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「ああ、エリアス次官!」
その日、一日の業務を終えて鍛錬場に顔を出したエリアスに、まるでたった数時間でげっそりと年を取ってしまったかのように疲れ果てた部下たちが縋るような声を上げた。どの部下も擦り傷切り傷打撲で満身創痍、ぼろぼろである。鍛錬場の地面に転がったまま、気絶しているものもいる。
「もう、滅茶苦茶なんですよガンナ長官! 早く止めて下さい! じゃないと演習の前にみんなやられちまいます!」
数百名もの悪魔たちが重なり合うように倒れているその中心に、特注の白い軍服を肩に羽織ったガンナの姿があった。左手には、木製の模造刀を持っている。その姿を認めると、エリアスはやれやれ、と溜息をついた。
「うちの連中を使い物にならなくするつもりか、ガンナ長官。程々にしてやってくれ」
足元に倒れる部下たちを見ながら、エリアスが声を張った。ガンナは刀を投げ捨て、不満げな顔をしたが、これくらい一日寝ていれば治るだろう、とエリアスの下にやって来る。ガンナはもちろん無傷で息の乱れもなく、その真白い軍服には汚れひとつない。柔らかな金の髪と、はためくような軍服の長い裾が風に揺れている。おそらく相対稽古をしていたのだろうが、数百名の猛者たちを相手にしても平然としているガンナに、エリアスはさすがだ、と静かに思った。まして、ガンナが持っていた得物は模造刀だが、部下たちが握っていたのはそれぞれが愛用している得意の得物だったのだ。軍事局の悪魔たちは当然みな、今までにも過酷な訓練を生き残ってきた実力のあるものたちだが、ガンナの剣の腕と魔力は比べ物にならない。
「極端なんだよ、アンタ……」
気絶した部下たちを介抱しながら、おかしいような呆れてしまうような気持ちで、エリアスは脱力した。
「次官……俺、ガンナ長官が訓練に参加してるところ、初めてみました」
目を覚ました新米のリオが、傍らのエリアスを見上げて、ほっと安堵の表情になる。ガンナも相手を見て手加減はしていたらしい。それでも体の節々が痛むのか、体を起こしたリオは痛みに顔を顰めていた。
「長官って、ただ何もしないで執務室に座ってるだけのイメージだったけれど、……本当は強いんですね。滅茶苦茶だけど」
痛む左肩を擦りながら、リオは呆然と言う。エリアスは正直なリオの言葉に苦笑を漏らしながら、そうだな、と少しだけ誇らしげに頷いた。
「……これから、お出掛けですか?」
湯浴みを済ませ、二階の寝室で休んだかと思っていた主人が紅い軍服を纏って降りてきたのだから、驚いたのだろう。その上、腰には一振りの剣を携えている。
「ああ、気になることがあってな。ガルムの荒野まで」
エリアスの屋敷の一切を取り仕切る使用魔は微かに目を見開いたが、それ以上は何も言わず、それではランタンをお持ちしましょう、種があった方が良いでしょう、と頭を下げた。
「助かる。流石に、身一つで荒野に行く気にはなれないよ」
エリアスは自嘲気味に吐息をついた。
ガルムが守る最果ての地は、駿足の青褪めた軍馬で駆けても王都から、ゆうに二時間は掛かる。ランタンの明るい炎を消さないよう気を付けながら、エリアスは軍馬を走らせた。
今夜は空を彩る鮮やかな光の帯も薄れている。枯れ果てた森に入り込めば、闇に巣食う魔物たちが蠢くのがエリアスには見えた。明るい夜には、光を避けて巣穴で眠っているものたちだ。そんな魔物たちを炎の灯りで焼いてしまわないよう、エリアスはランタンを軍服の懐へ差し入れた。
「ああエリアス、エリアス、荒野へ行くのかい」
「あそこはダメだ。恐ろしい化け物が出るんだ」
「エリアス、エリアス、戻っておいで。行ってはいけない」
崩れた巨木の下で動く影が、カサカサと枯葉が擦れ合うような音を立てて囁いている。
「恐ろしい化け物だと…?」
問うてもどうせ、答えてはくれまい。枯れ果てた森に住む魔物たちは予言めいた言葉を残すだけで、エリアスが求める答えをくれたことがないのだ。
「おお、おお、あのガルムでさえも敵わない……」
「用心して行くんだよ、用心して、用心して」
不吉な言霊に、エリアスは巨木の根元を振り返った。
「ああ、お前たち、何を知ってる…?」
闇の中で、影がカサカサと笑っていた。
ガルムの荒野には、枯木さえも立ってはいない。干乾び、ひび割れた大地が拡がっているだけだ。エリアスは軍馬から降りると、ランタンを掲げ、辺りを見渡した。
この荒野はたとえ悪魔の目であっても、灯りの届かない闇の中は見ることができない。冥界において真の闇で支配されているのは、この荒野くらいだろう。エリアスは足元にランタンを置き、静かに佇んだまま、神経を集中させるように目を伏せた。凶悪な気配が近付いてくる。
酸っぱいような生臭いような、鼻につくひどい臭いは、ガルムの体臭だ。魔物を食らうガルムからは、常に死臭が漂っている。エリアスは思わず眉間に皺を寄せ、口元を覆った。臭いが濃くなってきている――。
「小僧、何の用だ」
剣を構えた時には、エリアスは地面に引き倒されていた。体の上に圧し掛かる巨体は、爪を立ててはいないものの、エリアスの胸を押し潰さんばかりだ。地面に打った後頭部の痛みと、息が出来ない苦しさを感じながら、エリアスは低く地を這うような獣の声を聞いた。
熱く生臭い空気が顔面に吹きかかる。ランタンの僅かな光で、エリアスは目前に迫るガルムの太く鋭い牙を見た。
「ぐっ…カハッ…」
眩暈がして視界が暗く揺らいだところで、不意に体が軽くなる。エリアスは思い切り空気を吸い込んで、咽た。げほげほと体を折って呼吸を繰り返せば、次第に落ち着いていく。
「去れ、この荒野に立ち入るな」
エリアスが体を起こすと、目の前に赤黒い毛に覆われた巨大な狼の顔があった。頭の先は闇に溶けて見えない。エリアスの倍以上の背丈のある狼――ガルムだ。尖った鼻先のごわごわした毛の間から、腐敗した肌が見え隠れしている。辺りには死臭が満ちた。
エリアスは咳払いをして、口を開く。
「……俺は、軍事局のものだ。一週間ほど前か、ここで奇妙なことが続いていると聞いて来たんだ。神界でも、妙な動きがある。大事になる前に確かめたい」
エリアスの言葉に、ガルムは大きな鼻を膨らませた。ふう、と嘲笑うように息を吐き出す。
「お前のことは知っている、紅き悪魔エリアス。ここまでひとりで来るとは、話に聞くように勇敢で、そして浅墓な者。だが、この荒野で好き勝手はさせない。――誰にも、だ」
ガルムの鋭い眼光を受け止めながら、エリアスは剣を手繰りよせて、その場に立ち上がる。先程のような殺意は感じないものの、ガルムの態度は強硬だ。エリアスをその場に縫い付けて、先には一歩も踏み入らせようとしない。ランタンが照らす小さな光の円の中で、エリアスはそっと辺りに目を走らせた。姿は見えないが、ざわざわと狼たちの不穏な気配が感じられる――ガルムの子供たちだ。エリアスは舌打ちを漏らしつつ、帰す気もないんじゃねえかよ、と引き攣った笑みを浮かべながら、ガルムに視線を戻す。
「枯れ果てた森に住む魔物たちが、お前も敵わぬ化け物が出ると言っていたぞ。一体、何のことだと思う」
「力のないものほど大法螺を吹く」
「あそこに住む魔物たちは、先見の明がある。お前の手に負えないものであれば、間違いなく、王都も危うい。――陛下や女神を危険に晒すことになるぞ」
ぐるぐると粘っこく喉を鳴らすような、飢えた獣の息遣いが背後に迫っている。心を落ち着かせるように唾を飲み込んで、エリアスはガルムの返事を待った。だが、不愉快そうに細めらたガルムの黄色い目玉が興味を失ったように逸れていくのを見て、エリアスは剣を握り直した。
「我が従うのは、ただひとり」
ガルムは囁くように言うと、闇の中に消えた。――それと同時に、エリアスを取り囲んでいた狼たちが一斉に飛び掛かる。
「…畜生め!」
悪態をついて、エリアスは大きく剣を振り上げた。鋭く残忍な牙が、体を掠める。ガルムら狼は魔物の魔力を食らう獣だ。傷付けられた部分から血が滲むのと同じように、魔力が零れ落ちていく。
「そんなに俺の魔力が喰いたきゃ、くれてやるぜ!」
切っても切っても闇の中から湧いて出てくる狼たちに、エリアスは不敵に笑いながら、剣を横に薙ぎ払う。
「お前らの腹に、納まり切るか?」
強烈な炎が巻き上がり、闇に一筋、紅い光が閃いた。
エリアスの剣から生まれた炎は、まるで蛇のように地を這い、鳥のように舞い上がる。それはもはや意志を持つ生き物のように、狼たちを呑み込んでいく。闇を一瞬にして暴いた炎はぎらぎらと発光しながら、絡み付くように広がった。
エリアスは地面に膝を付いて、ランタンの炎に手を翳した。ランタンに納まっていた小さな炎が、エリアスの力に応えるように、大きく鮮明になっていく。
エリアスはうっすらと微笑みながら、ばちばちと爆ぜるような音を聞いた。
「いい加減にしないと、お前の可愛い子らが焼け死んじまうぞ」
泣き叫ぶような大きな咆哮が闇に響く。
「来たか、ガルム」
地響きが急激な速さで近付いてくるのを感じながら、エリアスは剣を構えた。
巨大な影が、エリアスが張った炎の幕を打ち破る。エリアスはその油を被ったようにどろどろと熔けかけた前足目掛けて、剣を突き立てた。