは異なって約束事を守るタイプだ。それも考えにくい。

 もしや、何かあったのでは。

「チョムスキー」

 私が不安を抱きながらチョムスキーを呼ぶと、彼もこちらの考えがわかったようだ。眉間を寄せて心配を口にする。

「ふむ。少し調べてみよう。先ほども手伝ってもらっていたから、まだその辺にいるだろう」

 チョムスキーはそういうと、空に向かってにゃあお、と鳴いた。しばらくすると、一羽のカラスが頭上を旋回し、徐々にこちらへ降りてきた。

 そして我々の前に降り立つと、知性ある瞳で私をちらりと見遣り、チョムスキーに向き直る。

 チョムスキーがカラスに話しかける。鳥語を解さない私には何を言っているのかわからない。

 我々は時として鳥を狩ることがあるが、カラスはその例外と言ってもいい。彼らは賢く、力も強い。時折弱った猫や仔猫が襲われることがあるが、それは自然界の常であり、捕食被捕食の力関係とは別である。だからこそ、チョムスキーとこのカラスの平和的コミュニケーションも可能なのだろう。

 私は少し置いてけぼりな気分を味わいながら、会話が終わるのを待つ。しかしそれもほんの一、二分の事だった。カラスは得心したように小さく頷くと、その漆黒の翼を翻して空高く舞い上がった。おそらく高所から地域全体を見るよう、チョムスキーが頼んだのであろう。

「クロエにムラサキを探してくれるよう頼んだ。その辺りを歩いていれば、すぐ分かるはずだ」

 クロエというのはどうやらあのカラスの名前らしい。確かに空からの捜索であれば効率もよさそうだ。

 私は空を見上げる。秋の空は雲一つないものの、無辺であるはずの青は、周辺の高い建物によって歪に切り取られている。私は生まれてこの方、大空というものを見たことがない。空高く飛ぶあのカラスは、毎日無限の空を眺めているのだろうか。

 空の広さに思いをはせていると、早々にクロエが戻ってきた。その報告を聞くと、チョムスキーの顔が変わる。

「どうした。何か分かったのか?」

 言い知れない不安。喉に氷柱を挿し込まれたような気分になる。

「ここから北東に百メートル。猫用のケージを持って歩いている人物が居たそうだ。……中の猫の特徴がムラサキと一致した」

 チョムスキーが半ば信じられないといったように呟く。しかし私は直感した。ムラサキもまた猫さらいの毒牙にかかったのだ。やすやすと彼女が捕まってしまったのは腑に落ちないが、何らかの卑劣な手段を用いられたのであろう。

「チョムスキー」

「わかっている。クロエ、先導を頼めるか」

 クロエと呼ばれたカラスはカァと一声鳴き、翼を羽ばたかせて、付いて来いというように低空を飛び始めた。我々は不安に胸が締め付けられるのを感じながら、努めて冷静にその後を追った。


 都心のさらに中心にあるこの街。ペットを飼えるような住環境を持つ者は少ない。猫用のケージを持っていれば嫌でも目立つ。追跡を始めて程なく、我々はケージを持った妙齢の女性を発見した。

「ありがとう、クロエ。ここまでで充分だ」

 カラスは女性を見遣り、チョムスキーを見遣ると再び空に飛び立った。

「……見つけたはいいが、どうする」

 チョムスキーが困ったように前足でひげを撫でる。

「ひとまずは、気取られぬよう追うしかあるまい。いずれ好機も巡ってくるだろう」

 自信があるわけではない。しかし、現状それしかできないのは事実だった。

 我々はゆっくりと女の後を追う。女は振り返らずにどこかへ向かっていく。ケージの中にいるであろうムラサキは、不思議と鳴き声一つ上げない。しかしケージの折から垣間見える長い尻尾は、明らかにムラサキのそれであった。

「いったいどこへ向かっている?」

 沈黙に耐えかねてチョムスキーが私に聞くともなく尋ねる。

「自宅だろう。保健所という事もあるまい」

 追跡はさらに続く。時刻は午後に差し掛かっていた。晩秋の空は雲一つなく晴れ渡り、涼しげな風が我々のひげを揺らす。しかし私とチョムスキーは押し寄せる不安によって、冷たい嫌な汗を、肉球の裏にたっぷりとかいていた。


 五分足らずの追跡が、嫌に長く感じられた。何処まで行くのかと我々が訝しみ始めたころ、女が一件の住宅の前で止まった。上品なクリーム色の外壁、門の内側にある花壇にはコスモスが花をつけている。この界隈にしては広い邸宅。女の身なりや装身具などから判断して、ここが女の自宅で間違いないだろう。音もなく、我々は距離を詰める。

 女が金属でできた門を開くのに合わせて、我々も敷地内へ侵入する。そのまま気取られぬよう、女と共に屋内へと滑り込む。

 外見同様、上品な室内。玄関から女は廊下へ上がる。廊下はフローリングのようで、我々は足音を立てぬよう、急いで爪をしまう。未だ女はケージを手放さず、中のムラサキも、何やらとろんとした姿勢のまま鳴き声一つ上げない。何やら薬でも嗅がされたのか。私とチョムスキーは女の死角に忍びながら機を窺い続けた。

 息を詰める。あの女は猫をさらい、一体何をするつもりなのか。飼う? この女が最近発生している猫さらいの犯人だとして、この家に何匹もの猫を飼えるとは思えない。それに、この家には猫の生活臭がしない。

 女は屋内の一室に入り、それからすぐに出てきた。玄関付近に隠れている我々を一顧だにせず、そのまま二階へ上がる。好機だ。

 私とチョムスキーは、ムラサキの入れられたケージがあると思しき部屋の前まで歩を進める。この家のノブは幸いにもレバー式のもので、我々猫に開けやすいタイプのものだ。

 私はしなやかに筋肉を躍動させて、ノブへ飛びつく。そして僅かにできた隙間から、チョムスキーが室内に体を滑り込ませる。侵入成功だ。私も音を立てぬように着地し、するりと室内に入った。

 ぽん、とチョムスキーの尻に鼻先がぶつかる。

「どうした? チョムスキー」

 私が訊いてもチョムスキーは応えない。不審に思い、彼の身体越しに室内を覗いた私は、チョムスキーが硬直してしまった理由を嫌でも悟ることになった。

 部屋は十畳ほどの洋室であった。窓には分厚い遮光カーテンが掛けられており、外の光は入らないが、電気がつけっぱなしになっているため室内は明るい。何体かの猫が、床の上や棚からこちらを見下ろしている。いや、違う。猫ではない。

 猫の、剥製だ。

 床に置かれ、棚に陳列された剥製たちの、何対ものガラス製の瞳がこちらを見つめている。只の剥製だけではない。皮を剥かれた筋肉の剥製、骨格標本。その精巧さは、それがまぎれもなく本物の猫から作られたことを物語っている。

「あ……あ……あ……」

 チョムスキーが言葉にならぬ声を上げる。私は耳の奥が冷たくなり、首の後ろの毛が猛烈に逆立つほどの戦慄を感じていた。

「こんなことが……こんなことが……」

 幾体もの剥製。これを作るまでにどれだけの猫が犠牲になったか。彼らは死に際にどんな苦痛と恐怖を味わったのか。悍ましい想像が強制的に脳裏に浮上してくる。

「落ち着け……チョムスキー。落ち着け……」

 そう言う自分自身の声も、どこかうつろに響く。まるで自分以外の誰かが声を発しているかのようだ。

 そんな狂気の空間で立ち尽くしていると、部屋の隅から弱弱しい鳴き声が聞こえた。

「アウレリウス……? チョムスキー……? そこにいるのか……?」

 はっとしてそちらの方に向き直る。そこには、ケージに入った白い毛並みの雄猫がいた。かなりやつれ、恐怖と不安で衰弱しているようだが、間違いない。シュレディンガーだ。

「シュレディンガー! 無事だったのか」

 私は彼の入ったケージに駆け寄る。シュレディンガーはこちらの言葉に反応し、弱弱しく頷いた。かなり弱ってはいるようだが、怪我などはしていないようだ。

 私が安堵と共に周りを見渡すと、ムラサキの入ったケージもすぐ近くにあった。彼女はとろんとした目つきで体を横たえている。

「ああ……。アウレリウス。早く逃げた方がいい。あの女は不思議な方法で猫を捕まえるんだ。彼女の瞳を見ると、なぜか体の力が抜けて……」

「バカいえ、君を置いて逃げられるか。ムラサキもだ。さっさとここを出るぞ」

 ケージの扉を観察すると、少々力は要りそうなものの、外から開くことが出来そうだ。私は未だ放心しているチョムスキーの顔面を前足ではたいてから、二人で協力してシュレディンガーとチョムスキーを解放した。

「ああ、何ということだ。信じられない」

 チョムスキーはまだ動揺しているようだ。無理もない、大勢の同胞の、変わり果てた姿を見せられたのだから。

 ちらりとムラサキに目を遣ると、幾分ぼんやりとはしているようだが、自分で歩くことはできそうだ。これで当初の目的は達成。あとは皆で揃って帰るだけ、と安堵した瞬間。

 がちゃり。

 部屋のドアが開き、女が姿を現した。

 女は我々二匹の侵入者に一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにその表情は気色の悪い笑みに変わった。口角が吊り上り、サメのように歯を見せてニィィ、と笑う。

『あらぁ、お友達が来てくれたのね?』

 狭い室内に猫四匹と女が一人。女は手に注射針を持っている。猫の敏捷性、爪と牙をもってすれば人間一人を翻弄することはたやすいが、先ほどシュレディンガーが言った不思議な力というのが気になる。

 もとより対話は不可能。怯ませてからうまく脱出するしかない、か。

 私がチョムスキーに目で合図すると、彼は得心したように小さく頷いた。ドアを開けるのは私の方が得手である。チョムスキーが敵をかく乱している間にシュレディンガーとムラサキを逃がせばよい。そう思ってドアノブに飛びついた、その瞬間。

『おとなしくなさい』

 女が猫なで声でチョムスキーに話しかけている。愚か。そんな言葉に耳を貸すものか。しかし女の声に奇妙な響きを感じて、私はチョムスキーを横目で見る。

「あ……」

 チョムスキーは首を絞められたような声を上げ、一瞬びくりと震えた後そのまま硬直した。私が驚愕の眼で見ていると、女が手に持った注射針をチョムスキーに近づける。マズイ。

『フシャーッ』

 思わず聞くに堪えない言葉が私の口をついて出る。女の悪行、友の危機。つい頭に血が上ってしまったようだ。常に冷静足らんとする私にとっては恥ずべきことだが、今はそれどころではない。

 私は電光のように跳躍し、女の手から注射器をかすめ取る。そして口に咥えた注射器を部屋の隅へ放った。

『あら、いたずらっ子ねぇ』

 未だ女は貼りついたような笑みを顔に浮かべている。こちらを侮ったような瞳は、何やら魔術的な光を帯びている。他者を魅了するか、支配するか。おそらくそういった魔力が込められているのだろう。この瞳に、シュレディンガーも、ムラサキも、たった今チョムスキーもやられたのだ。

 しかし。

 私は冷静になるために大きく一呼吸する。この女は私を侮っている。猫に対する人間の優位。魔術を使えるという能力の有利。その二つを感じているが故の余裕。

 だが、二つとも間違いだ。第一に、猫は人に劣ってなどいない。そして第二に。

 魔術を使えるのはお前だけではない。

 女が私の瞳を捕える。精神を、魂を支配しようと侵入してくる。私は己が理性の砦を持って支配までの時間を稼ぎつつ、素早く詠唱を開始する。

 一瞬の緊迫。刹那の攻防。女の魔手が私の理性を掌握する直前、私は最後の単語を発音し終えた。

 一拍置いて、女の顔が苦痛にゆがむ。数瞬ののち、女の顔面が、髪の毛が炎に包まれる。臓腑から絞り出されたような絶叫が室内に響く。

 女が倒れ伏したのを確認して、私は全員の無事を確かめる。女の顔はすぐに鎮火し、気絶しているものの死んではいないようだ。

「チョムスキー、無事か。シュレディンガー、ムラサキを頼む」

 そう言って私はドアを開け、できた隙間からするりと室外へ出ようとする。

「待て」

 私を止めたのはチョムスキーだった。すでに女の魔力から脱し、その瞳はいつもの深遠な知性を宿している。

「なんだ」

「この女、まだ息がある」

「それがどうした」

「殺さないのか?」

「殺す理由がない」

「あるだろう。復讐だ。この女は数多の同胞を手に掛け、我らの友であるシュレディンガーとムラサキも手に掛けようとした。殺しておくべきだ」

 チョムスキーの主張は理解できる。もう少し遅ければ、シュレディンガーやムラサキも物言わぬ剥製になっていた可能性があるのだから。だが私は腰をおろし、努めて穏やかな言葉で彼に反対した。

「君の主張は分かる。気持ちも理解できる。だが我々猫も楽しみの為に鳥を取ることがある。それはそれで責められるべきことなのかもしれないが、自然の摂理の一部なのだ。太陽が東から上るように、時折雨が降るように、こんな悪徳は何処にでもある。それを嘆くのは詮ないことなのだ。それに怒るのは一日に夜があるのを恨むようなものなのだ。復讐をしてどうする。その女と同じになるだけだ。……チョムスキー」

「……なんだ、アウレリウス」

「『復讐の最も良い方法とは、自分まで同じようにしないことである』。誰の言葉だったかは忘れたが」

「…………」

 しばし沈黙が続く。気の弱いシュレディンガーがうろたえながら私とチョムスキーを交互に見遣る。私はチョムスキーの瞳を見つめ続ける。次第にその眼から怒りの色が薄れ、いつもの冷静な瞳に戻っていく。

「わかった。従おう。それが君の、復讐の作法というわけだ」

 チョムスキーは柔和にほほ笑むと、私に続いて室外に出た。


 我々は狂気の家を脱出した。夕暮れまではまだ時間がある。我々はシュレディンガーの無事を喜び、互いの健闘を称え合った。存在感の薄いシュレディンガーだが、近くにいると少し安心する。ムラサキもそんな彼の持つ雰囲気に惹かれたのだろう。我々はしばし彼を労わってから、帰宅の途についた。


 私が事務所に戻ると、イヌヅカが外回りから帰ってきたところに出くわした。イヌヅカは私を見遣ると、性懲りもなく目線を合わせ、手の甲を差し出してくる。

 いつもなら臭いを嗅いですぐそっぽを向くのだが、今の私は機嫌が良い。首筋をこすり付け、喉の下を撫でることを許可してやる。そして共に事務所に入り、エイコ嬢の帰りを待つことにした。

 事務所の中でイヌヅカは紅茶を飲みながら報告書を書き、私はその足元で寝ころぶ。エイコ嬢はこの男のどこに惚れているのだろう。そう考えながら、私はうつらうつらと微睡の世界を旅する。イヌヅカよ、もしお前がエイコ嬢を泣かせるようなことがあったならば、私は復讐の作法などかなぐり捨てて、貴様を地獄に落としてやるから、心しているがいい。

『うにゃうにゃ』

『……寝言を言っているな』

 夜の警備まではまだ時間がある。今日は疲れた。もうしばし、休むとしよう。




お読みいただきありがとうございました。シリーズをお読みいただいてない方は是非そちらもどうぞ。感想などお寄せいただければ幸いです。

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