第86章「試練④」
正愛学院の新体操部は個人演技だけでなく、団体演技にも定評があった。
初めて見たときに、稔は目を奪われた。ジャンプや回転、手具の交換。
目の前で繰り広げられる少女たちの一糸乱れぬ合わせ技。
さらに稔が感動したのは普段の練習光景だった。
ただ演技を見るだけだったら、美しいだけで終わったかもしれない。
だが、演技を完成させるための並大抵じゃない努力を目の当たりにした。一人のミスが全体に波及する。お互いを信頼してないとできない。
ただ音楽に合わせ踊るだけなら、運動会のダンスと変わらない。練習するだけでもだめ。5人で作り上げるガラス細工なのだ。
その頃は稔は、大して豊富でない女子の知識から、ステレオタイプな見方をしていた。
女子の集団は、内部で脚の引っ張り合い、意地悪陰口をするまとまりのない存在というイメージでしかなかった。
正愛の新体操部にはそのような姿は無かった。
多くを言わなくてもやるべきことがわかっている。練習中も――。
「息があってなかったね、もう一回今のところやろうよ」
「踏み出しを気持ち早める感じの方がいいかな?」
「恭子、フープ交換、もっと思いっきり投げていいよ、あたしを信用しなって」
個人の演技も団体演技も両方できる清水さんもまた意見を率直に意見を出し合う。
個人個人が主役。一部なのだ。
一人の天才のものではない――。
(綺麗……)
稔は感動した。
ベッドの中で美乃理は目を覚ました。
暗い天井。カーテンの外はまだ暗い。
しばしベッドに留まり、夢を反芻する。
昔の稔の夢。団体演技に感動した――。新鮮で素晴らしかった。
稔の夢、男子高校生だった頃の夢をみるのは、決まって心に何かわだかまりを抱えている時だ。
美乃理という少女として時間が経つにつれて、稔という存在はやがて小さくなっていく。そのうちに消えて無くなるのだろう。
そう思ったが、実際は違っていた。
自分が女子になっていっても、新体操を深めていっても、胸の奥の方でずっと宿り続けていて、それがあるきっかけで出てくる。
時に夢や幻で――。
「んん……」
一度腕を伸ばした後にベッドから立ち上がった。
「間違っていたのかな……」
洗面所の洗面台で顔を洗い、タオルで顔を拭くときにつぶやいた。
じっと鏡を眺める。
ポニーテールにしていない髪がさらさらと肩にかかっている。
昨日の部活の終わりのことを思い出す。
好子は明らかに様子がおかしかった。
汗だらけとなったジャージは今にも湯気が立ちそうで、きつい体力トレーニングと柔軟で使役した体は、骨も皮もばらばらになりそう。
それでもなんとか踏みとどまっていた。
「また明日ね、好子ちゃん」と美乃理はいつものように声をかける。
いつもは緊張しながらも、「はい」という返事が好子から返ってきていた。
だが昨日は、思いこんだ様子で沈んだ返事が返って来るのみだった。
「あ、そ、そうですね……」
嫌な予感がしている。
美乃理は昨日の夜、ベッドに入るまで考え続けた。
女子特有のいじめ、意地悪――。
正愛学院の新体操部に存在しないはずのものが、今ある。
経験がなかったわけではない。
小学校時代、新体操クラブで活躍し、学校でも親しい女子たちから賞賛される美乃理を嫉む子もいた。
「調子にのっている」「のぼせんな」
陰口でヒソヒソ……。
良い気はしなかったが、そのことをいちいち気にするまではしなかった。
その時美乃理が恵まれていたのは、事態が勃発した時には美乃理本人以上に幼なじみのさやかが怒り狂った。
女子グループにくってかかった。
「あなたは何ができるの?」「御手洗さんよりも凄いこと、言ってみてよ」
教室の空気が凍った。
さやかのその迫力は美乃理の背中が震えるほどだった。
「答えてよ、あなたは自分が御手洗さんより、凄いっていうんでしょ?」
「ちょ、……何?」
「何怒ってるの?」
タイミングと場は、絶妙だった。皆がいる面前で言葉に詰まった3人は押し黙るだけだ。ふてくされてる様子も、かえってみじめだった。
喧嘩の決着がついた。
陰口はそれきり収まった。
「さやかちゃん……どうしてるかな」
タオルで顔を拭きながら呟く。
地元の公立中に行った。
水泳部。さやか。そして健一とサッカー。
(自分はあんなようにはできない……)
就寝中に乱れた髪を櫛で整え、シュシュでポニーテールを作る。
手慣れている。
朝のセットを終えて洗面所から廊下に出る。
いつもはすっきり眠れるはずが、昨日はなかなか寝付けなかった。
そのおかげでいつもどおりの時間に目覚めたが、やや回復が足りなかった。
「お早う、美乃理」
「おはよう、お母さん」
「あら、疲れてるの?」
既に起床してリビングにいた母は娘が珍しく眠そうに欠伸をして階段を下りてきたのを見つけて声をかけた。
「ううん、大丈夫だよ」
いつもの自分の椅子に座り、母が準備した朝ご飯、トーストに手をつけた。
「学校で何かあったの?」
「ううん、別にだいじょう……」
いつもは、母を心配させないように何事もないように振る舞う。
のだが……今日は言葉を止めた。
そうだ。母さんは同じ女性であるのだ。年こそ違うが唯一相談できる同性。
「ねえ、母さん……は女子校出身っていってたよね」
よく美乃理は思い出を聞かせられていた。
「え? ええ、そうよ。公立だったけどね」
珍しく質問してきた美乃理にやや驚きつつ答えた。
「やっぱり、女子同士のいじめとか意地悪ってあったのかな?」
「うーん……そうねえ。母さんは比較的そういうのは直接的にはなかったけど、見栄をきったり意地の張り合いとかはあったかな」
「そういうときはお母さんはどうした?」
「苦手な相手とは、つきあわない……ねえ」
嫌な相手は最初からつきあわない。それが大人の対応。子供にもわかることだ。
美乃理は頷いた。
「それもできないときは?」
話が抽象的かとも思ったが母さんは答えてくれた。
意外に深刻な相談だと察した。
「美乃理ぐらいの時の意味のわからない意地悪をするときって、自分の存在があやふやな時なのよね」
顔の頬に手を当てて考えながら言葉を一つ一つしゃべる。
「ほら、中学生になって一斉に同じ制服を着て、校則や規則も増えて皆と同じように合わせないといけないし、その上、体だけは成長してくるし――」
美乃理を嘗めるように見た。
「だから、自分を実感することかな? たとえば目標を具体的に定めるとか――」
「目標……か」
母との会話で得られたような気がした。
解答は簡単にはいかない。考えないと。
でも時間は無限ではない。事態はどんどん進んでいる。
「ありがとう、お母さん」
ちょうど朝食をすべて食べたところだった。
立ち上がって、皿を片付ける。
「頑張ってね、美乃理」
母はやや微笑みを浮かべていた。
さらに心配するかと思ったが、むしろ相談することで、安心を得られたようだ。
すべて打ち明けなくても、美乃理が何かと懸命に向き合っていることがわかったからだ。




