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H

 虹ノ橋での大規模な軍事演習は、つい数日前に予定通り執り行われた。軍の統制も取れ、兵士たちは期待していた以上に優秀な動きをした。軍事局長官ガンナも満足の出来であっただろう。

「エリアス、きいたよ」

 夜も更け、灼熱の地で働く人間たちが帰宅したからか、店内は静けさに満ちていた。そこに、しっとりとしたバラードがかかっている。

 エリアスがカウンターに着くと、パブの店主であるイヴァンがグラスを出しながら愉快そうに微笑んだ。そしてカウンターに肘を乗せ、そっと身を乗り出す。

「あれを遠征中の不慮の事故なんて言い訳した向こうも向こうだけれどもね、全くいけしゃあしゃあと――罪人の魂を横取りしていたのは、弁明する気すらないみたいだし。でも、奴らの剣を一つ残らず集めて送り返したガンナもガンナだね」

 ふ、と妖艶な笑みを浮かべて、イヴァンはエリアスに顔を近付けた。

「おまけに呪返しのまじないをかけてやったなんて、奴ら、泡を食っただろう」

 影のある青い瞳は、無慈悲で攻撃的な光を秘めている。地を這い嘲るような囁き声に、エリアスはエルフの本性を垣間見た気がした。思わず息を詰めて身を硬くしたエリアスに、イヴァンはすかさずにこりと笑うと、カウンターの奥に退いた。

「奴らもしばらくはこれに懲りて、大人しくなるだろうね」

「……だと、いいけどな」

「世界の終焉まで、神界と冥界はどうあっても……たとえどんなにひどい戦争があっても、互いに存在していなくちゃならないのさ。そしてラグナロクの時、全てが消えるか何が残るか、それは誰にも、我々エルフでさえも分からない…」

 イヴァンはバックバーからボトルを取って、新たに酒を作りながら溜息をついた。ほっそりとした背中から、これまた華奢な首筋が伸びている。イヴァンが俯けば項にはらりと、結い上げていた淡い色の髪が一筋落ちた。

 エリアスはそっと自分のグラスを揺らして、美しい琥珀色の酒を呷った。

 エリアスが闇穴のエルフに届け、彼らがまじないを施した黄金の剣は、一つ残らずガンナが神界へ送り返した。もちろん、神官や天使らは警戒したことだろう。だが、悪魔は黄金の剣には指一本触れられない――両者ともに百も承知の事実だ。それが天使らの油断を招いた。

 黄金の剣は、ひとたびヴァルハラの武器庫へ保管されたという。だが数ある武器の中に無造作に仕舞われたそれは、事情を知らない天使の不手際で使用されることになった。

 ヴァルハラには選別人(ヴァルキューレ)が集めた死者(エインヘリャル)たちが、日夜、ラグナロクの為に腕を磨き、闘技を行っている。その闘技場で、例の剣が使用されたのだ。

「エルフのまじないは百の命を生かし、千の命を奪う。一度、この目で拝見してみたいものですわ」

 柔和な声に、エリアスは視線を上げる。隣のスツールに、光沢のある上品なマントを羽織った魔女が腰を下ろした。背に垂らした金髪は、たっぷりと艶やかに光っている。

「ローザ」

 名を呼べば、ローザはふっくらと紅い唇に微笑みを湛えた。すでに魔力も回復しているようで、張りのある肌に、眼差しは力強い光を帯びている。

「闘技場には戦士(エインヘヒャル)の他にも、多くの観戦客がいたそうですね。残念ながら、ヴァルハラの主であるオーディンは不在だったようですが…」

 神界の最高神であるオーディンは不在だったものの、そこでは多くの神々、天使が、戦士の勇姿を観戦していた。

「そこであんな悲惨な事件が起こるなんて、驚きましたわ」

 微笑みながら、ローザは心にもないことを言った。そして、含みのある眼差しをエリアスに向ける。愛らしい焦げ茶の瞳は、底が見えない湖のように深く妖しげだった。

「そうだな。どこまで知っているんだか…」

 エリアスは愉快な気分で、小さく肩を竦めた。どうせエリアスが言わなくとも、ローザは知っている。事のあらましは、もしかすると彼女の方が詳しいかもしれない。

「闘技に参加していた戦士、百名はみな消滅、神々や天使の約三十名が負傷ですから。オーディンにとっては、かなりの痛手になったのではないでしょうか」

 例の剣を使用した戦士たちは突然、闘技を止め、一斉に辺りの観客に襲いかかった。それはまさに意思のない操り人形で、ただ目前の敵を斬る為だけに剣を振う殺戮兵器と化していた。

「呪返しのまじないに加えて、悪意の魔力を込めるなんて。ガンナ長官は呪い(まじない)の意味をよく分かってらっしゃる」

 神々や天使、悪魔たちは、たとえ死を迎えても、死に変わり生まれ変わり、甦ることが出来る。だが“消滅”したものは、決して甦ることはない。存在が消えてしまうのだから、あるのはただ無だけである。

 ヴァルハラの戦士(エインヘヒャル)は、ラグナロクの為だけに集められた戦力だ。言わばオーディンの私兵で、神とも天使とも異なる力を持つ者たちだ。彼らが、ラグナロクを向かえた神々の行く末を担っているとも言える。その戦力が、一度に大量に消滅してしまっては、最高神も困ったことだろう。

 妖艶に笑みを浮かべていた顔とは裏腹に、ローザはじ、と物思いに耽るように、カウンターのグラスを睨み付けていた。グラスを持った指を頻りに動かしている。カチカチと長い爪とグラスがぶつかる音が響いた。

「ラグナロクがくる前に、神々を地に引きずり落とすことが出来ればいいのですけれど……でも、ああ、…」

 ゆらりと俯いていた顔を上げ、ローザはエリアスを横目に見上げた。きらりと潤んだ瞳が輝き、火照った体が寄せられる。エリアスには、睫毛の先端に光の粒子が集まっているように煌めいて見えた。

「せっかくこうしてふたりでいられるんですもの、もうちょっと、色っぽいお話でもしましょうか」

 ね、エリアス次官――耳元で囁かれた声と投げ掛けられた熱い視線に、エリアスはグラスを傾けながら、見詰め返した。彼女の視線は、酒のようだとエリアスは思った。それも最上級の酒だ。喉越し良く通り過ぎておきながら、じわじわと腹の底から熱の塊が大きくなって、体中に浸透していく。微温湯に浮かぶような、不思議と愉快な気分になるような酔い心地だ。

「そうだな、冥界の夜は長い」

「ええ、とびきりのモーニングティーを用意致しますわ。だからそれまで――」

 店内に流れるのはムーディなジャズだ。ふたりはじ、と絡み付いて離れないような視線を交わして、軽くグラスを合わせた後、小さく掲げた。


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