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B

 冥界には、太陽がない。しかし昼間には青空を月が照らし、夜には漆黒の空一面に艶やかな光の帯が現れる。移ろう赤や白、緑などの色合いは、悪魔でさえも見惚れる美しさだ。エリアスは以前、王都で服役していた人間から、地獄がこんなに明るく美しいところとは思わなかったと聞いたことがある。それは女神ヘルが治めているのだから当然だ、と得意げに思ったものだ。

 王宮の奥にある館に住む女神は、決して姿を見せない。だがこの冥界で月が輝くのも、風が吹くのも、木々が茂るのも、川が濁らず流れるのも、女神の力によるものだ。

 青みがかった緑色に帯びた夜空を眺めながら、エリアスは王都の外れにあるパブへ足を向けた。

「相変わらず繁盛してるな、イヴァン」

 鬱蒼とした森を背後にある店は、あばら屋のような古びた外観とは裏腹に、店内は広く小奇麗で、大勢の客で賑わっている。カウンターに腕を置いたエリアスは、店内を見渡した。悪魔、エルフ、魔女、人間、吸血族、ドワーフ、鬼――様々な種族が来店している。

「嫌味かい。ここに来る時はそれを脱いで来なと言っているだろう」

 店主であるイヴァンはカウンターに身を乗り出すようにすると、赤い唇を小さく開け、囁いた。悪魔とは異なる尖った耳を持ち、青い瞳に透き通るような肌、月の光のような銀色の長い髪に、若々しく美しい容姿。そしてその声色は、魔物を容易く惑わせてしまうほど甘やかだ――エルフであるイヴァンは、いつものようにグラスに酒を注ぐと、エリアスへ手渡した。

「アンタが来れば、せっかく羽を伸ばしに来てくれる人間どもが怯えて帰ってしまうよ。軍事局の切り札、紅き悪魔エリアス次官」

 王都の外れ、灼熱の地へと続く山の近くに位置するこの店は、灼熱の地で懲役に服す人間たちが唯一の楽しみにしている店でもある。日々の労働を終えて外出の許可が得られれば、途方もない道のりといえど挙ってここにやって来る。エルフであるイヴァンの美しさと、美味い食事、最高の酒。人間たちにとって、ここは“天国”だ。

 イヴァンの采配で、ここでは魔物たちも人間に手を出すことはない。皆、酒を飲み、仲間たちと歌い、騒ぎ、享楽に耽ることを目的にしているからだ。そんなところへ軍事局の悪魔がやって来たとあれば、一体何事だろうかと店内に緊張が走るのは当然だ。エリアスの燃えるような軍服は目立つのだ。しかし時間のある時に度々店に立ち寄ることで、ようやく客たちもエリアスが軍事局の仕事で来店している訳ではないと解釈したようだった。

「お褒めに与り光栄の至りに存じますよ、元情報局敏腕長官殿」

 グラスを軽く持ち上げて、エリアスは微笑んだ。

「まさか情報局の元長官が、こんなところで酒場をやっているとは、誰も思わないだろうな」

「趣味だよ、趣味。退官後は、のんびり畑仕事でもやりながら、こうして料理と酒を振舞って、好きなことをしたいと思っていたのさ」

 酒は、魅惑の飲み物だ。寡黙を饒舌に、小心を大胆にする。些細な噂話から自慢話、他者には言えぬ秘密の話、思いのままに談笑している客たちは、その話が全て情報局に流れているとは思いもしないだろう。うっとりと微笑むイヴァンを横目に、エリアスはどうだか、と呟いた。

「それより元長官殿、何か変わった話はないかな」

 エリアスの言葉に、イヴァンの瞳が細められる。鮮やかな青色が、妖しく揺らめいた。

「外界に繋がる最果ての地があるだろう。ここ何日か、そこで奇妙なことが続いているらしい」

「奇妙なこと…?」

 イヴァンの低い声が囁く。エリアスはそっと体を傾けた。

「両腕のない死体(にんげん)が何体か発見されている。情報局(ウチ)の若い連中は、冥界から逃げ出した囚人がガルムにやられたんじゃないかって言ってるみたいだけどね」

 イヴァンはそっと溜息をついた。

 ガルムは荒野を守る巨大な狼犬だ。冥界から逃げ出そうとする死者を見張り、外界からの侵入者を追い払う役目を持つ、凶暴な魔物だ。ただし逃げ出そうとする死者を、魔王の許可無く噛み殺したことなど今までに一度もない。

「その死体、他に変わった点は?」

「それが、発見した時には半分朽ちていて、一体どこの誰なのかまでは分からなかったみたいだ」

 エリアスはイヴァンから視線を逸らすと、賑やかに酒を飲み交わしている人間たちを横目に見た。その視線を追うように、イヴァンも顔を上げる。

「人間たちから、脱獄した者の噂は一切聞かないな。ここに来る者たちは真面目な人間が多いからかな。何より、あそこはそう簡単に抜け出せるようなところでもないしね」

 エリアスの考えを当てるように、イヴァンが続ける。

「あと変わった話と言うと、ローザが霧の町に店を出したそうじゃないか。魔薬とハーブの店らしいね」

 イヴァンはそう言うと、思い出したように、シンクに下げられた汚れた食器を洗い始めた。ふうん、と頷いて、エリアスは席を立った。

「せっかくだから会いにいってあげればいい。ローザが夢中なお優しいエリアス次官」

 背後にクスクスと笑うイヴァンの声を聞きながら、エリアスは店を出た。

「――また今度な」

 ローザは冥界一の魔女だ。ゴシップ誌を飾ることも多く、悪徳を好む自由奔放な魔女で、時折イヴァンの店にも顔を見せる。社交界でも有名で、官僚や上流貴族との交流もあり、政界の裏事情に精通している。

 情報局とはまた違った独自の情報網を持つ彼女とは、エリアスも何度か会ったことがある。それは主に王宮主催のパーティーだ。波打つ金髪に、豊満で魅力的な肉体を余すところなく強調した漆黒のドレスに身を包んだローザは艶然とし、毎回周囲の悪魔たちの視線を集めていた。

 ――でもね、あなたさえ良ければ、あなたの“専属”になってもよろしいのですよ…。

 魅惑的な唇が囁いた言葉を思い出して、エリアスはぞくりと背筋を撫でられたような気分になった。現魔王の采配に不満を持つ官僚が謀反を企てているという情報が入って、軍事局も調査をしていた時期のことだ。ローザの情報のお陰で事なきを得たが、あれからエリアスは一度も顔を合わせていない。

 魔女は気位が高く、狡猾で美しい、裏切りの生き物だ。取り入ろうと近付いておきながら、決して、自分の内には踏み込ませない。おそらくきっと、彼女もその駆け引きを楽しんでいる。エリアスも同じだ。

「ま、惜しいといえば惜しかった、かな……」

 赤みを帯びた光に変化した空を見上げ、小さく煌めく星々を眺めながら、エリアスはひとり肩を竦めた。


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