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第87章「試練⑤」

 その日の午後は雲っていた空がさらに曇り、雨が降り出していた。

 屋内とはいえ、じめじめした湿気は不快な感覚を起こしていた。

 その陰鬱な感覚が、昨日から思いふけっている美乃理にも影響を与えていた。

 別の部員に一年の相手は任せ、十三メートル四方のマットで大会を意識した技を中心にした練習をする。

 音楽こそ無いが、ボールを手具にしたジャンプ、回転を何度も繰り返す。

 演技でテーマにしている大空を飛ぶ鳥の表現をより高めるためであった。

 より高く、遠く。


「こら、よそ見しない!」


 指導に当たっていた三年生が、美乃理の練習に見入っていた一年生たちを注意する。慌てて止めていた手を練習に戻す。

 練習に打ち込んでいる時の美乃理は普段は気にしない。

 だが、今日の美乃理は集中をやや欠いていた。

(今日、好子ちゃん……来てない)

 一年生の中に姿がなかった。胸がざわざわする。

 ボールを手で付き、片足を軸にして回転する。

 肩から腕へ滑らせ、投げた後にシャチホコのポーズのまま背中でボールをキャッチ――。


「あっ」


 だが、受け損ねた。

 そのまま背中から床に落ちてポンポンと弾みながら、枠の外へ出ていく。

 一旦動きを止めて、ボールを追いかける。

 だが、追いつく前に、別の誰かがボールを拾い上げた。


「あ、ありがとう」


「はい」


 ハーフシューズを穿いた足、下半身は練習用の白いレオタード、そして上はジャージ姿。

 ボールを拾ったのは誰だろうと、下から上へと視線をあげると、清水敦子だった。

 短いショートボブで、一見するとボーイッシュだが体は確かに女子であった。


「あっちゃん」


「珍しいね、練習とはいえ、みのりんのミス――」


 敦子からボールを受け取る。


「どうしたの? 今日はいつものキレがないよ」


「ごめん……」


「謝ることではないけれど」


 ボールを脇に抱えつつ、一息つくために、タオルで汗を拭いた。

 その美乃理の肩を敦子が叩いた。


「みのりん、ちょっといい?」


「え? あ、うん……」


 練習の熱気がむしむしした室内をさらに覆いつつあった。その熱気をかきわけるように美乃理は敦子に引っ張られて別の場所へ向かう。

 連れてかれたのは部室であった。

 部室は北向きでやや暗い。ちょうど背丈に20センチぐらいプラスしたぐらいのロッカーが立ち並び、さらに奥にはシャワー室もある。

「出る時は必ず電気を消す!」と描かれた張り紙とか清掃当番表があった。仮部員としてマネージャーをやっていた稔のときと変わらない。

 かつては、ここに入ることもはばかられたが、美乃理も今は、ここを利用している。

 三、四つのパイプ椅子と教室のおさがりをもらってきた生徒用机が1つある。それも昔と変わっていなかった。

 だが、一番最初に入った時に感じた強烈な女子の匂い――。汗と埃で淀んだ甘酸っぱい匂いに入るたびに、稔はむせた。

 今はその匂いを今、美乃理が感じることは無かった。今は自分がその匂いを発している側かも、と思うことはあった。 

 その部室には今は誰もおらず、二人きりだった。

 外で雨がしとしとと降る音が窓つたいに聞こえた。


「適当に座ってよ」


「用事ってなに? あっちゃん」


 お互いにタメ口であった。

 あの豪放な性格の清水敦子は中学でも清水敦子だった。

 レオタード姿のままパイプ椅子にすわって、腕と脚を組んだ。

 ここまではすっぱな姿をみせるのは美乃理や一部の人間だけではあるが。

 二人きりの部室。なんかこのシチュエーション、懐かしくもあった。

 みのると敦子としてだったが――。

 今は同じ女子同士――同じ部員同士となっている。名前で呼び合うことある関係である。

 しかし、美乃理にとってはどうも今でも頭があがらない相手だった。

 中学生の清水敦子は、まだかつてほど身体は大きくなっていないが、すでにその片鱗が見えていた。

 胸や腰の形――見事なまでに女子として成長している。

 同じ学年のはずなのに、年上の雰囲気だ。

 それに美乃理は知っている。敦子は本来実力も並々ならないものがある。

 現在の学年の筆頭の地位を、あっさり美乃理に譲ってしまい、マイペースで練習に励んでいるが――。

 かつて童貞君と呼ばれ、いいように揶揄われもてあそばれた稔と美乃理は変わっていなかった。


「美乃里、ちゃんとわかってる?」


「え?」


 開口一番に、かなり厳しい問いが来た。


「好子ちゃんのこと。あのままだと周囲みんなが傷つく結末になるよ」


「わかって……ますよ」


 思い悩んでいるときに、気をつかいつつ支えてくれる龍崎宏美と違い、敦子はずけずけ正面から攻めてくるのだった。


「じゃあ何かしたの?」


「普通に……練習をこなせるように力を貸して。あ、それに別に私は迷惑なんてしてないし、足手まといにも思ってないって」


 腕を組んで首を振る。


「あー、だめだめ。一年生は、みのりんの気を引きたくて、少しでも声をかけてもらおうと、必死になってるんだよ」


「そんなの、大げさだよ」


「龍崎宏美は遠すぎる女神様、だけど美乃里は手に届くところにいる憧れの存在さ。だけどその先輩が、村上好子に入れ込んでるから嫉妬してるのさ」


「で、でも……あたしは――皆も練習してるし……」


「今の一年は御手洗美乃理と練習することが目的になってる」


 ままありがち。手段と目的が逆転すること、特に集団や仲間意識が強まるとそのような方向に行く。


「みのりんは確かに女子のやる気を引き出す力を持っている。その力が、悪い方向に行ってるんだよ――」


「でもそうだとして――」


 二人の会話を遮るように、部室の扉がぎいっと開いた。


「おっ」


「あ、先輩」


 中等部部長の高梨が入ってきた。


「あら、敦子に美乃理――」


 用事で遅れてきたのか、制服姿だった。

 いつもは真っ先に練習場入りする高梨が、一時間近く遅れてきたので、美乃理は不審に思った。

 一度自分のロッカーの前で鞄を置いて、上着のブレザーを脱いだ。

 そしてため息を一つついた。


「どうしたんですか?」


 一度俯いて天井を仰いだ後、二人の方を向いた。


「あ、二人とも、ちょうどいいわ」


 珍しく二人で話している様子を見て、

 やや深刻そうな、精神的に疲れた顔を見て、美乃理はさらに嫌な予感がした。


「これを見て。さっき、一年の村上好子が、私のところに来て、これを出してきたの」


 一枚の紙を鞄から取り出した。


「村上……好子ちゃんがどうかしたんですか?」


「これ……」


 美乃理は息をのんだ。

 表題には退部届と書かれていた。

 そして村上好子、その子の名前が書かれていた。

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