第82章「紡がれるもの②」
夕食を済ませ、お風呂から出た後に、美乃理は柔軟をするのが習慣だ。
リビングの床に腰を下ろして汗をかかない程度に、体を軽く柔軟をする癖が身についていた。
今日1日の最後の整理体操。
自分の部屋ではなくわざわざリビングでやっているのは、母たちとの会話をするためだ。
よっぽどのことが無い限り、欠かさず続けている。
横では美香もつられて一緒にやっていた。
ピンクの生地に小さい動物の刺繍がたくさんされたパジャマ姿で、小さな手足をめいいっぱい広げていた。
柔軟性は美乃理と同じく抜群であった。
「来月、美香は発表会なのよ」
柔軟に励む姉妹に母が語りかける。
妹の美香は3歳になるとすぐに花町新体操クラブの幼年コースに入った。
まるでそう定められていたかのように。
周囲の子が公園で遊んでいる時に練習をすることは小さな子にとっては大変なことではあった。しかし、美香はまったく嫌がるそぶりもなく楽しそうにやっていた。
「うん、さっき美香からも聞いたよ。美香もついに発表会デビューね」
美香をみると嬉しそうに笑ってぺたん、と体を倒した。
「コーチがね、美香は動きも柔軟性も抜群だって」
「凄いね」
「この間なんか、お姉ちゃん以上の素質があるかもって。」
「もう、ひどいこと言うなあ」
「えへへ……」
「なら、おねしょはそろそろ卒業しなさい」
「やきもちやいてる~」
どこでそんな言葉を覚えたのだろうか。
後ろにあげた足をもちあげて手でつかみ、アラベスクのような体勢で
美香も見よう見まねで同じ姿勢をする。
「あ、お父さんお帰りなさい」
ふいに、玄関の方で物音がした。
ごそごそと靴を脱ぐ音がする。
以前よりやや白髪が多くなった父さんだった。
「おかえりなさい、あなた」
「ああ、ただいま」
早速リビングにいる姉妹に目を向ける。
柔軟に励んでいる。新体操
「ただいま、美乃理に美香」
美香の発表会のことが母から告げられる。
「そうか、じゃあ、みんなで見に行かないとな」
父が美香の頭を撫でた。
「パパも見に来て!」
純粋に喜び、笑う美香の笑顔がまぶしかった。
父が来てくれることが、どれだけ困難なことかを知っている。
稔は、それを受けることができなかった。
美乃理として新体操をやることによって父が変わり、ようやく手にしたのだ。
そんなことを美香は知ってか知らずか純粋に喜ぶ。
それで良いことだ。
あの思いは知らない方がいい。
やや美乃理が伏し目がちにしたことを父、五郎は見逃さなかった。
「美乃理もがんばってるみたいだね」
「うん」
「やりたいことを思いっきりやればいい。今度の美乃理の大会にも、もちろん父さんも行くからな」
「わかってるよ、お父さん。忙しいのにいつも来てくれてありがとう」
かすかにほほえみを浮かべた美乃理。
だが、その微笑みに 単なる年頃の娘の難しさとも違う、より深いなにかが秘められていることを五郎は感じとっていた。
職場の同じ年頃の娘を持つ同僚たちが、わが子の扱いが難しくなったと嘆く話を良く聞く。思春期の少女の反抗期。
しかし美乃理はその片鱗もみせず、むしろものわかりが良すぎる傾向があった。
気をつけないといけないかもしれないと父として思っていた。
「じゃあ、わたしは宿題をやらないといけないから」
美乃理は部屋に戻っていく。
「あ、お姉ちゃん、あたしも」
「こら、邪魔しちゃだめよ」
制止される。
「え……と、今日出された数学の宿題は……」
寝る前に、机に向かう。
進度が速く宿題もたっぷりでた特進コースと違い、今は一般クラスの美乃理には無理な量の宿題は無かった。
しかし手は抜かなかった。
途中からほとんどついていけなくなった稔の轍を踏まないように――。
シャーペンと消しゴムを動かし、時折つぶやく声が漏れる。
「次は英語の課題……」
多分新体操とは関係のない生徒が見たら笑われるかもしれない。
美乃理は、教科書を片手に開きつつ、椅子や、壁、床を使って足を伸ばした姿勢のまま教科書とノートを開いている。
無意識のうちにもストレッチをしているいのだ。
あるいは時折姿勢をなおして足のつま先をマッサージする。
足、とくにつま先のケアは念入りにしている。
男の子の足と違い女の子の足はデリケートであることを知っている美乃理は、他の子よりもさらに注意を向けていた。
優雅に見えて実際は激しい動きをする。ハーフシューズを履いているとはいえ、つま先はもっとも負担のかかえる部分だ。
指や爪に至るまで、状態のチェックもする。
そして。
稔の時は同じこの部屋で、勉強の合間に息抜きでゲームをしていたこともあった。こっそり夜遅くまで模試の成績が悪かったときに、むしゃくしゃをぶつけるように深夜までやったこともあった。
今もゲーム機とテレビはあるにはある。しかし、美乃理は今はほとんど興味を持っていなかった。
置いてあるのは、新体操に関連する録画やDVD――を見る以外にはほとんど遊ばなかった。
片づけ終わると明日の用意を短く終えると就寝の準備に入った。
明日も朝から練習。夜更かしは禁物だ。体調にすぐに響く。
ベッドに潜り込むと、眠りに落ちる前に思いが巡る。
これまでの日々が。
思いは決まって最近のことから時間をさかのぼってゆく。
新体操、美乃理、中学生になった自分。やがて小学生の頃の思い出からさらに昔の稔という少年の思い出へと至る。
もう自分は美乃理。
でも……思うことがあった。むしろ今の自分が夢ではないのだろうか。
朝目が覚めたら稔に戻っているのでは――。
今の日々があまりに夢のようでいつか覚めるのでは――。
しばらくして、トントンとドアを叩く音がした。
美香だった。
ドアから少し顔を出して部屋を伺っている。
「お姉ちゃん……」
「どうしたの? 目が覚めちゃったの?」
「……怖いの」
昼間はあんなに元気いっぱいだった美香は夜を嫌う。
暗闇を怖がるのだ。
「お姉ちゃん、一緒に寝ていい?」
美乃理は、床についたばかりのベッドから起きあがった。
寝かしつけても、夜起きてしまうことがあった。
そんな時、そのまま美香は美乃理のベッドに入りこんでしまう。
時には朝起きると、美香が横で寝ていることがよくあった。
美香は一人ぼっちの夢をよくみるという。
周りに何もなく真っ白な世界に一人。寂しくて、孤独で悲しい夢を。けれども最後に美乃理が光の世界へ自分を引っ張って導いてくれるのだという。
「こっちおいで、美香」
美香は小さく頷いて美乃理のベッドに入り込んだ。




