F
王都へ戻る道すがら、エリアスは霧の町を通った。夜が明け、明るい月が空に昇っても、町は白く不透明な濃い霧に覆われている。朝霧の中で青褪めた軍馬を進めながら、エリアスは町のあちこちに黄金の死者たちに応戦したのであろう跡を見付けた。
霧の町には、多くの魔女や魔術師が住んでいる。強力な魔法の名残が、未だに宙を漂っていた。ただし、彼らにも神の剣は消し去ることはできなかったらしい。町の片隅に、黄金の剣がいくつも纏められている。神の気を浴びぬよう、誰かが結界を施したようだった。
「エリアス――あの死者たちは一体っ…罪人が、なぜ神の剣を持っている?」
町の中央にある広場には、多くの魔術師たちが集まっていた。エリアスの馴染みの魔術師もいる。彼らはエリアスの姿に気付くと、明け方に町を襲った黄金の鎧について問うた。
「俺も王都に戻る途中なんだ。詳しいことが分かれば、すぐに伝える! それまですまないが、警戒を怠らないでいてくれ」
「俺たちは構わないが……王都は無事なのか? ここは被害という被害もないが、…」
そう言うものの、エリアスと同じく、魔女や魔術師たちも相当魔力を消費している。表情には疲労の色が見えた。
「怪我した者は?」
「ああ、向こうで、ローザが治療してくれている。それほど酷い者はいないよ」
「そうか…」
老練の魔術師が指す方向へ、エリアスは視線を向けた。そこには艶やかな花々に囲まれた小さな建物がある。イヴァンが言っていた、ローザの新しい店だ。大きなガラス窓を覆うレースのカーテン越しに、騒然とした店内が見て取れる。怪我を負った悪魔や魔術師らの合間を、ひとりの魔女が忙しく動いている。美しく波打つ金髪は見る影もなく、魔女は色が抜け落ちたような白い髪をひとつに縛っている。魔力の消費によって一気に老け込んでしまった彼女は、そんなことは気にも留めずに、壁際に並ぶ薬箪笥へ向かった。
「エリアス、あまり、見ないでやってくれ…」
負傷者の手当てに一心に動く魔女の、その華奢な背を見詰め、みんな無理はしないように伝えてくれ、とエリアスは頷いた。
「エリアス、……あんたこそ大丈夫かい。頭の毛が真っ赤だ」
「ん、ああ、…まだまだ動けるさ」
心配げな老魔術師の眼差しに、エリアスは後ろに縛った長い髪を指先で引っ張って笑った。漆黒だったエリアスの髪は、魔力を極限まで出し切った深紅色となっていた。
「なああにが、“まだまだ動ける”だ! このアホたれ!」
軍事局に戻ったエリアスは、ガンナの執務室にある長椅子に横たわったまま、恐ろしく不気味なガンナの渋面を見上げた。ふわふわと柔らかな金髪も逆立っているように見える。
この執務室に行き着いた途端、エリアスは倒れたのだ。気が抜けた、という方が近いかもしれない。
目が霞み、神経が鈍麻したように全身が酷く怠い。だが、執務室に溢れる植物の緑と土のにおいや、いつもは暢気な顔をしているはずのガンナの顰め面を目の前にして心底安堵した自分に、エリアスは笑ってしまいたくなった。
「荒野の老犬なんて、捨て置けばいいものを…」
「あの地を守るものがいなくなったら困ると、前に言っていたじゃないか」
ガンナは眉を寄せ、責めるような眼差しをしている。長椅子の傍で、エリアスへそっと手を伸ばす。紅い髪を梳くように動く手を好きにさせておきながら、エリアスは勝手なんだからなあ、と小さく呟いた。何気無く見上げれば、ガンナは未だに難しい顔をしている。だが指先は優しく労わるような動きで、髪を撫で、頬を撫でる。エリアスはその温もりに、吐息をついた。
「それに、少し休めば回復する」
エリアスは体を起こそうと顔を上げた。それを戻すように、ガンナの手が押し遣る。近付いたガンナの表情が陰となり、エリアスは目を細めた。
「……見栄坊も程々にしろ」
低く、感情を押し殺したような囁き声と共に、ふたつの唇が重なる。
心地良く流れ込む魔力を感じながら、何だ…怒ってるのか、とエリアスは思った。ガンナに身を任せながら、目を閉じる。喉の渇きがしっとりと潤うように、エリアスの全身に温かなものが広がっていく。甘やかな痺れだ。静かに、確実に、力が戻ってくるのを感じる。
「……俺はお前の手足のようなものだ。必要ならば剣にも、楯にもなる。だからそう――腹を立てることはないだろ」
一度唇が離れると、エリアスはそっと視線を上げて、宥めるように囁いた。
「危険を冒してまで、とは命じてない」
「また屁理屈を…」
エリアスは思わず笑いながら、制止するようにガンナの口元に手を当てた。
「これ以上はお前の体に負担が掛かる…」
「すぐにまた、お前に行ってもらわなくちゃならないところがある」
「そりゃあ……じゃあ、もうちっと貰っておこうかな」
迷うように視線を逸らしつつも現金なエリアスに、ガンナは指先に口付けを施しながら、優しく微笑した。