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第99章「麻里のゆく道」

 月見坂女子学園の体育館は、朝から降りしきる雨のせいで、ジメジメしていた。

 天窓からはしとしと降り続く雨の音が響き、湿度の高い屋内は汗がかわかずじっとり服にまとわりつき、不快だった。

 しかし、より部員を陰鬱にさせたのは、月見坂女子学園新体操部コーチの尾野寺が不機嫌であることだった。

 中央のマットの上では一人の部員が、その上で練習に励んでいる。

 だが――。


「だめよ、だめ! ああもう!」


 鬼コーチの異名を取る尾野寺のしわがれた叱責声が響く。

 音楽が止められると同時に、ボールと共に舞っていた少女の動きも止まる。

 ついさっきまで笑顔だった少女の顔は緊張と恐れで強ばる。


「全然揃ってない! バランスも悪いし、音楽にもあってない、最悪!あなた、何年新体操をやってるの!」

 

 彼女たちは月見坂女子学園新体操部。その大半は寮生活を送り、ひたすら練習に打ち込むエリートたちだ。

 大会前は選手は授業にも出ずにひたすら練習。それでも欠席扱いにはならない特別待遇であった。


「うう……」


 罵られた部員は、目には涙を浮かべ、嗚咽を漏らし始めた。


「泣いたって、上手くなるわけじゃないのよ!」


 容赦ないコーチの罵声が浴びせられる。


「二度とあんな目にあいたくなかったら練習しなさい」


 再び位置に戻り、練習が再開されようとする。

 その女子部員は、涙を堪え再び笑顔を浮かべようとするが、その顔はこわばりは隠せなかった。



「うう、えぐ……」


 その脇にやはり泣かされた別の女子部員が背中を丸めながら嗚咽を漏らしていた。

 当のコーチは厳しい叱責をした上、怒りが押さえられず、練習場を去ってしまった。

 しばらくすれば戻ってくるが、その間は一息つくことができた。

 部員たちは、しばしの安息を得た。


「今日の尾野寺コーチ、かなり「とさか」にきてるね」

「でもあんな言い方ないよ」


 一年上の部員が、嗚咽がまだ収まらないその部員の背中をさすって慰める。


「しょうがないよ……この間の絶対に落とせない覚悟で挑んた大会……また正愛学院の後塵を拝したんだから」


 少女たちが集まった顔を見合わせる。

 今まで月見坂女子学園が20年以上独占してきた優勝を3年前に正愛にもってかれた。

 その要因は、百年に一度の逸材といわれた龍崎宏美の存在だ。龍崎宏美に月見坂の新体操は歯が立たなかった。

 だが、それはたまたま天才が正愛に入っただけ、と誰もが思った。運が無かった。ところが、まさか立て続けに正愛に龍崎宏美に匹敵する逸材が相次いで出てくるとは想像もできなかった。


 再び月見坂は負けた。


 負けて士気が落ちているところに、コーチのあの叱責だ。

 もう辞めたいと漏らす子もでている。

 新体操部は月見坂女子学園の看板でもあった。

 新聞やニュースで取り上げられることもあり、取材されることも多々あった。学校のイメージ向上や広報に貢献していることもあり、校長すら口出しできず、時に従わせるほどの絶大な地位と力を、コーチの尾野寺は持っていた。

 だが、正愛学院の躍進により、その勢いに陰りが出た。


「だって、凄かったもん。あたしも正愛の演技に魅入っちゃったから――」


 自分たちが対峙しているものを思い浮かべてため息をつく。考えれば考えるほど、相手は強大である。

 龍崎宏美の次は、今度は御手洗美乃理。それから清水敦子という子がいることを知っていた。中学の部も高校の部も正愛に敵わない。

 新体操界隈では月見坂は落ち目と影でささやかれる一方で正愛学院は黄金時代到来。しばらくは正愛時代が続きそうと専らの評判だ。

 そしてその状況には、大人の事情や思惑も絡んでくるのを、10代前半とはいえ、月見坂の少女たちは理解していた。

 これまでの月見坂女子学園新体操部の強さの要因は単に一コーチの指導のみではなく、名声を使って地元のクラブの有望選手を青田買いしては、入学させる。

 その強引な手法が長年の強さの秘訣になっていた。

 優秀な成績を残し新聞やテレビのニュースになり、学校のPRになってきたため、学校の幹部からも一目置かれていた。

 だが、このまま優勝を逃す状況が続くと、校長さえも口出しができない治外法権の特別待遇もなくなりかねないのだ。


 今後はそういう実力のある新体操小学生も、どっと正愛に流れそう――。

 尾野寺コーチ自身も手をこまねいたわけではない。

 情報収集には余念がなかった。

 龍崎や美乃理の噂を聞いて、月見坂女子学園へ招き入れようとした。

 だが、今回はその手法は通じなかった。

 花町新体操クラブは、新興のクラブだった。コーチの柏原自身も、正愛から体育大の新体操チームを経てコーチになった。しがらみを嫌う今風の若手指導者だった。

 柏原に直接かけあったが、本人が決めることと相手にされなかった。

 結局龍崎宏美も御手洗美乃理も、正愛を選んだ。

 御手洗美乃理が本命だったが、他にも有望選手を抱えていた花町新体操クラブで、唯一やってきたのが朝比奈麻里だった。

 そして、尾野寺が特に期待をかけているのも麻里だった。「うちで唯一対抗できそうな子といえば……麻里ぐらいね」が彼女の口癖だった。


「そういえば、朝比奈さんって……一緒だったんだよね……」


 お互いに顔を見合わせて一人の女子の名を口にした。


「ねえ、朝比奈さん、あなた小学校時代、同じクラブだったんでしょう?」」


 くせの強い髪を後ろで縛っているその女子部員が振り返った。


「御手洗美乃理ってどんな子だったの?」


 ジャージのままで、何度もボールの練習に取り組んでいた。

 ボールを腕や肩に滑らせたり、また大きく放り投げてキャッチ。

 一息ついて、湿気と激しい練習でにじんだ汗を拭いた。

 その名を聞いて、麻里ははっとする。そして目を伏せた。


「上手な子……です」

「それだけ……?」

「さあ……私にはわかりません」


 構わないでとばかりに、再びボールを手にして練習しているマットの上に戻った。



「麻里がそういうからには、いい子なんだろうね」

 気が強いことでも知られる。負けず嫌い、簡単に認めない。それは今も不変だ。

「知り合いの正愛の子に聞いたら、すっごく雰囲気がよくて楽しいって。龍崎宏美も御手洗美乃理も凄くいい子だって」

「えーっあたし、間違えたかなあ。クラブのコーチに薦められたから、月見坂うちに来たのに」

 なおも無駄な会話が続く輪を麻里は離れた。












「あんたたちにはわかるもんか――」


 麻里は聞こえない小さな声で呟いた。

 美乃理への麻里の思い――それは一言ではとても言い表せない感情だ。

 花町新体操クラブ時代、最初の頃は麻里が上回っていた。

 大会でよい成績を出すのは麻里で、その次が美乃理。

 だが、次第に美乃理もよい成績を出すようになり、最後の方は、逆に美乃理がやや上回るようになった。

 抜きつ抜かれつ。

 周囲は切磋琢磨するライバル同士と見ていた。

 だが麻里は知っていた。

 二人の競争をかけっことすると、リードしつつも、息を切らして必死に走るランナーが麻里で、余力を十分残し余裕で追い上げ、差を詰めてくるランナーが美乃理。


 ほとんどの周囲は、気づいていなかったが、麻里はその真実を知っていた。

 時の経過とともに、追い抜かれ、その差はやがて圧倒的なものになる。

 そして、柏原コーチには、その真実を見抜かれていた。


「美乃理ちゃんを意識しすぎ」

「無理をしないで」


 何度も忠告を受けた。

 その度に悔しい思いもしたが、実力は認めるようになった。

 かといって、負けを認めたわけではなかった。

 むしろ、目標――競うべき相手と明確に認識した。

 自分の持てる力を振り絞って向き合う。


 一番最初の時期にはダブルスクールで通っていたバレエを辞めて新体操に専念することにしたのもそのためだ。

 新体操にこの身を捧げる意気込みで挑んだ。

 そんな麻里には、実力の差以上にもっと悔しいことがあった。

 それは、花町クラブが美乃理を中心に回っていたことだった。

 美乃理と一緒にやると、不思議に皆がやる気を出す。勇気づけられる。美乃理が頑張っているのだから、自分も女子として新体操を頑張らないといけない。

 自分が女の子であることと新体操をできること、そのことを美乃理と共に常に意識しているようにさせられる。

 麻里ですら、練習に精がでるのだ。

 それが苦しくなった。美乃理に支配されてしまうような気がした。

 だれよりも自尊心が強い麻里にとっては悔しさが残るのであった。


 だから、あえて違う道を選んだのだ。

 別の環境に身をおくべきだと思った。


「美乃理のライバルは自分しかいない――自分でなければならない」


 それが六年間共に過ごした麻里の美乃理への思いだった。

今回は、番外編的な位置づけです。

次回からまた本筋のお話を進めていこうと思っています。一応スポ根ものではなくTSをメインにやっていきたいので……。

でも麻里の再登場するお話があるかも……?

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