第84章「試練②」
ポニーテールが廊下の遠くで揺れるのを見て、大久保藍子は嬉しくなった。美乃理のトレードマークのそれは、艶のよい黒髪で、綺麗になびくので遠くからでもわかるのだ。
それに、スタイルの良さが、遠目でも漂っていて同じ女子の視点からも目を見張るものであった。
すぐに誰だか気づいてその名を呼んだ。
「御手洗先輩!」
「あ、藍子ちゃん」
美乃理が藍子の声で振り返ると、その藍子が大きく手を振って駆け寄ってくるのが見えた。
休み時間は正愛学院も他の学校と同じく活気とざわめきに満ちている。
藍子にとっても、憧れであったが、なにぶん同じ部活であっても、他に面倒をみる相手がいて、なかなか会話を交わす機会に恵まれない。
「どうしたんですか? 何か用事かなにか……」
きっかけを掴むのに必死だった。
「あ、この後、理科の授業があるから教室移動なの」
近道だったので、一年生の教室の前を通ったという大した理由でもなかった。
「あ、私たちこれから数学なんです」
隣にいる子も藍子とよく組んで練習をしている新体操部員だった。
一緒にトイレに行って教室に戻る途中であった。
「もう大変なんですよ。小テストで」
「前回10点満点の2点だったんですよ、あ、良子も同じで……」
「ちょっと、先輩の前でいわないでよぉ」
「先輩!」
さらに他の一年生の後輩があいさつしてくる。
藍子に負けないぐらい練習熱心な早紀だ。
周囲に数人の部員もいる。
今年に関しては、一年生部員は石を投げれば当たるほど多いのだ。
「どうしたんですか?」
「理科室に行く途中よ」
「あ、実はさっきの数学の授業に田中さんが寝ちゃって、先生に注意されちゃってたんですよ」
「あら、そうなの?」
「途中からいびきかいて教室に響きわたって、先生に丸めた教科書でぽかっとやられたんですよ。そしたら、「は、もうお昼?」とか言って起きて……」
「もう、やめてよぉ!」
一年生部員の一人、田中は、顔を真っ赤にする。
もちろん注意はされるが、新体操部員とわかると、叱られ度合いは下がるのが特徴であった。
「先輩ならわかってくれますよね、あたし誰よりも練習をしたって」
「あんたは夜更かししすぎだからでしょ」
「ちょっと、なに言ってんのよ」
話が長くなりそうになったので、美乃理は適当なところで遮った。
いよいよ本気で遅れそうだ。
「あ、また放課後の練習でね」
「はい、また」
名残惜しそうに藍子たちは手を振った。
だが――。
「せーんぱい!」
美乃理は、10歩と歩かないうちに別のクラスの部員に捕まった。
「わわっ」
その部員は、抱きついてきた。
あの御手洗美乃里と会話を交わし、またスキンシップできるのは、女子部員の特権なのだった。
羨ましそうに、他の一年生女子も男子もみつめる。
「ねえ、新体操部って凄く楽しそうね」
「ええ、でも入ったばっかりで部を変えるのってまずいよね」
熱心に視線をみつめる一人の女子と視線があった。やや緊張と憧れの視線の眼差しを送る。
美乃理が愛想笑いを返すとパァッと明るくなる。
(は、はは……)
「お疲れ、美乃理」
ぎりぎりで授業には間に合った。生物の教室に到着するとクラスメイトの杉村綾子は何が起こったのか察したようで、いたわりの声をかけた。
「はあ……疲れちゃった」
美乃理は理科室にぎりぎりで到着するなり息を吐いた。
二年では再び同じクラスになった。
「しょうがない、これも人気者の宿命と思いなさい」
「そんなのほしいっていった覚えないのに」
「うちのクラスの男子もやった、クラス替えの時御手洗さんと同じクラスだとかこれで毎日会えるって喜んでいたからね」
特進コースの教室の隅で縮こまっていたころの稔からすると考えられない。
廊下を歩いても誰も注目しない、空気のような存在だった。
ただその時の稔は気楽ではあった。
気を使わないで済むことが、懐かしくさえあった。
以前にはなかったこの視線の重みが、とかく悩ましいことであった。
学校でもとかく注目される存在になっていた。
(同じ人間なんだけど……)
「では来週の水曜日の授業の最初に、今日教えたところまでを範囲に、小テストをやるからな」
理科の先生からそう宣言されると、ええーという大ブーイングが起こる。
美乃理は素早く予定をメモする。その日までに、復習をしておかないと……と、練習の合間に勉強する時間をとるためであった。
予習復習、学校の授業と宿題を最低限やっておく。限られた時間を無駄に使わない。
机に向かっている時間は稔より少ないが効率は格段に良くなっていたのだ。
そして理科室を後にして、再び教室へ再び戻ろうとしたときだった。
一番東側にある校舎の3階を目指して階段を美乃理は上った。
階段下から声がした。
なんだろう? 聞き覚えのあるような声だった。ただし、その声色の様子が雰囲気が妙にきついものがあった。
耳をそばだててみた。
「あんた、先輩がどれだけ迷惑してるのわかってるの?」
「自分の立場をわかってるの?」
「あなたは本来、美乃理先輩と口をきくのもおこがましいの」
「た、立場って……」
「そ、そんな……わたし……」
何かただ事じゃない雰囲気を感じた。
美乃理が階段を下りると、見覚えのある面々が固まっていた。新体操部員の1年女子数名だった。
まだ新しいブレザーとスカートが固まっていた。丸まると横に大きな巨体が縮こまってみえた。
取り囲まれていたのは好子だった。
「あなたたち、そこで何をやってるの?」
一年生たちは好子も含めて美乃理の声に驚いたように振り返る。
「あ、先輩!」
「なんでもないですよぉ」
いつも見せている笑顔になる。が、どこかよそよそしく空虚だった。
「何か、あったの? 好子ちゃん」
ただ俯いている。
「な、なんにもないです」
「ね、好子」
好子は力なく頷いていた。
大きな体の肩が落ちていた。




