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「何だって?」
ガンナの執務室で、エリアスは眉を寄せた。ひくひくと頬が痙攣している。
ガンナはイスの上に両足を乗せて、それを腕に抱え込むようにして唇を尖らせていた。不貞腐れた子供のような格好のまま、だからさ、と繰り返し言う。
「今度、大規模な軍事演習をやるよ。しばらくやってなかったから、ちょうど良いじゃない」
「そんな急にっ……一体どこで?」
「ビフロスト」
足を下ろして座り直すと、エリアスを見上げるガンナの眼差しが鋭くなる。
「虹ノ橋付近の草原だ。……陛下は、神界の不審な動きに憂慮されている。神界への牽制にもなるだろうし、向こうの出方を見るいい機会にもなるだろう」
神界と冥界には、かつて虹の橋が架けられていた。数百年前の戦争でその橋は落とされたが、大昔には神界と冥界は繋がっていたのだ。橋がない今でも、その周辺の草原は虹ノ橋と呼ばれ、最も神界に近い位置として、厳重な警戒態勢が敷かれているのだ。
「そんなわざわざ、藪をつつくような真似……だいたい、先方を刺激するなと言ったのはアンタだろう」
エリアスが呆れた眼差しを向ければ、ガンナは小馬鹿にするように吐息を吐いた。
「まったく話にならないのさ、あのバカ神官どもは。わざわざ俺が、出向いた意味がない」
その言い草にエリアスが苦笑する。ガンナもおかしそうに肩を竦めた。
「とはいえ、この規模の演習だと、前回は三百日ほど前にやったきりか。小さいものはひと月に一度やっているけれど……少し、準備に時間が掛かるな」
「そうだな、実施は三週間後。それまでにある程度、鍛え直しておかなくちゃなあ。ああ、忙しくなる」
ガンナは面倒そうに背凭れに体を倒すと、天井を見上げた。そんなガンナにエリアスは、今回はさすがに参加してくれよ長官、と釘を刺すように告げた。
「ここも向こうも、大きな変わりはなし、か…」
虹ノ橋、谷の向こうに、空を突き抜けるような高い崖が見える。その上に建てられた要塞には、常に天使が十数名駐屯していた。
谷のこちら側は冥界とはいえ、虹ノ橋付近は神界に最も近い危険区域だ。定期偵察の任を受けている情報局員の護衛の為に、軍事局からエリアスも同行していた。
虹ノ橋はやわらかい芝の草原が広がり、貴重な植物が群生している美しく長閑な場所だ。神界に最も近い場所でなければ、こうも警戒する必要はないだろう。虹ノ橋にしか咲かない花の芳しい香りを感じながら、エリアスは青白い軍馬から降りた。
「ユーリ長官、蝙蝠たちが戻ってきます」
谷の向こうで、偵察監視用の黄蝙蝠が数匹羽ばたいている。特殊な望遠鏡を持つ情報局員の悪魔が声を上げた。それに、情報局員長官であるユーリが頷く。
ユーリは、イヴァンの後任の若い悪魔だ。さっぱりとした短い髪に、既定の制服をきっちりと着込んでいる。聞くところによると、今回のように自ら現場に赴くことが多いようで、エリアスには彼が長官という立場に気負いを感じているようにも思えた。退官しても尚、情報局に関わりを持ち情報を提供しているイヴァンの気持ちも、エリアスにはほんの少し分かったような気がした。
谷を越え、偵察から戻ってきた蝙蝠たちの報告を書きとめながら、ユーリは神界と冥界の間際にある強固な要塞を睨み付けた。
「ガンナ長官が仰っていた軍事演習は、どの辺りで行うのですか?」
「この辺りは結界の力が強いですからね。それに影響を与えないように、もう少し離れるはずです」
虹ノ橋には、強い防御の結界が張ってある。また、あちこちに空間移動の魔法陣が仕掛けられていた。神界からの侵入者があれば、すぐに軍事局の悪魔が召喚されるのだ。これらの魔法陣は百五十年前の発動を最後に、沈黙を守っている。だがそれも、いつまで続くか分からない。魔王にも、女神にさえも分からないだろう――底からじわじわと湧き上がってくるような胸のざわめきに、エリアスは静かに目を伏せた。
「そういえばユーリ長官、最果ての地で、何か変わったことはありませんか?」
調査を終え、王都へ戻る途中、エリアスは何気無く背後を走るユーリへ話を向けた。ユーリは丁寧に馬の手綱を引きながら、何か気になることでも? と問い返す。エリアスは微笑み、小さく首を振った。
「いえ、ただ、面白い噂を小耳に挟んだものですから……ガルムの荒野まで、逃げ出した死者がいるとかいないとか。なかなか頑丈な人間もいるんですね、そこまでしぶといのなら兵士としてでも使えますかね」
氷の地や灼熱の地に服役する囚人たちの監視は、情報局の管轄だ。エリアスは冗談話のように言いながら、さすがに人間は使えないかな、と肩を竦めた。
ユーリの顔色は変わらない。ただ、エリアスを見詰める瞳にうっすらと剣呑な光が現れる。それは小さな敵意を含むものだ。
「さあ…どうだったでしょう。ただ、あの地から逃れられる者は、いないと自負していますが」
はっきりとした物言いに、エリアスは思わず苦笑を浮かべた。まるで、他者から――しかも軍事局から失敗を指摘されて、拗ねた子供のような反応だと思ったのだ。もちろん、ユーリには情報局としての自負と自尊心とがあるのだろう。
イヴァンから、荒野で見付かった両腕のない死者の話は聞いているはずだ。エリアス自身も、まさかそれが脱獄者だとは思っていない。囚人たちの管理は徹底されている。だが、荒野で見付かった躯が脱獄者でないとすると、どこから入り込んだ人間なのかが問題になるのだ。おそらく情報局の調査も、思うように成果が出ていないのだろう。
「……そうですね。まあ、俺もそう思いますよ」
こりゃガルムに会う必要がありそうだな…と思いながら、エリアスは苦笑を隠して、盛大に頷いた。