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第93章「変わらないもの③」

 あれは小学二年生の春。

 既に新体操の道を行くことを決心した美乃理は今の自分を受け入れていた。

 もちろん戸惑いや、悩みがないわけではない――。

 なにもかも女子としての生活になじんでいるわけではない。

 また女子の方が人とのつきあいは難しいところがある。

 けれども、かつてのじぶんではなく、新しい美乃理じぶんとしての日々に充実を感じていた。

 練習を終えた美乃理たち花町新体操クラブのメンバーたちが、最後の連絡事項の伝達のために集合した時のことだった。 


「みんな、うちに帰ったらそれをお母さんたちにみせてね」


 柏原コーチが一枚のチラシを配り始めた。


「また……発表会かな?」

「この間あったばっかりだけど――」


 忍とささやきあった。

 発表会の数ヶ月前から日程の確保のために、こうやってお知らせの通知として配られる。

 だが、一枚一枚配られるそれを手にとって美乃理は驚いた。

 帰って保護者に見せるように渡されたそのチラシ――。

『育成コース生募集』

 とタイトルが降られていた。

 この4月から。

 美乃理を含め、キッズコースの生徒たちは驚きが広がった。


「先生! これってなんですか?」

「育成コース……みんな知ってるわよね? 三年生からもこの春から入れるようにしたのよ。」


 今までは育成コースは四年生からだった。

 それが三年生から。つまり一年早まったのだ。


「育成コースへの進級を希望する場合は、後で事務局まで申し出てください」


 いつもなら終わるとすぐに着替えるが、しばらくチラシをお互いにのぞき込んだり、顔を見合わせたりする。

 まだ先の話だと思っていた上への段階を昇ることになるのだ。

 チラシを読み込む少女たちは静まり返る。

 時間は、キッズコースの1コマ後。

 進級にあたっては、テストも行われる。入ることができない場合もありますと申し添えられている。

「どうしよう……」

 と呟く子もいた。

 育成コースの厳しさと、コース生のレベルの高さは、キッズコースのメンバーにも知れ渡っていた。

 何せ今や各種新体操の大会で、ジュニア部門で優勝を飾り、注目を集める龍崎宏美がいるコース。

 クラブでも一番の花形。

 だが――。

 キッズコースの女の子たちの大半は、その練習内容に足が竦んだ。

 練習は原則毎日。休日ももちろん練習。

 公式な大会にも積極的にでる。

 今でも発表会前は練習が大変なのに――。

 

 そして美乃理も固まっていた。

 

「美乃理ちゃんは、もちろん行くよね?」


 忍の顔は声はなぜか明るかった。


「え?……」


 すぐには答えられなかった。

 それは――、いつかはこの日が来ると思っていたものだが、今日だとは思わなかった。

 忍とはクラスが分かれることになるかもしれない――。

 周囲を見回してみた。

 すぐ隣の神田亜美も手にしていたが、既に決心をしているような表情だった。


「亜美ちゃんはどうするの?」


 忍の質問に亜美はセミロングの黒髪を少しいじった。


「帰ってお母さんにみせるよ」


 その口調も決意が感じられていた。


「御手洗さんも、申し込むんでしょ?」

「え? う、うん、あたしも帰って相談する」


 ちらりと見てみた朝比奈麻里の様子は、もう決めているようで、既に片づけと着替えを始めていた。


「おたくはどうします?」

「うちは……ちょっと難しいですねえ。送り迎えも大変だし、衣装代も……それに見合うだけの結果も……」


 迎えに来てすぐにチラシを見せられた保護者たちももちきりだった。

 皆入りたがった。


 楽しかった。

 女子としての生活も新体操もこれまでやってこれたのは、忍がいたからだった。

 困っているときには助けてくれて、悩んでいるときには、根気よく慰めてくれた。

 そして美乃理が普通とは違うことを薄々感じていながらも、それをあえて追求しなかった。

 だから、美乃理は美乃理としてやってこられた。

 稔とは違う道を着実に歩んだ。

 だが、美乃理には果たすべき約束があった。

 正愛の新体操部に入るという約束――。


「うん、いく……つもりだよ」


 やっと口に出した。

 三日月先生との約束を忘れたことはないからだ。


「し、シノちゃんは、どうするの?」


 それ以上は何も言えず、美乃理は質問をそのまま返した。


「あたしは……無理そうだから、このままかな。続けたいけど、あたしは運動が苦手だから――」

「そう……」


 寂しそうな顔をした。それを見た忍は美乃理の手を握った。


「でも……絶対、美乃理ちゃんは行くべきだよ」 


(あ……これって)

 思い出した。

 最初に美乃理になったあの日。こうやって忍に手を握られた。



 その晩――。


「お父さん、お母さん、これを見て」


 テーブルを囲んだ夕食の席で、美乃理も、帰ってそのチラシをみせた。

 その日、珍しく父も母も仕事が早く終わって、帰宅していた。


「まあ……育成コース……」


 母はチラシを見て、そう呟いて内容に見入った。


「大変よ? 毎日練習なんでしょ?」


 頭ごなしの否定ではなかった。

 既に美乃理が今のキッズコースでも1、2を争う上手さで、クラブに通わせている保護者の間でも一目置かれるからだ。

 かといって諸手をあげて賛成というわけではない。 

 母は父の方をみる。


「以前、あなたと話し合ったときに、4年生ぐらいから塾に通わせようって……」


 それでもかつての稔の時の教育熱がもたげてくるときがあった。

 稔を進学校の男子校に進学させようとしていたように、美乃理を進学校の女子校に進学させたい考えは、なくなったわけではないのだ。

 だが、父の反応は違った。


「やりたいのなら、やらせてあげたらどうだ?」 

「そうだけど……」

「もしやりたいのなら、美乃理も勉強もおろそかにしないようにな」

「うん」

「よく考えて決めなさい」


 その時――。

「あ……うう……うん」

 真剣な空気の中、可愛い幼い声が響いた。

 家族三人は一斉にテーブルの前のベビーチェアに座る子に目を向けた。


「あら……美香、どうしたの? おむつはかえたばっかりなのに……」


 生え始め得た髪の毛――。

 よだれかけ――。

 そして純粋な澄んだ瞳。


「よしよし……」


 母が言葉をしゃべり始めたばかりの美香をあやしていた。


「おねー……ん」

「きゃはは――しんた……う」


 赤ん坊の美香は、無邪気に笑って手を叩いた。


「あら、なんか美香も応援してるみたい」 

「そうだな……美乃理も期待に答えないとな」

「ありがとう、美香」


 そして身を乗り出して、人形や玩具であやし始める。


「ほら、お姉ちゃんと遊ぼう」 

「きゃはははは」


 美乃理があやしはじめると、たいてい美香は喜ぶ。


「もう、美香はお姉ちゃん子なんだから」







 次の練習日――。

 美乃理が育成コースへの進級を希望したことは、順当に受け入れられた。

 柏原コーチもそれを待っていたようだった。

 入るに当たって行われる進級テストも美乃理なら順当に合格する。


「頑張ってね、美乃理ちゃん」

「4月からは別々だけど、発表会応援しに行くよ」


 周りから励ましの言葉をもらった。

 これまでのように一緒に練習をともにすることはなくなる。

 キッズコース生の仲間の少女たちは残された時間を惜しんだ。

 朝比奈麻里も神田亜美も希望した。

 それらも順当に周囲には受け入れられた。


 だが――。


「え? 楢崎さんが?」

「忍ちゃんが、どうして?」


 周囲が驚かせたのは忍が育成コースを希望したことだった。

 自分には無理と言い切ったはずの忍が――。

 さらに上を目指すことを希望したのだ。

 噂はすぐに広まって、むしろ当然と見られていた美乃理たちの話題は一時的に追いやられることになった。

 美乃理にとっても、一番の衝撃だったといっていい――。

 美乃理は忘れない。

 その時の忍の表情は、いつもの優しい穏やかな顔ではなく、真剣な決意に満ちた表情だった。


   ☆   ☆   ☆


 ベンチで忍と好子が語り合っている間。

 美乃理は過去を思い出して、空を仰いでいた。

 ただの楽しい思いでだけでない、苦しいことも悲しいことも全てが詰まった思い出。


「後で、柏原コーチに個人的に呼び出されて、よく考えてから決めるようにって言われたの」


 進級してもいいけど、練習はとても厳しいし、特別扱いはしない。


「今までのキッズコースでは、言われたことができなくても、失敗しても、頑張れば褒めたけど、育成コースではできなければ頑張っても成果を出せなければ容赦なく叱りつけることもあるって」


 元々運動が得でなかった忍はキッズコースでもついてくるのにやっとだった。

 厳しい現実を指摘された。


「でも、コーチはあたしのことを心配してくれてたの。意地悪で言ったわけじゃない。真剣勝負だからこそ――」


 無理して育成コースに行くより、このままキッズコースにいればコースは違っても美乃理たちと一緒に続けることができる。

 でも育成コースに入って、挫折したら、おそらくそのままやめることになる。

 忍のことを心配してのことだ。

 でも忍は希望した。


朝比奈麻里、神田亜美といった子たちは、本来小学生の高学年編で、活躍する予定だったのですが省略してしまったために、出番が少なくなってしまいました。

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