第88章「試練⑥」
ロッカールームはしばしの沈黙に包まれ、外から雨が地面を叩く音だけが聞こえた。
湿気と暑さによる不快さは、よりいっそう空気を重苦しくさせる。
好子の退部届を手にしながら高梨部長は、視線を少し横にずらした。
「どうして……」
退部届の文字に美乃理の頭の中はしばし真っ白く染まる。
美乃理の背中越しに、敦子がのぞき込む。
「あらら……、今年の第一号かあ」
その言葉には、手遅れだったか、というニュアンスが滲む。
練習の厳しい正愛学院新体操部で、退部者は決して珍しい話ではない。
高梨の学年などは半分に減っている。
美乃理の学年が無かったのが奇跡といわれているが、元々人数が少ない年だったので比較できない。
美乃理は差し出された紙を受け取り、じっくりと読む。
確かに退部届の様式の紙に好子の名前が書いてあった。
「部長、これ……」
美乃理は、手に取ってその文面を見た。
大きな丸い体とは違って、ボールペンで書かれたその字は繊細な字だった。個人的な都合で退部を申し出る旨が短く書かれていた。
薄々感づいていたものの、手を打とうと思っていたよりも早く来てしまった。
「さっき、あの子の方から私のところに来て、これを届けてきたの」
「そ、それで何か言ってましたか?」
「何も言ってなかったよ……。ただ、申し訳ありませんって……。もちろん、説得はしたわよ。せっかく練習を一生懸命してたのに、ここでやめるのは残念だし、それに……」
そこで高梨部長は言葉を区切った。やや肩をすくめたのはこの問題の責任は部長にもその一端があるからだ。
「「嫌なことがあったのなら、聞かせてほしい」とも聞いたわよ。一年生の間で何かあったのか聞き出そうとしたけど、何もないって……自分の考えだからって言い張って頑なに口を閉ざしてた」
既に部長の耳にも好子に対する陰口や意地悪は届いている。
一年生の間に広がる陰湿な空気が深刻であることを認識し始めていた。
何か対策を、と動き始めようとした矢先だった。
普段のマイペースぶりの清水敦子が美乃理を呼び出したのもその証だ。
それに、もしこのことが噂として広まれば、部の名誉にもかかわる。深刻に思い始めた時期だった。
「部長、それで好子ちゃんには何て――」
「今日は預かっておくから、一日考えなさいって」
退部の意向を示した者は、慰留は一度はするが、無理に引き留めないのがきまりだった。
すぐには受け取らずに、頭を冷やす時間を与える。
だが、この様子だと好子の決意は固く、このままなら退部は確定であると思われた。
「最後まで彼女が新体操部にはいった理由、わからなかったね」
敦子が漏らした言葉に皆頷いた。
「ただ……一言だけいってた。これ以上、迷惑はかけたくないって」
「そんなことないのに……好子ちゃんは部に迷惑なんてかけてないのに」
美乃理は好子の努力を知っていた。だから精一杯好子の頑張りを評価しようとした。だが――。
「部ではなくて、好子ちゃんが言ってたのは、美乃理よ」
「あたし……!?」
高梨の続く言葉は意外な一言だった。
「あなたの手を煩わせるのが苦しいって……」
皆が美乃理を振り返った。
「そ、そんな、あたしが……」
好子の考えていることがはっきりとわかった。
新体操部としての問題、そして美乃理に対する悪影響になる前に去った。
そして自分の無神経さに気がついた。
彼女の面倒をみているつもりが、心配されていた。
未熟――。
上手に統率もできずただ、優しく接してきただけ。
傷つけて、そして守られようとしている。
「わかった、美乃理?」
敦子の一言は美乃理には重かった。
そんな張りつめた空気の中、そぐわない暢気な声がした。
「え、うっそー」
「しんじられなーい。きゃははぁ」
なにかの話題で盛り上がっているのか、緊迫した空気に気付かず笑い声を発する。
まだジャージにも着替えてもいない制服姿の女子部員が遅刻でのんびりと入ってきた。
「こら、あなたたち、おしゃべりしてないで、さっさと着替えなさい!」
「ったく……」
ジャージ姿でおしゃべりをしながら入ってきた一年生に喝が飛ぶ。
怒鳴られてはっとした一年部員は、顔を下にして、慌てて走り出す。
「少し弛んでるわね……」
高梨は練習場へ歩き出した。
「ったくしょうがないですね、一年坊主たちは」
敦子の頭をこつんとたたいた。
「あなたがいわないの」
「え? あ、はい」
「……先輩」
美乃理はやるべきことを覚った。
「好子ちゃんは今どこですか?」
「今日は休んでいいから、帰るようにいったわ。ついさっきだから、まだ学校にいるかも」
「高梨先輩、行ってきてもいいですか?」
「ええ。あくまでも、彼女の意志に任せるのよ」
「後はあたしたちに任せて。ま、今日はどうせ休養日だしねぇ」
敦子も手を振った。
休養日とは、練習がオーバーワークにならないように、定期的に入れる日のことだ。
朝練、土日も練習がある新体操部独自の決まりである。
とはいっても、まったく練習しないのではなく、適当なところで切り上げて、明るいうちに帰宅して、身体を休める日だ。
靴下をはき、上履きを履いて、ジャージ姿のまま、美乃理は注意されない程度の速さで走りだす。
体育館や屋内練習場を出て、渡り廊下で教室のある校舎へ。
一度四階まで駆け上がり、一つ一つ廊下や教室を確認してゆく。
教室、廊下、そしてトイレ――。
しかし、見つからなかった。
(どこにいってしまったんだろう)
「あっ」
校舎の三階に再び降りてきたところで、美乃理は立ち止まった。
人気のない放課後の校舎をぶらぶらしている一人の男子生徒を見つけたので、思わず声をかけた。見知った相手だったからだ。
その人物は川村裕太。かつての稔の正愛学院での数少ない友人の関係にあった。
裕太の行動パターンとして、予備校などは始まるまで、校舎をぶらぶら歩いたり、帰り道にある本屋や、こっそりゲームセンターなどに寄るのを知っている。おそらく今日もそんな感じなのだろう。
「あ、裕太! ねえ、ちょっと待って」
制服を着崩してやや悪ぶっている。大人ぶってるところがかえって子供っぽい――。いかにもこの年頃の男の子といった感じだ。
呼び止められて眼を丸くした。
「君は……御手洗美乃理? なんで俺の名前を……」
小さな声でつぶやいた。
だが、急いでいる美乃理は、自分が面識のないはずの川村裕太の名前を呼んでしまったことに気がつかなかった。
かつて男子だった時に友人だった関係は、今は適用されない。そのことを焦っていた美乃理は気に止めなかった。
特進クラスの川村と、今は女子で、新体操部、一般コースの美乃理は、これまでに接点はない。
今はそれらの疑問は目の前の問題で横に追いやられた。
追いついた美乃理は近くに駆けより、まっすぐ見つめた。
「ねえ、裕太、さっきここを好子ちゃん、新体操部の一年生なんだけど、通らなかった?」
「好子?」
「おかっぱ頭で赤いリボンをつけてて……」
「あー、あの太ってる女子か、さっき下駄箱にいたから多分帰ったと思うけど」
「ありがとう、裕太」
裕太は走り去ってゆく美乃理の背中を、どこまでも見送っていた。
その視線には美乃理は気がつかなかった。
さらに美乃理は今、川村裕太が何故か自分の名前をフルネームで言えたことと、その意味することに気がつかなかった。




