第81章「紡がれるもの①」
あの日……。
発表会から帰る車の中、美乃理の心はまだ昂揚に満ちていた。
今日の発表会で自分の中の何かが変わった。
稔から美乃理となった自分、そして新体操をする自分を受け入れた。
「お父さん、ありがとう」
運転する父に後ろの席から美乃理は声をかけた。
「演技の時、お父さんの姿を見つけたよ」
「そうか、やっぱりか」
御手洗五郎――美乃理の父も、美乃理の笑顔が急に輝いた瞬間を思い出す。
やはりあれは自分をみつけたことで美乃理が勇気づけられたのだったと知って満足感をえた。
出張先から急遽戻ってきて良かったと心底思う。
「あたし、新体操をもっとやりたい」
美乃理が一人称を違和感なく使うことに両親も気がついていたが、深くは追求しなかった。
「もちろん、続けなさい。母さんも美乃理の新体操をもっと見たいわ」
助手席の母も賛同した。
両親が一瞬沈黙し、目配せをしていたことに気づいたが、それが何故かは美乃理にはわからなかった。
「今日は好きなものを食べましょう」
家についたら、早速リビングで父が撮ったビデオを再生して、じっくり見た。
画面の中にレオタードを着ている自分が映し出される。
その姿は鏡や写真とも違う。
幼い女の子がやや不安げに本番を待つ――。
不安を隠しきれない様子がにじみ出ている。
自分では平静を装っているつもりだった。コーチが美乃理に注意していた意味を理解した。
「ほら、美乃理たちの番よ」
あの始まる前の緊張感。
そして曲が始まると最初はおっかなびっくり体を動かし始める。
それは忍たちも同じだった。
忍や亜美、麻里といった少女たちと自分が確かに混じって演技している。
しかし、その美乃理の姿を、可愛いと自分で思ってしまった。女の子としてレオタードに身を包み、演技をする姿がとても新鮮に感じた。
今は恥ずかしさよりも喜びの方が上回っている。
「可愛いわよ、美乃理」
「うん」
母の言葉に素直に頷いてしまう。
よくよくみると、後列では踏み出す足を右足と左足で間違えたり、ジャンプやターンのタイミングがずれるなど、時折ミスをする子もいた。
最前列にいて、また演技中は一生懸命で美乃理は気付かなかったが――。
演技は100点満点ではなかった。
それでも、女の子たちの笑顔の輝きが、他のクラブとは比べ物にならなかった
「柏原コーチがね、これは美乃理の力だって言ってたわ。美乃理のが皆に伝わってるんだって」
「そんなのって……」
自分は何もしてないし、そんなことできるわけもない。そう思った。
美乃理は目を閉じた。
あの発表会でフィニッシュを決めた感動が何度も反芻される。
あのステップは、ターン、リボンの振り、リズムの取り方。もっとこうすれば綺麗に見せられるかも。
そんなことが次々に思い浮かぶ。新体操の魅力にとりつかれている。
フィニッシュの時に、最後にめいいっぱい手をつなぎ、足をあげて亜美や麻里たちと花を表現した瞬間の感動も鮮やかによみがえった。
新体操をもっとやりたい。
明日からの練習が待ち遠しく感じられたのは初めてだった。
誰かから促されたのではなく、言われたからではなく、自分の足で、高みへと歩き始めた。
さわやかな快感が美乃理を押し包む。
ビデオからは、涙を潤ませている自分が見て取れた。
「よかったわね」
一通り見終えてても、まだソファに座ってイメージをしていた。明日もレッスンはある。どうやって練習をしよう。
初めて、練習を心から楽しみにしている自分がいた。
「ねえ美乃理、ちょっと話があるからこっちに来て」
ビデオを見て余韻に浸っていた美乃理は急に呼ばれた。いつの間にか父さんと母さんはキッチンのテーブルに並んで座っていた。
手招きをしている。
「なあに? お母さん」
既にシニョンにしていた頭をポニーテールに戻していた。
髪を一度手で梳いた後、ソファに座っていた美乃理は、立ち上がる。お尻にできた皺をはらってから、テーブルに座った。
「あのね、もっと早くに言おうと思ってたんだけど……」
「?」
やけに改まった言い方にいつもと違う雰囲気を感じた。
目配せをお互いにしている様子から一緒に何かを美乃理に伝えようとしていることがわかる。
(なんだろう……)
先に口を開いたのは父さんの方だった。
「美乃理、今度うちに新しい家族ができるんだ」
「え?」
その言葉の意味を美乃理はすぐには理解できなかった。
「美乃理はお姉ちゃんになるのよ」
今度はお母さんが口を開いた。このときの優しい微笑みは今までに美乃理はみたことがないほど神々しく感じた。
「え……」
ようやくその意味がぼんやりとわいてきた。
「この間、お医者さんから、そう告げられたの。今お腹に赤ちゃんがいるの」
「あ、あた……し? おね……ちゃん?」
徐々にわいてきたその感情はあっという間に小さな体からあふれ出た。
昼間流したばかりで、もう当分はないと思っていたのに、もう瞼が熱くなってきた。
悲しくないのに涙を流す。それが不思議だった。
自分が泣き虫という自覚は無かった。
思い出せる限りで、泣いたのは、稔が万引きで捕まったあの日のみ。
なのに今日1日に2度も泣くのが信じられなかった。
感情が高ぶると涙が出てしまう。これは女の子だからなのか。
ぽろぽろと熱い涙を美乃理は流していた。
自分が一人っ子であることに対して、稔は疑問を感じたことがなかった。
兄弟が欲しいという、質問すらしたことがなかった。
いないことが当たり前、そういうものだと思いこんでいた。
また成長するうちに仕事で忙しい両親が手をかけられるのは自分だけだったのだろうというのを察していた。
子供は稔だけ。というのは両親だけでなく、稔自身も思っていた。
だからその報告を聞いたとき、美乃理は完全に不意をつかれていた。
泣き出した娘を見て二人は驚いた。最初は自分を構ってくれなくなるのではと美乃理が駄々をこねたのではないかと心配した。
けれども――
「お母さん、お父さん、良かったね。あたしも嬉しい」
涙を拭いた美乃理は笑顔でそう二人に祝福した。
(あれから7年か……)
美乃理の家は駅から少し歩いた 閑静な住宅街。
部活の練習から帰ってきた頃には、辺りはすっかり暗くなっており、家々には明かりが点いている。
美乃理の家にも、既に明かりが点いていた。母が帰ってきている。駐車スペースには車があり、既に母が帰ってきていることを伺わせた。
「ただいま」
そのまま鍵のかかっていないドアを開けると、奥から果たして母が出てきた。
「あら、お帰りなさい。美乃理。連絡くれれば迎えに行ったのに」
家に帰ると既に母さんが帰ってきていた。
「あ、うん。でも大丈夫だよ。それにお母さんも大変でしょ?」
「気を付けてね、何かに巻き込まれてもおかしくない年頃なんだから」
「うん、わかってるよ」
このところ何度も母から言われるお決まりの文句であった。
仕事と家事、それに妹の世話。多忙を極める母を気遣ってのことであったが、母からは再三注意を受けていた。
稔の頃から一人で帰ること自体は平気であった美乃理であったが――。
「夕食できてるから早く食べなさい」
「着替えてから行くよ」
革靴を脱ぎ、鞄を持ってそのまま階段をあがり二階の自室へと向かう。
「あ、お姉ちゃん!」
花のように明るい声が廊下に大きく響いた。
美乃理が振り返ると、お下げを2つに結んだ可愛い女の子がトコトコと駆け寄ってきた。
御手洗美香。
今から6年前に新しくやってきた家族であり、美乃理の妹であった。
「ただいま、美香」
腰を下ろして、同じ目線で語りかる。
「どうしたの? 嬉しそうな顔して。さては何かいいことあったんでしょ?」
この年にして既に自分なりのお洒落をしている。
Tシャツは外国アニメのキャラがプリントされているところは、年相応なところがあったが……。
自分とは違う……と思わせた。
「え? 凄い、お姉ちゃん」
「今度、あたし、発表会に出るの! 今日のレッスンで、コーチからフィニッシュの一番大事な役だって言われちゃった」
腰に手をあてて、背を伸ばして、誇らしげな様子を見せる。
姉と同じく新体操を始めた美香は、やはり同じ花町新体操クラブの生徒であった。
まだキッズコースの中にある幼年児クラスであったが。
「良かったね、美香! お姉ちゃんもやったのよ」
妹の頭を撫でた。
「あたしもお姉ちゃんみたくなりたいもん」
撫でられた美香は嬉しそうに笑った。




