第97章「一つの始まり②」
「じゃあ、これは……もう必要ないってことで、いい?」
好子の高梨部長が預かっていた退部届けを好子に差し出した。
「はい」
好子はまだ涙の跡が残る笑顔で受け取った。
「破いてすてちゃいなよ――」
「いいえ。これも大事な思いで……私の記憶として、これから先、こんなこともあった、って笑えるように――」
退部届を綺麗に折り畳んだ。
そして一週間が経った。
「いっち、に!」
新体操部で毎日一番最初に行うランニングに、取り組む姿があった。
「好子頑張れ!」
「あと少しだよ!」
ゴールの体育館前で既に走り終えた部員たちが叫ぶ。
その先には、少し遅れてラストをかける好子がいた。
体力作りのためのトレーニングで、いつものっけから脱落していたが、辛そうに、汗塗れ、息切れをしつつも最後まで食らいついてくるようになった。
厳しい練習にダウンして、横で伸びてしまうこともめっきり減ってきた。
「きっと、身体が軽くなってきたんだろうね」
部長は注意深く観察して、そう零した。
「え? そうなんですか?」
「ほら、結構違ってきてるよ。パンパンだった顔も少しすっきりしてきた。一番きつい時期を過ぎたんだね」
好子自身も、手応えを感じている。
成果を実感することで、楽しさややりがいを覚えたのだ。
「!?」
「すっごーい」
「二週間で、4キロもやせたの?」
「うん、スカートのベルトも一回り小さくなったんだ」
自分が成長している手応えを感じていたのだ。
成果を実感することにより、より新体操部の練習が楽しめるようになった。
卑屈だった表情や顔の陰りも顔からなくなり、笑顔もよく見られるようになった。
うつむきがちだった背中も今は、まっすぐ延びている。
その様子を美乃理は見つめた。
「美乃理のマジックが炸裂したね」
「あれは、好子ちゃんが自分で掴んだ成果です、私は何も……」
好子だけでなく、部の空気も変化した。好子の成長ぶりに、上級生の先輩たちからも賞賛の声が寄せられた。
皆目一致するのは一番成長したのは好子。もちろん、伸びしろが大きかったこともあるが、それを差し引いても、その変わりように驚かせた。
それを見て、皆気を引き締められた。
ほとんどの一年生は、くだらないいじめなど構っている場合ではない。もっと練習に打ち込まないと思い知らされた。
もう馬鹿にするものもいなくなった。眼でみる者もいなかった。
入部一ヶ月で早くも見違えるほど成長した好子の姿を見てむしろ焦りを覚えたのだった。
魔の誘惑と一年生たちが呼ぶアイスクリーム屋や、あるいはクレープ屋の前で立ち止まる様子もなくなった。
「こら、あんたたち、練習を再開するよ」
好子に気を取られていた一年生部員のやや弛緩した空気が急に引き締まった。
「は、はい!」
美乃理の優しげのこもる声ではなく、張りと厳しさもこもった声だった。
「は、はい!」
ちょうど好子が復帰してきた時期から、普段マイペースで一年生の前にはこなかった清水敦子の登場に驚いた。
「さあ、二人一組を作って」
敦子が意外に指導が良く、今度はうらやましがられ始めた。
苦手な子たちの指導を引き受け始めた。
「身体からできるだけ離して手具を扱いなさい。近いところだと、愛香なんか、大会の時にフィニッシュで投げ技をやった時に笑顔のままあたまにあたって、かつーん、っていい音がしたんだ」
最初どっと笑い声が起こる。
「こら、敦子!聞こえてるわよ」
やや遠慮気味に笑った。
「先輩! わたしもできますか?」
同じように体格が大きめの子が質問した。
がっちりめでややコンプレックスがあったのだ。
実際身体の小回りを聞かせるような動きはいつも遅れがちだった。
「そりゃ、基礎練習を怠らないことね。あとは、身体にあった演技をすること」
敦子の話を、目を輝かせながら聞いていた。
大会が近いとのことで、美乃理は、後輩の指導をいったんはずれて練習に集中するようになった。
代わりにルーキーの特にまだ拙い下位の集団の子は敦子が引き受けるようになった。それまではどちらかというと後輩の面倒はほったらかし――。
思いのほか、敦子の指導は上手で楽しいことが意外だった。
美乃理がいったん指導から引いたのは残念がられたものの――。
同じように身長だけでなく体格が大きい子は、切実な悩みのように、質問をぶつける。
同じ傾向のある敦子が自らやってみせる。
大き目の身体をまったくものともしないように滑らかに動かす。むしろ大きめの体格は、力強く、ダイナミックにすら感じさせる。
片足でつま先立ちをしたまま、、もう片方の足を膝のあたりにくっつけるようにまげて、身体を回転をさせる。
「手具、できるだけ身体から離すように意識しなさい。身体にぶつけたり接触してミスすることを避けるためにもね」
「敦子先輩って、すごくいいよね」
「うん、かっこいいし――」
「あんた、この間まで美乃理先輩一筋っていってたじゃん」
「ど、どっちもよ」
雰囲気は急激に変わりつつあった。
だが、一方でまだ状況の変化を自覚をしていない者たちもいた。




