第89章「試練⑦」
下駄箱で靴に履き替え、外に出ると雨があがっていた。
だが湿度と気温の高さは相変わらずだった。日が射してきた分、暑さも増していて、美乃理の額にも汗が滲んだ。
時折、追い越される女子生徒が「あ、新体操部の御手洗さんよ――」「走ってる姿も綺麗」
などと呟くのが聞こえる。
普段の部でのランニングのようにリズム良くといったわけでもないが、周囲の人にとっては優雅に走るように見えるらしかった。
出ると、住宅街の並木道、交差点を越え、さらに川の橋を越えると、商店街になる。
時折雨でできた水たまりを飛び越える。
「はあ、はあ……」
走り続けて美乃理も流石に息があがって立ち止まった。
「ふう……」
大きく息を吸って頭を上げたときに、ようやく見つけた。
巨体な丸い身体――特注のサイズの制服は遠く離れていてもわかった。
商店街にある店の前に一人立ち止まっていた。
「あれは……」
アイスクリーム屋だった。このお店はよく生徒が帰りがけに買い食いをする。いろいろなトッピングができて、やすくて量も多い。男子にも女子にも食べ物の話題で出る。
店の前に立て看板がおかれており、「新発売、特大3段重ねアイス。本日から一週間半額」と広告が唱われていた。
しばらく立ち止まっていた。
時折アイスを片手に出てくる客を見て、指をくわえている。
お洒落な看板。学校帰りに前を通る際の凄い誘惑――。よく部員も悪魔の誘惑だと囁きあう。
実際買い食いが禁止されている新体操部員が誘惑に負けて食べているのを見つかってお仕置きをもらうこともあった。
その店の前に好子が立っていた。
自動ドアの開けるボタンを押した。
ガア、と音を立ててドアが開く。
そしてそして足を踏み入れようとする。
店内にその巨体が吸い込まれようとした、その刹那だった。
「!?」
腕を捕まれた好子は驚いた顔で振り返った。
「駄目だよ、好子ちゃん」
目の前の美乃理に目を大きく見開く。腕をしっかり掴んで離さない。
「御手洗先輩……」
「今までの練習の成果が、泡になって消えちゃうよ」
一、二秒の短い時間だが、沈黙が流れる。
「ずっと頑張ってたのも、知ってるよ」
食べることが楽しみだった好子が何度も食の誘惑と戦い、堪えてきた。
アイスクリーム屋、クレープ屋、商店街は誘惑が沢山あった。
だが――。一度美乃理へ向けたその顔を再び好子は背けた。
「もう、いいんです。もう私は……もう、部員じゃ……」
美乃理に捕まれた腕をふりほどこうとする。
「まだ。まだ好子ちゃんは……新体操部員なんだよ。今日はまだ――」
「先輩と私は違うんです! 私には最初から新体操をやる資格がなかったんです。選ばれた先輩と違って……」
「同じだよ、違う、わたしなんかより、ずっと好子ちゃんの方が尊いのよ」
「?」
「わたしには本来新体操をやる資格なんてなかった……」
「そんな……先輩ほどふさわしい人は」
「本当よ、わたしは本当は皆が思ってるような女子じゃないの。愚かで、卑怯で新体操なんてとてもできるはずがなかったの」
いっそすっきりする。
自分の正体を――。自分は本当の女子ではない。稔という男子が転生した姿であること。
万引きをしたことも。そして自分で歩き出すこともできなかった。
言ってしまいたい、喉からでかかった。
「やめてください、御手洗先輩!」
「だってわたしに変わろうと思うきっかけを作ってくれたのが先輩なんですから――」
好子にとっては美乃理から新体操を奪うことは天に背くことのようにも思っていた。
「だから資格がないなんて、言わないでください」
しばし見つめ合う二人――。
思いが伝わったかはわからないが、ともかく最初は拒絶しようとした美乃理の言葉を聞くぐらいには、心が落ち着いたようだ。
「ここを……離れようか」
「は、はい」
お互い掴んだ手と腕を離した。
入り口でやり合う二人を、アイスクリーム屋の店員さんがのぞき込んでいる。
そういえばちょうど今日明日にオリンピックで新体操やってますね。




